腹上の[9]

 リル。
 その愛称で呼ぶのだけはやめてほしい、と何度口うるさく注意したことか。
 リスカは声のした方へ顔を向けた。
 スウィートジャヴ=ヒルド。
 ああ、とリスカは絶望的な声で、吐息を零した。
 ――盗賊には気をつけよ、と忠告をくれた端正な顔の魔術師が、転移の術を操って姿を現したのだった。
 
 彼の忠告を無視して、店を襲撃された記憶が色鮮やかに蘇った。
 
「リル。いけない人だ。君は存外に、口達者なのさ」
「なぜ」
 信じられなかった。なぜ彼が、このような場所に出現する。
 遥かな昔、王都に設立された「重力の塔」。魔術師達が管理する法王公認の術師養成所――それが身分ある者の間では第二法紀庁(実態は法王直属の軍に他ならない)として暗黙の内に承認されている――において、塔の貴石とまで讃えられ一目置かれていた魔術師が、ジャヴだ。扱う術は正確無比。上等の魔力。他の者が渇望してやまないほど、容姿にも才能にも恵まれたその人。
 だが、師と仰いだ老魔術師の失脚により、一番弟子の彼までに咎が降り掛かって、王都から閉め出されたという。
 ジャヴがこの町へ流れ着いたのは、リスカよりもあとのこと。
「その多弁家ぶりは、お仲間の響術師仕込みかな」
「ジャヴ」
 ジャヴは天鵞絨のように滑らかな紺色の髪をかきあげ、ティーナの横に立った。慣れた仕草で、当然のように彼女の腰を抱く。ティーナも抵抗することなく自然に身を任せていた。
 この親密な様子を見れば、二人がどのような関係にあるのか説明されずとも一目瞭然だった。
 しかし、どうにも信じられない。ジャヴがこの場に現れたことも、また、ティーナと知り合いであるという事実も。
「リル? 随分可愛らしい愛称ですのね」
「ああ――君は、リルの秘密を知らないのだったね」
 くすくすとジャヴが笑い、首を傾げるティーナに視線を落とす。
「リルと呼ぶな、ジャヴ。あなたがなぜ、このような場所に現れる」
「言わずとも知れたことだと思うが。君が私の素敵な愛人を口説こうとしたためだよ」
 愛人――。
 リスカは呼吸をとめて、並ぶ二人を見比べた。
 そうだ、青年騎士フェイが「フィティオーナ夫人」と口にしたではないか。ティーナは既婚者なのだ。
 夫の浮気は黙認される。子孫繁栄のために、むしろ密かに奨励されているといってもよい。だが貴族の妻の姦通は、本来、死罪。勿論、身分に左右されはするものの、相手の男にもそれなりの制裁がくだされる。姦淫の罪の重さが分からぬほど、二人は愚かではないはず。
「リカルスカイ様、心配ご無用と申しましょう。夫公認です、わたくし達」
 ななな何ですって、と胸中で叫び耳を疑った。己の妻の不貞を許す貴族の夫がどこにいるというのだ。
「醜い夫ですけれど、今まで利用価値の方は――」
 ティーナが初めて感情剥き出しの歪んだ表情を浮かべた。
「ティーナ、美しい人はそのような言葉を口にするものではない」
 言葉よりも既に行動がその麗しい容姿を見事裏切っていますよ、と大声で指摘したくなった。
 ああ降参だ! 詮無い理由で都を追われたとはいえ、正規の実力ある魔術師だという事実は変わりないのだ。不自由な魔術しか操れぬ己がかなう相手ではない。
 しかも、よりによってジャヴだ。顔見知りなのだ。
 リスカは絶叫したくなった。
「ジャヴ! あなたなのか。死に至る媚薬を町に広めているのは」
「……君は本当に、よくよく揉め事に巻き込まれる厄介な気質を持っているね」
「ううううるさいっ」
 頭は混乱する、手は痛い。精神は半壊状態。最悪だ。
「リル……リスカ。君も何なら、共に愉しむかい?」
 忍びやかに妖しく笑う魔術師の端正な顔を、手加減なしに殴打したくなった。セフォーならば瞬殺ものの台詞だ。 
「そう、君も堕ちてくれるなら、助けてやろうよ」
 ああ誘われている悪徳の宴に招待されている、と目眩を起こし心の中で泣いた。
 ジャヴ。あなたがどうしてこのような真似を。
 誇り高い人ではなかったのか。たとえ皮肉を口にしても、自らを貶めるような人ではなかったのに。
「わたくしの手を取りなさい」
 ティーナがこちらへ再び華奢な手を差し伸べる。と同時に、見せつけるようにして、ジャヴが彼女の髪や形の良い耳に唇を落とした。わざとだ、わざと!
「――お断りする」
 リスカは静かに告げた。
 ティーナに口づけを落としていたジャヴが顔を上げ、ふっと眼を眇めた。唇が詠唱の言葉を紡いでいる。
 リスカの心の膜が急に泡立ち、意識が不快なほど浮き上がった。透視ではない。読心術だ。屈辱、恥辱にもほどがある。同類に対して、何の罪悪感も躊躇もなくその卑劣な術を行使するのか。
 馬鹿者っ!! とリスカはそれだけを強く心に抱いた。
「わたくしの夫を誰だかご存知?」
「知りません」
「あなた、一生牢獄から出られなくなります」
「そうですか」
 心の中では、馬鹿馬鹿馬鹿見損なった失望した落胆した恥知らずめ不潔だ今後絶対リルともリイとも呼ぶな、と激しく叫んでいた。勝手に読めばいいのだ。リスカの過去も記憶も全て、望むまま引っ掻き回せばいい。自分に今後があるかどうかが謎だが。
「わたくしを誰の妻だと!」
「知らぬと言っている。たとえ法王の御手だろうと皇帝の御手だろうと、己の主義に反するならば私は取らない」
 やけくそだった。どうせ牢獄内に監禁される運命ならば多少の不敬が今更何になろう? 多少ではないが……。
「な――」
 ティーナが言葉を失った時。
 ジャヴが高らかに笑った。この世の全てを嘲笑うにも等しい哄笑だった。
 
「そこまでです。フィティオーナ夫人」
 
 お仲間ならぬ部下を連れたフェイが、厳しい表情を浮かべて戻ってきたのだった。
 
●●●●●
 
 低く笑い続けるジャヴに、青年騎士フェイは殺気すら窺える鋭い視線を投げた。
 ――フェイはどうも魔術師そのものを憎悪しているように思えた。
 そもそも騎士と魔術師は相容れぬ仲である。法王と皇帝により二分された権力は、それぞれ別の主義と思想を描いた旗を立て、対極の道を歩んでいる。
「フィティオーナ夫人。外に馬車を待たせている。お戻り願いたい」
 憮然とした様子でフェイが言い、驚きに目を見張るティーナを促した。彼はひどくジャヴを意識し、ついでにリスカまでもちらちら眺めている。リスカは思わず眉を寄せた。先ほどまでの侮蔑と怒りを宿した視線とは異なり、戸惑いを多く含んでいたのだ。
 どういった心境の変化があったのかは分からぬが、今更そのような目を向けられても彼が見せた残忍な振る舞いは消えない。
「馬車は必要ない。彼女は私がお送りしよう」
 ジャヴがくすくすと楽しげに笑いつつ、どこか放心した表情のティーナの髪に指を絡めた。ぎり、とフェイが歯ぎしりする音が微かに聞こえた。
「リル。君が誘いに乗らないのは残念だ。さぞ君は生き辛かろうね」
「リルと呼ぶな、スウィートジャヴ=ヒルド」
 名をきっちりと名乗ったのは、リスカなりの態度を示したつもりだった。
 要するに――ここで去るなら決別だ、と意思表示したわけである。どうでもいいが彼の名は勿論、真名ではない。恩師が彼に与えた霊号と呼ばれる魔術師の第二の名だ。
 ジャヴは瞬いた。分かっているくせに、リスカの意図などお見通しなくせに、彼はさらりと長い髪を肩から払い、優雅な微笑を見せた。
「リスカ、いつまでその姿は保てるのかな」
 ぎょっとした。
 性別の偽りについてを、なぜ騎士達のいる前で告げるのだ!
 唖然とするリスカに笑いかけたあと、ジャヴは不意にティーナの手を取り、誰にも発言する間を与えず瞬時に掻き消えた。詠唱を必要とする術ではなく、法具か何かによる転移を行ったらしかった。
 あとに残されたリスカは彼らが先程まで存在していた場所を見つめ、しばらくの間惚けた。
 最後の最後で何という手痛い仕返しをしてくれるのだろう。リスカはなぜだか裏切られた気持ちになり、落胆した。それほど親しくつき合いを重ねていたわけではないものの、一度は親切心を発揮して忠告をくれたではないか。本当に、ごく稀だが、夕食の時間を共に過ごしたこともあったのに。なぜ。なぜ。
 最悪だった。騎士達に女と知れたら知れたで、別の屈辱を与えられそうだった。松明を押し付けられた時とは別の恐怖が胸に広がり悪寒を覚える。
 かちゃり、と金属の音がした。フェイが身じろぎした拍子に、脇に差していた瑞刀が腰帯の金具と触れ合ったらしい。
「……私は」
 何を言えばいいのか、途中で言葉につまった。
「お前の身柄はしばらく預かる。まだ嫌疑がはれたわけではない」
 当惑を滲ませた物言いに、リスカは違和感を覚える。なぜ態度が軟化しているのだ?
「戻るぞ」
 一瞬複雑そうにリスカの全身を眺めはしたが、フェイは先ほどのジャヴの意味深な言葉を蒸し返すことはせず、背後に待機していた数名の騎士に視線で合図した。反対に、部下らしき騎士達の方が、しかし、と引き止める。
「命令だ。来い」
 一切の反論を許さない、鞭打つような冷たい声でフェイは部下の声を遮った。
 さすが部下は仲間じゃないと言い切るだけあって、態度に容赦がなかった。不満を露にする部下の騎士達も、おそらくは彼を心底から慕ってはいないだろうと推測できる。だが身分というのは個人の感情など容易く排し、命運をも決定づけるものだ。
 こうしてリスカは再び牢獄に閉じ込められたが、とりあえずの危機は去ったことに安堵した。
 フェイがなぜリスカに対して突然態度を改めたのか、理由は全く予想できぬが。
 思考が追いつかず、冷たい石床に座り込んで惚けていると、あーあー、と罪人達がざわめき始めた。一体何が起きたのかと戦々恐々としながら、鉄格子にしがみつく罪人に視線を向けた。
「え?」
 かたり、と音を立てて、鉄格子の隙間に何か小さな器のようなものが差し込まれる。
 不審に思い慎重に近づくと、器の中には僅かな水が入っていた。
「これを、私に?」
 リスカは軽い衝撃を受けた。最早狂っていて、正気など保っていないだろうと勝手に結論づけていたのだ。
「でも、この水は」
 一日に与えられる僅かな水は、それこそ彼等の命綱であろうに。
 うあああ、うあー、と、罪人は獣めいた曖昧な声で鳴いている。
 リスカは器の前に両膝を落とした。錆び付いた鉄格子越しに、水を差し出した罪人と目が合う。右目は落ちかけているし、左手首の先は溶けて、鼻も耳もない。そういう異形と化した罪人が。
 ああ、とリスカは呻いた。
 狂っているのは、何か。
 正常である者こそが、狂気を誘き寄せている。
 リスカは一つの予感を抱いた。
 こうして監禁されている彼等は、本当に罪人だろうか。自分への不当な扱いを顧みると、それはひどく疑わしかった。
 だとすれば。
 罪深い。
 この国は、町は、人は、泣きたいほどに罪深い。
 両手で顔を覆うリスカへ催促するように、彼は不明瞭な発音で唸った。舌を切断されているのかもしれない。誰もかれも、まともに喋ることができていないのだ。けれどもその精神まで異常だと決めつけていいはずはなかった。リスカは己を恥じた。
「……ありがとう」
 木霊する、獣の子のような罪人の鳴き声。もう不快ではない。
 ひたすら、悲しい。
「ありがとう、ありがとう」
 リスカは器を手に取った。指先が細かく震えていた。
 目を閉じて、ゆっくりと口に持っていく。
 ひどい匂いがその水から漂った。
 血と汚濁と泥と悲嘆が混じる水。
「ありがとう」
 
 リスカは命の水を飲み干した。



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