腹上の[10]

 今この手に治癒の花があれば、と切に思う。
 完全に癒すことはできないだろう。
 それでも、ほんの僅かでも、彼等の傷を癒せるだろうに。
 
 
 リスカは幼き時代に覚えた聖歌を歌った。
 まだリスカが重力の塔に籍を置いていた頃、割合に交流のあった砂の使徒がいた。彼は――いや、彼女かもしれないが――音を操る響術師。紡ぐ言霊によって、人ばかりではなく、獣や魔物、時に自然までもを揺り動かす。大地の色をした瞳で神秘を捉える響術師は、魔術師達からの露骨な差別や偏見など、日常の中で生じた軋轢にリスカが苦しみ押し潰されそうになると、この世はまだ捨てたものではないと笑い、桃源郷によく似た景色を見せてくれた。言葉による強力な暗示で、現実と見紛うほどの色鮮やかな幻影を作り出し、嘆く心に一時の安らぎを与えてくれたのだ。
 会話はいつも度肝を抜くような、奇想天外な作り話が大半を占めていたが、時々聞かせてくれた歌声は本当に素晴らしかった。辛い日々の中、何度響術師の明るい言葉に救われたかしれない。
 歌とは、母体に満ちる鼓動。ゆえに人は、耳だけではなく身体の全てを使って聞き取ろうとするのだと。聖なるものは己の内に生まれる。声はいつでも身体の中に満ちている。
 この地下牢は、母体の中に似ている。
 母体の中で響く歌は、きっと優しいに違いない。
 リスカはあまり歌が上手な方ではないけれど。
 それでもリスカが密やかに歌い出すと、罪人達は静かになった。
 音は大気を震わせ、闇を駆け抜けて、一人一人の身体に触れる。
 牢獄に閉じ込められたのが言葉を操る響術師であったならば、セフォーのもとへも声を届けられただろうに。
 セフォーは今、どこにいるだろう?
 
 
「随分、余裕のある魔術師様だ」
 集中して口ずさんでいる途中、不意に声をかけられて、驚きのあまり飛び上がりそうになった。
 一瞬、フェイが戻ってきたのかと思ったのだ。
「魔術師ではないのだろ? 術が使えるなら、とうに脱獄しているだろうよ」
「不具の魔術師だとな」
「不具ねえ」
 恐らくはフェイよりも厄介な者達。荒れた気配を漂わせている。彼の部下達だ。松明ではなく、小さな蝋燭を片手に持っている。
「先ほどの、あの魔術師の言葉はどういう意味だ」
 リスカは思わず後退り、石壁に背をはり付けた。暗い愉悦が浮かぶ彼らの眼差しに、避け切れぬ不吉な予感を抱く。
 彼らが吐き捨てた低い嘲り声と、罪人達の鳴き声が混じり合い、闇に消えた。
 
 
 無造作に髪を掴まれ引きずり倒された時、死ぬかもしれない、と本気で思った。騎士の指に絡まった髪が頭皮ごとちぎられ、その痛みに身が強ばった。
 フェイに対する不満や憤りなどの鬱積した感情を、ここで思う存分吐き出し解消するつもりなのか。それとも魔術師の存在が、我慢できぬほど目障りに感じるのか。
 魔力を持ちながら術を自由に使えぬ魔術師ほどに、いたぶりがいのある者はいないだろう。
 殴打され、蹴り上げられて、視界までも闇色に染まる。
「おい、これで気を失うのか」
「魔術師は情けないものだな」
 日々欠かさず鍛錬している騎士と、静の存在である魔術師の体力を同じ秤で比べるなど、愚かなことだ。
 本来なら、互いが持つ欠陥を補い合うべきなのに。なぜ背を向け合うしかできぬのだろう。
 罪人達が泣いている。
「黙れ、うるさいぞ!」
 騎士の一人が舌打ちして、鉄格子を勢いよく蹴り飛ばした。ぎゃあぎゃあと一層激しく罪人達は泣き出した。一方的な暴行を受けるリスカを憐れんでくれているのかもしれぬと思った。
 頬を強く叩かれて、奥歯がぐらつく。血の味の唾液を吐き出すと、嘔吐感が更に募った。
 ほんの少しだけ、ティーナの手を取ればよかったかと後悔する。
 しかし、その先には別の地獄が待っているのだろうとすぐに考え直した。今味わうか、後に味わうか、どちらを選択してもやはり苦痛は回避できないに違いない。
「魔術師であることには変わりないか。逃亡されても困る」
「足首を斬ればいいさ」
「待てよ、全く抵抗しないのはつまらない。多少は抗ってくれぬと。狩りの醍醐味と同じさ」
 簡単に人の足を斬れと言い捨てる若い騎士の神経をリスカは疑った。握り潰されそうなほどの力で足首を掴まれ、両手の自由も別の騎士に封じられる。靴の上から短剣をゆっくりと押し当てられ、痛みをすり込むかのように斬りつけられたが、切断まではされなかったことに安堵した。
 意識が朦朧とし始めていたから、案外受ける痛みは鈍くて、それだけはよかったのかもしれぬと思う。
「抵抗する意思もないのか。だらしのない」
 これだけ散々殴られれば、抵抗する気力など失せて当然だった。
「しかし、痩せた男だな」
「だが――目の色はなかなか変わっている。女ならな」
「小姓にでもするか?」
「馬鹿をいえ」
 仲間にからかわれてむっとした騎士が八つ当たりをするかのようにリスカをもう一度蹴り上げたあと、腹部の柔らかい場所を強く踏みつけた。呼吸が一瞬とまり、指先にまで嫌な痺れが走る。
 稲妻のように体内を駆ける寒気と痛み。ああもう駄目かもしれない。
 非力だ。本当に自分は無力の塊だ。
 悔しいくらいに何もできない。これだから、砂の使徒は軽蔑されるのだろう。
 火傷を負った手を乱暴に掴まれ、再び冷や汗が吹き出す。指を伸ばした状態で石床に固定された時、折るつもりだなとリスカは察した。
 全身が強張る。延々と続く痛みに、果たして耐えきれるだろうかと思う。叫びたくない。叫べば、益々彼等を喜ばせる。
 助けて――誰か。
 これは自分が招いた災い。
 他人に救いの手を求めることなど許されない。
 それでも願わずにはいられない。
 恐ろしくて、たまらないから。
 ああ。
 私。
「――セフォー」
 なぜか鮮明に、かの剣術師の冴えた眼差しが脳裏に蘇った。
 同時に指が折れる、ぱきという音が身体中に木霊した。間を置かずに次の指が不穏な音を奏でる。
 リスカは耐えきれずに悲鳴を上げた。
 骨の音は、心が折れた音のようだった。
 
 
 ぴぴぴっ。
 突如、場違いな――愛らしいさえずりが響いた。
 荒い息を吐き出す中、リスカは自分がついに錯乱したかと思った。
 
 
「ぴ」
 大気が――。
 生温い雨が、冷たい石床に横たわるリスカに降り注いだ。
 雨と呼ぶには禍々しい、甘い匂いを放っていた。
 大地に恵みを与える天の雫とは異なり、強烈な恐れをもたらすもの。
 人はそれを、このように呼ぶ。
 血の雨と。
 
 
 闇すら切り裂く鮮やかな白刃のきらめき。
 鋭利な月の先端めいた光が、リスカの目に映る。
 傲然とした銀の光だ。
 綺羅をまとう刃の軌跡。
 目映く強大な力。慈悲を知らぬその強さが、美しい。
 
 
 殺戮は一瞬のことだった。気がつけば――悲鳴を上げる間すら与えられずに四肢を切断された騎士達が、血溜まりの中に転がっていた。
 ぼんやりと視線を巡らすリスカの前に、白い長衣で全身を包んだ人が空気を乱すことなく静かに立っていた。殺戮の雨を降らせた本人とは思えぬほど泰然とした様子で。
 白き死神。
「セフォー」
 悪魔すら凌ぐ剣技を持つ剣術師。
 慈悲の念薄く、他を顧みぬ。
 孤高にして強靭、苛烈。
 破壊を好む戦場の王。あるふざけた書物にそう記されている人。
「セフォー」
 
 
 リスカは名を口にしたあと、白い死神に手を伸ばした。
 彼の肩には、ふわりと羽根を広げる小鳥が乗っていた。



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