腹上の花[11]
「セフォー!」
名を呼んで腕を伸ばした瞬間、嵐のように抱きとめられた。
もがくように、縋るように。息さえできない抱擁が、今は何よりも幸福に思えた。
大声で泣き喚きたい衝動に駆られ、胸が震える。
冴え冴えとした白銀の髪やしっかりとした腕や固い胸が、リスカに深い安堵をもたらしてくれた。皮膚の下に染み込んでいく温もり以上に欲しいものはない。
セフォーの白い長衣が、翼のようにリスカを守る。
「あぁ、セフォー」
リスカは呻き、 強く瞼を閉ざして、救いを与えてくれた剣術師の胸に顔を埋めた。汚れのない純白の衣に、顔に伝っていた血が付着し黒く染まる。
もう少し――もう少し時が流れていれば、リスカの自我はきっと拭いようのない絶望に触れただろう。一度覗いてしまえば後戻りできぬ深淵の前に立っていたのだ。
「ぴ、ぴぴぴぴ」
リスカの頭や肩をとことこと飛び回る小鳥のさえずりに、笑みが漏れる。気を失う直前に放った治癒の花びらは、小鳥の命を包んだのだ。憎まれ口を叩いた青年騎士フェイは、小鳥を殺してはいなかった。
「リスカさん」
セフォーが低く囁いた。相変わらずの平淡な声に気遣うようなあたたかさを感じた自分も、相当に奇怪な性格をしているかもしれない。
「ぴぴぴ」
白い衣に顔を押し付けていたリスカの首もとに小鳥が潜り込み、「大丈夫? 大丈夫?」と心配しているかのような仕草ですり寄ってきた。ことことと、柔らかな小鳥の命の鼓動が伝わった。肌をふわりとくすぐる優しく滑らかな毛の感触が心地よい。もしかすると、セフォーを牢獄まで導いてくれたのはこの小鳥ではないかとリスカは思った。
「怪我を」
そして待ち望んだ抑揚のない端的言葉。リスカは泣き笑いの表情を浮かべた。――怪我をしている、そう言ってるのですね。
「手当を」
手当をせねばなりません。必要最低限どころか肝心な言葉まで端折られているセフォーの台詞を、リスカは正確に読み取る。
セフォーは僅かに身じろぎし、胸にはりつくリスカをやんわりと引き剥がそうとした。
「んん」
リスカは身を縮めるようにして必死に白い衣を掴む。
離れるのは、嫌なのだ。
怖い。
暴力は、あんなにも容易くリスカを脅かす。
セフォーも様々な意味で十分すぎるほど恐ろしい人ではあるが、少なくともリスカに対してその強烈な力を振るったりはしない。
自分の心は今、とても弱くなっている。誰かの温もりがなければいてもたってもいられないほど萎縮してしまっているのだ。頼り過ぎだと苦しいほど自覚をしていたが、それでもセフォーの長衣にしがみついた。
あと少し、瞬きする間だけでいいから、許しがほしい。
人は一生の間を、理性だけでは生きられない。
どれほどの叡智を抱いても、人はいつか試される。感情に惑わされず毅然と苦難に立ち向かい、流れる血と痛みを覚悟して裸足で茨の道を歩めるかと。
――躊躇わずにはいられない。リスカは自分を殺せるほど、いつも強くはいられない。痛みに怯える心を捨てられないのだ。
せめて、この恐ろしさを耐えられるまで、セフォー、どうか動かないでほしい。
「リスカ」
セフォーは片腕をリスカの背に回したまま少し身を引き、顔を覗き込んできた。銀の入れ墨が走る左手で俯くリスカの顔をなぞるように撫でたあと、不自然な具合に折れた指をそっと持ち上げる。触れられただけで全身が引きつるほどの痛みに襲われ、リスカは肩で喘いだ。すぐに手は離れ、宥めるようにして肩をさすられる。
「全てを」
痛みで涙が溢れ、セフォーの表情が分からない。
「壊滅させます」
いっそ透き通っているといってもよい鋭利な声だった。
「あらゆるものを、あらゆる者を」
背を撫でる手は優しい。
反面、紡がれる言葉と声音は、一切の穢れを寄せ付けぬ抜き身の刀。
悪魔も恐れおののきひれ伏すのではと思わずにはいられぬ冷酷な口調だった。
「目に映る全てのものを、破壊します」
容赦のない殲滅宣言に、痛みを忘れてついまじまじとセフォーを見た。
何だか、その、自分の身に降り掛かった災難を嘆いている場合ではない気がした。
とても、自己憐憫に浸りたいとか、慰めの言葉が欲しいとか、そういうささやかな次元の話をしてはいけない気もした。
仰け反るほどの凍えた圧迫感かつ重圧感が……ああ、まるで氷の雨ならぬ刃物の雨が降る予感が……。いや、既に血の雨は降ったが。
はははは破壊? 壊滅?
あらゆる、者を?
もしやそれは無害で無関係な人間や動物、更には命を持たぬ建物なども含まれてしまうのでしょうか、とリスカは危惧した。
「余計なものが存在するから、災いが降り掛かる」
「は」
「ならば全てを薙ぎ払えばいい」
ほほほほ本気だ。しかも実行に移せる力を持っている。
「何もいらないのです。全て刈り取り、消滅させてしまえばいい。動くものなど、他には何も求めない」
「ぐ」
「目障りですから」
「ぐぐ」
「この世の全てに、思い知らせてあげましょう」
その前に、リスカが十分思い知った。
おかしい、先ほどの安心感は一体どこへ。幻の休息だったのですか、とリスカは虚ろな目をした。
お手柔らかにと口を挟んで、自分の命は保証されるだろうか。考え直してみても悪くはないかもしれませんよ、と控えめながらも提案した瞬間、真っ先にとどめを刺されないだろうか。
「あ、あ、あの、手が、痛いな、なんて……」
生きとし生けるもの抹殺計画を誓うセフォーをどうにかして引き止めねばならない。このままでは国に最大の危機ならぬ凄絶な災厄と絶望が雪崩のごとく押し寄せる。しかもその発端となったのが自分だと思えば、蒼白にならずにはいられない。歴史上最大級の災禍がこの地を襲うことになる。軽い冗談ではすまされないのが恐ろしい。
「手当を」
ははははい、とりあえず我が家に帰りましょうね、とリスカはもの凄い気弱な微笑を浮かべた。
「ぴぴぴっぴ」
小鳥さんよ、君はなぜ、そう平気なのか。
セフォーは純白の長衣をさらりと脱いで、別の意味で震えているリスカの身体に巻き付けた。ついでに顔を覆っていた布も取り外す。その布でリスカの顔に付着している血糊を拭ってくれた。リスカは無事な方の手で慌てて布を受け取り、自分の顔を拭く。
その間、セフォーは長衣の下に着ていた、濃紺色をした丈の長い上着の懐を探り、折り畳まれている薄い布を取り出した。
――その中には。
白い治癒の花が、数十枚あった。
「これは……」
「店の床に」
騎士に痛めつけられた小鳥を癒そうと、咄嗟に放った治癒の花。瓶の中に残っていたものを、持ってきてくれたのだろうか。
「これで、全てです」
その言葉に、リスカは首を傾げた。もう少し残っていたと思うのだが。
「荒らされていたので」
そうか、後頭部を殴打されて気絶したあとに騎士達が店内を荒らしたのだろう。ということは、またしても商品の大部分が無駄になったのだろうか。リスカはがくりと項垂れた。よくよく災難に見舞われる星回りだと自分の運命を呪った。
「手当を」
リスカは布の上の花びらをしばらくの間じっと見つめたあと、使用を促すセフォーへ視線を移した。
手の痛みは鋭く、寒気すら伴う。蹴られたり殴られたりで満身創痍である。顔も腫れていてひどく熱をもっている。しかも、指が折れている。足首は……筋までには達していないが、軽く切られたため歩行が難しいかもしれない。
結構な重傷には違いない。仮にリスカが己でも自覚するほど容姿端麗な美女であったら、運命の残酷さを嘆いて身投げしたくなるような散々な有様だろう。幸いなことに、というのは実に虚しいが自分は、その、ううむ、美女ではなく。
いやいや、今は容貌など二の次であろう。
「セフォー」
名を呼んだ瞬間、セフォーはどうもこちらの意図に気づいたらしかった。
呼吸が一瞬で停止しそうなほどの凄まじい目で睨まれてしまい、ひえっと思わず叫んでしまう。
「まずは」
まずは自分を癒せ、ですね。
でもねえ、セフォー。
リスカはこう見えても、花術師。得意は、花に魔力を注ぐこと、なわけで。別に善人ぶるつもりもないが。
「――水をいただきました。命の水を」
狂気と正気の狭間を漂う囚われの者達。彼等が真実、罪人であるか否かなど現時点では判断しようがないが、この極限状態の中で、命綱に違いない貴重な水を見返りなく他者に与えるという慈悲の行為から目を背けてはならない。周囲を遮断し都合の良い理で自分を優先すれば、後々立ち直れぬほどの卑屈な罪悪感に苛まれるだろう。そうしていつしか足下を照らす慈しみを忘れ、胸に咲く誇りまでも枯らし、生涯神聖なものに背を向けて生きていく羽目になる。
リスカは弱い。だが、欺瞞を糧とする卑劣な人間にはなりたくないのだ。
臆病でも、怠惰ではない。絶望しても、希望の種は捨てたくない。情に薄い魔術師だとて、時には理屈ではなく良心を信じることがあってもいい。
それに、自分は誰一人救えず、ただ救助を待っていただけなんてあまりにも情けない。己の無力さを痛感し心底嫌悪してしまう。
「私にも、まだできることがあるようなのです」
冷気を放つ眼差しから微妙に目を逸らしつつ、リスカはもぞもぞと言った。
「この者達、死に損ないです」
せせせせセフォー、なんて身も蓋もない表現を。
「止めを刺す方が、彼らのため」
「で、でもっ」
「余計なことです」
「セフォー!」
「まずは自分を救いなさい」
きっぱりと放たれた厳しい声に、顔が強張る。
しかし。
「いいえ。私が私を救う必要はない」
「リスカさん」
うあああああ、激しすぎる氷の眼差し。恐ろしいというより最早痛い。怯むなリスカ。頑張れ自分。
「あなたが既に救ってくれました。なのにまだ、私は私を救う必要がありますでしょうか」
僅かにセフォーが目を細める。
「お願いです。私は彼等に恩返しがしたいのです」
よく考えれば、この花はリスカが作ったものなのだから、セフォーに許可を求めるのは筋違いなのだが。
心臓が凍り付きそうな長い沈黙が続いた後、セフォーは無言で花を乗せた布を渡してくれた。
リスカは剣術師の気が変わらぬ内に慌てて床を這い、鉄格子越しに水をくれた罪人の側へ近づいた。
「これは治癒の花。おそらく……その手を元通りに蘇生させるのは不可能でしょう。けれども、もう一度歩くことはできる。どうか受け取ってほしいのです」
そっと一枚を差し出そうとして、罪人に身じろぎされた。どこか怯えているようでもあった。
「間違っているのです。たとえ、あなたが、あなた方が決して許されぬ罪を犯しているのだとしても、これは違う。人ならば人として罪を償うべきなのです。それが死罪に値するものであってもです」
自分の罪が分からなくなるほど狂ってしまえば、償う意味がないと思うのだ。裁きというのは罪の重さを理解し、苦しみを抱くこと。犯した罪を生ある限り背負い続けること。法の存在はそのためにあるとリスカは思っている。だからこそ、このような場所に隔離するのは間違っているのではないか、と疑問を抱くのだ。狂うだけで許される罪など存在しないだろうから。罪は忘れるものではない。償い続けるべきものだ。
法の在り方について、他人の真意はリスカと異なるのかもしれないが。
ふっとリスカは溜息をつく。
時々――罪の線引きに、迷いが生じる。今のような時は、特に。
「正直を言って、今の私は罪などどうでもいいのでしょう。道理とは無関係に、私がそうしたいと思うのです。だから、治癒を受けてください。そして、あなたの足で、大地を蹴って、遠くへ、どこか遠くへと逃げて下さい。外には太陽も月もある。闇ばかりではなく、光が。思い出して、逃げるのです」
リスカはふわりと治癒の花びらを放つ。
セフォーのように、根本に魔力を宿す者とは違う。
罪人達の身を完全には癒せず、しかも一人に一枚では足りなかった。リスカは隔離されていた者全てに花びらを渡した。全て使い果たした時は、セフォーに眼差しで殺されるかと思ったが。
気分は少し、晴れ晴れとした。
リスカの怪我など、あとで治癒しても遅くはないのだ。
牢獄はやはり地下にあり、延々と階段を上がらなければ地上に出られなかった。いつからか立ち入り禁止区域となった、とある教会の真裏に繋がっていると分かった時は、さすがに皮肉な気持ちがした。神の足下に闇が存在したのかと。
外界にはいつの間にか夜が訪れていて、無数の星が密やかに瞬いていた。目の覚めるような寒さを風が運び、同時に何かを浄化する。
月は目映い。愛おしき上弦の月。
耳鳴りがするほどの静寂が、夜の厳かさを一層引き立てている。
解放された罪人達は、しばらくの間、ただ空を眺めていた。
空の高さに、大気の瑞々しさに、呼吸を忘れているように見えた。
リスカは歩けなかったので、まあ、いやはや、少し怒っているらしいセフォーに抱き上げられていたのだが。
何だか地獄から生還した思いだった。
いくら町民が立ち寄らぬ場所とはいえ、不自然なほど静寂に包まれているのは……累々と、屍がそこらに転がっていたためだった。死人に口なしの手本のような光景だった。おそらく見張りに立っていた騎士達の屍だろう。いや、気のせいだと思うが、というよりそう思いたいのだが、教会に籍を置く神官の衣装までが屍の中にあったような。
誰の所行によるものかは、とても説明できない。