腹上の花[12]
これだけ派手な……凄惨な脱出劇を展開したので、全てを忘れて気楽に「さあ家に帰りましょう」とは当然できない相談だった。家に戻れぬからといって、呑気な顔で宿に泊まれるはずもなく。
殺戮の場と化した教会の様子から恐らく危険度最大の大量虐殺犯が現れたと判断されて、町中に厳重な警戒を呼びかける緊急の布令がすぐさま出回るに違いなかった。町々を渡り歩いて悪事を働く盗賊団や一目で悪党と分かる輩を正義の名の下に成敗したのではないのだ。セフォーが手を下した相手は身分の確かな騎士達である。
騎士達の半数以上は貴族出の者だ。歴とした位を持たぬ平民上がりの騎士も中にはいるが、その場合は生家が裕福層に属しているか、あるいは貴人と深い繋がりがあるか、本人に余程突出した能力があるかなど、何かしらの条件が必ず提示されるため、ほんの一握りしか存在しない。
ゆえに、大半が貴族で占められる騎士が無礼を働いた平民を手打ちにするのであれば、高貴とされる人々にとって有利に作られた規律も存在することだし、それほど強いお咎めは受けない。反対に、平民が貴族を害した場合、いかに正当な理由があっても公平な審議は期待できず厳しい罰を科される。……セフォーの身分は、何だろう。貴族出身の魔術師もいるのだし、どう見ても普通の平民ではないと思う。
そういえば、術師の間でこれほど有名な人でありながら、生い立ちなど過去に関する詳しい記述が一切存在しなかった。殆どが真実か否かも判別できぬ血腥い怪奇譚のような話ばかりなのだ。
不思議な人だ。
……と、説明がどこまでもずれていくが。
何の話であったか。そう、宿である。
リスカが激しく懸念しているのは、セフォーが希代の凶悪虐殺犯として騎士や兵士達に追われることではない。はっきり言ってその心配は全くしていない。逆である。
不用意に町へ出て、その、何というか、セフォーが追手の騎士達のみならず善良な町民までもを無差別に殺めたりしないかという恐ろしさの方が圧倒的に強い。悲しい懸念である。なにせ衝撃的な殲滅宣言を聞いてしまったあとなのだ。そういった非現実的展開など起こり得るはずがないと一笑に付す気には、到底なれない。
というわけでリスカとセフォーと小鳥は、とある礼拝堂の屋根裏に不法侵入を果たし、ひとまずそこで一夜を明かすことにした。
追跡者達の、遠くへ逃亡するに違いないだろうという心理の裏をかいたわけである。煤けた壁の礼拝堂は、屍が複数転がる凄惨な教会から少し距離を置いた丘の上に建てられている。この礼拝堂、奇妙なことに時計塔としても機能しているので、町を見下ろす形となるよう教会から離れた場所に建築されたらしい。
こっそりと毛布なども無断拝借したあと、追跡者の動向を確認するために最上部に位置する埃臭い屋根裏を選び、一時の休息を得る。物置部屋代わりとなっているのか、中は閉口するほど汚れている。床の表面は薄らと白い塵芥で覆われていて、至る所に木箱が山積みにされていた。長い間、誰も立ち入ることなく放置されていたようだ。しかも寒い。高い場所は自然の法則で地上よりも風が強く、寒いのである。
あぁこれから自分も御尋ね者の暗い人生を送るのだと思うと、更に心が寒くなり憂鬱な気分になる。
もやもやと余計な考えを巡らせ、一人落ち込んでいた時、階下の様子を窺いに行っていたセフォーが片手に葡萄酒入りの瓶を下げて戻ってきた。どうやらどこかの部屋を漁って盗み出してきたらしい。
リスカは「わたしお酒に弱いのよ」と一口で頬にふわりと赤みがさす可憐な婦人とはほど遠い。食後に嗜むくらい好きである。酒豪とまではいかないが、酒杯を二、三度空にする程度では酔わない。
束の間身体を襲う痛みを忘れ、美味しそう、という欲求に忠実な感想を心の中で漏らした。
「ぴぴぴぴ」
窓枠に乗っていた小鳥が「お帰りっ」という感じで小さく鳴く。
セフォーは床に転がっている木箱を避けつつ、窓枠の下に座り込み毛布で暖を取るリスカのもとに近づいた。
「あああああの」
距離が近い、と思った瞬間には腕に抱き込まれていた。応急処置をした傷に触れないようにと、一応は気遣いが見られる丁寧な抱え方だった。まるで赤子を抱くような感じといえばいいか。
いやいやいや、再会した時は嬉しさと安堵のあまり自分から飛びついたのだが、冷静さを幾分取り戻した今は、その、何やら様々な感情が入り乱れてしまい非常に落ち着かない。
それに、セフォーは微妙にお腹立ちの様子なのだ。その理由に思い当たることが幾つもあるため、後ろめたさを覚えて身を縮めてしまう。
「これを」
瓶ごと葡萄酒を手渡すところがセフォーらしいというのは、失礼か。
ありがたく頂戴し、一口飲む。喉の渇きは強く感じていたが牢内で騎士達に腹部を何度か蹴られたため、食べ物は勿論のこと、正直、匙一杯分の酒を飲み下すのでさえ少し辛い。空腹感よりも身体の強ばりの方が余程気にかかる。
しかし、飲まずにはいられなかった。鉄塊よりも重い沈黙が恐ろしいからである。
「なぜ」
うう、端的言葉。何をお聞きになっているのでしょう。
すぐ真上から思い切り冷たい視線を感じる。直接身体に響く声がまるで闇夜の葬送曲に聞こえ、実に色濃い恐怖を誘ってくれる。
無視してみようかな。寝た振りとか。
などと不埒な考えを抱き目を瞑ろうとした瞬間、くい、と顎を掴まれ顔を上げられた。
「なぜですか」
うあああああ、とリスカは内心で情けなく叫んだ。思わず瓶を取り落としそうになったが、セフォーが機敏に受け止め、床に置いた。
とりあえず謝るか、それとも重病人を装うか?
激しい葛藤にリスカは冷や汗をかいた。「ぴーぴぴぴ…」と気弱げな小鳥の鳴き声が耳に届く。訳せば「ごめんね、助けてあげられないよ……」といったところだろうか。
「なぜです」
怒っているこれはかなりご立腹の様子だ、とリスカは瞬きを忘れて硬直し絶望した。顎の線を撫でる体温の低い手をちらりと見下ろし、首を絞められるのではないかという余計な不安を覚えて身を震わせる。
「答えなさい」
答えなさい。穏便に返答を求める意味での「答えてください」ではない。命令の「答えなさい」である。脅迫に近い。
「な、な、何について、でしょう、か」
と、最後の気力を振り絞り消極的な態度で訊ねると、間近にある銀色の瞳が更に冷ややかさを増した。ある意味精神的な拷問を受けているのと大差ない。
「何に?」
「は」
「何にですって?」
気絶しよう自分、とリスカは決意を固めて意識と別れを告げようとしたが、どうにも氷の瞳が邪魔をする。恵み豊かな大地を一瞬にして氷結させる瞳である。
「私は言ったはず。結界をはれと」
ひえええええ、とリスカは内心で悲鳴を上げる。治癒の花びらを罪人達に使用したことではなく、まず結界の有無についてを責めるのですか。
「なぜです」
確かに、セフォーの立場でこれまでの経緯を辿れば、リスカの言動は不可解どころか愚か者の典型に映るだろう。夜盗の襲撃にあって間もないというのに、忠告を無視して何の防衛もせずにいたのだ。挙げ句無実の罪で糾弾され、むざむざ投獄されているのだから自業自得というものである。
「答えなさい」
「あ、そ、それは」
言いたくない。セフォーには言いたくない。
内面の思いが顔に出たのだろう。こちらの姿を映す瞳の色が益々険しくなった。微かにだが憤りを示すかのように眉間に皺が寄っている。ああ自分は今間違いなく神の逆鱗に触れたと戦慄し、鼓動をはやくした。神は神でも、厳烈な裁きを下す死神である。
あなたが不在の時、どれほど望んでも結界は作りようがなかった。結界用の花を持っていなかったのです。リスカは心の中で懸命に言い訳の言葉を繰り返した。
「偽りを」
「は」
「あなたは私に、偽りの約束を?」
淡々と紡がれた疑問の声が胸の中で渦を巻いていた様々な感情を切り裂くようにして一直線に底に落ち、小さな冷たい炎へ変わった。短い言葉に含まれた意味を考えた瞬間、全身からすっと血の気が引く。事情が分からぬセフォーにとっては不誠実な虚偽の誓いを交わされたのと何も変わらぬのだ。その結果、本来ならば負う必要などなかったはずの人殺しの罪を犯し、己の手を真新しい血で染めたのである。
ああ、これは理屈にもならぬ淡い感傷に浸って口を噤んでいる場合ではないのだ。自分が原因となり引き起こした事態の重大さや背負うべき責任にようやくリスカは気がつき、愕然とした。
理由を説明すべく慌てて口を開きかけたリスカを見下ろすセフォーの瞳は、これまでとは違う種類の冷たさを宿していた。拒絶に似た、割れぬ氷の膜に覆われている。
「あ」
弁明しようとしたリスカの口に、セフォーの指が置かれた。
「もうよろしい」
すれ違う時はどこまでもすれ違う。もどかしさを覚えても、取り返しはつかない。
セフォーは静かに瞳を閉じた。窓から差し込む月の光を浴びて、白銀の髪が淡く輝いていた。月の欠片を砕いて、まぶしたかのように美しく見えた。
「セフォー」
「眠りなさい」
駄目だ、咄嗟に自分が見せた躊躇いを違う意味に解釈し、失望して聞く気を失ったのだろう。
誤解の積み重ねにより予期せぬ展開を招いてしまい、リスカは見知らぬ胸の痛みに苦しんだ。どうしてすれ違ってしまうのか、混乱してもいる。事実の説明を面倒と思い渋ったのではない。言えないのは、セフォーに言ってはいけないと思ったのは、ただ、落胆させたくなかっただけなのに。
折角探してくれた花々。魔力を自在に操れぬリスカには必要不可欠なものだ。だが、その中に結界用として使われる花は残念ながら見当たらなかった。正直に花がないと告げれば、たとえその言葉が期待をこめたものではなく単なる報告の意味にすぎなくとも、不思議と甘い面を持つセフォーはまた探しに出かけるかもしれない。するとリスカは、いつも与えられるばかりになる。それは決して対等ではない。セフォーには何の得もないではないか。自分だけがいつも楽な思いをして、何一つ恩に報いることができていないのだ。
その関係を切ないと強く感じずにはいられなかった。
セフォーにしてみれば、これだけ色々と助けてやり普段の生活も守っているのに、肝心なことは秘密にする、挙げ句嘘までついていた、という話になる。実際その通りで、今更何を言ってもそれこそ都合のいい弁明に聞こえるだろう。同情をひこうとしているようにすら聞こえるに違いない。セフォーが最も嫌悪する「利用した」という状態に近い。リスカは本当に判断を誤ったのだ。
ひどく惨めな気持ちになった。
きっと軽蔑されている。義務感だけで抱きかかえられているのは、とても辛い。
俯いた時、小鳥が、とん、と肩に乗った。
「ぴ。ぴ」
つくつくと嘴で顎を優しくつついてくる。「痛いの? 痛いの?」と心配しているような感じだった。
本来守るべき小鳥にまで慰められ、涙を促す熱が目の奥に生まれる。
どうなるのだろう。これからどうすればいいのだろう。
自分の弱さを噛み締めると、呼吸が乱れるほど心の痛みも傷の痛みも増す。
「ぴ、ぴぴぴぴぴぴ」
なぜか勢いよく鳴いたあと、小鳥は急に白い羽根を広げ、軽やかに飛び立った。「大丈夫、何とかしてあげるからね!」という様子だった。リスカは少し驚いて、月の光の中に消えた小鳥の行方をいつまでも眺めていた。