腹上の花[13]
リスカを抱きかかえたまま、セフォーはもの言わぬ彫像のごとく微動だにしなかった。
眠っているのか瞑想しているのか、実は何も考えていないのか、表情に変化がないため全く分からない。規則正しい呼吸音が寄りかかっているリスカの身体に伝わるけれど、心の様子を示すように体温は低い。温もりにすら拒絶されている気になり、とても全てをまかせて眠れそうにはなかった。
このような場面を迎えた時、いつもは気を紛らわせてくれる小鳥もどこかへ飛んでいったきり戻らず、かれこれ数刻はすぎている。夜はまだ暗く、深い。なんと長い夜なのか。一瞬で闇を吹き消し生気を蘇らせてくれる太陽にさえ見捨てられた気分になる。
セフォー。お願いです、何か話してください。
悲しいかな、リスカから話しかける勇気はない。セフォーがこういった明確な拒み方を見せるのは、もしかすると初めてかもしれない。普段どれだけセフォーが気を配ってくれていたのか、今更理解する。本来セフォーは他人の言動などを窺い、心情を汲んで健気に配慮するといった性格ではないだろう。自分本位というよりは単純に、外の世界や他の人間に対して興味がないのだと思う。
人にも物事にも無関心であり固執しないセフォーが多少なりともリスカの立場を斟酌してくれていたということはつまり、幾分かは信頼を預けてくれていた証拠といえるのではないだろうか。
こういう時、リスカは可愛らしく甘えて相手の懐に入る術を知らないのである。
セフォーにそういった手が通用するかという問題はさておきだが。
可愛くない、自分はほとほと可愛くない。
可愛いの定義って何だろうと真剣に苦悩するあたりからして、自分は何かが欠落していると思う。
駄目だなあ、と内心で己の鈍さを嘆き落胆する。そのくせ離れたくはないと思い、背に回してくれたセフォーの腕を振り払うこともできずにいた。
自分は本当に暗愚かもしれない、とリスカは卑屈な感情を抱いた。
眠れないと殊勝に思いつつも、体力が限界に近かったらしく白々と夜が明け始めた頃にはしっかりうとうとしていた。
かといってさすがに熟睡はできない。微睡みである。
折れた指がじくじくと痛む上、たとえ少量であっても酒を体内に流し込んだのが負担となっているのか、ひどい吐き気に悩まされた。しかし、セフォーの腕の中で嘔吐するような無様な真似は絶対にしたくない。別の場所へ移動したいと焦りが募るが、僅かに身体を捻るだけで苦悶の声を上げてしまいそうだった。追い討ちをかけるかのごとく薄く斬られた足首が、いやに痛む。全身発熱している反面、身体の中は冷水を絶え間なく注ぎ込まれているかのように寒い。こめかみにも時折、断続的に鋭い痛みが走る。あまり痛みが強いと、冷や汗すら出ない。
吐きそうだとリスカは浅い眠りの中でもそう考え、緊張していた。
微睡んでいるとはいえ、さっぱり具合は楽にならない。肉体はぴりぴりと麻痺し行動を許さないのに、痛みだけは敏感に伝えてくれるのだ。少し眠り、起きては苦しみ、また気を失うようにして浅く眠るという癒しにもならぬ時間をただ繰り返している。拷問のようだ。
何度目かに目を覚ました時、朝日が地平線の彼方から顔を出した。
体調は回復せず、これはもう悠長に気まずいとか心が苦しいとかの感傷に浸っている場合ではないくらいに悪化している。
このままでは本当に、セフォーの腕の中で粗相をしてしまう。最低にもほどがあった。口を開けば、間違いなく吐く。
「――あなたは」
突然、セフォーが声を発したが、リスカは返事ができないほど切迫した状況に陥っていた。
「本当に」
セフォーの声が幾重にも重なり霧散する。
「――……」
何かを言われた。あまりにも微かな声だったので、苦痛に耐えているリスカには届かなかった。
離れてほしい。自分では一歩も動けないから、どこかへ移動してほしい。
「吐きなさい。吐けば少しは楽になります」
それがここではできないから、離れてほしいのだ!
怒りすら覚える。どうして察してくれないのか。限界なのだ。これ以上、情けない姿は見せたくないのに!
リスカは口元を無事な方の手で強く押さえた。自分で何とか離れるしかない。
「ここでいいですから、吐きなさい」
口元を覆っていた手を素早く外され、嘔吐を促すように僅かに首の後ろを押された。
馬鹿!
分かっていない、あなたは、何も――。
泣くものか、とリスカは思った。
確かに、吐けば少しは楽になった。
喉を締め上げるような嘔吐感は依然として胸の奥に残っている。時間が過ぎれば、また気分が悪化するだろうと容易く予想できた。
セフォーにはこれ以上なく情けない姿を見せた気がする。もう恐れるものはないと逆に開き直ってしまうくらいだ。
吐瀉物で着ている服を汚してしまったが、気を利かせたセフォーが階下に行き、葡萄酒に続いて衣服まで探し出してきた。リスカには寸法が合わない大きな男性用の服だったが文句を言える立場ではなく、着替えができるだけありがたいと思うべきだった。既に半日が経過しているため、己の身にかけた性別転換の術も解けている。
セフォーが用意してくれた衣服は男性用という以前に、高位の神官が着用する特殊な聖衣だった。腰帯などはなく、すっぽりと足首まで覆う型の聖衣である。落ち着いた滑らかな光沢のある極めて白に近い水色をした美しい長衣だ。胸元と袖回りに繊細な刺繍が施されている。
聖衣は大抵、障気除けの聖水で清められているため、多少袖が余るものの着心地はよかった。
「……ありがとう」
礼の言葉を乗せた自分の声は、吐いたあとのために掠れていた。
「いえ」
「もう大丈夫です」
どうでもいいが、「大丈夫」という言葉が使用される時、大抵問題が山積みとなっている困難な状況であるのは、なぜなのだろう。嘘のために編み出された都合のいい言葉なのだろうか。
「助けにきてくれて、ありがとう。私はもう平気ですから」
平気という言葉も、実際には平静とはほど遠い心情の時、まるで自分を鼓舞するかのごとく口にされる。不思議なものだ。言葉は相手の理解を促す時にも使用されるが、当たり前のように偽りの手段として必要にされる。
「迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」
無用であった人殺しまでさせてしまったものなあ、とリスカはぼんやり思った。自分は実に狡猾で身勝手な性格をしている。セフォーが殺した人々に、全く同情する気にはなれないのだ。
むしろ、困ったと思いつつも、どこかで安堵している自分がいる。
つくづく見下げ果てた精神だとリスカは自嘲した。
「それだけですか」
不意に突き放すような冷たい声音で訊かれた。
リスカは僅かに眉をひそめて、セフォーへと緩慢に顔を向けた。着替えをしたので、セフォーは今、積み上げられている木箱の一つに軽く腰を預けている。
一方リスカは窓枠の下に座り込み、身体を休めていた。
セフォーが口にした「それだけ」の意味が分からない。物欲などを殆ど持たぬ人だ、何かしらの報酬を求めているとは思えない。
「私に言うことは、それだけですか」
リスカはもう、端的言葉を深読みする作業を放棄していた。刀で切り刻まれたかのように心が荒んでいる自分を、強く自覚していた。心も身体も、傷つけられるのはたくさんだ。
「すみません」
さまよう思考を無視し、ただの言葉として意味を乗せずに謝罪するのはとても簡単なことだ。心は何も傷つかない。リスカは投げ遣りな気分で、顔を背けた。
と、その時――。
「ぴっ」
「あ」
太陽を背にして空を駆ける小さな影が目に映った。
「ぴぴぴぴぴ」
リスカは咄嗟に立ち上がって、窓の外へ手を差し伸べた。
吸い込まれるように、手の中に飛び込んでくるあたたかい命。
小鳥さん。
「ぴっぴ、ぴぴぴ」
褒めて褒めて、と言いたげに、元気よく鳴いている小鳥の足には――。
一輪の白い花、クルシアがあった。