腹上の[14]

 リスカはしばし絶句して、手の上の小鳥と、花を見比べた。
 小鳥の白い羽根はぼさぼさで無惨なほど乱れていた。泥に汚れている上、どこかに引っ掛けてしまったのか、羽根の一部分が抜け落ちている。艶やかだったはずの赤い嘴も、所々傷ついていた。
 きっと一生懸命、小さな身体でどこに咲いているかも分からぬ花を探し回ったのだ。花一輪を摘み取るのだって、この小さな体躯では大仕事だっただろう。
 よく見れば、花は幾分痛んでいて、しかもちぎりとられている茎の断面は何度も噛み付いたらしきあとが残っておりぎざぎざだった。薄らと血が付ついている。摘み取る時に、小鳥は口の中を痛めてしまったに違いない。
 一晩中探したのだろうか。
 鳥は夜目などきかないのに。
 クルシアは道ばたなどには咲いていない。季節的にも外れているし、周囲に草木が生い茂る自然の豊かな場所にしか、花をつけないのだ。
 視界の悪い夜の世界を必死に飛び回ったのか。何度も木々にぶつかっただろう。野性の獣にも脅かされて、保護してくれる者もいなくて、随分心細く怖い思いをしただろう。不安で、孤独で、そういった危険の中を小さな身体で――。
「ぴぴ」
 偉い? と訊くように、小鳥が首を傾げる。
「あぁ……」
 リスカは吐息を落とした。
 利己的な感情だけにとらわれて生温い自嘲で心を陰らせていた己が何とも醜い。
「偉いね」
 囁いて、そっと乱れた羽根を指先で撫でる。嬉しそうにすり寄る小鳥が、なぜかひどく切なく、震えるほど愛おしい。
「いい子だ。お前はいい子だね。とても優しい子」
 小鳥が傷付いた嘴で賑やかに喜びの歌を奏でた。太陽の光に溶け込む明るい歌声に、重く沈んでいた気持ちがふわりと軽く浮上する。
 小さな嘴に頬を寄せると、甘えるように優しく噛まれた。
「可愛い、お前は本当に――」
 このように、慈悲の光が、鮮やかな力をもって降り注ぐ。
 
 
 クルシアの花びらは、一輪に五枚。
 リスカは二枚の花びらに魔力を注いだ。
 注意せねばならない点がある。自分に治癒の術を施す時、体力の回復は見込めるが、魔力は戻らない。
 まあ当然の話だ。
 自分の魔力は決して無尽蔵ではなく、時を待たねば身体に満ちてくれないのである。
 この辺りが、他者を癒す時と異なる。
 更に言えば、己への治癒は、他者の時よりも魔力を必要とする。
 
 
 治癒の花びらを二枚完成させた時点で、魔力が道を失い正しく使えなくなった。
 全てを消費したわけではないのに、魔力が陰りを見せている。恐らくは精神的なものに引きずられているのだ。たとえ体力を回復しても、しばらく休まねば魔力を行使できないだろうと思った。こういう時、無理に使うと最悪の場合は二度と魔力を操れなくなる危険性がある。そのくらい魔力は繊細で不安定な面を持つ。精神を常に統一させよとまず最初に厳しく叩き込まれるのは、単なる戒めの意味だけではなく、こういった使用時の理由もあるためだった。どちらにせよ、残りの花びらは小鳥の噛みあとがついているので使えない。
「ぴ」
「一枚は、お前にね」
 小鳥の毛にこびりついている泥をそっと拭ったあと、花びらの一枚を頭に乗せてやる。
 淡い光を放ち、ふわりと溶ける花びら。
 きょとんとしている小鳥の羽根が、すぐさま柔らかさを取り戻した。
「ぴぴぴぴ」
 小鳥はぱたぱたっと確認するようにして羽根を動かし、軽快な仕草でリスカの肩に飛び乗った。
 一度小鳥を撫でてから、最後の花びらは自分の額に乗せる。
 ――ああ。
 思わず息を漏らす。押し寄せる力。肉体の中で激流のように駆け巡り、血を叩く。
 瞬きすると同時に、リスカの身体の傷は癒えていた。だが、完全とはいえない。一枚きりでは、自分の怪我は奇麗に治しきれない。
 それでも、指の骨はくっついて動かせるようになったし、歩くにも殆ど不自由しなくなった。何より吐き気が消えたことが肝心なのだ。奇妙なもので、ほぼ健康体を取り戻すと視野が外に開けるらしかった。
 リスカはまとわりつく小鳥を撫でつつ、思考の波を意識的に漂った。
 ジャヴ。ティーナ。
 ティーナの目映い笑顔が脳裏にはっきりと浮かぶ。
 怒りを静めて冷静に考えると、彼女の言動は全く矛盾に満ち不可解だった。リスカを罠にはめたあと、なぜ救い出そうとするのか。
 不貞を許す貴族の夫。
 裏で捌かれる媚薬。
 フェイの憎しみ。
 ジャヴの行動。
 なぜ、ティーナ達はリスカの前にわざわざ姿を現したのだろう。深読みせずにはいられぬほど偽悪的すぎる演出ではないか。
 何を彼等は訴えたいのだ。
 貴族社会には疎いリスカがなぜ標的として選ばれたのだろう。
 顔見知りであるジャヴが後腐れなく利用できる人間を探し、その結果目にとまったリスカを身代わりに仕立てようとしたのか。彼が死に至る媚薬を作った魔術師だから? リスカの存在は後ろ盾などがない分、都合が良かったのか。
 あのジャヴが、そういった姑息な真似をするだろうか。
 ではティーナの役回りは何だろう。リスカを罠の中心に導くためか?
 それはおかしいのだ。別に姿を見せずともよいではないか。
 そうなのだ、二人とも、本当にリスカへ罪を着せる気だったのならば、不用意に姿をさらすべきではなかったのだ。
 まるで見せつけるように。
 追えというように。
 その行為の、真意は。
 ――声なき悲鳴を、聞いてほしくて?
「確かめねば」
 言葉が溢れた。
 二人がリスカにした卑劣な行いは許せないし腹立たしい。実際死ぬかもしれないと覚悟までしたのだ。だからこそ、リスカには真相を知る権利がある。くだらない理由ならば、殴ってやる。
「何を」
 いきなり響いた非難の声に思考が乱された。
 振り向くと、明らかに眉をひそめているセフォーがリスカを注視していた。
「確かめるとは、何をです」
「ティーナの所へ」
 こちらを貫くセフォーの視線は「救いがたい愚かさだ」と明瞭に語っていた。
「何をするのです」
「理由を聞こうと思って」
「理由?」
 セフォーがいつになく苛立たしげに俯いた。
 助けがいのない愚か者だ、と内心で罵倒しているに違いなかった。むざむざ敵陣に乗り込もうとしているのだから。
「あなたという人は」
「すみません」
「口先のみの謝罪になど意味はない」
 弁解を許さぬ厳しい口調だった。セフォーの苛烈な性格を思えば、このまま斬り殺されても不思議はなかった。
「私がいつでも、あなたを救うと思うのか」
 変化した空気に、リスカはぐっと奥歯を噛み締める。
「私がいつでも、あなたを追うと?」
「……いいえ」
 セフォーはすぐ側まで近寄り、拒絶の雰囲気を漂わせてリスカを冷然と見下ろした。
「そうです。私は追わない」
 そうだろうとは思ったが、現実にきっぱり断言されるとさすがに悲しくなった。しかし、愚かにもここで引かぬ自分を知っている。
「それでも、私は行かないと」
「意味はない、全く意味がない」
 普段と同じ抑揚のない声音だが、確かに苛立ちが隠されている。
「あなたが分からぬ。なぜです。あなたは一体、何を必要としているのです」
 必要と――?
「あなたは見ているようで、何も見ていないのだ」
 セフォーは静かにそう断定したあと、憎悪さえ滲ませた眼差しでリスカを見つめた。
 その瞳の威力に気圧されて、息ができなくなる。これほどまでに彼の怒りに触れたことがなかった。
「行くがいい。どこへなりとも好きなように」
 セフォーは言い捨てて、背を向けた。
 リスカは口を開きかけたが、結局セフォーの姿が消えるまで言葉を紡げなかった。



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