腹上の花[17]
ゼクター=ワイクォーツ。
名前さえ分かれば、調べるのは簡単である。
いや、調査するなどと大袈裟に言うまでのことでもなかった。
この町に長く住み着いている者に、かの貴族の正体を訊ねれば、難なく返答をもらえる。知らぬのはリスカのように辺鄙な場所に店を構えている者や、移住して間もない新参者、また、自ら他人との交流を断ち外部と接触を控えている、わけありの者だろう。
何のことはない。ワイクォーツ伯爵はティーナの夫である。
つまり、何だ。
ワイクォーツ伯爵が秘密裏に匿っている魔術師とは、物騒な媚薬が貴族間で出回り始めた時期などから推測すれば、どう考えてもジャヴであろう。
待てよ。となると、伯爵は自分の妻の愛人を官吏達の手から保護しているのか?
でもなあ、とリスカは首を捻る。
これまで彼がその身に浴びていた憧憬や羨望など、名誉に飾られた輝かしい過去を思えば、貴族の愛人の座におさまるという、ある意味憫笑を誘うような醜態を容易く晒すものだろうかと疑問を抱かずにはいられない。ジャヴは今までそのような話を一度も匂わせなかったのに。いや、わざわざ己の信用を失墜させるような陰部の事情を口にするはずもないか。地下牢で会った時は、一定の距離を超えてティーナに当たり前の仕草で触れる姿や、馴れ合いを思わせる砕けた口調に、耳も目も疑ったくらいだし。
人は変わるものなのだなあと自分の過去までもを遠くに意識しながら、知人の身辺に見えた沈痛ともいえる変化を僅かに虚しく思い、やるせない吐息を落とす。いや、感傷に浸り何かしらの勿体ぶった意見を述べられるほどリスカはジャヴのことを詳しく知らない。
優雅と倦怠を底に隠して野心を掲げる貴族の生活になど、リスカは全く興味がなく、想像外のことでもあった。財や権力を衣服のごとくまとう貴族は、己の強固な盾となる才気に溢れた有望な魔術師を囲いたがるものだが、砂の使徒にすぎぬリスカなど論じるまでもなくはなから相手にされるはずがない。ゆえに貴族の存在は、リスカにとって鬼門に等しく、接点すら見当たらない。
平民だとて、下男や侍女として屋敷に勤めぬ限り、日常生活の中で軽々しく貴族と接触する機会はないだろう。リスカがお偉い伯爵の詳細を知らなくとも仕方がなかった。
はあ、とリスカは嘆息した。
やはり、ジャヴが犯人なのか。
雑貨店を離れたあと、リスカは大通りまで考えに沈みながら歩き戻り、中央庭園と呼ばれる、近辺に暮らす住人達の憩い場所へ向かった。庭園には木製の長椅子などが所々に用意されていて、散歩者が休息する時に、よく利用されていた。
今は祭りを明日に控えているため、花の香りに吸い寄せられる蝶のように人がわんさと集まっていた。あちこちに小山のような天幕がはられ、その合間に揚げ物などを売る屋台なども並んでいた。長椅子は空いていなかったので、リスカは喧噪から僅かに距離を置いた場所に立つ白幹の木に寄りかかり、しばしの休息を求めた。小鳥は嬉しそうに木の枝を行き来して遊び、ついでにどこからか見つけてきた爪の先ほどの小さな赤い果実をはぐはぐと食べていた。そういえば、リスカも空腹だった。
リスカは遠巻きにぼんやりと、拍手を盛んに浴びている曲芸を眺めつつ、もう一度溜息をついた。
「どうするかな……」
店に戻るわけにもいかぬが、資金がないため宿も取れない。というか、リスカはいわゆる脱獄囚の身なので、大手を振って宿探しをするわけにはいかない。脱獄囚。最悪な響きである。
本来なら、こういった人出のある賑やかな所を呑気にうろついている場合ではなく、一刻も早く別の町へ雲隠れすべきなのである。
我ながら緊張感に欠けるというか、神経が麻痺しているというか。
あれだけの災難に見舞われたというのに、平気な顔で町を闊歩する自分は、案外大物かもしれぬと幾分自虐的に思った。
ええい、こうなったらもう、やけくそでティーナの屋敷に乗り込むか。
助けを求めようにも、孤立無援、と考えて、リスカは途端に勢いをなくした。
セフォー。
もう、この町を出てしまっただろうか。それとも、どこかでリスカと同じように、祭りの期待に浮かれる人々の姿を眺めているのだろうか。
あるいは。
誰かといたりして。
娼館、の言葉が浮かび、その意味が持つ理解不能な威力にリスカは大きく仰け反った。背後の白幹に後頭部を思い切りぶつけてしまい、あまりの痛さに屈んでしまう。今、脳裏に火花が散った。
娼婦と遊ぶのだろうか。人間嫌いなセフォーも、時にはそういう場所をご利用になって憂さを晴らしたりするのでしょうかと頭を抱えつつ、なぜか分からぬが激しく悩んだ。うううう、いけない想像するな、そういったことはセフォーの勝手ではないか。彼の手を振り切ったリスカが口を挟んでいい問題ではない。慌てるな動じるな挫けるな。
ぴぴ、と枝の上で羽根を休めていた小鳥が「リスカ変だよ」と不審な感じに鳴いた。
明日さえ分からぬ深刻な状況の時に一体何を考えているのだ、と奇妙な想像に惑乱される自分を思い切り叱咤した。立ち止まると余計な考えの中に落ちてしまう。行こう。いざ出陣。そうだ、ティーナの屋敷にこのまま乗り込んでしまえ。
よし、とリスカは拳に力を込め、勢いよく立ち上がった。
その瞬間、目前にいた人物と、ぱっちり目が合ってしまったのだった。
「あ、ああああ!!!」
互いに指をさして絶叫し、凝固する。
周囲で談笑していた娘さん数人が何事かと驚いた表情で振り向いたが、愛想笑いを浮かべて誤摩化す余裕はなかった。
「フェイ!!」
「お前!!」
互いの声が、見事に重なった。
「誰が呼び捨てにしていいと言った!」
「なぜ生きているのです!」
驚愕しつつ、二人とも訳の分からぬ混乱した疑問をぶつけている。
青年騎士フェイ。とことん悪運の強い騎士だ。てっきりセフォーの刃にたおれたかと思っていたが、無事だったのか。
はっと同時にまじまじと見つめ合い、大事な事実に気がついた。
リスカは脱獄囚。
彼は、騎士。
「さ、さようならっ」
「なっ、おい待て!」
リスカは言い捨てて全速力で逃走した。ぴぴぴぴっ、と小鳥さんが慌ててリスカのあとを追ってくる。
来なくてもいいのにフェイまでが追ってきた。当然だが。
「いいい今忙しいのです」
「暇そうにしていただろうが!」
そういう問題か、と思ったが、律儀に答えるのはさすが騎士と褒めてよいのか。
運動とは無縁の軟弱なリスカと、騎士として日々鍛錬しているに違いないフェイでは体力の面でも差があるが、まず足の長さからして違う。中央庭園の入り口であっさり追いつかれ、乱暴に襟首を掴まれた。
周囲の人々が、短い逃走劇を繰り広げたこちらへ好奇心と驚きの混ざった視線を向けてくる。華麗な技を披露する曲芸師よりも、声高に言い争うリスカとフェイは目立っていた。
「嫌っ、人さらい、また私を監禁して酷いことするんですか!」
「お前が大人しくせぬためだ!」
「勝手なことを」
「勝手な行動を取るお前が悪いのだろうが」
「何が勝手なのです、人の話をろくに聞きもしないで」
「なぜ俺がお前などの話を聞かねばならない。お前が俺に命令するな、俺が命令するのだ」
「馬鹿を言わないで下さい、私はあなたの奴隷ではない!」
「似たようなものではないか!」
「あなたの奴隷など真っ平です!」
「何だと! 大体お前、昨夜、俺の部下を殺したな!」
「あなただって、私を殺そうとしたではありませんか」
「それがどうした、お前など奴隷にも劣る――」
と二人して一歩も譲らずいささか感情的に怒鳴り合っていた時、野次馬と化した人々の中からひゅっと口笛が響いた。思わず互いに口を閉ざし、振り向く。
気がつけば、リスカ達の周囲に人垣ができていた。なぜか、大半の男はにやっと笑ってリスカ達を異様な目で見比べていた。
な、何だ?
見ているなら助けてくれればいいではないかと憤慨した時、野次馬の中から「やるねえ」という、はやし声としか思えない不可解な感嘆が漏れた。それを契機に、他の人々がどっと笑う。リスカは何が起きているのか、すぐには把握できなかった。それはフェイも同じのようだった。気難しい表情で、観客と化した暇な人々を眺め回している。
「いや、痴話喧嘩にしちゃあ凄まじい」
「自分の恋人を奴隷扱いかよ」
「ありゃあ神官か?」
「神官相手なら、楽園にもそりゃ行けるさ」
「こういっては何だが、少しばかり貧相な神官様に見えるがねえ」
「それが意外に凄いんだろう」
「おい騎士様相手か」
「神官様、男をあんまり殺すなよっ」と、幻聴と思いたい冷やかしの声が、まだ日は高いというのに、いい加減に酔っぱらった赤ら顔の兵士達から飛んできた。
「なっ!!」
リスカは絶句した。激しく誤解されている。しかも聖衣を着用しているため、神官と間違われている。付け加えて、完全に男だと思われている!
殺すって、まさかその、睦言で使われる方の意味に曲解されているのか。
唖然としていたフェイも、ようやく何を冷やかされているのか察して、青ざめていた。
「愚か者どもめ!」
酩酊している者に、何を言っても無駄である。全てからかいの対象となるのだ。しかもこういう時に限ってフェイは、割合質素な騎士の衣装をまとっていた。見た目が若いため、機嫌良く酔っている怖い者知らずの傭兵や旅人達に、いくら顰め面で詰め寄っても威厳を感じさせることなど到底無理だ。逆に「あんまり神官様を泣かせるなよ」「また逃げられるぞ」と、激励だか揶揄だか分からない声援を浴びている。
「ちちち違います。そういう意味の殺すではなく、死ぬ方の」
人垣がどっと沸く。リスカの話など、誰も聞いていない。いや、聞く気がない。
「俺がなぜこのように貧弱な男を相手にせねば!」
「そこをあげつらうのは失礼です!」
貧弱とは何なのだ、貧弱とは!
「大体、なぜ聖衣をまとっているのだ。脱げ!!」
おおおお、と観客が嬉しげな歓声を上げた。フェイは自分の失言に気がつき、激高しているのか羞恥心に苛まれたのかは分からぬが、とにかく顔を紅潮させて何事かを叫び、観客を黙らせようとした。
収拾がつかなくなった観客の熱気に、最早リスカは茫然自失の状態である。
やがて埒があかぬと諦めたフェイは大きく舌打ちしてリスカの手首を掴み、ずるずると無理矢理引きずり始めた。それはそれで、盛大な冷やかしの声が飛び交ったが。
嫌がるリスカを引きずりながら、フェイは中央庭園を抜けて、路地裏へ向かった。
「離して下さいっ」
「お前のお陰でいらぬ恥をかいた!」
「もとはといえばあなたが!」
と、再び罵り合いを勃発させそうになり、慌てて言葉を飲み込む。先ほどの二の舞はご免だった。
フェイは明るい金髪を乱暴にかきあげ、しばらくの間腹立たしげに虚空を睨んだ。リスカは逃げるに逃げられず、警戒しながらフェイの様子をうかがった。小鳥の身は何があっても死守しようと両手で包み、いつでも走り出せる体勢を取る。
幾分平静を取り戻したのか、フェイが苦々しげな表情でリスカを見下ろした。