腹上の[18]

「本当にお前ではないのか」
「何がです」
「察しが悪い」
 フェイに嫌味を返されてむっとしてしまい、またも睨み合いに突入する。
 鮮やかな青い瞳に浮かぶ厳しい色を目にした時、地下牢内で受けた暴行などの生々しい記憶が唐突に蘇り、息が詰まるほど身体が緊張した。掌の痛み。松明の赤。闇を焦がす怒りの炎だ。じんと幻の痛みが掌に走った。
 リスカは喉を震わせた。目に怯えのような感情が滲んでしまったのか、真正面からこちらを見下ろすフェイの顔が歪み、眼差しにこめられた憤りも増したかに思えた。
「来ないでください」
「お前」
 一度暴力を受けると、精神は理知の脆さを悟り肉体が抱く恐怖に否応なく引きずられる。気迫で負けてしまうのだ。
 深く心に刻まれた記憶に狼狽し怖じ気づくリスカの様子を見たフェイは視線の威力を弱め、どこか投げ遣りといった感を漂わせて嫌そうな顔をした。
「何も疾しいことがないのならば、怯える必要はあるまい」
 こちらの説明に耳を貸さず、また事実の確認もろくにせずに怒りでもって非道な振る舞いをしたのはそちらではないか、とリスカは内心で吐き捨て、必死にフェイの視線を受け止めた。
「何か、この間と違うな」
 不意に指摘されて、別の方に意識を集中させていたリスカは誤摩化し切れずに、ぎくりとした。今は女性体に戻っているのだ。
「お前」
 品定めでもするように無遠慮な眼差しで全身を眺め回され、リスカは鳥肌が立った。嫌悪なのか恐怖のためか判然としない戦慄だった。
「近づかないでください」
 きつい声音で拒絶を見せると、明らかにフェイは腹を立てた顔をし、こちらを見下すように腕を組んだ。
「魔術師風情が」
「私は正規の魔術師ではありません」
 再び懲りずに睨み合う結果となったが、こちらの腰は情けないほど引けている。
「お前が俺の部下を殺したのか」
 リスカは少し、逡巡した。彼の部下を実際に殺害したのはセフォーだ。だがこの騎士は事実を知らない。そもそもセフォーが騎士達を殺害したのは、地下牢に監禁されたリスカを救出するためである。
「……私です」
「嘘をつくな」
 そう思うのなら訊くなと内心で反発したが、声に出せばいらぬ争いを呼ぶかもしれないと考え直した。
「誰が手を下した」
「あなたには言わない」
「何だと?」
「あの牢獄に隔離されていた者達は本当に罪人なのですか」
 今度はフェイが口ごもる番だった。表の通りから響く、行き交う人々の空へと抜けるような明るい笑い声が、別の世界に存在するもののように聞こえた。
「……当たり前だ」
「嘘です」
 意味もなく睨み合ってばかりだった。疲労感だけが増す、実に実りのない会話だ。
「ここで何をしている」
「あなたは何をしているのです」
「俺が訊いているのだ」
「私も訊いているのです」
 互いに譲歩する気など皆無のため、全く話が先へ進まず堂々巡りしている。
「お前の行方を捜索していたに決まっている」
 虚言だ、とリスカは即座に確信した。
「ティーナを探しているのでは?」
「居場所を知っているのか」
「屋敷にはいないのですね」
 リスカは忙しなく思考を働かせ、指先で唇を撫でた。屋敷にはいない。ではどこに。
「おい!」
 うるさいと口走りそうになった。今、思案中なのだ。
「ああ――もしかして」
 不機嫌そうなフェイに視線を向けた時、不意に視界が開けて、一つの可能性に辿り着く。ティーナが訪れそうな場所。それは。
「何を隠している」
 リスカは視線をフェイの瞳に定めた。
「何だ」
 不遜な色が見える顔の下には、別の表情が隠されている。焦燥感と苛立ち。苦悩。若さ。接点の有無はともかく、もし普通の出会いを果たしていれば、多少我が強い面はあるものの、それほど悪い人間ではないと判断したかもしれない。見ようによってはだが、精悍と言えなくもない整った顔貌だ。力と身分を誇る騎士特有のぱっと人目をひく華やかさも、皮肉を交えねば魅力と映るだろう。ゆえに、異様に華美な格好をするより、質素と感じる程度の落ち着いた衣服の方が、ずっとまともな印象を与える。
 よし、なにかあったら大声で叫ぼう、とリスカは覚悟を決め、彼を挑発して情報を引き出してみることにした。
「あなたは真実よりも保身が大事ですか」
「何?」
「大義よりも、建前を優先させる騎士ですか」
「侮辱するか、この俺を」
 フェイの瞳に再度怒りの炎がちらつく。怒りの種をいくつも抱えているというのは哀れなことだと意識の片隅で考える。
「ではなぜ、罪なき者を嬲るのです」
「罪はある!」
「それは人が人であるための意味が剥奪されるほどの罪ですか」
「奴らは貴族ではない。平民にすぎぬ」
 その言葉は決定的だった。
「人が人として生きる理由にまず、あなたは身分が必要なのですね。身分をもって、あなたは人を裁くのですね」
 フェイは皮肉に気がついた。
 リスカは自分を奮い立たせて、薄く笑った。喜びを抱かずとも、人は笑える。
 そしてリスカには負の要素が山ほどある。彼に暴行を受けた時の恐怖がいびつにねじ曲がり、先ほどの差別的発言と相まって、煮立つような憤りへと変わった。
 平民ゆえに裁くのか。全く、我を至高と公言する貴族が考えそうなことだ。己が所有する広大な敷地内に作られた、花咲く優美な庭園が世界のありとあらゆる景色を鏡のように反映していると本気で信じているのかもしれない。一輪の花さえ咲かぬ貧しい一画で今日を耐え抜く人々にも、身を切るほどの嘆きや苦悩を抱えている事実を決して認めようとはせぬ。無知ではなく無能ゆえの惰性の日々を送っていると露程にも疑問に思わぬのだ。だが、命を生む大地を耕しているのは、空の色と新緑の豊かな輝きを知っているのは、どれほど卑屈で浅ましくても平民以外にいない。朝の大気に染み込む発芽の香りや透き通る蒼天の目映さ、涙をも焦がす陽光の強さ、雷鳴も雨も雪も受け止める大地の深さ。それら全ての意味を、言葉ではなく我が身一つで知ることの重要さを彼らは日常の中で当たり前のように学んでいく。なぜなら、己の命を繋ぐ為に必要な理解なのだ。
 リスカは何も、貴族に平民達と同じ目線まで降りてきてほしいのだと無謀な願いを通したいのではない。人には人の事情がある。何を優先させるか何を重視するのか、そういった意向や個人の道徳にまつわる事情を盲目的に押し付けたいのではない。
 敬わずとも良い。ただ、懸命に生きる者が玩具として扱われるのはたまらない。
「言わせておけば、何たる無礼」
「私を裁きますか? あなたを侮辱した罪で? それはきっと、貴族達にとっては人としての尊厳を奪って当然なほどの大罪なのでしょうね」
「黙れ!」
 フェイは片手を振り上げた。殴られると察して、咄嗟に、むずがる小鳥を庇う。
 だが、振り上げられた腕は降りてこなかった。
「俺は貴族だ。貴族として生まれ、騎士として生きていく。その俺に、貴族の在り方を否定せよと言うか」
 案外、理性的な男なのかもしれぬとリスカは認識を改めた。
 フェイは蒼白な顔で、微かに肩を震わせていた。身の内で巡る激情は、怒りというより鬱屈した嘆きであるのだろうと思った。
 リスカは少し、口がすぎたかと悔やんだ。平民が平民として生を受ける事、フェイが貴族として生きる事、それはどうしようもないのだ。人は環境を選んでの生誕など許されぬ。
 そうなのだ。フェイにはフェイの苦悩がある。
 少しだけ、部下を仲間ではないと言い切ったフェイの素顔が見えた。まあ、乱暴な男には違いないが。
「小鳥を殺さなかったのですね」
「……飛んでいったのだ」
「そう。そうですか」
 フェイは顔を背けて、唇を噛んだ。
「ありがとう――小鳥を逃がしてくれて」
 礼を述べると、フェイは、思わず笑ってしまうほど真っ赤になった。
 
●●●●●
 
 この展開だけはありえないだろうという現実をリスカは迎えていた。
 つまり、フェイと共に行動する自分が信じられないのだ。顔色を窺う限り、恐らくフェイも複雑な心境に違いなかった。
 何となく気まずくて、沈黙が続く。そういえば、フェイは今日、部下を連れずに単独で行動しているようだった。
「どこへ行くのだ」
 人波を器用にすり抜けつつ、フェイがちらりとリスカを見た。彼は結構早足な上、祭り見物の人が通りに溢れているので、すぐに距離が離された。お陰で、リスカは駆け足状態で追う羽目になる。
 どこへ行くも何も、あなたが先頭をきって歩いているのですが……と思った。
 ああどうしてこう、自分が知り合う人間は気性の激しい屈折した者が多いのか、と脳裏に厄介な知人達の顔が浮かび、悲しくなる。
 うう、息が切れる。
 全く歩調を緩めてくれる気配のないフェイは、苛々した表情を隠すことなく、遅れがちなリスカを睨む。ついでにわざとらしい溜息。体力自慢の騎士と一緒にしないでほしい。
 ……体力の問題以前に、リスカは空腹すぎてふらつきそうになるほど気分が悪くなっていた。丸一日食べ物を口にしていないし、動き回ってばかりで身体的に疲労が溜まっている。治癒の花びらである程度回復してはいたが、残念ながら全快にはほど遠い。
 行き交う人に何度も衝突しそうになって、リスカは目眩がした。
「――おい!」
 ふっと一瞬、視界が白くなり、浮遊感に襲われて足元が崩れた。ぴぴぴぴぴっ、という小鳥の慌てた鳴き声が、厚い壁で隔てられたかのように遠かった。
「馬鹿が。具合が悪いならなぜ言わぬ!」
 ぐらぐらする頭を抱えて地面に膝をついていると、フェイが戻って来て舌打ちと同時にリスカを抱き上げた。うえええっ、と疲労を忘れてリスカは叫んだ。他人の事情などどうでもいいらしいフェイは、衆目を集めていることも奇麗に無視してさっさと近場の露店を目指し、空いていた椅子にリスカを降ろした。荷物のように肩に担がれて運ばれるよりはましだが、路上で騎士にお姫様抱きとは……とリスカは非常に微妙な心地になった。いやいやさすがは騎士、人前でのこういった行為に抵抗はないのだろう。リスカはとりあえず頷いた。
 フェイは注文を取りにきた若い娘に、果汁入りの飲み物を二つと軽い食べ物を頼んだ。勿論リスカに不満はなかった。食事にありつけると考えた瞬間、フェイが誰よりも頼もしく輝いているようにすら見えた。
 ふと気づけば、注文を受けたなかなか愛らしい娘は、フェイを見てうっとりと頬を染めていた。そ、そうか、セフォーのようなあらゆる意味で常識を超越した剣術師が側にいたため、自分はいつの間にか普通の娘の感覚を失っていたらしい。ううむ、なるほど。多少どころかかなり意地悪そうな顔だが、世の中にはそこが素敵と好意的な解釈をする娘も大勢いるのだろう。悪い男ほど魅力があるというようだし。
 しかしお嬢さん。この男は「天下に我あり」という天晴れな性格で、尚かつ、機嫌如何によっては無実であるリスカの手に松明を押し付けるようなとんでもない騎士ですよ、と受けた暴行に憤りを抱きつつ一言忠告したくなった。夢を壊しては悪いので、口にはしなかったが。
 野蛮というより猪突猛進な性というか。怒りを抱くと周囲が一切目に映らなくなるというか。いや、普通の時でさえ、あまり他人を気にしていないようだし。
 排他主義が窺えるところを思えば典型的な貴族のようだが、自分が関わりを持つことには繊細になる男。意外や意外、四角張った潔癖な面もあるようで。
 厄介な騎士だなあ、とリスカは密かに嘆息する。
 ぴ? と不思議そうに小鳥が鳴き、食台の上に降り立つ。こしょ、と嘴を軽く撫でると目を瞑ってすり寄ってきた。リスカの周りの人間も、この小鳥くらい素直で愛らしければ……と思い、すぐに虚しい気分になった。無理だな。
 何やら視線を感じて顔を上げると、フェイとぱっちり目が合った。椅子の上でも傲然と腕を組みつつ、物思いに耽るリスカをじっくりと観察していたようだった。
 まままた睨むのか睨み合い開始か? とリスカは闘志と怯えを同時に抱き、身を固くした。
 ところがフェイは、こちらが真正面から見返すと慌てたように目を逸らす。何ですかその反応は、とリスカは肩透かしをくらった気分になった。
「お前、女なのか」
 突然の問い掛けに動揺し、椅子から転がり落ちそうになった。
「性別なんてどうでもいいでしょう」
「よくはない。よくはないだろう」
 次にどのような暴言を浴びせられるのかと内心びくびくしながら、リスカは慎重に、視線を落としているフェイの顔色をうかがった。
「女には手をあげる気などない……なかった」
 不承不承といった感が滲む不貞腐れた表情で呟かれたが、今更そのような弁解をされても反応に困る。
「あなたに松明を押し付けられた時は、男でしたから」
 溜息を押し殺して返答すると、ばっとフェイが顔を上げ、悔しそうな顔をした。
「嫌味か」
 嫌味ではなく事実なんですが。
「紛らわしい。どちらが本当の性なのだ」
「どちらでも変わりませんよ」
「これだから魔術師は」
 小声で皮肉を言われてもなあ、とリスカは頬をかいた。
 会話が途切れた瞬間を見計らったように、先ほどフェイに熱い眼差しを向けていたお嬢さんが注文したものを持ってくる。ああ頬が薔薇色に染まっていますよお嬢さん、と内心で思い、なんとなく釈然としない気持ちになった。
 まあ自分の感情は脇に除けて。
 フェイの許可を押し頂く前に、リスカは胸中でいただきますと告げ、揚げ物を挟んだパンをぱくりと口にいれた。食欲をそそる香ばしい匂いに、負けてしまったのだ。断りなく食事を始めたためかフェイは少し顔をしかめたが、文句は言わなかった。なるほど、心情はともかく、女性に対しては一応紳士的な態度を貫くわけだ。この際はっきり女です、と断言した方が、リスカにとっては有利……ではなく、身の安全が保障されるかもしれない。
「あ、美味し」
 つい幸せな感想が漏れる。空腹である今なら、何を食べても絶品だと感動するだろう。
 ぴぴぴぴぴっ、と小鳥さんが羽根をばたつかせて鳴く。「食べる、食べるっ」とせがんでいるみたいだ。試しにパンを小さくちぎって食台の上に置くと、忙しくつつき始めた。うむ、可愛いものだ。
 面白いことに、フェイは苦い顔をしながらもリスカが食事を終えるまで口を挟まなかった。いやはや、徹底した紳士ぶり。礼儀を重んじる貴族は違うものだと感心する。
「……それで。お前は何を知っている」
 ようやく会話が再開されたのは、リスカがフェイの分までパンをたいらげ、更に追加で別の食事を頼み、奇麗に腹の中へおさめた時。満腹である。至極幸福である。しかも、リスカの支払いではない。言うことなしである。
「あなたは何を知っているのですか?」
 質問には質問で答える。これが魔術師の鉄則である。
「……お前には関係なかろう」
 人に訊いておいて、そう言いますか。
「……」
「何だ、その目は」
「あー手が痛い」
「なっ」
「まだ完全に治癒できてないのですよ。ああ痛い。痕が残ったらどうしようかな」
 治癒の花さえあれば完治できるが、今は説明する気など皆無だ。
「お前!」
「それに私、あなたの部下に指を折られて」
「俺はそのようなことを命令していない!」
「散々殴られ蹴られ。精神的にも肉体的にも傷を負いました」
「魔術師ならば、傷は治せるだろう」
「心の傷は、どうでしょうねえ」
「な、な」
「あっそうでした。小鳥も酷い目に」
「おい、お前」
「はーどうしよう。このことが原因で極度の人間不信に陥るかもしれません」
「わざとらしい!」
「傷が癒えなくて、生涯独り身を貫くかも。孤独ですねえ。誰のせいでしょう」
 と、弱々しく目を伏せつつリスカは泣き崩れる真似をしたが、内心で爆笑していた。
「騎士とは、礼を知る者のはずですね。まさかまさか、か弱い女性に酷い真似をするなど、そんな野蛮な……ああ騎士道とはなんたるものぞや。私の認識は誤りだったのか。世は無情。慈悲はどこへ」
 悲しみをたたえた目を遠くへ向けて盛大な溜息をついてみた。
 フェイは半分腰を浮かせ、唖然としていたが、ちらっとリスカが見遣った時、頭を抱えた。
 リスカの完全勝利である。



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