腹上の[20]

 松明などの用意はしていなかったため、一旦教会に足を運び手燭を無断で拝借したあと、地下牢へ降りた。
 茂みを隠れ蓑とした、地下牢への入り口。階段は狭く急斜で雨上がりの大地のように湿っているため、洞窟の中を歩んでいる気になる。いや、実際に、自然の洞窟を利用して階段が作られたに違いない。
 湿り気を含んだ大気が、蛇のごとくリスカの四肢に絡み付く。黴の匂いよりも濃厚に漂う死臭が、壁にも澱んだ空気にもかき消しようがないほどしみついている。
 外界から差し込む明かりが絶えて、掲げる手燭が頼りとなり始めた時、フェイは幾分かの躊躇いのあと、後ろに続くリスカに向かって片手を差し伸べた。まさか手を引いてくれるなどといった気遣いは想像していなかったので、リスカは激しく面食らった。自慢ではないが、生まれてこのかた、騎士の手を借りて歩いた経験はない。
 というより、手燭を持っているのに、その上こちらの手を引いて歩いたら両手が塞がってしまうでしょうに、と現実的な懸念を抱く。それ以前に、地下牢への道は横にも縦にも狭く足場が悪い。大の大人が並んで歩けるほどの広さはなく、手を繋げば歩きにくいに決まっている。
 しかし、騎士が差し出した手を払うというのは無礼極まりないことでは、とリスカは一瞬の間に次々と考え身動きできずにいた。
 困惑するリスカの手を無断で取り、さっさとフェイは歩き始めた。この騎士、よほど女性の扱いに慣れているのか、逆に女性を神聖視しているのか、嫌というほど躾を叩き込まれたのか、はたまた天然なのか。分からない。
 リスカにとっては肩が強張るほど仰天することだったが、貴族の女性を連れ歩くのに慣れている騎士にはごく当たり前の行為で深く悩むほどのものではないのだろう。リスカは考えを放棄した。
 手燭の明かりでは、足元のみを照らすことしかできず、すぐ先は濃厚な闇に飲まれていた。そういえば、ここからセフォーがリスカを連れ出してくれた時、明かりなど存在しなかった。けれどもセフォーはまるで気にせず、すたすたと確かな足取りで階段を上がっていたと思う。
 セフォーは手を引くなどといった面倒なことはせず、問答無用に抱え上げて突き進む人だった。
 しまう場所がないので襟元にさしていた銀色の耳飾りが、小さな金属音を立てて揺れる。雑貨店でこの耳飾りを目にした時、ついセフォーの髪の色を思い出してしまったのだ。さらさらと揺れる髪は銀の帳。少し飾ってみたいなどと考えて。
 ――似合うと思ったのだけれどなあ。
 不穏な暗闇に影響されたのか、気分までもが鬱々とし始め、心に不透明な影を落とす。ここで自分は騎士に松明で手を焼かれたのだったなあ、と余計な記憶まで蘇らせてしまった。まさかこのように和解して手を取られる羽目になるとは、全く運命とは先の読めぬ不可思議なものである。
 結構恨みに思っているのだが――優しくされると、何となく情が湧くのが人の性であろう。
「砂の使徒は、術に制限があると聞いたが」
「はあ」
「どういうことだ?」
 小声で密やかに話しても湿った壁は音を吸収せず、あちこちに反響していた。
「普通の魔術師のように、詠唱で術を発動できないのです」
 素直に答える自分もどうかと思う。
「では、どのように術を使うのだ」
 返答すれば自分の弱点を暴露するようなものだが……もしやと思うが、以前と状況が違うとはいえ再度地下牢に足を踏み入れることとなったこちらを慮り、他愛ない会話で気を紛らわそうとしてくれているのか。
「砂の使徒は、ある特定のものを利用せねば、魔力を放てないのですよ」
「詠唱とどう違う」
「詠唱は、呪法を覚え理解してさえいれば、場所を特定せずに使えます。詠唱せずとも、正しい式を地面や宙に描くのもよい。私のような者は、その特定された何かが手元にない限り、一切魔術を使えない」
 大した差異はないだろうと思われるが、とんでもない。自分が不自由な魔力を持つという立場になればよく理解できるだろうと思う。セフォーは例外として、剣術師など手元に剣がなければ、ただの人と変わらないのだ。
 口を噤んだ時、ふと人の気配を感じた。以前には存在しなかった熱が微かに伝わってくる。
「フェイ」
 呼びかけると、彼も気づいたようだった。
 慎重に階段を下りて、淀んだ闇に目を凝らす。
 頼もしい後ろ姿だが実践の経験はないでしょう、といささか失礼な詮索をしてしまうリスカだった。仮に敵対する者が潜んでいた場合、襲われたらどのように応戦する気なのだろう。まあそれは術を使えぬリスカにもいえるのだが。
 鼻につく死臭の中に、別の異臭が混在している。
 倦怠感を伴う甘い匂い。精神を麻痺させるような艶かしい匂い。それに……独特の、汗の匂い。
 あー自分の勘、外れていない、などと内心で確信し顔を引きつらせてしまう。
 敵に囲まれた時とは異なる意味で微妙な緊張感を抱いてしまったが、それはフェイも同様らしかった。
 亡者と悪鬼が蠢く無限の冥府へ続いているかのような長い階段。幾度も曲がり、延々と足を動かす。奥へ近づくほど匂いは濃くなり、いたたまれなくなる。リスカは変な汗をかいていた。
 おや、と思う。
 明瞭には覚えていないが、セフォーに連れ出された時とは道が異なる気がした。
「フェイ?」
「静かに。……檻へ行っても意味はない。別の抜け道がある」
 こちらの地下道は多分神官達が、戦火の時の逃亡用として秘密裏に掘ったものではないかと思う。あるいは、禁忌とされている闇の儀式を行うために。
 どちらにしても聖なるものとはかけ離れた生臭い話だと思う。
 ふと、なぜフェイが抜け道を知っているのかという思いが胸によぎったが、確かな疑念に変わる前に霧散した。
 手を繋いだまま黙々と前進して、いい加減喚き出したくなった時、ほのかに地下道内が明るくなった。
 どこからか、明かりが漏れている。
 その証拠に道が広くなった。フェイは繋いだ手に軽く力をこめて、庇うようにリスカを引き寄せた。完全な姫君扱いに、リスカは驚いてしまう。フェイに悪気はなく、あくまでリスカの身を案じての行為なので、無下に振り払うこともできない。
 しかし。
「……フェイ」
「静かに」
 いや、だが。
 庇ってくれるのはありがたいがあなたの剣は飾り物ではないのかと疑問に思った時、フェイの腰にさしてある剣が以前とは違うものだと気づく。一つの装飾として持ち歩く瑞刀ではない。武骨な、それこそ傭兵が持ちそうな素っ気ない剣だった。
「向こうに誰かがいる」
 フェイが振り向き、リスカの耳元に素早く囁いた。視線を向けると、道の行き止まりに薄く開かれた鉄の扉があった。
 明かりはその中から漏れていた。
 
 
 ――華の色をした地獄絵図。
 フェイが扉を開放した時、中の様子を見て、リスカはそう思った。
 呼吸を塞ぐほどの濃密な甘い匂い。この香りが、人を愉楽の最中に、死へと導く。
 心臓に、胸に、頭に、直接しみ込む官能的な匂いだ。あまりにも強く、骨まで蕩かされる。
「嗅ぐな」
 はっとした時、手燭を捨てたフェイに口と鼻を片手で覆われた。扉を大きく開け放ったのは、室内に充満している快楽の香りを霧散させるためだと気づく。
 薄ぼんやりとしていた視界が不意に鮮明なものへ変わった。
 何人の男女の姿があるのか。
 その殆どが裸体だった。艶を滴るほど滲ませた淫らな白い肢体が、柔らかな布の上に投げ出されていた。
 意外にも広い部屋だったが、全くひどい有様だった。幾つも転がされている酒杯。散乱する食べ物の残骸。破れた衣服。絡み合い倒れている裸体。虚ろな目は、死した魚のようだった。
 激しく燃え盛る愉楽の香。
 妖艶というよりは最早、堕落の象徴のような光景だった。
 悪魔の饗宴に飛び込んでしまったかのような錯覚がした。
 穢れている、とリスカは唾棄したい気分になった。快楽とは本来、他者の目に美しいと映ることは少ないが、ここまでおぞましいと嫌悪するものではない。
 汚穢に塗れている情欲を、単純に快楽という言葉で片付けていいのか。
 醜悪だ。この光景は、淫猥すぎて醜怪なのだ。
 姦淫。大食。怠惰。果ての堕落。
 限度を超えた淫行に耽り、魂まですり減らした者の醜態。
 目眩がする。
 生温い体液の匂い。汗の匂い。吐息の匂い。床の上に渦巻く女の髪。乳房。裸体をさらし、空虚な目で、奇妙に歪んだ笑いをはりつけている。
 あぁと獣のように呻く声が聞こえた。快楽の名残に身を痙攣させる男女。ぬらりと輝く肌。
 蠢く肉体が、人間のものではない気がした。
 ――これが、貴族か?
「ふふ。うふふふふ」
 何とも艶を含んだ笑い声が響いた。
 リスカは聞き覚えのある声音に愕然とし、視線を室内全体に素早く走らせたあと、一点に定めた。
 ――ティーナ!
「あははははっ!」
 誘うような甘い笑い声が突然甲高い哄笑に変わった。
 うつ伏せの状態で床に寝ていたティーナの肉体から、黒い影がぎょっとしたように離れた。リスカ達侵入者の存在に気づかず、たった今まで彼女の肢体を無我夢中で貪っていた男だった。見たこともない老人だ。
 誰だ?
 その老人はリスカ達を見て、しばし呆然としていた。やがて我に返ったらしく、慌てた様子で落ちていた外套を羽織る。
「貴様」
 フェイが低く唸った。知っている顔なのだろうか。リスカは視線をフェイへ向け――別の危機を察して身を強張らせた。
「――危ない!!」
 空間の捩じれる気配。
 魔力。
 リスカは咄嗟にフェイを突き飛ばした。老人が掲げた掌から、激しい風の刃が編み出されたのだ。
 魔術師!!
 老人はこちらに背を向けて、壁際に飾られていた絵画を乱暴に取り落とした。その裏に、扉がある。
「待ちなさい!」
 リスカは条件反射のように扉の向こうへ消えた老人の後を追った。
 扉の向こうにも深い闇へと続く階段が覗いている。何も考えずに一歩踏み出した直後、リスカは己の大きな過ちに顔を白くした。
 ――しまった!
 罠だ。
 動けない。戻れない。天地がぐるりと逆さになる奇妙な感覚。
 何たる事!!
 唇を噛み締めた時、背後でフェイの怒声が響いた。
「おい、術師!」
 駄目だ、これは。
「来てはいけない!」
 呼びかけた時は、もう遅かった。フェイが躊躇いもなく飛び込んできたのだ。
「愚かな!」
「誰が愚かだ!」
 フェイの応酬に屈したわけではないが、確かに一番愚かなのは自分だった。リスカは盛大に舌打ちして、駆け寄るフェイの腕を掴んだ。
「おい――何だ、ここは」
 フェイは血の気の引いた顔で、周囲を見回した。異常ともいえる奇怪な空間にリスカ達は立っていた。
 無数に広がる螺旋階段。
 上にも下にも、左右にも。
 いつの間にか扉も老人の姿も掻き消えている。
 はめられたのだ。いや、何の警戒もせず不用意に追った自分が愚鈍なだけ。
「何だ、この場は……」
 フェイの掠れた声に、リスカは額を押さえた。
「結界の中です」
「結界?」
「先ほどの老人は、とんでもない魔術師だ。これほど高等の魔術を操るということは、上位魔術師に匹敵する魔力があると考えるべき」
「分からぬ! どういうことだ」
「つまり、私達は監禁されたも同然です」
「何?」
「見て下さい。ここは無限の広さがある。入り口も出口も、果ても始まりもない。外から見れば、無。だが中に閉じ込められた私達にとっては、永遠の距離となる」
 不可解だという顔をされて、リスカは渋面を作る。
「私達はこの世に存在しない空間の中に、閉じ込められたということです」
「……存在しないものの中に、なぜ隔離できるのだ」
 ああもう!
 魔術を知らぬ者に説明しても理解を得られるはずがない!
「よろしいですか、あの魔術師は、存在しない空間を己が編み出した結界の中に構築したのです! それがどれほどの魔力を消耗するか。凄まじい。凄まじい力だ。私では、破れない」
「……破れない?」
「完全に閉じ込められたのですよ」
 リスカは彼の心に刻み込むように、強く言った。
 術の脅威を知らぬ騎士は、まだ自分が陥った深刻な状況を正しく把握していない。
「こう理解しなさい。この空間にはまず、時間が存在しない。夜が存在しない。命が存在しない。神の加護も存在しない。現実にはありえぬ場所です。ゆえに外からは決して見えない。時間が存在しないため、私達は死ぬことがない。術を構築した魔術師が解放してくれない限り、私達は永遠にこの場所に置き去りなのです」
 繰り返しの説明により、フェイはようやく事の重大さを朧げながらも理解したらしい。
「では」
「そうです。誰も私達を見つけられないということです」
 フェイは周囲に視線を投げた。永遠と同じ距離の中、どこまでも続く螺旋階段。他には塵一つ存在しない。
 ぽっかりと広がる、無限の空間――。
「無元の結界」と呼ばれる大掛かりな高等魔術だ。
「では――では、どうするのだ」
「どうにもできません」
 リスカは再度、額を押さえた。
「……だから、来るなと言ったのに」



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