腹上の[21]

「――そんなことは、もっと早く言え!」
 忠告を聞かないフェイが悪い、と責められたことについ腹を立て、胸中で反発してしまった。
 リスカは疲労感を覚えて、その場に力なく腰を下ろした。どれだけ歩いても、意味はないのだ。
 出口などどこにも存在しないのだから。
「呑気に座っている場合か」
「動いても、何にもなりません」
 歩き回ったところで現状は好転せず、ただ精神的な疲労感が増すのみなのだ。
「何か方法はないのか? お前とて術師だろう」
 術師、という言葉に反応し、思わず恨めしい目でフェイを見上げてしまう。
「砂の使徒ですよ、私は。正規の魔術師にかなうとお思いですか? 第一、私は花も持っていない」
「花?」
「説明したはず。砂の使徒は、ある特定の何かがなければ術を行使できない。私は花を用いるのです」
 フェイは苦々しい顔で髪を掻きむしった。
 だが、ここで喚き散らすほど鈍感ではないようだった。
 厳しい表情で周囲を見回し、リスカの言葉に納得したのか、更に顔を歪める。なすすべはない。フェイも観念したらしく、リスカの前に腰を落とした。
「飢え死にすることもないのか?」
「ありません」
「永遠に、幽閉?」
「ええ」
 実際に、これほど大それた魔術を目にするのは初めてなのだ。歪みもなく完成されている高度な術――最早驚異としかいいようがない。
 大変なことになった、とリスカは思う。
 もし、この場に置き去りにされたまま術を構築した魔術師が命を絶てば、もう二度と出られない。
「……すみません」
「何だ」
「私の不注意です」
「だから、何がだ」
「先に罠に落ちたのは私です」
「お前は来るなといった。その上で俺は来たのだ」
 おや、と思う。人に責任転嫁をするほど横暴な男ではないようだ。
「何だ、その目は」
「いえ」
「一人ではない分、ましさ」
「……そうですね」
 確かに、この場に一人で取り残されれば、不安に胸を塗り潰されて狂うだろう。
 物音一つない、完璧な静寂。世界も時間も阻んだ無限の空間。
 ああ、とんでもないことになった。
 
 
 しばらくの沈黙の後、無音に嫌気がさしたらしいフェイが性懲りもなくこのような質問を投げかけてきた。
「他の魔術師と連絡を取る方法はないのか」
「ありません。結界の中では全ての力が遮断されるとお考えください。……私の力が、あの魔術師を上回っていなければ、どうにも手段はないのです」
 リスカは――本来ならば、聖魔級の魔力を有している。
 いや、真実、聖魔級の力があるかどうかなど確認のしようがないのだ。何せ、身の内で眠る力を現実には全て引き出せないのだから。
 ただ、次のようには伝えられている。砂の使徒が持つ魔力は、人の身に耐えられぬほど強大すぎるがゆえに厳重な枷を必要とするのだと。
 これも真実かどうか、誰も知りようがない。
 おそらくは、過去の砂の使徒が自尊心を守るために都合よくでっち上げた虚構にすぎぬのだろう。
 大体、巨大すぎる魔力を封じるために枷があるというが、それではセフォーのような存在はどう説明するのだ。
 彼も砂の使徒だが、人の身に持て余すほどの凄まじい力を狂気に落ちることなく使いこなしているではないか。
 話が矛盾する。
 望んでも使えぬ魔力ならば、聖魔級であろうが何であろうが意味などないのだ。
 言葉上でしか強大さを誇れないものなど、無と変わらぬ。
「……すまなかった」
「え?」
「手を」
「ああ、これ」
 フェイの謝罪に戸惑ったあと、リスカはふと自分の手を見下ろした。かすかに火傷の痕が残る掌。地下牢で対峙した時のフェイは、リスカの弁解に耳を貸さず媚薬を町に広めた犯人だと決めつけ、問答無用に松明の炎を押し付けたのだった。
「私ではないのですよ、死に至る媚薬を作っていたのは」
 これだけは言っておかねばならない。
 静かな口調で否定すると、フェイは神妙な顔をした。
「分かったさ。この結界とやらを作った魔術師だろう、犯人は」
 でしょうね、とリスカは同意した。
 真犯人は、ジャヴではなかった。
 ジャヴは他の貴族達と同様に力なく四肢を投げ出して、先程の広間に横たわっていたのだ。
 しかし、あの老人は――。
「惚れた男でもいたのか?」
「は、はいっ?」
 何なのだ、突然。
 リスカは瞬きを繰り返した。思索に耽りかけていたので、咄嗟には答えられない。
「一生独り身は嫌だと言っていたではないか」
「ななな何ですか、いきなり。状況、分かってますか?」
「どうにもならぬのだろう? では悩むだけ無駄だ」
 実に淡白な、と微妙な焦りの中、リスカは顔を引きつらせた。
「己にかけられた嫌疑を晴らすためにしては、随分必死なことだ」
「あ、当たり前です。私、あなたに殺されかけたのですよ」
「誰が殺そうとしたのだ」
「あのような所に閉じ込めて!」
 嘆きが満ちた恐ろしい牢獄ではあったが、地上へ続く道が存在した分、脱出方法が一切見当たらぬこの場所よりはましだった……。
「それは!……ティーナ夫人に頼まれて」
「ほほうっ、ティーナに!」
「妙な誤解をするな! あの人とは何もない」
「へえ、あの人、ねぇ」
 なぜか睨み合った。この状況でだ。
「お前こそ、どうなのだ。ティーナ夫人と何をした?」
「な、何を馬鹿な妄想しているのです、私は男ではありません!」
 あ、と思った。はっきり性別を暴露してしまったではないか。
 女に見えぬとか不細工だとか、こちらの胸を抉る痛い言葉で罵られるだろうかと身構えたが、予想に反してフェイは奇妙に黙り込む。
「なななな何です、言いたい事があるのなら、はっきり言えばいいではありませんかっ」
 意味深な沈黙に恐れを抱いていささか語気荒く詰め寄ると、これまた不思議なことにフェイは反論せず、つと目を逸らした。
「――正気を失いそうになった時、言うさ」
 
 
 どれほどリスカ達は待ったのか。
 もしかすると数時間は経過したのかもしれぬが、外の世界と比較しようがないので分からない。随分長い時間が過ぎたような気もするし、まだ数秒しか経っていない気もする。
 孤独ではない分救いであろうが、フェイとは知り合ってまだ間もないし身分的にも立場的にもリスカとはかけ離れているため、正直なところ、共通の話題などなく会話の種はすぐに尽きる。本当は当たり障りのない会話を長々と続けられるほど精神に余裕があるわけではないが、打開策が見当たらぬ現状では口を開く以外にすべきことがないのだ。
 フェイは、無駄でもいいから、そこらを一応見回るべきではないかと何度か婉曲に提案を持ちかけてきたが、リスカは決して賛同しなかった。万が一にも隠されていた落とし穴にはまって、肉体を木っ端微塵にされぬとも限らないのだ。上位の魔術師であれば二重結界を構築することも可能なため、相手の術に囚われた状態で、わけも分からず行動を起こすのは得策ではなかった。
「たまらないな」
 ただじっと待つだけの時間。いや、この空間内に時間は存在しない。己の心だけが無為に過ぎる時間を認識し、辛さを拾う。確かにたまらないだろう。魔術師ではないフェイは、本質の部分では、何が起きているのか正確に理解できてはいないはずだった。ただ、自力で脱出するのはかなわぬ、という最も肝心な箇所だけは、心底納得しているわけではないものの、一応飲み込んでいる。貴族の息子にしては珍しく度胸があり忍耐力もあるようだ。この我慢強さがいつまで持続するかは分からないが、少なくとも変化の見えぬ現状に悲観して泣き喚かれたり騒々しく罵倒されるよりはましだった。だからこそ、正気を失った時が怖い。
 勿論、狂気の欠片はリスカ自身の中にもある。
 どれほど強い精神の持ち主でも、永遠をこの場で過ごせば、いずれは発狂する。
 たとえばここで自殺を図っても、安らかな死が訪れる事はない。
 完璧に閉ざされている空間の中で受けた傷は、手当などせずともすぐに癒えてしまうのだ。
 つまり、最初の状態に戻る。時が動かない、というのはこういうことだった。死という概念が存在しないため、意志をもっての自殺が許されない。老衰することさえない。
 本当に、たまらない。
 いつか発狂するとなれば、おそらく術師であるリスカよりも、フェイの方が先だろうと思う。こればかりは仕方がない。術の危うさを真に理解しているのは、その本質を知る術師以外にないのだ。
 どれほどの間、正気が保てるか。己の精神の限界を否応にもはからねばならなくなる。
 ゆえにリスカは退屈な話題であってもかまわず、口にするのである。
 フェイも気配で何かを察し、言葉を紡ぐ。
 彼が思った以上に理知的な人間であったことを、感謝するべきだろう。
 共にいるのが道理の分からぬ粗暴な人間だったら、リスカはきっと地獄を見た。
 
 
「前夜祭は、始まっているだろうな」
「そうでしょうね」
 リスカはまだ、この町で開催される祭りに参加したことがない。何ぶん、町が活気づき賑わう今の時期は稼ぎ時に当たるので、祭りに対する好奇心よりも商売を優先させている。
 正直に、祭りの様子を詳しく知らないのだと告げると、フェイは笑った。
「では、あの踊りを見た事がないのか」
「どんなものですか?」
「ばらばらさ。皆好き勝手に踊る。道に溢れる楽の音もまた様々だ。だが、町中の者が一斉に踊るから、壮観ではある」
「貴族も踊りに町へ出るのですか」
「この時ばかりはな。騎士などは、こういう時に町娘を口説く」
 くすりとリスカは笑った。火遊びを楽しむわけか。
 本気の恋にはなりえない。娘がどれほど夢見ても、貴族はいずれ現実の世界に戻って身分の確かな姫を娶る。仮に気に入られても、正妻の位置は望めず妾の座に収まるのがせいぜいだろう。貧困の日々とは無縁になるだろうが、その代償として人々の侮蔑に日々耐えなければならない。それでもかまわぬと願う者は多いが。
 今頃は、露店の娘も髪に花を飾り、差し伸べられた誰かの手を取って、幸福な時間に酔い痴れながら踊っているのだろうか。
「あなたもですか」
「踊る暇などあるものか」
 フェイがなぜか悔しそうな顔で横を向いた。ああよかった、まだ彼は大丈夫だ。過去を懐かしむような言動は、狂気の手前に来ていると考えなければならぬからだ。
「お前も一応は娘なのだろう。どうなのだ」
「どうと言われましても、仕事をしていましたし」
「本当にか?」
「勿論です。嘘をついてどうするのですか」
「……色気のないことだ」
「余計なお世話ですっ」
 以前にも誰かに似たような台詞を言われた気がする。
「一度くらい、誘われてみればいいものを」
 誘われるためには、誘ってくれる相手がまず存在しなければならないのですよ、とは虚しすぎて言えなかった。べ、別にいいではないかっ。
「何だ、誘われたことがないのか」
 ぐさりと胸に突き刺さる。うるさいっ。
「では、仕方がない」
「……放っておいてください」
「俺が誘ってやろう」
「は?」
 突然、手を取られた。
 条件反射で立ち上がる。
「あああああの」
「何を突っ立っている。踊りくらいは知っているだろう」
 知りません、踊ったことがありません、と答える勇気はなかった。
 ……言わなくても、気づかれたが。
「お前、悉く世間の娘とはかけ離れているな……」
「わ、悪かったですね!」
「まあいいさ」
 溜息混じりに言われても、全く慰めにはならなかった。
 うう、と情けない思いで呻いていると、フェイは苦笑した。
「では、お相手を」
 優雅に腰を折り、右手は背に、左手はリスカの手を取って、挨拶する。
「……」
 さすがに、この時ばかりは、露店の娘の気持ちが理解できた。
 
 
 音楽もなく、ざめわきも、歌声もない。
 そういう寂しい場所で踊る。
 なぜだか、少しだけ、仕事のみに精を出していた自分を後悔した。
 ……何度もフェイの足を踏んでしまい、冷や汗もかいたが。
 セフォーも、踊りは得意だろうか?
 
 
 一生このまま閉じ込められたら、どうするだろう?
 永遠には、踊っていられないから。



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