腹上の[22]

 さすがに――リスカでさえ、じっとしていられぬ重苦しい心境になってきた。
 遠くを見やるフェイの顔色も心なしか優れない。
 気を紛らわせる物もなく、いつまで待てばいいのかさえ分からずにいるというのは予想外に辛い。
 踊ったことで余計に身体が疼く。
 何となくフェイに手を預けたまま、リスカは気晴らしの為に目で追える範囲をゆっくりと歩く事にした。
 きっとどこまで歩いても螺旋階段は無限に続くのだが。
 肉体に疲労は溜まらない分、焦燥感は一層強まる。
「お前、名は?」
 名を訊かれて、リスカは微笑した。初めて会った時、名を口にされた記憶があるが、フェイは忘れたのだろうか。
「リカルスカイ=ジュードですよ」
「男の名ではないか」
「これが本名なんです。知り合いは、私のことをリスカと呼ぶ」
 リイとかリルとか、その愛称では呼ばれたくない。
「ああ、そういえば、ティーナ夫人の側にいた魔術師がそう言っていたな」
 ジャヴ。先ほどの醜悪な宴に、彼の姿を見た。ティーナから離れた場所に寝かされていた身体。あの珍しい髪の色はジャヴに間違いない。
「あの魔術師と親しいのか」
「親しいというほどでは。何度か顔を合わせたことがあるだけで」
「親しくもない男に、愛称で呼ばせるのか?」
 ううむ、このあたりの感覚はやはり貴族だ。町娘ならば、近所の酒屋の主人にも愛称で呼ばれるものだが。
「彼は、皮肉をこめて私を呼ぶのですよ」
 そうか、貴族はよほど懇意にしている相手ではない限り、愛称で呼ばせないものらしい。
 先ほどあなたはフィティオーナ夫人のことをティーナと呼ばなかったかなあ、と思い、からかいをこめてフェイの横顔を一瞥する。
「では、他に誰が愛称で呼ぶ?」
「それは――」
 ――リスカさん。
 不意に、抑揚のない低い声が蘇る。
 ああ、セフォー。
「セフォー」
「……何?」
「セフォーが」
 フェイが立ち止まり、怪訝そうな顔をした。
「セフォードが、呼びます」
 どうしてなのか、目頭が熱くなる。
「あの人が、リスカ、と、そう呼ぶのです」
「――恋人か?」
 それは――違う。けれど。
 もう一度会えたら、と。
 リスカは足元を見た。まるで普通の娘のように、感傷に浸りたがる自分がいる。
 恥ずかしいことだ。このような感情は知らない。
「――リスカ」
 名を呼ばれ、リスカは顔を上げた。
 フェイは僅かに顔をしかめて、横を向いていた。鮮やかな金色の髪が頬にかかっている。
 美しい髪の色だとリスカは思った。目の色は澄み切った鮮明な青。この男は容貌からして貴族であり騎士だった。
 ほんの少し、フェイの呼び方は、セフォーに似ている。
 セフォー。
 あなたが遠い。
「どうした」
 ふっと体温が近くなった。躊躇いがちに髪に触れてくる指が、穏やかだった。
「お前は――」
 ふと、一瞬の沈黙をかすめ取るように。
 
 空気が変貌した。
 
「あ」
 ひくり、とリスカは喉を鳴らした。
 強大な、あまりにも巨大な力の片鱗。
 稲妻のように降ってくる。
 恐ろしいほど空間が歪む。硝子を力の限りに叩き割る時の音と似ている。
 回転し、崩壊する螺旋階段。
「何事だ!?」
 力。
 壮絶な力。
 リスカは身体を震わせた。歓喜か恐怖か、判別できない。
 血が逆流するほどの、声にならぬ熱情に焦がされる。
 リスカは瞠目し、ふっと天を見た。永遠の牢獄ともいうべきこの空間に、亀裂が入った。
 上位魔術師が構築した「無元の結界」を易々と砕き、凌駕する力。
 呆気なく、薄い氷を踏み割るように、片手で叩き潰す。
 そういった強烈なことを可能にする者など、リスカはこの世で一人しか知らない。
 ぱらぱらっと、空間の破片が落ちてきた。
 リスカは片手を伸ばす。砕け散る空間の破片はまるで、星屑のよう。
 地鳴り。
 胎動と似ている。
 歪み、捩じれて、絡み合い。
 ああほら。
 
「セフォー」
 
●●●●●
 
 一瞬のことだった。まるで夢から覚めたかのように、気がつけばリスカとフェイは見知らぬ広間の中にいた。
 呆気に取られるほど豪華絢爛な、成金趣味と呼びたいくらいの部屋に立っていたのだ。
「ここは……教会の中か?」
 教会の内部が舞踏会の大広間のごとく華美でいいのか? とリスカは痺れた頭の片隅で、フェイの呆然とした言葉に突っ込んだ。神官お得意の、信心深い人々には決して見せられぬ隠し部屋の一つというわけか。
「……セフォー」
「ぴっ」
 壁際に佇む白い死神。セフォー。
 教会の地下に忍び込む前に飛び去ってしまったはずの小鳥が、彼の肩に乗っていた。
 またしても小鳥が悩める現状に変化をもたらす使者となり、ここまでセフォーを引っ張ってきてくれたのだろうか。
 どこで手に入れたのか、セフォーは薄灰色の長布で全身をすっぽりと覆っていた。窺えるのは怜悧な目のみで、いつも以上に表情が分からない。
 どうして、セフォーは来てくれたのだろう。リスカを追わないと言ったのに。
 どうして。
「――おのれっ!」
 急に嗄れた呪詛が響き、思考の海に落ちかけていたリスカは飛び上がった。
 ぎくしゃくと振り向いた先には、胸から多量の血を流して苦痛の表情を浮かべる老魔術師がいた。
 欲望の宴が繰り広げられていた広間でティーナを蹂躙し、そしてリスカ達を結界に封じた老魔術師だ。
「お前は何者だ!」
 掠れた声音にこめられた燃えるような憎悪。厳しい誰何の声には僅かに、高等魔術すら容易く破った未知の力に対する畏怖の念が含まれていた。いや……羨望か、嫉妬か。
 セフォーは、立つのが限度というほどに深い傷を負った老魔術師に、ちらとも視線を向けもしない。老魔術師を見下して怒りを煽る目的ではない。単純に興味がないため、目に映らぬだけなのだろう。
 なぜならセフォーは、ただひたすら、ひたすらに、リスカを見つめているのである。
 ひ、ひえええええ、とリスカは内心で叫んだ。
 なぜ感動の再会! とはならないのだろう。状況としてはここで喜びに打ち震えてもおかしくはないというのに、恐ろしさが先に立つなど、不思議すぎて涙が出そうである。
 間違いなく「無元の結界」を叩き壊したのはセフォーだろう。ついでに術を仕掛けた魔術師にも重傷を負わせてしまったのだろう。意図していたのか否かは分からないが。
「お前が、セフォー?」
 我に返ったフェイが、先程リスカが口にした言葉を思い出したのか、まじまじとセフォーを見た。
 ――うあああああっ。
 リスカの額に汗が浮かんだ。老魔術師の気迫がこもった悲痛な呼びかけには一切答えないどころか、視線の一つすら向けなかったセフォーが、なぜかフェイの言葉には反応して、ゆっくりと身体ごと向き直ったのだ。
 どどどどうしてですか、この人は単なる騎士です。人畜無害……な部類に入れてもいいと思いますよっ、とリスカは心の中で長々と説明したが、声に出せねば意味がないという当たり前の事実をすっかり失念していた。声に出しても意味がなさそうではあったが。
「――これが」
 ふと、セフォーが呟いた。
 誰もその端的言葉の意味するところは理解できなかっただろう。悪いが、この中では一番馴染みがあるリスカでさえ分からなかった。
 ただ、皆の注意を奪うには十分な威圧感。
 老魔術師は傷を癒すことも忘れて――あるいは魔術が使えないほどの怪我なのか――理解不能な独白を漏らしたセフォーを睨み据えている。リスカは戦々恐々とした。剣術師様の行動だけは、全く読めない。
 セフォーの眼差しが今度はリスカを捉えた。うぐっ、とリスカは実際に呻き声を上げ苦悶した。磨きあげたばかりの鋭利な刀によく似た凍える瞳が、戦いて硬直しているリスカに突き刺さる。
「これですか」
 まさかと思うが、セフォーの言う「これ」とは、フェイを指し示しているのではないだろうか。
 ああ嫌な予感がする、そして嫌な予感というのは、祈りも虚しく大抵現実になる。
 セフォーの視線が再びフェイに戻ったのだ。他者を指一つで動かすことに慣れているはずのフェイも、さすがにセフォーが発散する凄まじい圧力には怯みを見せた。無意識に後退りするのは仕方のないことだ。普通の人間ならば、与えられる恐怖感に我慢できなくなり悲鳴を上げて逃走しても不思議はない。
「――どのように死にたい」
 全員の目が点になったに違いない。リスカ達を監禁した老魔術師にその台詞を投げるのならばともかく、なぜフェイに? という怪訝な思いが皆の胸に去来したはずだ。
「何を……」
 フェイは血の気が引いた顔を、無意識のごとく横に振った。
「セセセセセフォー、違いますっ。彼は、敵ではないのです」
 フェイの命乞いをした瞬間、宝石よりも硬度がありそうな目でセフォーにじっと睨まれ、リスカは気絶したくなった。
 別れた時と同様の、底冷えする眼差しだ。
「なぜ」
 セフォー、あともう一声っ。
「なぜ、それと共にいるのです」
「それ!?」
 この憤慨をまじえた驚愕の叫びはリスカが発したものではない。余計なところで誇りを思い出したフェイである。
 フェイいけないっ、今一言でも口答えすれば、天地神明に誓って見事に抹殺される。
「な、成り行きです!」
「成り行き?」
「ははははいっ」
 まるで融通のきかぬ厳しい師匠に叱責を受ける哀れな弟子状態である。
「手を」
 あっと気づいて、リスカは本気で死にそうになった。そういえばフェイと手を繋いだままである!
 慌てて振り払おうにも、フェイは眉をひそめたまま雪像のごとく硬直していた。勿論、セフォーの尋常ではない気配と恐ろしさに圧倒されてだ。それ呼ばわりされた屈辱も多分に含まれているようだが。
 射殺される間違いなく瞬殺の刑だ、とリスカは無用の想像を膨らませ、残酷な未来の予感に戦慄した。
 いや、待て、リスカがフェイと手を繋いでいて、なぜセフォーが怒るのだ。
「リスカさん」
「はいっ」
 もう声が裏返り、壊れた楽器状態である。
「なぜ」
 分かりません、セフォー。何を仰りたいのか。
 ぴぴぴぴぴ、と小鳥がセフォーの肩の上で焦れたように威勢よく鳴いた。なぜか小鳥にもこちらに非があると責められている気分になった。
「それが、あなたの手を」
 それ扱いされるフェイには気の毒だが、リスカはようやくセフォーが何を言いたいのか思い至った。
 つまりこうだ。「あなたが手に怪我をしたのは、フェイが原因ではないのか。なのになぜ行動を共にしているのだ?」といったところだろう。ああセフォー、彼と同行しているのには深い訳が!
 しかし、その事実をなぜセフォーは知っているのか。いや、こちらがセフォーの短い言葉を深読みしすぎているだけなのかもしれない。
「離れろ」
 セフォーは端的に、絶句するフェイに命令した。
「消す」
 フェイは途端に顔色をなくした。リスカも同様だ。
 消す。
 消す!?
 リスカはくらくらした。絶体絶命、陥落寸前である。
 私でよければ気合いをいれてお詫びしますよっ、とリスカは口を挟もうとして無駄であることを悟った。
 ぴぴぴ……と小鳥が気まずげに鳴く。「リスカ、まずいよ……」と言いたげである。
 リスカは無我夢中で、突然の抹殺宣告に呆然とするフェイの手を離し、よろよろとセフォーへ駆け寄った。
「セフォ……セフォーっ!?」
 覚悟を決めて顔を上げた時、視界がくるりと反転した。
 叫ぶ合間に足が床から浮いていた。セフォーに抱きかかえられている。
 小鳥がたかたかっと素早く動いて、リスカの頭頂部に移動した。
「リスカ!!」
 フェイが叫んだ瞬間、セフォーが氷の矢のような視線を、彼に向けた。
「呼ぶな」
 理由は全く見当がつかないが、セフォーはどうやら怒っているようだった。淡々と放たれる声に、いつもより若干抑揚があった。
「我が主の名をみだりに呼ぶな」
 ――我が主?
 魔術師とフェイの眼差しがリスカに集中した。
 そ、そうか、リスカがセフォーを雇っている形になっているのだ。すっかり忘れていた。
「セフォー……」
 このままだとフェイが跡形もなく消滅しかねない、どうすれば……と思った瞬間。
 
 
 複数の足音が響き、正面の扉が開け放たれた。



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