腹上の[23]

「何を騒いでいる!」
 妙に威勢のいいしゃがれた声が響いた。
 天の助けとは到底思えぬ、派手な衣装の小太りした成金貴族とそのお供達……ではなく、騎士達が姿を現したのだった。
 益々事態が不吉な方へ捩じれていく、とリスカは好転の兆しを見せぬ現状に頭を抱えた。
「――伯爵」
 刮目し、驚いた声を上げたのはフェイだった。
 伯爵。
 この威丈高な態度を見せる小男が、ワイクォーツ伯爵?
 リスカは、美貌のティーナと伯爵が並んでいる姿を想像し、急激に気持ちが萎えた。伯爵には大変、その、申し訳ないが、釣り合わない。
 いや、何というのだろう。美女の隣には美男が立つべしといった、ある意味差別的な信条を持っているのではない。ただ、伯爵の場合は見るからに性根が卑小というか、傲慢そうというか、愚劣というか――明らかに不自然な鬘や金銀を必要以上に塗りたくったような豪華な衣装、指にめり込む大きな宝石付きの指輪、それらがいよいよもって伯爵を滑稽な姿に見せている。町の通りへその格好で出て行けば、悪趣味な道化師と勘違いされること間違いない。何よりも肝要な問題は容姿の美醜ではなく、醸し出す雰囲気や口調、眼差しなどから推し量れる魂の純度といった点において、ティーナよりも輝きが劣って映ることである。取り繕おうとすればするほど墓穴を掘っている気がする。
「シエル殿、これは何事……そなた、フェイではないか! なぜそなたがこの場にいる!」
 伯爵は赤ら顔を更に紅潮させ、丸い手を伸ばしてフェイを指差した。口角から泡を飛ばす勢いでフェイを糾弾する伯爵の姿を見て、リスカは咄嗟に息を切らした駄馬を連想した。脳裏に描かれた息も絶え絶えな駄馬の姿とは別に、意識は別の場所をさまよっている。シエル。エンピス=シエル。リスカは驚愕の目で、赤く染まった胸を押さえる老魔術師を注視した。
「エンピス=シエル。あなたは、スウィートジャヴ=ヒルドの師ですね」
 リスカは、無駄に怒鳴り続ける伯爵を遮り、シエルの意識をこちらに向けるべく声を張り上げた。
 確認のための問いかけは予想以上に鋭く響き、その場にいた者の視線が一斉にリスカへ集中した。
 華々しい履歴と卓越した才を持ちながら、ある一夜の事件により失脚し島流しの憂き目にあった上位魔術師。
 真偽の程も、また詳細も分からぬ。風聞によれば法王が管理する貴重な宝物の一つを無断で持ち出したのだという。法王の宝を私物化するなど、それはいかなる理由であれ必ず裁かれねばならぬ重罪だった。
「何者だ」
 シエルはリスカに問いかけながらも、誰より激しくセフォーの存在を意識していた。最高位の魔術師であった彼ならば、不自由な術しか行使できぬリスカのような半端者よりも正確に、セフォーの身に内在する力量を推し量れるのだろう。
「お前がその青年の主であると?」
「……ええ、護衛をしてもらっていますので」
「護衛?」
 シエルの灰色の瞳が訝しげな光を宿し、探るようにリスカを正面から捉える。途端に、精神が外へと引きずられるような、抗うことも許されぬ不快な感覚に苛まれた。――読心術だ。それも、こちらに一切の配慮がない。心の声のみならず、リスカの記憶をも根こそぎ盗もうとしている!
 身体の内部を素手で無造作にかき乱されるような、堪え難い痛痒感をリスカは覚えた。
「無礼な」
 一言、セフォーが呟いた。
 どん、と鈍い音が響くと同時に、リスカを苦痛に追いやり圧迫していた歪な力が消失する。
 見ると、背中から壁に衝突したシエルの身が、その場に崩れ落ちるところだった。しかも纏っていた深草色の外套は命の危機を予感させるほど血塗れになっている。リスカは咄嗟に何が起きたか把握できず、怪訝な面持ちでセフォーの横顔を覗き込んだ。セフォーは赤子を抱くように片腕のみでリスカをかかえ、もう一方の手をシエルに向かって伸ばしていた。彼の指先には、浅い傷口がある。爪の先から滴り落ちそうな一滴の血液。
 ぴぴっ、と恐れをなした小鳥が、一度身震いしたあと、リスカの髪の中に潜り込んで避難する。
「な――」
 フェイも伯爵も騎士達も、茫然自失の体で立ち尽くしていた。それもそのはず。
 血塗れになったシエルの身体には、まるで針のように細長い鋭利な刃物――女性の指程度の幅しかない――が数本、突き刺さっていたのだ。その刃物には、柄がなかった。鍛錬中の刀のように、危うい光を放っている。
 ――セフォーは自分の血を、一瞬の内に刃物に変えて飛ばしたのだ。
 改めて、セフォーの類い稀な魔力とその強大さに畏怖の念を抱く。生命の理を塗り替えて肉体そのものを魔剣へと変化させられるほどなのだ、血の一部を刃物へと転換させることなど、特に労力を必要とはしないに違いない。詠唱もなしに容易くそれをやってのけるのだから。
 鈍い衝突音は、咄嗟にシエルが防壁の術を構築したためだろうが、全く塞ぎきれていない。有する魔力の差。途轍もない破壊力。
「お主――セフォード=バルトロウ」
「私の名をみだりに呼ぶな」
 決して不快そうな声音ではなかった。相変わらずの平淡な口調である。だが、シエルは大きく肩を揺らした。身じろぎすると同時にぼたぼたと血が滴って、床に黒い染みを作っている。
「なぜゆえに、お主がいる。永の眠りについていたはず」
 セフォーは返答せず、ただ一度ゆっくりと瞬いた。また攻撃を仕掛けるつもりだ、とリスカは気づいた。
「セフォー」
 制止の意味をこめて、ぎゅっとセフォーの首にしがみつく。
「リスカさん」
 セフォーは何の未練もなくあっさり腕を降ろし、リスカの髪に頬を寄せた。対峙していたシエルの存在など、もう意識にさえのぼらぬ様子で、リスカを抱く。ぴぴっと慌てた小鳥の鳴き声が響いた。
「なぜ――お主ほどの者が、一介の、砂の使徒などに隷従している!」
 一旦は薄れたセフォーの気配が、シエルの詰問に刺激を受けたのか、再度ふっと重圧感を増した。
「セフォーっ」
 駄目です、この方はジャヴの師なのだ!
「宝の持ち腐れというものよ、小汚い砂の使徒などに膝を屈したか!」
 小汚くて悪かったですねっ。
「セフォード=バルトロウともあろう者が、その未知なる力を不具の術師に!」
 悲痛な叫びだった。最早慟哭に近い――。
「力、力さえあれば!! 全てを覆せたというのに!」
 狂女のごとく髪を振り乱して喚くシエルに、最高位の魔術師としての誇りや威厳はなかった。歪んだ矜持のみが、今のシエルを支えている。順風満帆だった日々を失った哀れな魔術師の成れの果て。
 崇拝と憧憬の対象であり、名誉と富を思うがまま手中にしていたはずの高貴な人。それが。――それが、今、狂気と憎悪に身を委ね、魔力をも怒りに重ねて魂の限りに咆哮していた。
 身の内に根を生やした我欲の種は、一度芽が出てしまえば温厚な人ですら狂わせる。光を愛でるはずの目を濁らせ、己の影から伸ばされる黒い手を掴んでしまう。
 過去の全てを喪失したと嘆くほど、権力とは、富とは、魅力的なものだろうか。立身とは無縁の暮らしをしてきたリスカはその二つを知らない。ゆえに、失意の底で喘ぐ彼の心情が本音では正しく理解できない。生涯手に入らぬ栄光に期待を寄せて、鬱々と思いを馳せるほどリスカは夢見がちではないのだ。
「私ならば、お主のその力、最大限に活かせるものを」
 リスカはつい口を挟んだ。
「ジャヴは。あなたを師と仰ぐジャヴは?」
 ジャヴは――失脚したシエルの巻き添えをくったという理由だけではなく、自らの意志で王都をあとにしたのではないか、とリスカはこの時初めて考えた。
 憐憫や依存心ゆえではなく、ただ、恩師を一途に慕って。
 仲睦まじい師弟と、そう噂されるほどの二人だったから。
 魔術の道を志す者は、その時より家族との関わりを一切断ち切らねばならぬ。ジャヴは恐らくシエルを父のように、あるいは年の離れた兄のように慕っていたのではないか。シエルは温和な魔術師だと聞いた。礼儀正しく、慈悲深く、尊敬に値する人物だと。ほんの短い期間ではあったが、リスカが重力の塔に在籍していた時耳にした、シエルの人となりについての噂話が色鮮やかに思い出された。残念ながら、リスカは一度もシエルと顔を合わせる事なく、塔を去ったのだが。
「あなたには、ジャヴが――」
「知らぬ、そのような者、知らぬ。何の益ももたらさぬ魔術師などに用はない!」
「なんていうことを」
「私が欲するのは力のみ、この世のあらゆるものを凌駕する力なのだ!」
 それほどの大きな力を有していて、尚も貪欲に漁ろうとするのか。
「不具の魔術師には永劫、分からぬこと。お前のような卑賤な者に、私の苦渋が――」
 不意に、笑い声が広間に響いた。
 
 
 リスカは自分の耳が信じられなかった。
「セフォー……?」
 セフォーが笑っている。
 声を上げて笑っているのだ。
 肩を揺らし、リスカの額に頬を寄せたまま、心底楽しそうに笑っている。
 いや、愉悦を滲ませた笑みではない。こんなにも眼差しが冷酷なのだ。
「我が主を貶めるか」
 誰も口を挟めない。
 闇のように、夜のように、果てなく広がる力の威。
「私の前で、主を」
 ふふ、と堪えきれぬように、セフォーは笑い続ける。
「私の、可愛い、この人を」
 シエルはどこか魂の抜けた顔をした。だが次の瞬間、形相を変え、体内に眠る魔力の全てを解放するべく浅い息を吐いた。
 シエルの周囲の空気が激しく振動する。大気にすら亀裂を走らせるシエルの魔力。ざわりと風神と化した気が渦巻き、そそり立って、建物をも揺さぶった。動揺する伯爵や騎士達の喚き声が聞こえたが、荒ぶる大気は静まる事なく益々昂り、厳然とした白い刃と変貌する。
 しかし――。
 シエルの魔力を更に凌駕する、重圧感。
 最早それは、ただの威圧感ではなかった。冷気を超える巨大な力。氷雨のごとく、荒ぶる大気を打ち据える。
 圧倒的な力量。
 空気を乱すものではない。静めるものでもない。
 ひたすら押し潰すのである。
 あらゆるものを凍えさせる、桁外れの魔力。
 高位の悪魔と匹敵する傲然とした威が、銀の入れ墨を持つたった一人の剣術師から放たれる。
 何ていう凄まじい力。
 あまりにも強大、あまりにも熾烈。
 計り知れぬその脅威に、風神さえも恐れをなして掻き消える。
「我が主を穢したその大罪、己の身をもって、償え」
 神の制裁のごとく、非情な宣告だった。
 ざっと力が溢れた。
 気負いなく軽く差し伸べた腕から、一気に解き放たれる無慈悲な血の刃。
 地を貫く光線のごとく、縦横無尽に大気を駆け抜ける。
 シエルが浮かべた驚愕の表情が、リスカの目に焼き付いた。
 制止の声をかけるよりも早く、刹那の間にシエルの肉体は崩れ落ちていた。
 そう、細切れにされ、骨をも砕き、ただの肉片と化して――。
 床に、泥土のごとく血塊が盛り上がっている。
 この塊が、ほんの一瞬前まで生きていた人間だったのだ。
 女のような甲高い叫び声が、広間に時間を取り戻した。
「な、な、な」
 腰を抜かしながら、ぱくぱくと口を開いて喘ぐ伯爵の姿があった。
「化け物だ」
 騎士の一人が放心した表情で独白する。
 彼等の視線の先で、静かに佇む剣術師。まだ薄らと笑いながら、全員を見回す。
「全て、潰してしまうのがいい」
 誰かが喉の奥で叫んだ。逃げ出そうにも皆、驚愕と恐怖に苛まれて足が動かないのだ。
 完全に、セフォーの威に呑まれている。
「……ま、待て待て!! 私のせいではない、私は何もしていないっ」
 ちぎれそうなほど首を振る伯爵の姿が哀れだった。
「私は貴族だ! 貴族に手を下せば、どうなるか――」
 身分を盾とした脅しなど、権力に一欠片も興味を示さぬセフォーには通用しないのだ。
「あの魔術師を追ってきたのだろう、私は無関係だ!」
 リスカはセフォーにしがみつきつつ、床の上に正座した伯爵を見下ろした。
 助けを訴える目。
 リスカは俯きながら、噛み締めるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「無関係ではないでしょう」
「私のせいではない!」
「死に至る媚薬は」
「あの男だ、あの魔術師が町に広めたのだ! 過去の亡霊に取り憑かれ、周囲の者までをも奈落に引きずり落とそうと――わ、私はとめたのだ。だが、魔術師に脅され」
「あなたも、彼とよく似た過去を」
「私はっ」
「ティーナは、なぜ」
「ティーナ、あの娼婦! あれは売女だ、魔術師と契り、奴隷とも交わり……好きなように殺せばいい、私はあずかり知らぬことだ!」
 リスカは口を開く気力を失った。
 醜い。
 人の心は、ひどく醜い。
「リスカさん」
 セフォーの声だけが、いつもと変わらない。
「掴まっていなさい」
「セフォー」
「穢れしもの全て、消滅させましょう」
 セフォーは笑った。
「何も、いらないのです」



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