腹上の花[24]
セフォーの左手から、大量の血が噴き出した。
滴る血が意思を宿しているかのように絡み合い、一振りの硬質な剣に変貌する。
道理で剣の一本も持ち歩く必要がないはずだ。彼は自在に体液を剣へと変えてしまうのだから。
リスカが口を挟む間もなかった。
小鳥はふるふるとリスカの髪の中に深く潜って、震えている。
目に映るのは、血色の地獄。
片腕にリスカを抱えるセフォーは、空気を乱す事なく軽やかに動いた。
軽く撫でるように翻る剣。断末魔さえも許さず、次々と血飛沫で広間中を赤く染めて、騎士の首を切り飛ばす。華麗な剣舞に近い。セフォーが舞う度に花びらのような赤い血が狂い咲く。
セフォーは床を這う伯爵までも、情け容赦なく切り裂いた。すっと剣を掲げて閃かせた次の瞬間には、既に伯爵は胴を切断されていた。
「セフォー」
ああ、あの本の記述に何も誇張はなかった。
死神閣下。破壊の王。
彼は目の前にあるもの全てを打ち砕くのだ。
「セフォー、駄目、もう駄目!」
我に返って叫び、強くセフォーの頭を抱え込む。そうしないと、彼はとまってくれない。
「その男が、まだ」
フェイは両手をだらりと脇に垂らしたまま、放心した様子で周囲を見回していた。
阿鼻叫喚の図の中央、五体満足なのは最早彼だけなのだ。悪夢よりもまだ残酷な光景に、フェイの意識が追いついていない。
「フェイは駄目。駄目なのですっ」
「フェイ?」
名を呼んだことが閣下はどうも気に食わぬらしい。
「やはりあなたは見ていない。肝心なものを見ていないのです」
「で、では、教えて下さい。セフォーは、私に何を見せたいのですか!」
「見せたい、のではない」
「セフォー」
「それほど」
「セフォ……」
「この男が」
「ま、待って」
「この男がよいのですか」
「何の話ですっ」
目が眩むような血みどろの広間で、何を話しているのだ!
「セフォー、彼は無抵抗です。武器をかまえてはいません。無抵抗な者を殺めてはならぬのです」
「その男は、別」
「別ではありません、無抵抗です!」
「ですが」
「セフォー!」
「しかし」
「セフォー、駄目ですか、私の頼みは聞いてもらえないのですか」
「あなたは、私の願いを聞いて下さるか」
「聞きます、何でも聞きますから!」
「分かりました。無抵抗な者は殺めない」
渋々とだがセフォーは約束した。
茫然自失のフェイを少し無念そうに一瞥したあと、リスカを抱え直して、さっさと広間から退出したのだ。
……確かに、無抵抗な者は殺めないつもりのようだった。
リスカは、自分の言葉に首を絞められた。海底に突き刺さるほど深く、己が口にした誓いを後悔する羽目になったのだ。
広間を出ると、外で待機していたらしい複数の騎士達に遭遇した。
彼等は当然、血塗れの剣をぶら下げているセフォーを見て身構え、制止の声をかける。
セフォーは、行く先を阻む彼等を無抵抗な者ではない、と判断した。
神を讃えるはずの教会は、こうして、血を賛美する悪魔の城に変貌した。
歩む度に築かれる屍。
リスカは、セフォーにしがみついたまま、放心した。
目を開けたまま失神したという方が、より正確だった。
「セフォー、待って、待ってください」
半泣きのリスカは必死の形相で、先を進もうとするセフォーを引き止めた。
「何か」
「お願い、戻って。ティーナが、ジャヴが、あそこに」
「あなたは」
セフォーは厳しい瞳で、泣きそうなリスカを見つめた。
「懲りぬ人だ」
「セフォー」
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なんだかんだ言いつつ、ついでに濃厚な苛立ちの気配を漂わせつつも、セフォーは最終的にリスカの願いを聞き入れてくれた。
欲望の宴が繰り広げられていた部屋に舞い戻ったのだ。
扉を開放した状態であったため、蕩けるような甘い芳香は既に霧散していた。だが、裸体のまま横たわる貴族達に、生気は戻っていなかった。
「ティーナ、ジャヴ」
リスカはセフォーの腕から飛び降りて、うつ伏せに倒れているジャヴの所へ駆け寄った。
彼の身体の上に薄い夜着がかけられていたが、触れた頬は驚くほど冷たかった。一瞬、もの言わぬ屍と化したのかと勘違いしてしまい、動揺のあまり手が震えた。
……まだ、息はある。
ひとまず安堵して、ぎゅっと固く目を閉ざしたままのジャヴの頭を抱きしめる。手触りのいいさらさらした髪が、ジャヴの顔にかかり薄い影を作っていた。
「ジャヴ、起きて」
何か強い催眠薬でも飲まされたのか、強く揺さぶってもジャヴは起きなかった。唇にも頬にも血の気がなく、まるで蝋人形を抱いている気分になる。
「ジャヴ」
「平気です。彼はただ眠っているだけですから」
艶かしい柔らかな女の声に、リスカはジャヴの頭を膝に乗せたまま、振り向いた。
真紅の布を腰から下にかぶせていたティーナが、気怠げな様子で起きあがったのだ。
「シエル様が眠り薬を飲ませたのです。そのうち目覚めるでしょう」
惜しげもなく裸の上半身をさらすティーナの視線が、リスカを貫く。
「お久しぶりです、リカルスカイ様」
「ティーナ」
ティーナは儚く微笑み、細い肩にこぼれる髪を緩慢な動作でかきあげた。
彼女の腕に、欲望の痕跡である白い体液が付着しているのに気づき、リスカは思わず目を逸らした。苦笑混じりの吐息が、聞こえる。
「浅ましいですか、わたくし」
「……そんなことは」
「いいのですよ、はっきり仰って。このような姿、まるで娼婦のようですね。誰にでも身を任せ、誰にでも笑いかける。そういう穢れた者なのです。いえ、娼婦は生きるために身を売る。わたくしは、ただ言われるままに身を差し出す。この世でわたくしほど、無価値な女が存在するでしょうか」
「自分を貶めてはいけません」
「ねえ、リカルスカイ様。わたくしの夫、ご覧になりましたか」
見たどころではない。先程セフォーが……殺してしまったのだ。真実をどうしても説明する気にはなれず、リスカは言葉を失った。
「あの人、死にましたのね」
リスカの顔色から、何事かを察したらしい。
「よろしいのですよ。いずれ、わたくしが殺そうと思っていたのですから」
何でもないことのように驚くべき企みを口にして、ティーナは笑った。
「ふふ、おかしな顔をしていらっしゃる。自分の夫を殺そうと思う妻が信じられないのですね」
信じられなくて、当然だった。
「醜悪でしたでしょう? どうしてこれほど凡庸なのかと哀れになるくらい、愚かで浅はかな夫ですの」
笑いながら言われても、リスカは頷けなかった。
「あのような人だから、都から追い出されるのですわ」
「だが、あなたの夫でしょう」
「ええ、夫なのです」
深々と頷くティーナに、リスカは違和感を覚えた。
「真実をお知りになりたい?」
鮮やかに笑いながら、ティーナが訊いた。
誇り高い女王のようなティーナ。
リスカは、「はい」と答えた。