腹上の花[25]
「あなたが悪いのです」
ティーナはくすくすと笑みを零しながら、はっきりそう断言した。
「わ、私が?」
何の脈絡もなく己を引き合いに出されたために、驚きのあまり膝の上からジャヴの頭を落としそうになった。いけない、ジャヴが死んでしまう。
思い当たる節など全くないが、微妙に動揺したリスカは助けを求めるつもりで、扉に寄りかかってこちらを静観していたセフォーへ視線を向けた。
ななななぜ、睨まれているのだろうっ!?
セフォーはいつも殺人的な眼差しをしているが、今はもう別格というか何というか、その視線の冷たさ、赤子と大人くらいの差がある、などと訳のわからぬたとえをするリスカだった。いや、先端のえらく鋭利な氷柱と丸い氷塊くらいの差、といった方がいいだろうか。
リスカは祟られる前に素早く目を逸らした。
「すみませんが、なぜ私が原因となっているのでしょう」
「だって、あなたはわたくしの手を取ってくださらなかった」
「はい?」
「ジャヴの誘いを断った」
「は……?」
何の事かさっぱり分からぬ。
「共に堕ちてはくださらなかったのですもの」
堕ちてって、そんな無茶な。
「いつもそう。いつだってそうなのですわ。何よりも強く求めるものは、決して手に入らない。望まぬものばかりで周りが埋め尽くされて、わたくし、窒息してしまいそう」
「ティーナ、お待ちください」
「ジャヴもそうですわね。わたくし達、本当に似た者同士なの」
「私は、その……実は、性を変えていて」
「ええ、ジャヴが教えてくれましたわ。リカルスカイ様はわたくしと同じ性でございますのね。ですが、そのようなこと些細な問題ではございませんか」
問題と思わぬことが最も問題ではないかと内心で独白し、言葉の意味を深く考えて仰け反りそうになった。
「肉欲など実際はどうでもいいのです。ただ、手を取り肯定して下さるだけでかまわなかったのですわ」
精神についての話をしているのか、とリスカは気づく。
ジャヴも同じ?
リスカは視線をさまよわせ、何となく、ジャヴの髪を指で梳いた。
ぴ、と小鳥がもぞもぞ動き、リスカの髪の中から顔を出した。
「憎かったのです、あなたが」
面と向かってきっぱり「お前が憎い」と宣言されれば、結構傷つくものがある。
ティーナは僅かに視線を流して、自嘲気味に唇を歪め、溜息を落とした。
「とても憎くて、羨ましくて。あなた様は、わたくしとは違う目をしている。そうして、あなた様には、あなただけを守る者が側におられる」
と、ティーナはぼんやりとした表情で呟き、ちらりとセフォーを見た。
セフォーは微動だにせず、リスカを睨み……いや、見つめている。
「わたくしの中など、何一つ知らないくせに。それなのに、真摯な目でわたくしをとめようとする。憎いのです。苦しくてたまらない。何も、何も、分からないくせに、わたくしに、全てを忘れて酔うことを許してはくださらない。わたくしは酔いたかったのです。快楽にではなく――愛というものに、いつまでも酔っていたかったのです」
愛の象徴のような美しい人から、愛を乞う言葉が吐き出されるのは、奇妙な気がした。
「お許しくださいね、最初にお会いした時、とりたてて気にするほどの者ではないと思いました。わたくしは安堵しました。けれども、魔術師だからかしら、あなたの目線は平民ではなく、わたくしと対等にありました。それでこう思ったのです。つまらない者なのに、わたくしにかしずかない。ならば崩してみせようと。穢したかったのですわ。あなたも暗い闇の底へ堕ちてしまえば、わたくし達と変わらぬようになると。ジャヴも同様に壊したく思ったのでしょう。でも、あなたは一向に堕ちてくださらない。ゆえに憎いと申し上げたのです」
知らぬ間に、ジャヴにも憎悪の対象と思われていたのですか自分、と半ば呆然と考え、リスカは本気で落ち込んだ。
「けれど、嬉しいのです。なぜでしょう。こうしてあなたが来て下さる事、とても嬉しく思うのです」
おかしいでしょう? とティーナは首を傾げて微笑んだ。
「何もおかしくはありません」
「おかしいですわ。わたくし、自分がおかしくて仕方がない」
「それは――悲しい、というのです」
「悲しい?」
「人は悲しい時にも笑うものだと、思うのです」
ティーナは華やかに笑いながら、両手で顔を覆った。
「ティーナ」
「嫌です、わたくし、何て醜い顔」
リスカは、危うい言葉を紡ぐティーナの側に駆け寄りたかった。けれども、これほど冷たい身体のジャヴを床に放りだすこともできない。リスカの小さな手では、二人も支えきれないのだ。
「愛していましたの」
「ティーナ?」
「わたくし、夫を愛していました」
リスカは、刹那、惚けた。
最後の最後まで無様に悪あがきをしていたあの小男……ではなく、伯爵を、ティーナが?
普通逆では、と思うのが、偽りなき人の心というものだろう。
「ね、おかしいでしょう? あれほど見窄らしい卑屈な男を愛してしまうなんて。わたくし、愛など、よりどりみどりと勘違いしていました。手を伸ばせば望むだけ手に入ると。でも、木の枝になる果実とは違うのですね」
「ちょ、ちょっとお待ちください。ではどうして他の男性と」
「だって、わたくしの夫は、指一本触れてくれない!」
愛を目に宿すティーナが、低く叫んだ。
「夫がなぜ、落ちぶれたかご存知? あの人、誤解したのです。わたくしが都城を守護する将軍と、密会しているなどと。そのようなこと起こりえるはずがないのに。わたくしは夫を愛している」
「その、将軍とやらは」
「ええ、確かに、幾度か誘いの言葉をかけられたことがございますが、全てお断りしたのです。けれども夫は裏切られたと誤解して、逆上した。当時、将軍は王の寵愛をいただいていた方。私怨による揉め事が公のものとなった場合、放逐されるのはどちらかなど、火を見るよりも明らかです」
「見せつけるためですか? あなたが、他の方と、関係を持たれたのは」
「いいえ。わたくし、本当に馬鹿なの。媚薬を使用したのは、そうすれば、夫が優しくしてくれると思ったのです。他の女性のついででも、かまわないと思いました。でも、あの人、どれほど酔い痴れても、わたくしには一切触れようとしなかった。美を謳われたこのわたくしに、決して触れようとは」
リスカは頭がぐらぐらした。
指先まで美しいティーナが、これほどまで伯爵を慕っているとは。
「あ、あの、シエル殿は、一体」
「ああ、シエル様。ふふ。可哀想な人。あの方も詮無い理由で落ち人になったとか。ご存知ですか、皆、扇の裏に妬みと蔑みを描くのです。高貴と称される者の間に、清気は吹かぬのですよ」
ティーナは疲れた顔で、真紅の毛布を引き寄せた。それはとても孤独な仕草に見えた。
「ティーナ、顔色が」
「ねえ、腹上死って、あらゆる死の中で最も滑稽だとは思いませんか?」
「え?」
「死は死であるのに、誰にも同情されない死に方。いえ、死後でさえ、他人に笑われるでしょう」
確かに、あまり褒められた最期ではないが。
「あの方、自分を陥れた者に復讐しようとしたのよ。最も屈辱的な死に方をさせてやろうと、そう思って、最初は魔術師達にあの媚薬を広めたそうです。魔術師って、本当に背徳的なものに目がないですものねえ」
ううむ、指摘通り倒錯的な者が多いが……どうしても、性的なものと魔術は結びつきやすいのだ。
「いつの間にか、退屈な日々に飽いた貴族までもを巻き込んで。――そして夫と出会ったのです」
「ジャヴは」
「誰より哀れなジャヴ。師のためにと全てを投げ捨てて追ってきたというのに、決して振り向いてはもらえない。愛するがゆえに告発もできず、離れることも裏切ることもできない。慕えば慕うほど、疎まれるなんて」
似た者同士の二人――そういうことか。
「死に至る媚薬を作ったのは、シエル様。でもねえ、全てが全て、死に至るわけではないのです。十の内、九は安全なもの。でもたった一つ、本物の死が紛れている。わたくし達、そういう遊びをしていたのです。いつか死を当てる、そんなことを考えて毎日毎日、愚かな真似を」
「たった一つ?」
「ええ。お考えくださいませ。媚薬のどれもが死に至るとなれば、誰も警戒して手をださないでしょう? 十人の内、九人は無事。運の悪い一人だけが死ぬ。人は、そういった危険なものに惹かれるのです」
「当のシエル殿まで、遊びに加わっていたのですか?」
「あははははっ! 本当におかしいわ! あの方、夫と手を組んで、媚薬を他国に売ろうと考えていたのですよ」
他国に――?
リスカは眉をひそめて、高笑いをするティーナを見つめたあと、ふと視線を落とした。
ジャヴは目を覚まさない。よほど体力が消耗しているのか。
「戦時中の兵がどこに身を寄せるかご存知?」
うっ、とリスカは息をつめた。
「……血は、人の神経を昂らせますね」
「そうです。生死の狭間に立つと、人は本能的な行動に従う。兵達が、戦時下において女性を求めるのはそのためでしょう」
戦いに疲れた兵の多くは、癒しを求めて女のもとに潜り込む。娼館の繁忙期は戦時中に訪れるという。
「死に至る媚薬を娼館に手配し、兵士達にばらまくつもりだったのですね」
「ええ。標的となるのはこの国。現在のリア皇国は、争いの絶えぬ国。そして他国が最も関心を示す閉ざされた国。内側から、最も屈辱的な手段で崩壊させること。それが復讐というものです」
なんという馬鹿馬鹿しくて、狂気めいた策略なのか。
「分かりました。あなたや、ジャヴは……遊びと称して、自ら実験台になったのですね」
「察しのよいことですね、リカルスカイ様。まだ試薬の段階でしたのよ。この媚薬、一般の者には見分けがつきませんが、魔術を知る者には、気づかれてしまう」
確かにリスカは、魔力が混在していることに気がついた。
「ジャヴはそれでも、シエル殿の役に立とうとしたわけですか」
「そうです。でもわたくし、知っていますの。本当はシエル様に、この国を裏切るほどの度胸はないのですわ。全て絵空事。皆、好き勝手な妄想の中で、それぞれの夢を叶えていたにすぎないのです」
地下牢に幽閉された下働きの者達は、おそらく伯爵の思惑に気づいたか、あるいは実験台になったのか。
「ある時、ジャヴに聞きましたの。砂の使徒と呼ばれる不具の魔術師がいると」
不具の一言にリスカは軽く顔をしかめた。
「不具と呼ばれながらも己を立たせている者。どのような心の持ち主なのかと興味を抱き、会いたくなったのです」
「は……」
そういえば、ティーナが店に現れた時、セフォーも側にいたというのに、真っ先にリスカを見た。普通ならば目立った特徴を持たぬ平凡なリスカよりも、外見からして華やかなセフォーを気にするだろう。
あの時からティーナは、報われない思いにもがき苦しんでいたのか。
「あなたは、なぜ」
「ねえ、夫は死ぬ間際まで無様でしたか?」
リスカは答えられない。ティーナがどういった返答を求めているのか、予想できなかったのだ。
「無様であってほしいの。そうでなくては、わたくしはあまりに惨めだと思いませんか?」
そうなのだろうか。
そういうものなのだろうか。
リスカは心底から困惑した。本当に分からないのだ。
「正しい答えなどいりません。安らぐような嘘のほうが、どれほど尊いでしょうか。わたくしにとってこの現実は、冷たく、硬く、無情であるばかりです。尖った氷ばかりがあたりに敷きつめられている。歩いていけば、足が潰れ、血塗れに」
ティーナの言葉は、リスカの過去をまっすぐに貫いた。嘘に救いを求める気持ちを知っている、だが、ここで認めてしまうわけには。それだけは。
「歩きたくない。痛くてたまらないわ」
心細い声だった。
「ねえ、わたくしはどうしてこんな生き方を選んでしまったのかしら」
答えられない。正しい答えがわからない――いや、彼女にとってどんな優しい嘘が必要なのか、わからない。
「もうずっと、夜明けも夜更けもただ切なく、春も冬もただ暗くて」
毛布のなかで、ティーナが寒そうに身を縮めた。
「生きようとすればするほど、醜悪になるようです」
「ちがう、醜くなど」
「だから夫もふりむいてはくれなかったのね」
「そんなことは」
「わたくし、涙するほどの、叱る言葉で鞭打たれたかった」
「ティーナ」
「そうしたら、どんなに幸福だったでしょう」
「ティーナ、聞いてください」
「心をもって見つめても、心でもって弾かれる。なぜ?」
「それは」
「わたくしは誰にも必要とされぬ者?」
「いいえ、いいえ」
「ではどうして、ぬくもりある場所にとどまることが許されないの?」
ひどい目眩がした。子供のようにいっそ無邪気に言葉を重ねるティーナの微笑を、見ていられない。
「とどまれる場所すらない。ならば、こうして愛によく似た淫らな夢に酔い、狂う以外に方法がありましょうか」
哀願の響きに包まれたティーナの問いかけは、リスカの胸にも大きな穴を開けた。迫害され、とどまれる場所を探してさまよっていた自分。
「救済など、福音など知らない。いいえ、清きものなど、欲しくはない。わたくしは、そう、ただ、手を、この心を、暖めてほしかった。ばかな望みですね」
「ティーナ」
「嬉しい。わたくしを愛称で呼んで下さる。夫は呼んでくれないの」
「……ティーナ」
「わたくし、やはり醜いわ。どうしてこんなことになったのでしょう」
「あなたは、誰よりも美しいのです。真の美しさとは、穢れの中でも失われぬ」
なんて無意味な賞賛なのか。リスカは唇をかみしめた。
「美しいですか? わたくしをまだ、美しいと仰ってくださる?」
「何度でも。ティーナ」
「嬉しい」
ティーナは、か弱い少女のようにはにかんだ。
「美しいといわれると、わたくし、愛されているような気になるの」
「はい。恋人として……ではなく、友として、愛を分け合うことはできると思うのです」
リスカとティーナでは、身分に大きく隔たりがあるが。
「よかった、わたくし、ねえ、夫よりも幸せに死ねるのですね」
「死ぬ? あなたが死ぬ必要が、一体どこにあるのです」
リスカは憤然とした。
思い返せば、ティーナには酷い目にあわされたかもしれないが、このような悲しい話を聞いてしまえば、恨み言など吹き飛ぶではないか。恋愛ではなくとも、リスカにとって彼女は守りたい対象の人となっている。
「友として、わたくしは愛を今、得られました。リカルスカイ様、嬉しい」
白い白いティーナの顔。
だが、苦しそうではない。
――それが、不自然だ。
「ティーナ?」
リスカは僅かな躊躇の後、ジャヴを床に降ろしてティーナの側へ近づこうとした。
「来てはいけません。あなた様にはジャヴを救ってほしいのです。わたくしは、もう十分」
「どういう意味です」
「ジャヴから離れないで。どうぞ暖めてあげて」
「どういうことですっ」
リスカは混乱して叫んだ。
すると、沈黙していたセフォーが音もなく近づき、何の断わりもなく、ティーナの身体を隠していた真紅の毛布をはぎ取った。
「せ、セフォー!」
唐突なセフォーの行動に仰天すると同時に、リスカの視線はティーナの腰に釘付けとなった。
――短剣が、ティーナの腰に突き刺さっていたのだ。