腹上の[26]

「――!」
 リスカは目を疑った。一体何の悪ふざけなのかと、咄嗟にティーナを睨む。
 ティーナは会話を続けている間、ずっと腰に毛布をかけていた。
 だが、まさか短剣が身体に突き刺さっているなどとは夢にも思わぬ。単純に、下半身を隠しているだけだろうと不審に感じもしなかったし、そもそも会話の方に集中していたため、怪我の有無にまで意識が回らなかったのだ。
 大体、これほどの出血がありながら痛みを一切表面に出さず、平然と話し続けることなど普通は不可能だ。
「リカルスカイ様、わたくしには、二人も魔術師の知り合いがおりましたのよ。痛みを封じる薬など、幾らでも手に入ります」
「自分で刺したというのですか!」
「まさか」
「では!」
 一体誰が、と言いかけて、リスカは口を噤んだ。
「夫です」
 曇りのない笑顔でティーナが答えた。
 リスカは慎重にジャヴを床に降ろしたあと、慌ててティーナの元へ駆け寄った。セフォーが手を伸ばして遮ろうとしてきたが、普段では到底できぬような乱暴な仕草で振り切ってティーナの肩を掴む。
「来てはいけないと言いましたのに」
 そう拗ねながらも、ティーナは嬉しそうな目でリスカを見つめた。息がつまるほど澄んだ目だった。
「どうして早く言わなかったのです!」
 怪我を負っているのならば、ここまで延々と長話などさせなかったのに!
 ティーナの状態を目にするまでなぜ血の匂いに気づかなかったのか、死ぬほど悔やまれる。散々血の匂いを嗅いでいたせいで、恐らく嗅覚が麻痺していたのだ。救助に駆けつけてきてくれたという事実に深く感謝するべきとは重々理解していたが、降り注ぐほど騎士達の血を流したセフォーを、リスカは少し恨んだ。
「……セフォー」
「無駄です」
 平素通りの平淡な、短い言葉。
 一刻も早くこの場からティーナを連れ出してほしい、とリスカは頼もうとしたのだ。
「その者、既に魂を手放している」
「どこが! どこがですか! まだ生きて、話をしている!」
「リスカさん、よく見なさい」
 何度言われたか。リスカは見ているようで何も見ていないと。
 こういうことなのか?
「その者は死を望む。手出しはならないのですよ」
「手出しとは何です!」
 ティーナは困ったように微笑した。
「いいのです、このまま死にたい。幸福のまま、死ぬのです」
「幸福とは、生の中に見出すものです」
「ええ――最後の最後に、わたくしは得た」
 どうして通じないのか。
 どうして、ティーナとセフォーには分かるのか。
 ぴぃ、と小鳥がティーナの首筋に舞い降りた。自分だけが何も理解できず浅慮である気がした。
「まあ――白い鳥。わたくし、本当に恵まれているのね。聖なるものに導かれて、眠れるなんて」
 リスカは身を小さく震わせた。
 こんなに普通に、ティーナは話しているではないか。
 こんなに。
 こんなに。
 どうして、儚い顔をする!
「セフォー!」
「連れ帰っても、間に合いません」
「違うっ! 花を、治癒の花を!」
 クルシアを――。
 そうだ、リスカの花ならば傷を癒すだろう。
 命さえ失われていなければ、リスカの花は、力を注ぐのだ。
 命を。
 枯渇する命の泉に、力を注げる。
「リスカさん」
「花を!」
 必死の思いで見上げると、セフォーは静かに首を振った。
「どうして!?」
 砂の使徒は本来大きな力をその身に宿すという。
 使えないではないか。
 必要な時に、何もできないではないか。
 奇跡は、絶望の最中に起こるからこそ、奇跡ではないのか!
 一度くらい、奇跡に縋ってもいいではないか!!
「一度くらいっ……」
 何のための魔術だ。
 何のために宿る力なのだ。
 ――何のために、自分は存在する!
「リカルスカイ様」
 ティーナの白い華奢な手を、リスカは両手で包む。ティーナよりも、自分の方が無様に震えていた。
 花がないと、力は使えない。どうあっても、魔力を放てない。
 ――無力!
 おぞましいほど、自分は無力だ。
 汚らわしくて、吐き気がする!
「ねえ、わたくし……」
 握った手に額を寄せるリスカへ、ティーナはにこりと笑った。
「ティーナ」
 ふう、と柔らかに吐息を落とし。
 神聖なほどに澄んだ紫色の瞳でじっとリスカを見て。
 その目は、とても満ち足りていた。悲しみも孤独も超えた穏やかな眼差しだった。
「もう眠りますね」
 おやすみなさい。そうティーナは囁いた。
 ぞっと全身が泡立った。
 いけない、いけない。
 死は駄目だ。
 友だと認めるのならば、死んではならない。
 リスカは呆然とした表情で、ティーナの頬を両手で包む。
 まだほんのりと温かいのに、虚ろに開かれる目が不可解だ。
「ティーナ?」
「リスカさん」
 セフォーに名を呼ばれたが、リスカはティーナから目を離せなかった。
 目を逸らせば、その瞬間にティーナが旅立ってしまう。
 リスカは懸命に命の欠片を探している。
 暖めればティーナの心は肉体に戻るだろうかと、再びその白く華奢な手を握り締める。こうして離さずにいれば失わずにすむのではないかと。
「死者を呼び戻してはなりません」
「セフォー」
「あなたがここへ来た時には既に、この者の肉体は壊れていた。魂の残滓が、あなたに語っていたのです」
「けれど」
「幸福だと言っていた。それでいいのではないですか」
 リスカは、平然と放たれる言葉に怒りを抱いた。
「セフォー。あなた……知っていたのですね。彼女が傷を負っていることに、気づいていたのですね!」
「はい」
 臆面もなく肯定された。
 リスカはかっとして叫んだ。最早自分でも制御できぬ怒りだった。
「なぜっ!! なぜそれを早く言わない! ここに花がなくてもどこかへ運べた!!」
「間に合いません」
「誰が分かる、そんなことは! あなたは神か!?」
「いいえ」
「ならば!」
「伝えて、どうなるのですか」
「な――」
 愕然とするリスカの腕を、セフォーは強く掴んだ。
 そのまま無理に身を起こされる。するりとティーナの繊細な身体が、リスカの膝から落ちていく。繋いだ手まで外され、血の気が引いた。命の糸がまるで断ち切られてしまったように思えた。
「嫌っ、セフォー、離しなさい!」
「死者にいつまで引きずられるのです」
「あ、あなたに何の関係が!!」
 冷たい冷たい眼差し。
 この人に、慈悲の心はないのか。
 なぜ、これほど冷酷になれるのだ。
「冷酷、冷酷と言いますか。ならば先ほどのあなたは? 死を悼むのならば、私が他の者達を殺めた時にも、今と同様、罵るべきだった。なぜこの女だけが特別ですか」
 痛烈な指摘に、返す言葉もなくリスカは唇を震わせた。
 そうだ、リスカは騎士や伯爵が殺された時、単に哀れと感じただけだ。ティーナだからこそ、死んではいけないと懸命に願うのだ。
 身勝手で傲慢な願い。
 人の死を、リスカは平等に扱っていない。差別にあれほど苦しんできた己がだ。
 リスカは自分の中にある卑劣な感情を知り、驚愕する。
 今のリスカに、セフォーを糾弾する資格はない。
 騎士達の命がリスカにとって大事ではないように、セフォーにとってティーナの命は価値がない。
 どちらも、違いなどないではないか――。
 リスカの全身から力が抜ける。
 恐ろしいものを見た。
 その恐ろしいものは、自分の胸の中にある。
「私は……」
 言葉が続かない。
 リスカはもう何も、語る言葉を持っていない。
 
 
「帰りましょう」
 帰る?
 どこへ?
「どこかに」
 どこか。
 そんな場所、知らない。
 ぴ、と悲しそうに小鳥が鳴いた。
 
 
「リスカさん」
「――ジャヴを」
「リスカ」
「ジャヴを、連れて」
「まだ、あなたは」
 セフォーが鋭い眼差しを向けてくる。
 
 
「――俺の屋敷に、来るといい」
 突然、苦渋に満ちた声が割り込んできた。
 フェイだった。



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