腹上の[27]

 フェイの提案を、リスカは素直に受け入れた。
 理由の一つに、未だ目覚めぬジャヴを守らねばならないということがあった。リスカの店に連れ帰ったのでは十分な看護ができない。治癒一つさえままならぬ術師が側にいるよりも、腕の確かな薬師を呼べるフェイの屋敷で静養させた方が余程彼のためになる。
 もう一つ。リスカを救出するためとはいえ、セフォーは幾ら何でも騎士を殺害しすぎている。問題が解決せぬ内におめおめと店に戻れば、フェイ以外の騎士が彼を捕らえにくるだろう。
 よってリスカ達は、フェイの庇護下でしばらく身を潜ませることにした。
 
 
 冬華祭が開催される間は、町は不夜と化す。
 とうとう前夜祭の花火は見れずじまいだったな、とリスカは思った。
 
●●●●●
 
 既にティーナの死から、三日が経過していた。
 祭りは最高潮に達しているようだが、人目を遮るべくフェイの屋敷に居候しているため、不用意に町へ近づくことはできない。遠く響く歓声を憂鬱な気分のまま聞くばかりだった。
 広大な敷地を有するフェイの屋敷。感嘆の声が漏れるほど優美で豊かな私有地だったが、この屋敷は彼が管理する別邸の一つにすぎないのだという。隅々まで手入れの行き届いた庭園には小さな泉があり、茶会用に作られた広場もある。目を和ませる花園まであるが、残念ながら色とりどりの花弁を広げる秋花の中にクルシアは咲いていなかった。魔力の受け皿となる花が手元になければ、リスカは全くの無能なのだ。
 精霊の木として知られる常緑の樹木が塀に沿って並んでいるため、外の様子は、無数に伸びる枝に遮断されて窺えない。今、青々とした葉を垂らす樹木は、鮮やかな西日を浴びて、茜色に染まっていた。
 黄昏時は好きではない、とリスカは精霊の木を染める光の色を眺めながら、不意に思った。
 深夜より、明け方より、最も魔が多く訪れる時刻。
 人の心にも、魔が忍び寄る時刻なのだ。
 魔がさす、という表現はいつも、夕日の色を隠し持つ。
 リスカは自分の考えに沈みながら、ぶらぶらと庭園を散策していた。
 フェイは残務に追われているようで不在の時が殆どだったが、屋敷に通う下働きの者を厳選し最小限の人数に減らしてくれたため、こうしてうろついていてもリスカの行動が咎められることはない。
 口を挟むとすればただ一人。この世の常識という常識を、片手で覆す剣術師のみ。
 典雅な天使の像を中央に据えた噴水の前で足をとめ、ふと顔を上げた時だった。
 気がつけば、噴水のふちの石段に、セフォーが腰を預けていたのだ。
 相変わらず神出鬼没である。普段はあれほど激しい重圧感をもたらすのに、こういった時には微塵も感知させないのだから、大したものだ。
 セフォーは白銀の髪を、結い上げもせず肩に垂らしていた。
 彼が身に纏っている衣装は、フェイが見立てたものなのか、呆気に取られるほど豪奢に映る。貴族どころか王族並みの華美さである。一般の感覚でいえば、単なる客人に与えられる衣服ではないものだ。も、もしや、フェイは王家に連なる者なのだろうか、と嫌な考えが浮かんだ。
 ほぼ黒に近い紺色の長衣は、腰の位置で淡い月色の帯が巻かれていた。何といっても、首飾りがすごい。幾重にも連なる銀の鎖部分には細やかな細工が施されおり、所々に見事な宝玉が埋められている。腕輪も両腕にしているし、長靴の踵部分にも、革帯ではなく華やかな銀製の鎖が巻かれていた。
 さすがは閣下、実によく似合っている。このまま王城に乗り込んでも誰も違和感を覚えないだろうが、そこはやはりセフォーというか、地上の城より魔城から現れた冥界の王といった方が断然相応しい気がする。リスカの妄想が激しすぎるだけなのか。
 いやいや何より、セフォーがこの絢爛たる衣装を、不平を零さず素直に纏ったという事実が驚異だ。勿論、侍女か誰かが着せてくれたのだろうが……その侍女、心臓を悪くしなかっただろうか? この懸念、セフォーに見蕩れて、という意味ではなく魂が凍えるような恐怖で……などと無礼な考えを抱いてしまったことは、本人には決して言えない。
 美形な人なのだけどなあ、とリスカはなぜかしら可笑しくなる。美よりも威である。面白い人だ。
 顔半分を覆う入れ墨までもが、一つの装飾に見えるほどだ。視線さえ合わせなければ、じっくり鑑賞するのは楽しい。
 といささか不躾な感想を抱いた時、セフォーがちらりとこちらを見た。
 リスカは困惑と後ろめたさを強くした。
 フェイの屋敷に滞在させてもらってから、さりげなくセフォーと距離を置いていたのだ。
 まだ、この数日間に起きた全ての事をリスカは消化できていない。納得できぬもの、頷けぬものが、痼りのように胸を塞いでいる。
 とはいえ、近い距離で視線を交わしておきながら、無言のまま立ち去るのは随分大人げない行為だとも思う。
 セフォーはいつものごとく感情に乏しい表情で、じっとリスカを見た。銀色の瞳に、夕焼けの色が溶けている。夕日の色を宿した彼の目の奥にも魔が潜んでいるのかと、詮無い考えを抱く。
 さわさわと風が木の葉をそよがせ、小さく逆巻いて、天へ駆けた。リスカはわずかに乱れた髪を押さえ、セフォーから視線を外した。
 侍女か誰かが呼びにきてくれないだろうか、と他力本願な祈りを捧げてしまうリスカだった。
「私を」
 やはり、な端的言葉。
 リスカは俯いたまま、セフォーの言葉を聞いた。
「疎ましいと?」
 こちらが避けていたことは、とうに察していたようだった。
 別に、疎んじていたわけではない。ただ、忌憚なく言わせてもらえば、セフォーの態度に少しばかり腹を立ててはいたのだ。ティーナを……見殺しにしてしまったこと。理不尽な怒りだとはリスカも十分承知しているが、感情は理性で割り切れぬもの。
 リスカは甘えていたのかもしれない。
 頼まずとも、セフォーがリスカの意を汲んで、手を貸してくれるのではと。
 傷を負った現実に癒しをもたらすのではない。叩き壊して、予測不可能である新たな現実を生み出してくれるのではと、恐らく期待をした。
 都合のいいことだ。
 利用しているのと何が違う?
 そういった後ろめたさ以外にも、じくじくと痛む気持ちがある。ティーナが息を引き取った時、セフォーが放った言葉は、リスカにとって苛烈すぎた。真実ゆえに、辛いのだ。
「リスカさん」
 催促するように名を呼ばれた。しかし、感情が整理できない状態で近づく気にはなれなかった。
 と、自嘲したら。
「わっ」
 いきなり抱え上げられて、噴水の石段に座らされる。
「セフォー!」
 抗議したが、やたらと着飾った華麗な姿の閣下は、聞く耳をもたぬようだった。
 リスカが逃げ出すことを警戒したのか、こちらの身体を挟み込むようにして石段に両手をつき、視線を合わせてくる。
 ひ、卑怯な、とリスカは恨めしく思った。
「まだあの女のことを?」
「そんな言い方は!」
 セフォーは物言いがひどく冷たいのだ!
 ううっ、と唸ってみたが、どうにもならない。
「わ、私は!」
 目隠しをして断崖から飛び降りる時ほどの勇気を集め、リスカはセフォーを睨んだ。一秒ももたなかったが。
「私は、とても弱くなった!」
 言うまでもなく、八つ当たりである。最悪である。
 だが、本当に自分は、セフォーと会って益々弱くなった気がする。一人では越えられぬ壁にぶつかってばかりだ。
「私は強いです」
 あっさりそう返されると、二の句が継げない。
 うううう無神経だ傷口抉った信じられない! とリスカは内心で激しく喚いた。口には出せぬのがリスカである。
「それが何か」
 こうも淡白に、何かと問われると、何でもありませんよええ、としか答えられない。この人に普通の感覚を求めてはいけないのだと改めて確信した。虚しい。
「あなたは、いつも私を見ない」
 なぜか恨み言まで言われる始末……うむ?
「あなたの中で、私は価値がないのですね」
 笑いもせずに言われると、妙に気になった。
「セフォー?」
「他の者は追っても、あなたは決して私を追わない」
 は、とリスカは息を殺した。
 何かまた、リスカの心が軋みそうな話になってきた。
「憎悪、執着に関わらず、私は追われる立場にいた。ゆえに、己とはどのような意味であっても、人に追われる者と受け取っていた。だが、あなたは、あなただけは、私を追わぬ」
 何を言いたいのか――。
「挙げ句、私が追うとは。私が」
 セフォーは一旦視線を外した。
 リスカは次第に恐ろしくなってきた。威圧感に対する恐怖ではない。ティーナと会話を交わした時に抱いた孤独感や疎外感。リスカには理解できぬ感情の話に、恐れが募る。
「あなたは誰を必要としていたのです」
「セフォー」
「誰を見て」
「待って」
「何を求めた?」
「い、嫌」
「なぜ」
「嫌です!」
 リスカは耳を塞ごうとした。嫌なのだ、こういう話は、したくない。
「答えて下さい」
 セフォーは無慈悲に、リスカの両手を掴んだ。
「私を責めて、面白いのですかっ」
「面白い?」
「私が過ちを犯す姿を見て、あなたは楽しいのですか!」
「私が、楽しいと?」
 痛いほどの力で腕を掴まれ、リスカは喘いだ。
「放してください!」
「不愉快です」
「何をっ」
「不愉快だ、許せぬほど」
 乱暴ともいえる動作でぐいっと髪を鷲掴みにされ、リスカは一瞬目の前が真っ白になった。
 ――どうして、ここまで心を暴こうとする!
「痛っ」
「一体あなたは何を望んだのだ?」
 リスカを見据える銀色の瞳に強さが増した。
 ――読心術!
 信じられなかった。
 セフォーが。
 心に手を入れて、荒そうと――!
 気づいた瞬間、身体の奥が焼かれそうなほど、激しい怒りと拒絶が目覚めた。
 これほど酷い仕打ち、あるだろうか。ジャヴもシエルも、セフォーも、皆勝手に人の心を暴こうとする。
 そのくせ、憎い、許せぬ、とリスカを糾弾する!
 ではどうしろというのだ!?
「セフォー、嫌です!」
「ならば言いなさい」
 勝手な。
 なんて傲慢な。
「嫌です、もう、もう、分からないっ」
「何が分からぬのです」
 リスカは無我夢中でもがき、セフォーの腕から逃れようとした。
 後ろは、噴水。
 体勢を崩して落ちそうになるところを、セフォーに助けられた。
 リスカは命綱に縋る勢いで、セフォーの胸にしがみつく。
 心を守るように、身を固くして。
「だって、分からないのです。なぜ、ですか。ティーナはなぜ、死なねばならないのです。幸福だと言いながらなぜ死にたがる!」
「リスカ」
「私には分からない。なぜ皆、あれほどまでに何かを求められる。狂うほど貪欲に、なぜ、求めることができる!」
 無理矢理顔を上げさせられた途端、涙が溢れた。
「愛とはいかなるものです。セフォー」
 それが本当に分からなかった。リスカが思う愛とは、慈しみだ。
 たとえば――そう、地下牢に閉じ込められていた者が、リスカに水を与えてくれたこと、その行為が愛と呼ぶに相応しいものではないのか。
 ティーナのように、憎しみをまとい、己を破滅させるものまで、愛というのか。
 他人を傷つけて、己まで身体中血に塗れる狂気すらも、愛おしさの結晶だと?
「正しい愛の姿とは?」
「リスカさん」
「分からない、どうしても私には理解できない」
 リスカはただ、真実を知りたかっただけなのだ。ティーナの行動の意図、ジャヴの言動の行方。それを知りたかった。だが、いくら彼等の軌跡を辿っても、真実を宿す心は見えてこない。言葉をいくら重ねても、リスカには矛盾としか感じられない。
「私は術師です。術師とは、真理を求めるもの。だから知りたかった。それなのに、別の、得体の知れぬ何かが見えてくる。だが、見えても、それは曖昧な残像でしかない。私が望む真実の姿ではない!」
 気味が悪かった。人の心の深淵に渦巻く暗い熱情が、闇の中で蠢く魔物のように恐ろしく感じる。
 ぎゅっとセフォーの胸を掴む。溢れる涙で、顔が見えない。
 ……ああまた、見えないから、真実が遠ざかるのか。
「セフォー、私は一体、何を求めたのですか」
「見えなくても仕方がない」
 冷酷な、どこまでも静かな声。失望に似た感情を覚える。
「他者の心理は、あなたの真理とはならぬ。だが、あなた自身の心理は、真理に変わる。ゆえに、他者の心を幾ら覗き見ても、あなたは納得できない」
「セフォーっ」
「惑うゆえに、あなたは泣く」
 リスカは嗚咽を漏らした。言葉はどこまでも、リスカの心の表面をかするのみだった。人との関わりを避け、自分の心からも目を逸らし続けた罪なのだろうか。だがそうせねば、今のリスカは存在しない。不具と、役には立たぬと、皆に指をさされて、侮蔑もされて、その悪意の沼から這い上がるには、痛みに気づかぬよう背を向けるしか方法がなかった。だからこそ、リスカは誰よりも慈悲や慈愛を重んじてきたのだ。
 それが覆される。
 ティーナやジャヴの抱いた愛によって、リスカの信念が覆される。
 なのに、リスカには、彼等の愛が分からない。二人の感情はまさに奇形で、どれほど必死に眺めても理解できぬのだ。
「では、セフォー。私はっ、私には、埋められぬ欠陥があるのですか。術師としてだけではなく、私は、人としても不具なのですか!」
 人として足りぬからこそ、魔力が花咲かぬのか。
 だとすると、あまりに自分は、虚しい。
 嘘のように涙ばかりがぽろぽろと溢れる。
 冷たい、自分の心のような涙。
 あんまりだ。
 これでは、あんまりではないか。



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