腹上の[28]

「リスカ」
 何も見たくなかった。
 リスカは今、全てを拒絶したいのだ。
「目を開けてください」
 ゆるゆると首を横に振る。
 開けられない。自分の中に潜む虚ろな恐ろしいものが、きっと見えてしまう。
 固く閉じた目から、涙ばかりが伝った。
「リスカさん」
 ふと、額に柔らかな感触を与えられた。
 小鳥が甘く啄むように。
「リスカ」
 あやすように名を呼ばれ、リスカはようやく、ぼんやりと瞼を開いた。
 今度はこめかみに、柔らかい感触が与えられる。
 頬に、瞼に、目尻に、睫毛に。
 繰り返し、繰り返し、唇が落とされる。
 微かな喘ぎを、セフォーは漏らした。
「リスカ、こちらを」
 頬を指先で丁寧に愛撫され、視線を合わせるよう、促される。
「愛とは、焦がすもの、焦がれるもの」
 言葉と共に、こぼれる涙に口付けられた。
「世界よりも、世界に在る唯一の者を、抱くこと」
 冷淡な声音なのに、どこか甘い。
 リスカは、ぼうっと銀色の瞳を見返した。
「深海のような夜の底へ、月の光を捧げること。花の在処を教えること。そして、美しいという言葉を、口にすること。憎しみか慈しみかと、論じるものではないのです」
 囁きはいつしか情熱と変わり、心を焦がすものとなる。
「だから、愛とは――リスカ、あなたです」
「あ」
「そして、あなたを映す、私です」
 見ているようで見ていなかった銀色の瞳が、ふわりと蕩けるように細くなるのが分かった。
「わ、私、私は」
 紡ごうとした言葉は、そっと指で覆われた。
「いいのです。あなたは、あなたの時間の中で、真理を得てください。私が急いでも、あなたは急がなくていい。愛とは、己の知らぬ内に芽生えるものなのです。今は分からずとも、ある一瞬に知る。いつか、稲妻に貫かれるように、これが愛であると、あなたは理解するでしょう。視線の中に、温もりの中に、吐息の中に、目には映らぬ熱情を、あなたは感じるでしょう」
 抱きしめられて、甘やかされている。
 リスカはどこか呆然としたまま、瞬いた。
「その時、世界はどれほど輝くことか。花は咲き乱れ、風は何より甘く香る」
 瞼に何度も口付けられた。唇から伝わる体温に、ひどく胸がざわつく。
「私はあなたを追ってしまった。追われるのではなく追う立場に。ゆえに、私はどれほど強くても、あなたに負ける。あなただけが、私に勝つのです」
 リスカは少しずつ意識がはっきりしてきた。
 まるで……睦言のようだ、と気づいたのだ。
「――せ、セフォーっ」
 激しく瞬くリスカの目の上に、また口付けられる。
「あ、ああああ」
 愕然、というか何というか。
 背を撫でられ、そして、するりと髪の中に指を入れられて、深く引き寄せられる。びりびりと、よく分からぬ痺れが背筋を走った。思わず仰け反りそうになるところを、乱暴ではない強い力でとめられる。
「あなたが口にするのなら、どれほど陳腐な戯言でさえ私は宝石以上の輝きを見出す。そしてこの滑稽な考えすらも、神聖だと信じてしまうのだ。リスカさん――愛とは、人を愚かにさせるのでしょう。いえ、自ら愚かになりたがるのでしょう」
 硬直するリスカの肩を撫で、首を撫で。
 熱い、とリスカは思った。
 この熱さ、リスカは知らない。
「セフォー、もう、お願いだから」
「あなたは甘い香りがする」
 もがこうとしても、振りほどけない熱情に、リスカは震える。
「セフォー、もう」
「ねえ――」
 耳元でくすりと笑われた。溜息のような浅い息に、ふわりと首筋を撫でられた。
「私、あなたの奴隷になりましょうか?」
 リスカは一瞬、真っ白になった。
「あなたの指だけが、私を殺し、従わせるのです」
「え、ああ、え、うあ」
 何だ一体何が何事が何を、とリスカは壊れかかった。
 触れられる場所が一番熱い。全てが、狂おしいほど熱い。
 見開いた目に映るのは、星のように輝く銀。
 自分の一部であるかのように、近い。
 リスカは混乱しながらも、瞼や頬へ飽きずに繰り返される口づけをとめた。指先で、軽くセフォーの唇を押さえる。
「ま、待って、あの」
 その指も甘噛みされて、リスカははっきりとおろおろした。驚くほど柔らかな濡れた唇の感触に、リスカは目眩をおこした。冷たいはずの氷の瞳が、なぜこれほどにも凄艶に映るのか。
 ああ、本当に、こんなにも、こんなにも、この人は艶かしいのだ。あでやかな表情を隠し持っていた人なのだ。
「言わなければならないことが! わ、私は、セフォーに嘘をついて。結界用の花が、なかったのです。だけど、それを、あなたに伝えれば」
 ふっとセフォーが微笑んだ。
 唇の端に口付けられて、リスカは再び硬直した。
「もうよろしいのです。あなたが不必要なほど余計な気を巡らせる人であることは、十分思い知りました」
 何だか微妙に恨み言を言われているというか、さりげなくけなされている気がした。
「セフォー」
 涙はいつの間にかとまっている。これほど抱きすくめられると、最早泣いている場合ではないとさえ思う。
 何も解決していないような気もしたが、荒れていた心は不思議と静まっていた。いや、別の意味で心拍数は激しく上がっていたが。
 この状態を一体どうすればいいのか、挙動不審にあわあわとセフォーの服を掴み……リスカは、青ざめた。
「あああっ!?」
 ――なんとしたこと、いかにも高価そうな首飾りを、ぶちっとちぎってしまったのだった。
「あっ、あ、セセセセフォー」
 甘い余韻はどこへやら。
 どうしよう、フェイにどう言い訳すれば……! とあくまで言い逃れる術を考えるリスカだったが。
「本物の宝石は必要ない。すべて水に沈めてしまいましょう。そのかわり、あなたの言葉で私を飾ってください」
 そう言って、セフォーはなんと、首飾りも腕輪も噴水の中に投げ込んだ。
 リスカは迷った。言葉に驚くべきか、水死する宝石に驚くべきか。
 祭りの夜は、娘も若者も身を飾るという。
 恋の炎で、鮮やかに。
 ――恋?
 恋!?
 なななな何っ!? とリスカは激しく心の中で吃った。
「ねえ、リスカさん」
「あ、うう?」
「時々でかまいませんから――」
 放心するリスカの手に指を絡めて、とどめの一言。
「私を、追ってくださいね」
 
●●●●●
 
 放心状態のリスカを置いて、時間はどんどん経過し――
 気がつけば、既に夕食も終えていた。
 何を食したのか、さっぱり記憶にないが、満腹になっている事実を考えると、しっかり夕食は取ったらしい。
 本能は偉大だ……と感心するリスカの前には、やたらと高価そうな硝子製の杯につがれた食後用の酒が用意されていた。どうでもいいが、高級感溢れる杯というのは、なぜこうも華奢で慎ましいつくりなのだろう? 指で摘んだだけで脆く砕けてしまいそうだし、酒を注いでもすぐに飲み干してしまうではないか。鑑賞用には適しているかもしれないが、外形を重視するあまり肝心の容量部分について考慮されていないため全く実用的ではない。町の酒場にあるような、顔が入るくらいの大きく頑丈な杯が恋しいとつい夢想に耽り、切なく溜息を落とす。実に庶民的な感覚である。
 そういえば、セフォーは酒を嗜むのだろうか。
 根拠はないが、もの凄い酒豪という印象を抱いてしまう。底なしというか、酔い知らずというか。水と同じようにすいすい口にしてしまうのでは、とリスカは想像を膨らませ、視線を巡らせた。
 セフォーは、うう、リスカの……隣に座っている。
 いや、別にどこに腰掛けようとかまわないのだが。何といいますか、その、軽く、指が、指が、絡められていて。いやはやいやはや。
 そのくせ、セフォーは草木も凍る真冬のごとき無表情。行動と表情の差が激しすぎて、セフォーの心情は推測できない。
「あ、あの」
「何か」
「お酒は好きですか」
 見れば、セフォーは一口も酒を飲んでいない。
「セフォー?」
 ぴ? とリスカの頭の上で羽根を休めている小鳥も、セフォーに返答を促した。
「いえ」
 かなりの沈黙のあと、短い返答があった。
「ええと、好きではない?」
「飲めないのです」
 飲めない?
 まさか酒を飲むと、今より更に強烈さが増すとか、善悪を無視して破壊衝動に走りたくなるとか。
 もしや酒乱? とリスカは恐ろしいことを考えた。
「一滴も」
「一滴も?」
「飲めません」
「は」
「熱を」
「熱?」
「発熱してしまうようで」
「……」
「動けなくなるのです」
 意表をつく事実である。ウワバミそうなセフォーが全く酒を飲めないとは、奇怪な事実もあったものだ。へえ、と思わず驚嘆しつつ、じろじろと無遠慮にセフォーを眺めた。すると、ふい、と視線を逸らされる。め、珍しい反応である! これはもしや、セフォーの弱点を握ったのか?
 ふふふ、と思わず腹黒い笑みを漏らしてしまうリスカだった。やはり人間、どれほど完璧に見えても一つくらいは弱点があるものだ。そうかそうか、剣術師様は酒に弱いのか。ふふふふふ。
 内心の企み事に気づいたのか、セフォーが視線を戻した。駆逐の予感に怯えたリスカが条件反射で仰け反ると、突然目の前が暗くなった。ぴぴぴ、と慌てる小鳥の声が頭上で響く。
 髪に口づけを一つ。
 目尻に一つ。
 ひあああああ! と胸中でリスカは情けなく叫び、じたばたと動揺する。
「……何をしている」
 突然、機嫌の悪そうな青年の声が聞こえ、リスカは硬直した。
「ふふふふフェイ。ようこそお帰りなさいませっお疲れ様でございますね!」
 自分は一体どこの新米侍女だ、と我ながら突っ込みたくなるような支離滅裂な挨拶だった。
 フェイは半眼でリスカを睨み、つかつかと歩み寄って、微妙に苛立ちを漂わせながら目の前の長椅子に腰掛けた。
 ちなみに、ここはリスカに割り当てられた部屋だった。
 貴族の屋敷というのは清掃する者に試練を与えるためではないのかと疑いたくなるほど無駄に広い。予想通り豪奢である。寝台など、天蓋付きの四柱式のつくりだった。どこぞの麗しいお姫様が眠るのに相応しい豪華な寝台である。
 この部屋もうんざりするくらい広さがあり、隅々まで美しく整えられていた。新緑色の長椅子は、腰をかければそのまま眠ってしまえるほど柔らかく、座り心地がよい。
「フェイ、食事は……?」
 たった今屋敷に戻ってきた、という格好だった。
 疲労感を滲ませながら、フェイは髪をかきあげた。鮮やかな金色の髪が、木漏れ日のようにきらきらと指の間を流れる。
「それはいい。話のあとで」
 と言われ、リスカは姿勢を改める。
 ……が。我が道を突き進む史上最強の剣術師様には、何ら問題ではなく。
 リスカの手に指先を絡めたまま、平然と足を組んでいる。周囲のものを凍結させそうな凍えた眼差しは健在である。
 繋がれている手にちらりと視線を向けたあと、フェイは嫌そうな顔をした。苦情を口にすれば命がないと理解しているようだが、内心ひどく腹を立てているらしい。
 すみません私にもどうすることもできないのです、とリスカは心の中で平身低頭、謝罪した。そして一瞬、水に沈んだ首飾りが脳裏をかすめたが、こちらについては都合よく記憶から消去することにした。
「とりあえず――」
「はい?」
「教会の件だがな」
「はははははいっ」
 リスカは青ざめ、顔を引きつらせた。図らずも大虐殺の場と化した教会の件。やはりセフォーと自分は、世を震撼させる史上最強の凶悪犯として各地に指名手配されたのだろうか?
「悪魔の仕業、ということで処理をした」
「悪魔……?」
 あらゆる不吉な予想を裏切る突拍子もないフェイの言葉に、リスカは耳を疑った。
「そうだ」
 確かに悪魔並みの凄まじい殺戮ではあったが……それですむものなのか。
「他にどう説明できる? たった一人の剣術師が、騎士に剣も抜かせず全員を殺害したなどと説明しても、誰も信じぬ。また、騎士の沽券にも関わる話だ。ならば、騎士ですらかなわぬ人外の存在……悪魔の非道な所行とした方が我らにとっても都合が良い」
 というのは、おそらくリスカ達を気遣っての台詞だろうと思った。
 口でいうほど、事実を改竄するのは容易ではなかったはずだ。フェイは真実を隠蔽するために、リスカには推測できぬ形で各方面へ何らかの代償を支払っているだろう。
「フェイ」
「それとな」
 フェイは明らかにリスカの言葉を遮り、憮然とした表情で続けた。
「フィティオーナ夫人についても同様だ。全ては悪魔のなせる業。よいな、お前達はもう、この件を忘れるのだ。口外はならぬ」
「お待ちを。王都ならばともかく、このような町に悪魔などが」
「水紫の高位悪魔、イルゼビトゥル」
 ――イルゼビトゥル!!
 それはまた、随分と強大な悪魔を持ち出したものだ。
 水紫の高位悪魔イルゼビトゥル。水を自在に操る悪魔で、その性は淫猥、残忍。人をよく誘惑し、堕落させるという。人の世をかき乱すのが好きで、頻繁に顔を出しては、平穏の時を壊し波乱を招く。容貌は一国を傾けるほど、美しい。
「そのくらいの悪魔でなければ、説明できぬ」
 ううむ、とリスカは呻いた。まあ、イルゼビトゥルが相手ならば、騎士団総軍を率いる覚悟でないと、力量的に拮抗しえぬだろう。
「でも、イルゼ……」
 とリスカが言いかけた時、いきなりセフォーに口を塞がれた。
 なな何? といささか狼狽しつつ、リスカは隣に座しているセフォーへ視線を向けた。
「名を」
 と短く言って、セフォーは微かに首を振った。
 悪魔の名を呼んではいけない。おそらくそう言いたいのだろう。
 リスカは怪訝に思った。自分は一応術師だが、召喚系の魔術は一切使えないのである。ゆえにここで悪魔の名を告げても、問題はないと思うのだが。
 困惑したが、セフォーはただ「いけません」と呟くのみで何の説明もせず、相変わらずの怜悧な眼差しをこちらに向けている。
 ああこれはきっと口を割る気はないのだな、とリスカは察した。フェイが側にいるためだろうか?
「とにかく、そういうことだ。お前達はみだりに騒ぎ立てるな」
 これ幸いという様子で、フェイは素早く話を打ち切ろうとした。リスカは慌ててセフォーの手を外し、長椅子から腰を浮かすフェイを呼び止めた。
「あのっ」
「何だ」
 実に面倒そうな顔をされたが、そこは礼儀を重んじる騎士。きちんと椅子に座り直し、話を聞く体勢を取った。
 最初の最悪な出会いからは想像もできぬ律儀な行動である。リスカは密かに感心した。
「なぜティーナは、伯爵に刺されたのです」
 刺殺されねばならなかった理由がよく分からぬ。伯爵はティーナに愛情を向けてはいなかったのだし、関心すら抱いておらぬような気がしたのに。
 フェイは渋面を作り、軽く頭を垂らして指を組み合わせた。
「ティーナ付きの侍女から聞いた話だ。あの方は伯爵に手紙を出し、呼びつけたのだ」
「どこにですか」
「決まっている。己が……背徳行為に耽っている様を目撃させるため、あの場に呼んだ」
 リスカは教会の地下に存在する隠し部屋で目にした貴族達の姿を思い出し、複雑な顔をした。
 今更ではないのだろうか。伯爵はティーナが別の男性と、その、いや、快楽を分け合っているという事実など、初めから承知だったのではないか?
「愚かだな。単に言葉で聞くのと、実際に事実を目にするのとでは、受ける衝撃が違うだろうに」
 そうだろうか。どちらも同じだと思うのだが。
「言葉のみならば、まだ否定もできる。だが、その光景を見てしまえば、もう自分にすら言い訳できぬ」
「そう、いうものでしょうか」
「仮にもあの人は、妻だぞ」
 はっきりと、鈍感な奴だ、という呆れた顔をされたが、リスカにはやはり納得できなかった。
「初めは、伯爵の方が、ティーナに惹かれたのだ」
「……えっ?」
「あの美貌だ。大抵の男は心を奪われる」
 べ、別に羨ましいとは思っていない! 断じてっ。
 妙に気合いを入れるリスカを訝しげに見ながら、フェイは先を続けた。
「ティーナは、冷めた女性だった。言いよる男は皆、同じに見えると以前、零していた。彼女が軽い病を患った時、愚かな男達はわんさと詰めかけて、見舞いの品を置いていったという。花束や首飾り、腕輪、華麗な衣装。早く回復して美しい貴女の姿を見せてください、とこういうわけだ。しかし伯爵のみが、他の者とは異なる贈り物をした。遠い異国より取り寄せた薬と毛布。屋敷に上がり込んで、臥せるティーナを叩き起こすような真似をしなかった。養父と折り合いの悪かったティーナは、贈り物の中に慎ましい愛情を垣間見、それで伯爵に傾倒したのさ」
 ところが、とフェイは皮肉な顔をした。
「あれほどの美貌の持ち主が、なぜ自分の妻となってくれるのか。財産目当てではないかと伯爵は、疑心暗鬼の虜になった。あとは空回りばかり。挙げ句、かの者を疎んじる将軍の策略に足を取られ、落ち人の運命を辿った。類い稀な美貌は、場合によっては諸刃となるのだな。己の運命までも狂わせる」
 ああ決して伯爵はティーナを愛していなかったわけではないのだ。
「伯爵が狂うほど再興を願ったのは、おそらくティーナのためだ。また高位に返り咲けば、ティーナの愛をも取り戻せると考えたのだろう。哀れな事だな。ティーナの愛は、初めから伯爵の手の中にあったというのに」
 リスカは――言葉を失った。



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