腹上の[29]

 愛し合っていてさえも、人は過ちを犯すのか。
 ではなぜ、人は愛を分かち合おうとする?
「伯爵もティーナも互いに弱みを見せられぬ人間だ。泣きつく事も引き止める事もできぬ。分かっていても、最早自分では変えられない。……いつか、最悪の事態になるのではと恐れていたが」
 フェイは苦しげに小さな溜息を落とした。
 本心を覆い隠し頑な表情を浮かべて背を向け合うティーナ達の姿が、ふと脳裏によぎった。すれ違う心が発する悲しい嘆きを、とうとう互いに聞かぬまま終わりを迎えてしまったのだ。
 変えられなかった二人の運命にやるせなさを感じて軽く唇を噛み締めた時、些細なことだが一つ引っかかりを覚え、躊躇いに似た曖昧な不思議さを抱いた。内情に詳しいようだがフェイは一体、どれほどティーナ達と関わりを持っていたのだろう?
 その疑問を口に出すべきか逡巡していると、不意にフェイが何かを思い出したという顔をして、懐を探った。
「これをティーナから預かっていた」
 フェイが差し出したものは――金貨だった。
 リスカは驚き、フェイの手に乗せられている金貨を凝視した。些細な疑問は呆気なく金貨の目映さを受けて霞み、消えてしまった。
 これは、いつぞや、押し問答の末ティーナに返した金貨ではないか?
「お前に渡してほしいと、ティーナの侍女が言っていた」
 何の冗談かと警戒したが、ごく真面目な顔をするフェイの様子に不審なものは感じなかった。だとすると、この金貨は真実、リスカ宛にティーナが用意したものであるらしい。
 リスカは少しの間フェイが差し出す金貨を睨みつけたあと、苦渋の表情を浮かべた。
「……受け取れません」
「なぜだ」
「いただく理由も、資格もありませんよ」
「俺に言われても困る」
 助けを求めてセフォーを見上げたが、「我関せず」といった素っ気ない態度を取られてしまった。
 ううううう。困る。非常に困る。
「腐るものではない。貰っておけばよいだろう。今回、迷惑を被った代償として」
「しかし」
「術師のくせに気弱なものだ」
 どうせ、小心者ですとも。
「これは使えませんから」
「使わずとも、とっておけばよいだろう」
「ですからっ。使いたくないから、貰えぬのです!」
 はあ? という怪訝な顔をされた。
 何というか、非常に現実的な問題を持ち出す自分がいやにさもしく悲しいのだが……店も荒らされたし、おそらく商品もまた駄目になっただろうし、そういった厳しい状況の時に金貨を押し頂けば、間違いなく冬越えの資金として使ってしまうだろう。
 生活感溢れまくる自分の思考が虚しいリスカだった。
「というわけで、この金貨はあなたが預かっていてください」
 それが一番安心である。
「馬鹿を言うな。俺が預かってどうする」
 ええい、察しの悪い騎士め。あなたと自分では、生活の水準が天と地ほどに異なるのだ!
「使えぬ金貨です。けれども今いただいて、使ってしまったらどうするのです! ひ、人には、明日の暮らしに対して差し迫った深い事情があるでしょうっ」
 埒が明かぬとリスカは観念し、とうとう白状した。しばしの沈黙後、もの凄く呆れた顔をされてしまったが。
「術師のくせに、生活が困難なほど貧しいのか?」
 言うな、それを!
「ならば、この屋敷を使えばよいだろうが。衣食にも困らぬだろう」
 あっさり提案されて、リスカは飛び上がりそうになった。悪魔だ、悪魔の誘惑だ。魅惑的すぎるではないか。
「いらぬ」
 よろしくお願いしますという狡猾な台詞を声に出すべきか本気で検討した時、今まで傍観者に徹していたセフォーが突然口を挟んできたため、リスカは驚きで再度飛び上がりかけた。
「せ、セフォー?」
「金ならば何とでも」
 まままさか強盗とかするつもりでは。
 どこぞの裕福な貴族を闇討ちして金品を強奪するとか。思わず恐ろしい想像を巡らせてしまう。
 はらはらしつつセフォーを見上げると、驚異的に凍えた瞳とばっちりかち合った。
「あなたは」
「は」
「そんな」
「あ、うう?」
「理由で?」
「う」
 セフォーの端的台詞を解読してみよう。「あなたは金がないなどのくだらぬ理由にとらわれ、今までこの屋敷に留まっていたというのか?」といった意味のような気がする。
「え、ええと」
 いや、どちらかといえば蓄えの有無の問題よりも、セフォーが町に混沌と恐怖をもたらす最強極悪犯として手配される事態を恐れていたため、フェイの保護を受けたのだが……嘘偽りない本音を更に吐露させてもらえば、再度セフォーが凶行に及び騎士達を血祭りにあげるのではということを何より危惧していたのだが……言えない、こればかりは。
「俺にも責任がない訳では……ない。お前の店を荒らしたのは俺……俺の部下ゆえ」
 微妙な間に真相が隠されている予感がしたが、何となく後ろめたそうな顔をするフェイを見てしまうと、それを指摘する気にはなれなかった。フェイには散々迷惑をかけていることでもあるし、不問にしておこう。
「金がないというならば、いくらか援助しよう」
 あああ悪魔の誘惑が再び。
 もう堕ちてしまっていいだろうかとリスカは内心で自分に問い掛けた。
「いらぬ」
 愛想も何もない冷淡なセフォーの声で、確実に室内の温度が低下した。
 完璧な拒絶にフェイはえらく苦々しい表情をしたが、反論の言葉を口には出せないようだった。まあ心中は察してあまりある。
 本当は喜んで援助とやらを受けたいです、と思う自分が物悲しい。
 だが、胸中の願いをここで打ち明けた場合、閣下がどう出るのか予測できないだけに空恐ろしい。
 ど、どうすればいいのだろう。
 思わずフェイに視線を向け「どうしよう……」という念波を送ってしまった。いや、念波ではなく視線で訴えたのだが。
「リスカさん」
 途端、セフォーにくいっと顎を掴まれ、間近で銀の眼差しと衝突してしまう。ああその瞳の色、まさに氷ですね、この世のありとあらゆる冷たいもの冷酷なもの凄惨なものをこれでもかと詰め込んだ驚異的どころか脅威的な双眸ですね、とリスカは無礼な感想を内心で述べつつ青ざめた。
「……すぐに決めることでもないだろう」
 たとえようもなく不機嫌なフェイの声がした。リスカはあわあわとセフォーの手から逃れ、ほうっと一息ついた。
「ああ、あの魔術師、目を覚ましたそうだ」
「ええっ?」
 なぜそれを早く言わないのか!
 リスカは長椅子から飛び降りて、駆け出した――いや、駆け出そうと試みた。
「うわわっ」
 やたらと毛の長い絨毯に足を降ろす直前、ひょいっとセフォーに腕を掴まれたのだ。
「セフォー」
 勢い余って、セフォーの膝に座ってしまう。
「あなたは」
「……は」
 厳しい真冬の風も逃げ出す氷山の視線だ恐ろしいですセフォー、とリスカは内心で懇願した。ぐずぐずと崩壊しそうな意志の脆弱さが、何やら悲しい。
「まだ」
「あ、あの」
「懲りぬ」
 す、すみませんっ、と無我夢中で泣き出したくなった。
「行かせてやればよいだろう」
 という天の助けのようなフェイの言葉が聞こえた。が、フェイは何気にセフォーから視線を逸らしていた。いや、正面からセフォーと張り合えなどといった無謀なことは言わぬが、そこまで明らかに虚空へ顔を向けるのはどうなのか。
 しかし、室内に充溢するこの寒々しい空気は何なのだろう。氷雨が降っても不思議ではない冷たさだ。
「セフォー」
「あなたは本当に」
 はい懲りない奴です。
「あの、ちらっと、顔を見てくるだけでも……」
「リスカさん」
「はいっ」
 じっと睨まれ……いや、見られた。
「半刻」
「え?」
「いいですね」
 もしや、半刻だけなら許してやるので行ってこい、という意味でしょうかセフォー。意図を正確には掴みかねて、戸惑いを覚える。
 セフォーは、ふとリスカの耳に囁いた。
「それを過ぎれば、この男を殺します」
「……」
「いいですね?」
「ははははいっ!」
 リスカは渾身の力をこめて頷いた。不思議そうな顔をしているフェイに、「半刻だけという約束を破ればあなたの命はありません、ごめんなさいね」という言葉をどうしても告げられないリスカだった。
 間違いなくやるだろう。セフォーならば。
 リスカは思い切りぎくしゃくしながら、虚ろな笑みをフェイに振りまき、素早く部屋を出た。
 
 
 リスカは、廊下の途中で足をとめた。
 今のジャヴはきっと、現実を拒絶したいに違いない。では、その彼を、どういった言葉で呼び戻せばよいのか。
 至らぬ自分に何ができるだろう。
 ティーナの言葉、シエルの言葉、フェイの言葉、そして――セフォーの言葉。
 幾つもの言葉が、リスカの胸の中で熱を持ち渦巻いている。
 リスカが少しずつ自分の心に隠されていた激しい色彩の感情と向き合い始めたように、ジャヴの真意を引き出して、この現実を受け入れてもらうには、一体どういう思いをこめた言葉が必要なのか。
 曖昧だった真実の影が、ようやく輪郭を作り始めている。
 リスカが目を逸らし続けていた、闇夜のような暗い感情に彩られながら――。
 傷つくことを、傷つけることを覚悟して、リスカは再び歩き始めた。



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