腹上の花[30]
豪華絢爛な部屋の寝台に寝かされているジャヴは、まるで精巧な人形のようだった。
非がなさ過ぎて、逆に痛々しく見えるほど儚い。
柔らかな枕に広がる紺色の髪を、リスカは丁寧に整える。
「ねえ、そろそろもう起きないと」
呼びかけるリスカの声に、ジャヴがようやくまぶたをひらき、ゆっくりと瞬いた。夢見心地の表情をしていた。
「ジャヴ?」
「――なぜ」
聞き取りにくい掠れた声で、ジャヴは呟いた。視線はぼんやりと、寝台の天蓋を彩る女神の絵を巡っていた。
「困った人ですね。いつまでも迷夢の最中を漂うなど、あなたらしくない」
「なぜ、目覚めを促す」
「起きてほしいからですよ」
不安定な感情を映す碧色の瞳が、枕元に腰掛けるリスカをようやく捉えた。
「余計な真似を」
「ええ」
飄然とリスカは答えた。側にいれば罵倒されるだろうということは、ある程度予測済みだった。
「不具の魔術師風情が」
「はい、その通りですよ」
リスカは軽く答えながら、ジャヴの髪を何度もすく。
若い魔術師達の憧れであった人。本人には決して言いたくないが、憧憬を向けていたのはリスカも同じだったのだ。
女性の魔術師ならば、誰もが隣を歩く事を望んだ。頬につやを乗せ、恋情のまなざしで彼を追っていた学徒たちを何人も見た。栄えある日々を嘱望されていた魔術師だったのだ。
「ティーナは?」
「聞かずとも、賢明なあなたなら分かるはずでしょう」
「では、なぜ私のみが生きている?」
「さあ。神のご意志でしょうか」
「神など!」
ジャヴは横を向き、痛烈な勢いで吐き捨てた。
「神も人もいらない、出て行け!」
「と言われましても、ここはとある騎士様の屋敷ですし、その騎士様に滞在の許可はいただいてますしね」
「では私が出て行こう」
「立ち上がれないでしょう?」
ジャヴはこちらの指摘を無視して半身を起こし、寝台から降りようとした。その結果は目に見えている。四肢に力が入らず、糸を断ち切られた操り人形のように、床に崩れ落ちてしまう。
手を貸そうとして、リスカは躊躇した。こちらを睨む目には、憎悪と嫌悪が双子のように宿っている。なにもかもを罵りたいという荒んだ目だった。自分のことすらその枠内にあるだろう。これはだめだ、優しく諭すのは逆効果になる。
そこでリスカは意識を切りかえ、なるべく……無慈悲に聞こえるような声を出し、彼の気を引いた。
「一人では立つことすらできない事実を、あなたは自覚するべきだ。そして今の自分の姿をより理解すべき」
「――穢れし砂の使徒が、私を貶めるつもりか」
「その穢れた砂の使徒にまで見下されるあなたは、いったい何者なのか」
食いついてくれたことにひっそりと安堵しつつ、あまり得意ではない冷笑を浮かべてみた。
「身をわきまえないか、魔術すらろくに操れぬおまえに、何がわかる!」
「魔術しかまともに操れないあなたの目には、何が映る」
腰をすえて痛烈な舌戦に挑むことにする。
リスカは冷徹さを見せるように、感情を押し殺した声音を心がけた。慈悲よりも、打ちつけるような冷たさを全面に出すほうが、きっとジャヴを揺さぶることができるはず。
なぜなら攻撃や侮蔑の言葉というのは、たいてい口にした当人にとっても耳に痛いものであるためだ。そして今の彼は、攻撃したくて、されたくて、たまらない顔をしている。かかえきれない苦しみを、別の苦しみで隠そうと。
「おまえの姿など見たくもない、はやく、出ていけ!」
「だったら自分の足で歩いていけばいい――それほど強大な術を操るのだから、歩くことくらい」
子どもの癇癪のように枕を投げつけられた。危ない。本当は驚いたが、余裕と見せかけつつ受け止める。
「卑小な術しか操れぬ使徒が、この私を嘲るのか!」
「私に嘲りの言葉をもたらしているのは、あなた自身だ」
冷静に返すと、ジャヴが一気に顔を紅潮させた。膨らむ怒りで呼気が荒くなっている。
リスカはその激しい感情、怒りを支えようと立ち上がる意志を、じっくりと見据えた。彼は突き抜けるようにして鋭く考えるだろう、なにがリスカにとってもっとも効果的な一撃となるか――めまぐるしくも理性的に、純粋に、考える。その思考こそ、リスカの望むものだった。
狂気の影がない怜悧な怒りを抱けるうちは、自分を捨ててはいないという証になるからだ。
放っておけば怒りの火はやがて消え、灰色の死を呼んでしまう。だから燃やしてやろう、ずっとずっと燃やしてやろう、怒りのあとに、生きる意欲が芽吹くまで。
友となったティーナに、この人をあたためるようにと頼まれたのだから。今度こそ死なせない。
「生まれながらに堕落の刻印を持つ使徒に、嘲笑を受ける謂れなど!」
「生まれ持った資質を捨てて堕落の日々を送るあなたに、どんな賛美の声をかけろと?」
ジャヴはゆらめく瞋恚を瞳に宿し、リスカを睨み上げた。すぐさま、汚いものでも見たように大仰に顔をそむける。
「もういい、話したくもない!」
「嫌です、私は話したい」
愕然とふりむいたジャヴの前に屈み、ふたたび顔をそむけさせないよう、深まる夜の色をした髪を乱暴にぎゅっとつかんだ。ちょっとこの動作はセフォーっぽいかもしれないと頭の片隅で思った。
眦をつりあげ、リスカの手をはたき落とそうとするジャヴと睨み合う。彼がリスカを傷つけたように、リスカもまた彼を傷つけている。そのことを、いつかわかってもらいたいと思う。
「だけどあなたの望む話などしない。鞭のような言葉だけを」
「非力である者の言葉など、だれが聞きたいと思う! 浅はかな甘さを望んでいるのはおまえなのでは!? 世を知らぬ赤子のように、ちからもないのに、ただひたすら無責任な享楽だけを! 他の嘲笑に耐えられず塔より逃げ出しておきながら、したり顔で私に空疎な弁をふるうなど笑わせる!」
「知らないんですか、愚者の言葉こそが最も尊く、石より固いことを。だから賭事の札の表裏にも、聖者と愚者が描かれている」
「賭事!? 馬鹿げている、こんな時に、賭博の話をしろとでも」
「それならあなたが死を弄んだ話にしますか? 賭博よりも淫らな、貴族の遊びについてを?」
言葉にならないほど腹が立ったらしい、リスカを乱暴に押しのけようとするが、今のジャヴは病み上がり状態で、子どもよりも体力がないのだ。
「楽しかったですか、堕落の日々は。幻の喜びに酔うだけ酔って、泥の愉楽に首までつかって、それがあなたの求める日々だったんですか。本当に満足したんですか」
「愚弄するのか!」
「私は事実だけを見て言っています」
「事実! なにも見ていないくせに!」
セフォーの言葉が蘇り、深く胸を刺したが、その痛みをやりすごした。
「ではあなたはなにを見たんですか。見ていない私に教えてください」
「――言う必要など!」
「必要の問題ではないでしょう」
リスカは意味深に一蹴し、それから言葉をはさませないよう、声高に言い放った。
「見ていない、あなた自身が見ていない。幻のなかでの幸福を選んだからだ、かりそめの喜びに惑わされたから! 死にいたる媚薬。外から見れば凍える地獄、だけども、なかから見れば、きっとめざましいほどの楽園だったのでしょう。その幻はどれほど平和でしたか、白夜のように明るく初夏のように緑芳しく、触れるものはみな聖母の吐息のように清らかだった? そこではあなたの求める人は絶え間なくほほえみ、叡智の書を開いて、鳥のような快い声で朗読を? そして求める物は望むだけ手に滑りこみ、すべて傷ひとつなく磨かれていた? 身に浴びる水は新雪を溶かしたもの、身にまとう衣は水辺の天女が楽土の鳥の羽根で織ったもの?――そんなぬくもりのない屈辱的な楽園が、どうしてこの現実に勝てるのか!」
「黙れ、黙れ!」
「黙りません、あなただってわかっているはず! 幻を壊すことを望んでいたくせに! 死に至る媚薬の実験台となったのは、声なき抗議だったのでしょう」
「ちがう、勝手な憶測を」
「声を上げるべきだった、幻のなかではなく、求める人の腕を、自分の手でつかんで! そうしたらあなたの体温を、その人は――シエル殿は感じたはずでは!?」
「やめろ、リル!」
「それとも諦めたのか、あなたから手を離して逃げたのか。シエル殿が欲に落ちたからか、軽蔑しないためなのか、醜い姿におそれたからか、狂人のように服を逆に着こんで笑ったからか、栄華のいっさいに見放されたからか!」
「リル、リカルスカイ、 もうやめろ――!」
ジャヴは耳を塞ぎ、うずくまった。かわいそうになり、ひどく胸が軋んだが、ここでやめてしまえばもっと事態を悪化させることになる。リスカはその腕をとり、顔を上げさせた。ちからなく嫌がるジャヴの瞳から怒りは消え、涙が溢れていた。
本来ならば、リスカ程度が駆使する舌先の論理などに負ける人ではない。言葉による応酬に対処できないほど、ジャヴは衰弱している。それでもなお、胸に蔓延る暗い熱を吐き出させるのが先だった。
「ちがう、私は、私は、あの方を見捨てていない。この世のだれが背を向けようとも、私だけは、師とともに」
ジャヴが顔を歪め、大粒の涙をこぼす。
「師を救おうと! 師の心を、苦痛を、和らげるために! だからなんでも聞く、どんな命令でも、腐水をすすれというのならそうする、腕を切り落とせというなら、喉を突けというなら。死の薬でもなんでも飲み尽くす! なのに、あの方は私を遠ざけた。なにも望もうとしなかった、私は弟子であるというのに。私を見ようともせず、去れと一言!」
叫び終えて、がくりとジャヴは項垂れた。
「私がどんなに懇願したか。去れとおっしゃるばかり、近づくな、関わるなとおっしゃるばかり。だがどこへ行けと? 師のそば以外に、私の場所などあるものか」
拒否の言葉は、リスカの耳にはちがう印象をもたらした。ジャヴの師であるシエルの懊悩が、そこに見えはしないか。
ジャヴが捧げる愛情は、きっと純粋すぎていたたまれなかったのではないだろうか。未来を期待された魔術師であり、自分の最も大切な愛弟子が、築いた栄光を投げ出しすべての可能性を抛って、明日を断たれた自分にどこまでも従うという。その苦悩。まるで殉死と変わらない。
崇高な愛情に対して、シエルは嫉妬さえ向けてしまうだろう。手酷く拒絶しても離れない健気なジャヴを哀れみ、一層みじめにもなったろう。やがて愛よりも強く、憎悪すら芽生える。
この神聖さ、一途さが、シエルを余計に追いつめたのかもしれないなどと、どうして言えるだろうか。
自分を顧みない献身的な愛などリスカは知らない。けれども、身を焦がす嫉妬ならば、理解できる。
リスカは砂の使徒で、いつもだれかを羨む立場にいたのだから。現在もまだ。苦悩はもはや自分の影になっている。
「なぜ、なぜ、シエル様は私を見捨てた!? 私は栄華など求めない。名誉など必要としない。シエル様だとて、そうではなかったのか、それが、なぜ」
ジャヴ、あなたがいたからだ。
あなたがいつか見せる幻の落胆や、侮蔑に、シエルは怯えていたのだ。
過去が輝かしいほど、現状のみじめさがより明瞭に映る。シエルは、いずれあなたの心が離れるのではと――猜疑の念に押し潰され、ありもしない幻影に囚われて身を落とした。ティーナの愛を取り戻そうと道を踏み外した伯爵のように。
リスカは、ようやく真理に手を触れた。だが、決して心に安息をもたらさない真理だった。
「シエル様は、師はどこに!」
リスカは首を振る。言えなかった、セフォーが殺したのだとは。リスカが殺させたようなものなのだから。
ぎゅっと強く腕をつかまれ、すがるようなまなざしで揺さぶられる。
「ジャヴ――シエル殿は、最後まであなたを愛していたと思います」
「偽りを! 師は、私を見捨てたのだ!」
リスカは過去形で語っている自分に気づかなかった。そしてその事実をジャヴが咎めなかったことにも思い至らなかった。
「いいえ、見捨てることで、あなたを光の中へ戻そうとしたのです」
「光など、どこにある!」
「あなたの側に。あなたの心に。シエル殿が語った言葉は今もあなたのなかにある。あなたの血となり、肉となり、安らぎとなる」
まるで虚ろな、形式的な台詞しか吐けない自分に恥を思う。
リスカは知らないから。彼らのような、愛ゆえの狂おしい熱情を、抱いたことがない。
「戻れない。光のなかへなど。私は穢れを呼びすぎて」
「穢れは払えるものです」
「どう払う、この身を染めた汚穢を、いかに拭うという!」
ジャヴはリスカの肩に、額を押し寄せた。寒さに怯える子どものような仕草だった。
「何も、何も救えない、私は、師さえ、救えずに」
リスカはきつくジャヴの手を握った。冷たい手に、ふうっと息をかける。
「何も救えぬことはないでしょう。たとえば、私は今、悲しい。あなたが嘆きの底に埋もれたままです。私は辛く思って、涙を落とす。あなたが救ってくれるというのなら、嘆きの底から這い上がって、どうか私の涙を拭ってください」
振りほどかれそうな手を、リスカは離さなかった。
ティーナ、あなたは、ただ手を取ってほしかっただけだと言いました。
だから私は、ジャヴの手を離さないように。
本当はわかっている。ジャヴの心を蝕む喪失は、ちっぽけなリスカの存在では拭えない。彼が求める人の手はもう存在しない。
それでも、ジャヴがどれほど解放を願っても、まだここには彼の生を望む者がいる。
「穢れている、私の手は、もう」
「そうですか。でもこの世に穢れを知らぬ手など存在するでしょうか。そんなのは――神の御手だけで十分ですよ」
「何も知らぬくせに。堕ちるために他人の妻を抱き、夫を抱いた、醜いふるまいばかりを」
震える言葉を吐き出すジャヴを、リスカは悲しい目で見つめる。
「望まないことばかりが次々と。いつから私はこれほど醜く穢れた者に?」
リスカは答えられなかった。
ジャヴの言う穢れは、真の穢れに入らない。たとえだれと交わってもそれは、シエルが堕ちた地獄とは違う。
なぜならば、才に溢れながらもその価値に固執しない彼はまず、人を妬むことを知らない。
自分を犠牲にしてまで、他者を穢したいと思う狂気を超えた心の闇に、ジャヴが囚われることはない。
身を汚濁のなかへ浸しても光を失わない魂。ジャヴは本当の意味で、他者を羨むことはない。羨望は邪悪な面を持つものだと。
わからないだろう、ジャヴ。あなたは生涯、その神聖さゆえに、わからないだろう。
ゆえにシエルは、あなたを通して、自分のなかで息をひそめていた醜悪の淵を見てしまったのだ。
時として人は、聖なるものに絶望する。
自分を穢れていると思いこむジャヴやティーナ。
しかし彼らは気づかない。シエルや伯爵、そしてリスカが、どういった目で彼らを見ているのか。
何ひとつ穢れていないのに。何も醜いところなどないのに。
そう妬んでしまう、この心の卑小さ。
リスカは確実に、シエルと同じ側の人間だった。だからこそ理解できる。
他人が持つ、自分には与えられないもの。不幸ばかりが自分のまわりに当然の顔をしてあるような。嘆き、憎んでいくうちに、疲弊する。目を閉ざし、何も感じなくなればいいと、願わずにはいられない。
向けられるひたむきな愛情が、心を癒すものではなく、死に至る劇薬としか感じられなくなる。
そうか、だからシエルは、死に至るという媚薬を作ったのだ。
だれよりもだれよりも愛しく、同時に、憎まずにはいられない愛弟子のために。
魂の糾弾。甘い毒のような無償の愛。
シエルは溺れたかった。けれども、最後の最後で自尊心を捨てられなかった。だから弟子を遠ざけようと。
「ねえジャヴ。そんなに穢れを知っているというのならば、逆にあなたは人の穢れを癒すことができるとは思いませんか。だれもが眉をひそめるようなことでも、あなたは目をそらさず、見守れる。摂理の図には、かならず光と影が描かれる。相反する何かがあらゆるもののなかに存在するから。生には死、希望には絶望、善には悪。穢れはいつしか、聖なるものへ」
もう一度、ふうっとジャヴの手に息を吹きかけた。
人世はいつだってせわしなく、小石につまずくようにして困難や悲しみに行き当たり、不意の喪失に立ち尽くす。その負担を少しでも減らすためにあくせくと生きる者の姿は、とても美しいとはいえない。それでも時々、命というのは、土をくっつけた新芽のように、ひどく尊く思えるものだ。
「ジャヴ。穢れていてもいいから、幻ではなくこの現実でたくさん生きてください。きっとその苦しみが軽くなるように、私、なんでもしますから」
震えるジャヴの頭をリスカは抱えこんだ。彼はそのまま、ずるずると崩れ落ちて、リスカの膝に顔を埋める。
リスカは丁寧にその髪を撫でた。ただ嗚咽のみが静かに響く。
「大丈夫、もう大丈夫です」
自分に言い聞かせるように、繰り返す。
リスカが例の恐ろしい約束を思い出したのは、ジャヴが冷静さを取り戻した頃だった。
はっと気がついた時、既に室内はやたらと暗くなっていて――。
半刻を過ぎれば、フェイは死ぬ。
あ。ああああっ!!
セフォーの容赦ない残酷な宣言が頭をよぎり、リスカは思わず両手で頬を押さえた。
「リスカ?」
リスカの膝の上で微睡んでいたジャヴが、異様な気配を察したのか、ふと顔を上げた。
「ジャヴ、少々お聞きしたいのですが……っ」
ああ聞くのが怖い。怖すぎる。
「わっ、私がここへ来てから、半刻、過ぎているでしょうか。いえ、過ぎていませんよね、過ぎてないと言って下さい」
「一刻以上はとうに過ぎているだろう」
潤んだ瞳のまま、怪訝そうにジャヴは答えた。今のリスカにとっては血も涙もない無慈悲な返答だった。ある意味、今のリスカはジャヴよりも救いを必要としていた。
「嘘です。嘘と言って下さい!」
「嘘」
「あからさまな嘘など聞きたくありませんっ」
「君が言えといったのに」
あああああ、とリスカは恐慌状態に陥り、視線をさまよわせた。フェイの命が。どうしよう。
「どいてくださいっ」
落ち着きを取り戻したジャヴなどにもうかまっていられなかった。向こうには本当に屍が一つ転がっているかもしれぬのだ。
リスカは未だ膝の上を占領するジャヴを手荒く押しのけようとした。邪魔だっ。
その行為に、ジャヴはむっとしたらしい。
「どこへ行くのかな」
動こうとした瞬間、ぎゅっと腰を抱きしめられた。
「離しなさい、それどころではないのです!」
もう手遅れやも知れぬ、と考えて冷や汗が出た。
「冷たい事を言う」
ええい、いつまでしがみついているのだ。
「いいのか?」
「何がです!」
「私を置いていくのかな?」
「もうあなたは平気でしょう!?」
「飛び降りようかな」
「な」
「君が行けば、私はその窓から飛び降りようかな」
なっ……。
「師に置き去りにされ、そしてティーナにも。挙げ句君も……となれば、私はとても立ち直れない」
「わざとらしい! 今もの凄く演技的な気配を感じましたよ! 大体、私はまだ死んでいませんっ」
「姿が見えなくなれば同じ事だね」
何なのだ、この男っ。復活したらしたで、大いに厄介ではないか!
「いいですか、人の命がかかっているのです」
「私の命より大事だと?」
できるものならば、思い切りジャヴの頭をはたきたくなった。
なぜリスカの周囲にはこうも癖のある者ばかりが集まるのだ!
リスカは絶叫する寸前で思いとどまり、髪を掻きむしった。
くくくくと笑い声が聞こえる。
「ジャヴ!」
「ああ、分かったから。冗談だよ。それよりね、手を貸してほしい。寝台に戻りたいのだが」
一人で戻れ、と言えぬ弱気な自分が悪いのか。
あんまりジャヴが弱々しく頼むものだから、ついほだされる……それどころじゃないのだが! 万が一にでも、無慈悲に突き放されたと落胆して本当に飛び降りられた場合、目も当てられない。
肩を貸して、やや忙しなくジャヴを寝台に戻し――
「ほわっ」
一体何語だ、という奇声をリスカは上げた。
薄闇の中でも奇麗に輝く瞳が、いやに近い。それもそのはず、なぜかリスカまで寝台に転がされている。
誰も彼も、甘い顔をすればいい気になって!
「リスカ。リル。夜はこれから始まるのだけれどね」
「そうですか、勝手に始まってください」
密かに怒りを抱きつつ覆い被さるジャヴの身体を脇へ除けようとしたが、さっきまでふらふらだったのは嘘だったのかと疑いたくなるほど、びくともしない。
「私は基本的に美女が好きなのだけれど」
「何です、その基本的というのは!」
言葉尻をとらえて思わず突っ込む自分を殴打したくなった。
「まあこのような状況だし」
「状況とはいかようにも変化できるものです」
「なぜだか、先程随分と酷いことを言われた気がしてね」
「気のせいですよっ」
「心身ともに傷ついているらしい、私は」
「薬でも塗っておきなさい!」
「君が薬となってくれるのかな?」
ひえええええ、とリスカは内心で叫んだ。なぜなぜどうしてこんなことに、というか、先刻までのあの深刻な状況はどこへいったのだ。
「私だってかなり酷い事を言われましたよ」
「そうか、では慰めてあげようか」
「結構です、重いからどいてくださいっ」
「へえ。言うようになったね」
顔が近いっ。
リスカは最高潮に狼狽えつつ、顔を背けた。腕を掴まれている上、のしかかられているので動けない。
まるで自分、か弱い女性のように襲われかけているではないか、と思い、次の瞬間愕然とした。なっ、そうなのか!?
自分が!? という驚きにまず打たれるリスカだった。ありえない!
「塔にいた時、君は私に恋情を抱いていたのでは?」
「ななな何をおっしゃいますかお馬鹿さん!」
恋情ではなく、単なる憧れだ妬みだ。有名人を前にした時の、一般人の心境だ。
内心の必死な弁明とは裏腹に、かっと全身が熱くなる。
「今は?」
何なのだ何なのだこの展開は!
「ジャヴっあんまりではないですか、あなたを心配する私に対してこの仕打ち!」
大体、この状態をセフォーに知られたら。
セフォー。
そ、そして、フェイ。
「こここ殺される!!」
「何?」
血の塊となる細切れにされる屍と化す。
リスカは、死に物狂いでジャヴの下から逃れた。
呆気に取られるジャヴを置き去りに、リスカは絶叫しながら、走り回ることになる。
「セフォー、早まってはいけませーん!!」