花炎-kaen-火炎:3


 そして――。
 リスカの店をフェイが辞去してから半刻が過ぎた頃、セフォーが帰宅した。
 夕食の準備や片付けなどを終えてようやく一息ついた頃、リスカは恐る恐る、椅子に腰掛けてくつろぐセフォーの様子を窺いながらフェイがもちかけた話を始めた。
「――と、いうことなのですが、セフォー」
 話を要約すると、以下のような次第である。
 フェイはハルグラムという自然豊かな地の領主でもあるという、何とも次元の違う羨ましい……ではなく、想像通りの大貴族らしい。一体どれほどの領地を有しているのか空恐ろしくもなるが、それはさておき、ハルグラムはこの町より馬車でおよそ一週間程度の移動日数を必要とする場所にあり、未開発の土地が多く人口も少ないため、冬季間じっくりと養生するには適しているという。町全体が閑静な雰囲気に包まれており、噂で聞く温泉とやらもあるらしい。フェイは町の奥地――清閑な地に、これまで狩猟用として利用していた屋敷があるので、旅行先がまだ決定していないのならば自由に使用してくれてかまわぬという。
 勿論、領主のフェイも同行するので、宿泊費、移動代、食費、その他の雑費など一切合切を負担してくれるという、心底褒め讃えて拍手喝采したくなるほど実に素晴らしい提案……いやいや、頭の下がるお誘いである。
 この話を聞いた時は、是非お願いします、と即答したい衝動に駆られたが、人間、誇りを失ってはいけないと寸前のところで思いとどまった。それに、冷静に考えると、経済的な面ではとても助かる誘いではあるが、冬季間中同じ地で過ごすよりも見知らぬ町を練り歩く旅の方が正直、魅惑的だった。
 否、そのような我が儘を言える状況ではないのだが。
 何よりセフォーの意見を聞かずにリスカが独断で決めるわけにはいかない。そんな大それた真似をして、もし閣下の逆鱗に触れでもしてしまったら命が危うい。無事に生きていける自信もない。
 とりあえず返事は保留にして、セフォーの意見を聞こうと、虎視眈々と狙っ……ではなく、戦々恐々と様子をうかがってみたのだった。
 ――が。
 セセセフォー、微妙に、その、何とも言えぬ冷気を発しておりませんか。
 ああ、あなたの無表情は天をも凍らす氷の調べ……などとリスカは密かに震えつつ意味の分からぬ感想を胸中で漏らしていた。
 お願いです、何でもよいので一言だけでもいただけませんか、あなたの沈黙以上に恐ろしい時間が果たしてこの世に存在するでしょうか、否、するはずがない、と心の中で自分の言葉を否定した。
 今までセフォーの腕にしがみついたりぶらさがったりなどして楽しげに戯れていたシアが、まるで災いから避難するようにぎこちなくそっと後退りする仕草を見せた。その警戒心色濃い動作に全ての解答が詰まっているような気がしてならないと思うのは、深読みのしすぎだろうか。
「あのう、セフォー」
「リスカさん」
「はい!」
 思わず飛び上がってしまった。
 ええ、何でしょう、逆らう意志など無論微塵もありませんのでこの際どんなことでも聞いてください、全てありのままに返答致しますとも、とかなり情けない思いを抱きつつ、決死の覚悟で愛想笑いを浮かべた。
「リスカ」
「は」
「結界は」
 あ。
 リスカの笑みが固まった。
 ついでに逃走途中だったシアの足もとまった。沈黙の天使ならぬ氷雨の鬼神がリスカとセフォーの間を駆け抜けた気がした。錯覚であってほしい。
「私がいない間は」
「あぐ」
「結界を、と」
 リスカは笑みを顔に張り付けたまま、さあっと青ざめた。い、言えない。
 すっかり忘れていました、などとは。
 そうだった、セフォーが外出する時は、必ず結界をはれときつく命令されていたのだった。
「あの、ですが、そうしますと、客も阻むことになるわけで」
「客」
「ふぐぐっ」
「店は閉めると言ったはず」
 リスカは窮地に追い込まれた。ご指摘通り。店を閉めるのだから、客の訪問は関係ないのだ。下手な言い訳などするものではないと猛省したが、時間は巻き戻せない。自分の言葉で首を絞める、といういい例だった。
 今更、結界はきちんとはっていましたよ、などと嘘はつけない。フェイを室内に招き入れた時点で、話が矛盾するのである。
 セフォー、今日はとびきり冴えていますね、と軽口を叩いてけむに巻く真似などリスカにできようはずもなかった。
「リスカさん」
「す、すみません」
「謝罪ですむと思いますか」
 夢でもいいので思わせてくださいお願いします、と本気で平伏したくなった。
「あなたは」
「ぐ」
「私の話を聞いているのですか」
 あ、奇遇ですね、似たような言葉をフェイにも今日言われました、と口にすれば、更なる恐怖の時間が到来するに違いなかった。
「ももも勿論しっかりと聞かせていただいております。が、その、私、片付けに夢中になってしまいまして、つい」
「つい?」
「うぐっ」
 リスカは涙目になりつつ、卓上で硬直しているシアに助けを求めるべく視線を送った。シアは「ごめんね……」という様子で目を逸らし、突然そわそわと毛繕いを始めた。ああシア、私と一緒に痛みと恐怖を分かち合おうという義侠心はないのですか!
「リスカ」
 セフォーがとんとんと指先で卓上を叩き、注意を促した。ひ、とリスカは仰け反りかけた。
「行きたいのですか」
「うむ?」
「その男のもとへ」
 セフォー、こう言うのはなんですが、あなたの訊ね方は何とも微妙な含みがあるような。その上、一つ間違えば、端的な言葉だけに誤解を招く危険性があるような。
「なぜ、あなたは」
 何でしょう、セフォー?
 セフォーはふと吐息を落として視線を伏せた。淡い色の睫毛が、薄い影を目の下に落としていた。燭台の灯りがセフォーの横顔を淡く照らしている。睫毛にも髪にも暖かな色の光が乗って、静かな美しさを形成していた。
 顔の陰影がはっきり見て取れるほど、近い場所にセフォーはいるのだ、と不意に気がついた。髪の一本一本が見て取れるほどに。
 リスカは少し――見蕩れていたかもしれぬ。
「あなたは、いつまでも、私を頼ろうとはしませんね」
「……は」
 セフォーは音もなく立ち上がった。
「勝手になさい」
 怒りをぶつけられたというよりは、冷ややかに拒絶された気がした。
「セフォー」
 慌ててリスカも立ち上がり、居間から出て行こうとするセフォーの背に呼びかけた。
「あの」
「何か」
 混乱してすぐには次の言葉が見当たらない。ただ喘ぐように口を開き、結局、困り果ててセフォーを見上げた。
「行きたいのであれば、そうすればよいのです」
「セフォーも、同行してくださいますか」
 セフォーはゆっくりと瞬いたあと、無表情よりも完璧な凍える微笑を浮かべた。
「さあ」
 余韻を残すこともなく、曖昧な返事をしてセフォーは行ってしまった。
 呆然と立ち尽くして、リスカはしばらく後、口元を覆った。
 己の失敗に気がつく。
 なぜあのような聞き方をしたのか。
 同行してくれるか、ではなく、一緒に来て欲しい、と言わねばならなかったのだ。
 いや、その前に――やはり、セフォーと一番先に話し合うべきだった。
「……馬鹿だ」
 リスカは呟き、額を押さえた。
 
●●●●●
 
 考えすぎると、眠れない。
 既に明け方近い時刻。深い夜の闇が、透明な水を加えたかのように少しずつ青くなり、薄まっていく頃だ。
 リスカは観念して寝台から身を起こし、乱れている髪をかき回した。いくら横になっていても、一向に眠気を感じない。ならば眠るのは諦めて気分転換をした方がまだしも健全というものだった。
 夜着の上に長い肩掛けを羽織り、腕をさすりながら寝室を出る。朝方はひどく冷え込むため、家の中にいても呼吸をすると白い息が漏れる。
 この張りつめた早朝の空気は嫌いではない。夜の淵から救い出された朝の大気はまだ汚れておらず、清冽な川に全身を浸しているかのような快さと透明感があるように思う。冷たい空気を身体の中に取り込むだけで、気が引き締まるのだ。
 だが、今日ばかりは朝の鮮烈な大気でさえも胸の底に蔓延る憂鬱を洗ってはくれなかった。
 通路に出たリスカは一度セフォーの部屋へと戸惑いを含んだ視線を投げ、緩く首を振ったあと、階下へと足を向けた。
 暖炉に薪を用意するのは、喉を潤したあとでいい。そういった他愛もないことを考えて、脳裏によぎるセフォーの姿を消そうと試みたが、うまくいきそうになかった。
 小さな調理場へ向かったリスカは、食器棚の硝子戸を開けて木杯を取り出した。こうなれば、水ではなく酒でも飲もうかと、酒瓶を収納している隠し倉を半ば自棄になって睨む。
 ――セフォーだとて、行動が矛盾しているではないか。
 リスカは料理台のふちに両手をついて、深く息を吐いた。八つ当たりに似た苛立ちが静かに募る。
 セフォーは今、不在である。
 時々、彼は真夜中の内にそっと家を抜け出して、どこかへ外出しているのだ。
 セフォーの不審な行動に気づいた時、最初はこのように考えていた。不法侵入を企む夜盗の類いを、追い払ってくれているのだろうと。実際、そういった第三者の気配を感じた夜があり、セフォーが成敗しにふらりと扉を開けて出ていくところを目撃していた。
 ただ、見張りなどの回数にしては、外出の頻度があまりにも多すぎる。
 確かにリスカの店は町外れにぽつりと存在し夜間は人の気配が少ないため、夜盗の被害に遭いやすいだろうと思うが、それでも数ヶ月に一度という程度なのだ。祭りなどの特別な行事がある時期は魔が差して盗みに入ろうと目論む者も増加するが、それは一定の期間にすぎない。
 月に何度も、多い時は数日に一度、セフォーは外出し、リスカが目覚める少し前に帰宅する。
 夜間外出の理由について、リスカは一度もセフォーに問いただしたことはなかった。初めは安易に不法侵入者の駆逐かと怯えていたし、疑惑を抱いた後は別の感情が生まれて聞くに聞けなかったのだ。
 セフォーの行動に口を挟み束縛する権利は、リスカにない。彼がどこへ行こうと、何をしようと、自由なのだ。
 訊ねてみたいとは思う。同時に、己の心の平安を得るためだけに余計な詮索をするなど恥ずべきことだとも感じる。夜が更けたあと、何も告げず密やかに外出するということは、リスカに事情を知られたくないためではないかと考えるのだ。
 だとすると、やはり不必要に探りを入れるのはセフォーに迷惑をかけるだけであろう。
 リスカと違って、セフォーは誰の手を借りずとも己を立たせることができている。極端な話、過ちを犯したとしても、突出したその能力で罪そのものを帳消しにすることが可能なほど強靭なのだ。
 彼の抜き出た気配、身に宿る圧倒的な力、くわえて際立った容貌などは――羨望を抱くよりも前に畏怖の対象として映り、迷いの多いリスカを絶えず悩ませる。セフォーの目に、リスカの姿はとても卑小で愚かしく退屈なものとしか見えていないのではないかという、息がつまるような不安。心の奥底に沈殿するこの悩み、未だに消えぬ。
 セフォーの目を直視できぬ理由の一つには、こういった卑屈な恐れがリスカの胸に隠されているというのがあるのだった。無論、単純に壮絶な重圧感が全身を襲うという理由もあるのだが。
 対等の位置には立てない、と今も尚痛感するリスカに、何が言えるだろう?
 ただ、浅ましい苛立ちを押し殺して何事もないように振る舞うしか、術がないではないか。
 ――結界をはれとか、言うくせに。
 セフォーが外出する時は必ず結界を作り防衛を怠るなと。
 ならば、あなたが無断で出て行った夜、私はどうすればいい?
 あなたがいない深夜、私は結界を作っていない。しかし、あなたはそれを一度も責めないではないか。
 矛盾、ではないのか?
 リスカは小さく笑った。
 馬鹿だ。
 無意識に、リスカは抵抗したのだ。事実の欠片でもいいから見定めようという表層意識下の淫らな思いにより、昨日の昼、店に結界をはらなかったのだろう。忘れていた、という焦りも掛け値なしに本物だが、一方でぎくりとする感情もあったのだ。フェイの訪問は偶然だったが、歯車は勝手に回り出してリスカの手に負えぬ方へ未来が進みつつある。
 案の定、セフォーは防衛を怠ったリスカを責めた。
 リスカは、予期した通り、深みにはまってしまう。
 なんて子供じみた反発心だろうと己の言動を振り返る。旅行の費用や行き先について相談を持ちかけずにいたのは、何もセフォーの現実離れした奇天烈な行動の行方を懸念したばかりではあるまい。
 ――隠し事には、隠し事で対抗を。
 浅薄な心理だ。己のくだらなさにリスカは心底うんざりした。
 一体自分は何を望み、何をしたいのだろう。
 自分を信じきれていないから、強く願うことも引き止めることもできない。
 フェイの誘いについても、「共に来てくれるのか」と決断をセフォーに預けてしまった。
「何をやっているのだ、私は」
 リスカは眉間を押さえて、瞳を閉ざした。
 しんしんと冷える明け方の気配に包まれ、身体も心も温度を失っていく。
 このまま凍り付いてしまえばいっそ悩まずにすむ、と自暴自棄になった時、ふと、リスカは瞼を開いた。
 気配。
 何者かの気配を、リスカは感知した。



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