花炎-kaen-火炎:4


 リスカは意識を研ぎ澄ませ、察知した気配の方へ足音を殺してゆっくりと近づいた。
 店の扉の前に、見知らぬ気配が漂っている。
 盗賊なのか、とリスカは用心のため花びらを取り出そうと懐に手を差し込んだあと、微かに眉をひそめて内心で舌打ちした。
 携帯用の花びらを部屋に忘れてきてしまった。
 いつもこうだ、肝心な時に必要なものが手元にない。自分の迂闊さ、軽率さに失望するよりも呆れてしまう。
 リスカはすぐに無意味な思念を打ち消して、刹那、悩んだ。どうする。花びらを取りに部屋へ戻るか。だが、その間に戸外に存在する何者かは去っていくだろうと推測できた。
 ならば。
 丸腰の状態ではあったが、その者と接触する道を選択した。一つ、もしかするとという閃きがあったのだ。
 外へと繋がる扉の前に立ち、静かに開け放つ。
 夜の色合いを濃厚に残した青い大気の中、扉を開放したリスカの前に、包みを抱えた影がうずくまっていた。
 
 
「――あなたは」
 リスカは目を見張り、呟いた。
 殆ど空気を震わせることなく静寂に溶けたリスカの言葉に、影は大仰に身をすくめた。緊張で張りつめた空気が針のごとく頬を刺激する。逃げ出そうという意思と怯えを素早く感じ取ったリスカは、影が行動に移すよりも早く穏やかな微笑みを唇に乗せた。内心の驚愕をうまく隠しおおせたとは思う。
「いつぞやは」
 身を縮めていた影は、気負いのないリスカの台詞に恐る恐る振り向いた。
 リスカは微笑を絶やさず、軽く頷いた。
「あなただったのですね、毎日、私に贈り物をくださったのは」
 影はおどおどとしながらも、危険はないと理解したのかリスカをじっと見返した。
「お礼がしたいのです。どうぞ中へお入りください」
 リスカは一歩後退し、室内へといざなうように手を差し伸べた。
 食材を包んだ贈り物を抱えて途方に暮れる影――忘れるはずもない。
 理不尽な理由でリスカが投獄された時、命の水を譲ってくれた囚人が、目の前にいた。
 
 
 何と様変わりしたことか。
 リスカは不躾にならぬよう己を戒めながらも、かの者の姿を長く見つめた。
 月明かりすら存在せぬ暗い牢獄で対面した時、この者はとても正視できぬ無惨な容貌をしていた。手首の先は壊死して腐敗した肉の間から骨が覗き、眼球の一つは機能を失い飛び出ていた。また、全身の筋肉や脂肪も壮絶なほど削がれて、頭髪も殆どが抜け落ちていたはずだ。鼻は潰れ、歯の殆どが失われていた。足首の先も溶けていた――人が人であることを放棄した時の成れの果てのような呪わしい肉体であったのだ。
 長い幽閉生活は身に宿る魂も狂わせた。理性までも叩き壊されて、残ったのは白痴のごとき精神のみ。そういう異形と化した囚人に、あの時のリスカは救われたのだ。
 今も――別の意味で、異形としか表現できぬ容姿だった。
 機械人形、とリスカは胸中で独白した。治癒が届かない程失われた肉体の器官を補うために、服の袖から覗く腕や顔の一部分、恐らく脚、肩なども含めた至る所に精巧な機械が埋め込まれている。
 リスカは過去、旅先で目にした不思議な機械仕掛けの人形を思い出していた。死者の皮膚を張り付けて製造したと噂されていたその人形は恐ろしく精密で、清楚な衣服を着せて鬘を乗せれば、動作は多少不自然さがあるものの、遠目からでは殆ど人間と区別がつかぬほど端正だった。
 関節部分に油をさして螺子を回したあとに手拍子を打つ人形師の誇らしげな顔が脳裏によぎった。命を吹き込まれた人形に、これは見事だと感嘆の声を漏らした覚えがある。
 リスカは気分を落ち着かせるため、軽く背伸びをして息を吸った。
 人間のまま人形と化した異形の者が、リスカの前に存在している。
「うぅ、あぁあぁ」
 どこか軋んだ唸り声を、その者が発した。リスカは驚きを押し殺して、もう少し笑みを深めた。
 その者の片目には硝子細工の美しい紺青色の石がはめ込まれていた。
「うう、あ、あう」
 異形の者は、怖々とリスカへ包みを差し出した。少しの動作であっても、大小無数に存在する螺子や銀線などの部品がきりきりと回り始めるのが見えた。内部の精密な部品を保護するために、人の血管めいたしなやかな細い管が何本も走り関節と関節を繋いでいる。
 機械と錬金術を融合させた学問を、工黄学(こうきがく)、という。
 神秘や自然の理を基盤とする魔術とは、目指す領域は同様であってもそこへ辿り着くまでの工程が見事に分岐する驚異の学問だ。並べて優劣を決定付けることはできぬ。
 術式と数式、その二つは似て非なるもの。
「私にくださるのですか?」
 こくんと異形の者は、幼子のように頷いた。からくり人形のような奇妙な間を取り、再び頭を上げて首を傾げている。正面に立つと、異形の者はリスカよりも背丈があった。青い世界の中に佇む異形の者を眺めていると、リスカまでがからくりの一つに変貌してしまうような錯覚に苛まれた。人の域から片足を踏み出した異形の者の尋常ではない姿は、その歪さゆえに不完全な美と呼べる背徳的な艶があった。
 リスカは妖美な気配に息を呑みつつ、異形の者の眼窩に押し込められた紺青色の石を覗き込んだ。石の奥には、虹彩の中央にある瞳孔の代わりに、何かが埋め込まれているのが分かった。薄闇を光のごとくに反射する金色のそれはごく小さな形でありながら、なぜか細部まで明瞭に見て取ることができた。蜂に似た虫の化石のようなものが、石の中央に施されていたのだ。この不思議な偽物の目は、外部より与えられる光や焦点の深度を測る通常の目とは違う機能を持っている、と気づいた。これは魔石だ。瞳孔が縮小するように、魔石の中の虫が羽を震わせている。
「ありがとう、嬉しいです、とても」
 差し出された包みを受け取り、にこやかに返答しつつも、リスカは目まぐるしく様々な疑問を思い浮かべていた。まず、なぜリスカに贈り物を届けるのか。また、一体誰が、破損した身体の箇所を補うために精巧な機械を組み込んだのか。異形の者は、現在どこに身を預けているのか。
「あぁ、うあ」
 無事な方の目を細めて異形は無邪気に笑った。リスカに礼を述べられて、喜んでいるらしかった。稚い子供のような精神は、なぜか安堵をもたらした。自然な微笑が自分の顔に浮かぶ。
「――うむ?」
 リスカは、わわわっ、と小さく奇声を発した。
 嬉しさのあまりか、異形の者が機械仕掛けの腕を伸ばして抱きついてきたのだった。
 焦りと驚きはあったが振りほどく真似をすれば、異形の者は途端に警戒を滲ませるだろうという確信があったので、結局されるがままに身をまかせた。
「うあー、うー、ああああー」
 うむ、何を言っているのか全く分からぬが、普段の自分は言葉の通じぬシア、それに端的な台詞を繰り出すセフォーと意思の疎通を果たしているという輝かしい立派な戦歴があるのだ。これくらいでは動じぬ。
 などと、自分の功績を褒めたたえつつ、すり寄ってくる異形の者の背を宥めるように軽く叩いた。
「ああ、はいはい、嬉しいのですね。ええ、私も嬉しいですよ」
 うう、ああ、と異形の者は返事らしき声を発していた。
 ふむ、この調子であれば、室内に引き込むことができそうだ。
 と内心で計画を立てた時――
「――リル!」
 
 
 突然、渾名で呼ばれ、リスカはぎょっとした。
 千客万来な朝だ。
 リスカに抱きついて喜びを示していた異形の者は、鋭く響いた第三者の声に過剰なほど震え、ばっと離れた。
 向かいの通りに視線を投げると、そちらに厳しい目をしたジャヴが立っていた。
「ジャヴ?」
 躊躇いがちに呼びかけた時、ジャヴはこちらへ一歩を踏み出した。
 すると異形の者は傍目にも分かるほどおののき、数歩後退りした。硝子の目と生まれ持ったままの目は両方ともジャヴの姿に釘付けだった。
 激しい恐怖をまといながら異形の者は身を翻し、リスカが制止の声をかけるよりも早く逃走した。不自然な脚の運び方だったが、予想外に俊敏な動作だった。
 ジャヴは険しい眼差しで異形の者の背をとらえ、言霊を紡ごうとしていた。
「ジャヴ、おやめなさい!」
 束縛の術を行使するつもりなのだと察したリスカは、落胆を消し去り咄嗟にジャヴをとめた。
 気勢を削がれたらしいジャヴは僅かに顔をしかめてリスカに向き直った。リスカは無言で首を横に振った。
 異形の者の姿が薄闇をまとう木立に紛れて見えなくなった頃、ジャヴは重い溜息を落としてリスカに近づいてきた。
「リル。早朝から奇形の化生と逢い引きかな」
 痛烈な皮肉に、リスカは内心で臍を曲げた。
「さて、それはどなたのことでしょう?」
 と、リスカは目の前にまで接近したジャヴを見据えた。
「おや、今日の君はどうも機嫌が悪いらしいね」
 ジャヴはふと瞳の険しさを消して苦笑した。
 滑らかな美しい髪が、未だ青さをたたえる大気の中で暗い輝きを宿していた。
 鮮明に焼き付く碧の双眸。彼もある意味において、人形のように奇麗なのだ。
 美貌を映す魔術師は、気怠そうに髪をかきあげたあと、扉の脇に軽くもたれかかった。
「……今日は、雨が降ってはいないようですが」
 リスカはそう呟き、瑞々しい青い空を見上げた。
 ティーナやシエルがこの世を去ったあと、なぜか雨の日に、ジャヴが姿を現すことがあった。といっても、挨拶をしにくるわけではなく、ただひっそりとリスカの店が窺える通りに立ち、冷たい空の涙に打たれているのだ。
 リスカは幾度か、木陰で頭を抱えるジャヴを迎えにいったことがある。しかしそういう時の彼は、強く言い聞かせても柔らかに頼んでも、決してリスカの家に入ろうとはしない。激しい拒絶を見せるのに、その場を去ることもできぬ様子だった。ゆえにリスカは辛抱強く、彼が己の中に抱いた混迷の海から抜け出すまで冷たい手を握り続ける。
 フェイが昨日の午後訪れた時、ジャヴの様子をうかがったのは、こういった事情があったためだった。魔術師としての本分は、何よりも理の前に平静であれと。だが、人としての領域において、時々過去に足元をすくわれ均衡が崩れるのだ。
 狂気と正気の狭間に立つ者。
 先程の異形の者も、恐らくジャヴも。
「リル、君には時々苛立ちを感じるよ」
 店の外壁に寄りかかっていたジャヴが、足元に視線を落として呟いた。
「同感です」
「己自身も認めるのか」
「いけませんか」
「認めるならば、態度を改めればいい」
「人は面妖なものです。不快と言いながらも、望み通りに振る舞えば、次にはその従順さが気にくわぬというのです」
 ジャヴが壁から背を離し、鋭い視線をこちらへ向けた。
「リル、私は私を憐れむ者を、その憐れみ以上に穢したく思うのだよ」
「おやりなさい。望むだけ」
 とどまれと制止をかける自分の声を、リスカは意識の奥で聞いていた。
「都合良かろうな。今のような醜い異形の者ならば、憐れむ要素を山ほど探せるだろう。優越感を味わうには丁度良い」
 ジャヴは艶美な微笑で、皮肉を紡いだ。
「――醜いとは思いませんでしたが」
「戯れ言だな。そう捉える理由は、あれを人ではなく玩具の類いとして見たためだ」
 ジャヴは貴族出身の魔術師だ。魔術師としての生を選択した時点で生家と切り離されるが、それまでに得た教訓や知識は拭えないものである。
 さぞフェイと気が合うだろうとリスカは我ながら卑屈な思いを抱く。彼らは根底に、庶民を目下の者と見下す意識が存在する。ゆえの驕りを、当然の認識なのだと信じて疑わぬ。どれほど誠実で正しく寛大な貴族であろうとも根本的には変わりなく、堅固な身分の差は自我に深く食い込むのだ。
 貴族の男が町娘に恋をしたとしても、愛にはならぬ。あくまで通り雨のような、その場限りの感情であり火遊びに過ぎない。妻の対象としては映らぬ。いわば、愛玩動物の一種として接するのだ。特に若い貴族ならば、駆け引きを必要とする社交場が念頭にあるため、経験を積み手管を学ぼうと積極的に恋を求める。また友人間で、恋の数を競技のように捉え、没頭するという。恋とは彼らにとって優雅な慰みであると同時に、謀が錯綜する貴人の世界を渡り歩くための不可欠な修練場だった。友人関係ですらも打算がつきまとい、将来に深く影響する。
 そういった事情を抱いているのだから、たとえ普通に接しているようであっても、彼の意識はリスカより上にある。こうなると最早、優越感ではないのだろう。高貴な血筋の者が魂に刻む歴然とした選別意識は、国を維持する力となるほど強固なのだから。
 ――炎と痛みをリスカに与えたフェイは、許せ、と言った。
 言い換えれば、許さねばならぬことなのだ、と。
 あぁ、だからこそ、いつまでも許せず引きずるのだと、リスカは悲しい事実を悟った。



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