花炎-kaen-火炎:5
「あのような異形の抱擁を受けて、悦びを知るのか?」
明確な蔑みの声に、リスカは我に返った。
「つまらぬことを言うのですね。そのような含みは、私の中にはなかった」
「ではやはり君も、あれを人とは捉えていないのだろう」
「あなたが私を魔術師とは見ぬように、ですか?」
この時、リスカの精神は自分が認識する以上に、荒れていたのかもしれなかった。口にした途端、激しい自責の念に駆られる。
「なぜ――こんな早くに、ここへ?」
リスカはすぐさま別の台詞を紡いだ。
ジャヴは鮮やかに唇の端をつり上げた。
「来るつもりはなかった。けれど、興味深い者を町で見かけたのでね」
ふと胸が騒ぐ。リスカは乾いた咳をした。白い息が大気に溶けた。
「君専属の破壊神を見かけた」
リスカは呼吸を止めて、瞬いた。悪意が来る、と身構える。
「花苑の方で」
花苑(かえん)とは要するに色町の別称だ。娼館がずらりと並ぶ華やかな一画を、そう呼ぶ。
セフォー。
――本当に?
リスカは唇を噛み締めて、俯いた。駄目だと思ってもなぜか鼓動が早まり、言葉にならぬ奇妙な衝動をうまく処理できない。手酷い言葉を投げかけられると警戒していたはずなのに、簡単に惑わされてしまったのは、予想外の方面から話を切り出されたためだった。気持ちを立て直したいと咄嗟に考え、返答を忘れる。
気がつくと、ジャヴに顎を取られ、身長差をもって真上から顔を覗かれていた。
「補足しよう。世にも稀な美貌の妓を伴っていた」
心臓に打ち付けてくるものがあった。堪えきれずに、顔が歪むのが分かる。嫌だ、このような見知らぬ感情に動揺などあらわしたくない。
「見間違えたのかと。それで、こちらへ来たのだが。さて、君の破壊神は家にいるのだろうかな」
いない。時々、真夜中に外出をして――。
本当に、セフォーが花苑へ?
「君のそんな表情を見られるとは思わなかった」
期待通りで失望しましたか。
リスカは顎にかけられたジャヴの指を無言で外そうとしたが、逆に強く掴まれた。碧の双眸が逸らしようのないほど間近にあった。
「望むだけ穢せと言ったのは君だ。挑発しなければよかったものを」
つい、苦笑してしまった。意識が瞬時に切り替わる。
「ねえジャヴ。私を穢すのならば、今の一言は無用でした」
僅かなりとも、気が咎めたのか。
こちらの心情を窺う一言のお陰で、濁る視界が晴れてしまったのだ。本当に貶める目的であれば、悪意の台詞を間断なく畳み掛けるべきだった。
だが、その気遣いにより、逆にジャヴの言葉が真実であると悟る結果にもなったのだが。
「君は本当に、苛立たせてくれる」
そう呟いたジャヴの瞳に、影が落ちる。
「あのような異形の者、側に寄せるべきではない」
ジャヴは嫌悪の表情で吐き捨てた。
分かっているのだろうか、かの者が、幽閉されていた囚人の一人であると。
異形の者がなぜジャヴを目にして逃走したのか、理由は明らかなのだ。ジャヴやティーナ達が、彼らの自由や尊厳を剥奪したのである。また残酷な折檻を受けるのではと恐怖を抱いて逃走するのは当然の心理だった。
リスカは嘆息した。ティーナや伯爵達が死をもって罪科を清算しようとしても、現実にはこうして深く禍根が残される。死は完結ではなく、犯した罪の波紋は広がっていつまでも生者の足に絡み付き、苦しみを与えるのだ。
過ちは過ちを呼び、望まぬ明日を紡ぎ上げる。
たとえティーナがどれほど悲しい過去を抱いていたとしても、それは彼女側の事情に過ぎず、罪は歴然と罪のままあり続けるのだ。被害を受けた者達にとって、ティーナやジャヴの姿は恐らく憎悪の対象としか映らないだろう。
連綿と続くしがらみの糸は生死をこえ、途中で切れることはない。
――その糸は、彼らに関わったリスカやセフォーの身にもやはり巻き付けられている。
ジャヴがここへ足を運ぶ理由もまた、明白だった。そう、どのような事情があったにせよ、ジャヴの愛する師を殺めたのは、セフォーなのだ。
リスカを貶めた、という理由で。
リスカは暗い表情を浮かべて、ジャヴを見つめた。この事実を知っているのは現場にいたフェイとリスカ、セフォーだけなのだ。恐らくフェイは何も真実を告げてはいないだろう。ならば、リスカが言わねばならない。
「ジャヴ」
「言うな」
何かを感じ取ったのか、ジャヴは素早く拒絶した。
「私は死ねない。死ぬことは許されない」
リスカの顎を掴んでいた指は、そのまま輪郭をなぞるように肩へと落ちた。今にも崩れ落ちそうなほど、ジャヴの顔は血の気が引き、白くなっていた。どこか焦点の合わぬ虚ろな眼差し。微かに睫毛が震えていた。目の下に薄らと隈ができていて、今頃彼がひどく疲弊しているのに気づく。
「死ねないのだ。セフォードを恨むことはできない」
震える言葉に、リスカははっとする。
ジャヴの真意が分かったのだ。
死ねないのは、冥土に恩師の魂が眠っているためだ。追従するように命を絶って、再び恩師の魂を狂わせぬようにと、そう己に科して――
フェイやリスカに訊ねずとも、並みならぬ実力を持った魔術師であるシエルを殺せる者など、そう多くは存在しない。例外を作るほどの存在でなければ、恩師の力を凌駕することは不可能だ。
ゆえに、説明を誰かに求めずとも、死神との異名と破格の力を持つセフォー以外に、恩師を殺めることが可能な存在などいないと、すぐに結論を出せるだろう。
セフォーが憎くてたまらぬはずだ。罪を共に被ろうと決意するほどジャヴは盲目的に恩師を敬愛していたのだから。
けれど復讐は許されない。
無情な、厳然とした事実が横たわっている。
ジャヴの力量では、セフォーを破れない。
圧倒的な力の差が、憎悪すらも粉砕するのだ。
そしてセフォーには罪悪感もなく、躊躇も憐憫もない。もしジャヴが殺意を抱けば、セフォーは呆気ないほど容易く死の刃を振り下ろす。
ジャヴやティーナが囚人達の命を顧みなかったように、セフォーも彼の命を重んじない。
殺意を向ける者の心情を慮り、生かす義理などセフォーにはないのだ。
「己が分からぬ、私は」
ジャヴは低く笑って、リスカの肩を強く掴んだ。羽織っていた肩掛けが音もなく地面へ落ちたが、拾うことができない。急に肌寒さを感じて、リスカは不安を抱いた。一度視線を逸らし、再び碧の瞳を覗き込む。
理性は恨みを封じよと叫び、一方では憎悪の受け皿を探し求めて彷徨っている。雨の日にここへ来るのは、相反する二つの声に狂わされたためなのかもしれぬ、とリスカは思った。
「私を……恨みますか」
身体の中で巡る血がどくどくと激しく脈を打っている気がした。何を口にしているのか、自分でも疑問に思うような不確かな気持ちだった。
「原因は私なのです。シエル殿が私を罵倒し、その結果セフォーが手を下した。私を、不具の魔術師だと、そうシエル殿が罵って」
こちらにとって甘受せねばならぬ暴言、のはずである。正規の魔術師達の言い分では。
反駁するなど論外であるはずの言葉。事実とも取れる。
身分の壁と同様に。
あぁ、またそこに囚われるのか、とリスカは目眩がした。身分という化け物にリスカもとり憑かれている。
「卑しい者と、あなたの師が」
「リル」
「私を恨めばよいのです。セフォーよりも」
リスカはしっかりとジャヴの目を見据えた。
身の内に炎のごとく燃え上がる意思は、怒りか失望か、悲しみなのか。しかしリスカは、一瞬ののちに生々しい熱情を諦観へとすり替えた。
「それとも、自分よりも劣る不具の魔術師風情などを対等の者として扱い、恨むのは、矜持を傷つけますか」
「君を恨むも彼を恨むも同じであろう。君は彼に守られている」
「どうでしょう? 今は違うかもしれない。私より別の者に興味が移ったのでは」
結界を作れと忠告しながら、セフォーは真夜中、花苑へ――。
どうしてこれほど自分は愚かしいのだろうなと、リスカは苦い思いを抱いた。
何事にも無関心ではいられぬくせに、自分を騙すこの卑しさ。
「リル」
名を呼ばれ、リスカは瞬いた。ふと、ジャヴの艶やかな唇が、今日は少し乾いているのに気づいた。リスカは無意識に指先をそっとジャヴの唇に乗せた。
「ずっと外にいたのですか? 身体を暖めた方がいいです」
笑え、とリスカは自分に命じた。自分は術師だ。理の力で、感情の波を宥めよと。
「リカルスカイ」
「中へお入り下さい。暖炉に火を起こしますから」
知らぬ間に夜の青さは失われ、地平線の向こうから白い光が放たれていた。太陽が蘇り、大地が目覚める。
「リスカ」
「お茶を入れましょう。そして、少し眠りなさい。ひどい顔色をしています」
視線を逸らした時、ぐっと腕を掴まれた。
「私は恨まない。君を対等には扱わない」
扱えない、の間違いだろう、とリスカは内心で答えた。
「――その身を、差し出してもらおうか?」
「……何です?」
ジャヴが小さく笑った。意味がよく分からない。
「恨めと言うのなら」
くすぶる悪意がこちらを捉える瞳に浮かぶ。
「死の媚薬、腹上死。全く馬鹿馬鹿しく卑賤な企み。だが、人間はなんて容易い方法で穢すことができるのだろう。深く計謀をめぐらすよりも、人は余程、恥ずべき稚拙な行為に惹かれるものだ。それはなぜか。愚か者にも貴人にも共通する、最も理解しやすい衝動のためだ。安直なだけに、威力もある」
不意に背が仰け反るほど強く抱きしめられた。腰と首の後ろに腕を回されて、抜け出すことができない。頬に触れるジャヴの外套は凍える外気を閉じ込めているかのように冷たかった。ジャヴは屈強とは言い難い肢体であるのに、抗うこともかなわぬほど突然の束縛は強さを秘めていた。
「君は堕落するだろうか? 我を失うほどの愉悦を知ったあとに」
耳朶に触れるほど唇を近づけられ、呪文のような言葉が吹き込まれる。
「君が今よりもくだらぬ者に成り下がれば、私も一時、平穏を手に出来るだろう」
リスカは身体を引き剥がそうと躍起になり、ジャヴの外套をきつく握った。
「紡いでみせようか、外道が好む愉楽の術を。陰陽の理を穢し昼夜の軌道を塗り替えて、甘い罪を刻んであげよう」
「苦しいです、ジャヴ!」
ジャヴは罪深いほど華やかな笑みを浮かべて、もがくリスカの目尻に唇を当て柔らかく吸った。一瞬、身がすくむくらいの痺れが走り、視界が霞む。
「君、溺れたくはないか? 塔時代、私の前で目を伏せていたのは君だろう」
「何を――」
「私をあげるよ、リル。お前の身を差し出せば」
ジャヴが笑う気配が、身体に直接伝わった。どうしようもない、とリスカは思った。屈辱と焦燥感を抱く自分の他に、ひどく冷静な自分もいる。
「心などはいらぬ。玩具となる身がよい」
慣れている。馬鹿らしいほどこの手の恥辱、過去の自分は味わった。
まさか、ジャヴにまで心を斬りつけられるとは想像していなかったけれど。
「つまらぬものが、丁度よい」
髪に唇が落とされる感触があった。そのまま滑るように、首筋へ。分からない、よく前が見えない。
肩に微かな痛みを感じた。服の上から軽く噛まれたのだ。首筋に触れる冷たい髪の感触に、胸がざわめく。嫌悪なのか心地よさを感じたのか判別はできない。不意に耳の付け根を強く吸われた。耳朶からこめかみへ。再び緩く肩を噛まれ、首筋に唇を押し付けられる。身体ががくんと崩れ落ちるような、不可思議な衝撃が走った。唇の当たる音に身が震えそうになり、リスカは呼吸を殺した。揺らぐ身体を支えようと、無意識にジャヴの背に腕を回していた。ジャヴは低く笑い、俯くリスカをゆったりと深く抱きとめた。
「ねえリル。人とは、神の見せ物に過ぎないとは思わないか」
不意にジャヴの声音が変わる。
「――」
「だが、人とは、神を気取るもの。人は人の中に見せ物を作る」
ジャヴがなぜか唐突に身体を離し、淡く笑った。
リスカはぼんやりと、視線をさまよわせた。
「……セフォー」
白銀の髪を垂らした破壊の神。大気を打つほどの威を持つ人が、戻ってきたのだ。