花炎-kaen-火炎:6
セフォーは多分、腹を立てていたのだと思う。
ジャヴに突然腕を離されたリスカは自分の身体を支えきれず、その場にくたりと座り込んだ。ひどく動悸がする。
「朝帰りかな。破壊神殿は」
ジャヴは腕を組み、何事もなかったかのように落ち着いた口調で言った。
「気をつけた方がいい。君の留守を見計らって夜這いに来る者が現れるようだ」
ジャヴの台詞は、先程の異形の者を揶揄しているらしかった。
セフォーは襟が高めの白い外套をまとっていた。袖口と腰の帯に細かな刺繍の入った、足首まで丈のある長い外套だ。おまけに黒い毛皮の襟巻きを無造作に巻いている。貴族のよう、と表現するよりはやはり冥界の王、とたとえた方が相応しい姿だった。
これほど凄まじい威圧感がある人なのに、なぜかすぐ側に接近されるまで気配を感知できないのだ。
リスカはぼんやりとした顔で、白い衣装に包まれたセフォーを見つめた。抜き身の剣のごとく鋭利で美しい存在。肩にこぼれる白銀の髪が、白く輝き始めた大気の中でも鮮やかな煌めきを見せていた。セフォーは外套の裾をひらりと翻し、ジャヴに視線を固定させたまま、悠然とした足取りでこちらへ歩いて来た。
――なぜ、気づいたのかは自分でも分からない。
この場合は、術師の勘などではないだろう。
リスカは咄嗟に立ち上がり、ジャヴの前に飛び込んだ。セフォーがふと腕を持ち上げ、埃を払うように指先を軽く弾いたのだ。その程度の、小さな仕草。
だが。
「――!!」
血の気が引いた。荒波のように押し寄せる恐怖と畏怖の念が、束の間呼吸をも奪った。肌の表面が粟立ち、額に冷や汗が噴き出す。
瞬きすらできない。リスカは大きく目を見開いたまま、凍り付いていた。
自分の目前――肌を突き破る寸前の所――に、先端の鋭い矢のような凶器が幾つも浮いているのだ。
まるで姿の見えぬ透明な暗殺者が目の前にいて、リスカに刃物を向けているかのようだった。
セフォーがその強大な力で飛ばした刃は、ジャヴの前に立ちはだかったリスカに突き刺さる寸前で、どれもぴたりと静止したのである。傷一つない刃の輝きが、傲然としていて目映い。
間一髪、と言っていいのか。もしリスカが気づかなければ、ジャヴは恐らく刃の餌食となっていただろう。そう思い、リスカは戦慄した。セフォーは決して容赦しないのだ。――いや、刃を途中で制止させた事こそが、容赦の証かもしれない。
「……セフォー!」
呼びかける自分の声は驚愕を隠し切れず、ひどく掠れていた。
セフォーは無言でリスカを凝視した。と、セフォーの意思を反映したのか、宙に浮いていた刃が落下し、地面に衝突する直前、音もなくふっと消滅した。
だが、リスカは動けなかった。この場を離れれば、セフォーは何の躊躇いもなく、ジャヴへ再び力を投げつけるのではないかという危機感があったのだ。
背後でジャヴが吐息を落とす気配を感じた。
「君は、壮絶だな」
軽口のようであったが、その奥にはやはり驚嘆と畏怖が隠されている。
「私は死ぬわけにはいかない身なのでね。これで退散するとしよう」
ジャヴは苦笑混じりにそう告げたが、リスカは緊張を解くことができなかった。まだ動けぬ。
セフォーが、呼んでくれるまでは。
久しぶりに、セフォーの破壊的な力の片鱗を目にしたのだ。改めてセフォーが身に抱く力の威を認識する。
「……失礼する」
ジャヴは敵意がないことを示すように、ゆっくりと転移の呪文を紡いだ。一瞬、セフォーの視線がジャヴへと移る。
リスカは微かに肩を震わせた。駄目です、セフォー。
背後で空気がふわりと捻れ、次の瞬間、ジャヴの気配が掻き消えた。
セフォーは感情を窺わせぬ冷めた視線をリスカへ戻した。
リスカは腰を抜かして、その場にへたり込んだ。
足音を立てずにセフォーが歩み寄って来て、脱力するリスカの前で立ち止まった。伏せた目に、白い外套が映る。
「なぜ、庇うのです」
セフォーの問いに返答できない。喉の奥で言葉が錆び付いている。
「私が止めるだろうと、あなたはそう計ったのですか」
「……」
リスカは口を動かしたが、やはり声を発せない。
「何をしているのだ、あなたは」
セフォーの声音が急に厳しさを帯びて詰問へと変わり、まるで鞭を打たれたような気分になった。
「……腰が、抜けました」
リスカは辻褄の合わぬ言葉を紡いだ。笑いたくはないのに、自然と唇が笑みの形を作ってしまう。
「私は本当に……心も不具ですね」
項垂れた。自嘲する気はなく、ただ他人を分析するように、先刻までの己の言動を振り返り納得した。
セフォーは長い間身動きせず、俯くリスカを見下ろしていたらしかった。
見捨ててもよいのにな、とリスカは不思議に思った。
不意に身体が浮き上がる。セフォーが無言でリスカを抱え上げたのだ。
降ろしてほしいとも、迷惑をかけて悪いとも、言えなかった。言葉を紡ぐより先に、セフォーの身からふわりと甘い香の匂いが漂ったのだ。思考を麻痺させるような誘惑の香り。
リスカの店を訪問する客の中には、娼婦も多く含まれている。彼女、あるいは彼らが使用している香水と同様の匂いが、セフォーの身を包んでいる。
――ああ、残り香というものかな。
リスカは気づいた。そうか、花苑へ通っているというジャヴの台詞は本当に真実であったのだなあ、と思った。
セフォーに運ばれながら、リスカはこのまま微睡みたくなるくらいにひどく、ぼんやりとした。
●●●●●
その日以来、セフォーとすれ違いの毎日を過ごすようになった。
顔を合わせぬ、という意味ではない。心がすれ違う日々、と表現するのが正しい。
セフォーは相変わらずきちんと食事を用意してくれるし、時には店の掃除も手伝ってくれる。指定席である高級そうな長椅子で転寝をする姿も、これまでと変わりない。
ただ――深夜に外出する回数が以前より遥かに多くなった。そして、買い出しとは別に、日中にも出掛けるようになった。
リスカは外出先を訊ねないし、セフォーも説明はしない。
セフォーの頭を陣地と決め込んでいたらしいシアは、髪の中に潜る回数が減ったので少し寂しそうだった。リスカの頭頂部に乗る回数は増えたが。
訊きたいことは無数にある。どれも声になる前に、胸の底に沈殿してしまう。今のリスカには、それほど言葉が重い。
他人の気配に敏感なセフォーならば、夜明けにあの異形の者が贈り物を届けに現れていたことなどとうに承知していたのではないだろうか。害はないと判断し、放置していたのか。
雨空で町が暗く閉ざされる日に、ジャヴがふらりと家の近辺を巡っていたことも察知していただろう。そのたびリスカが家を抜け出し、ジャヴに声をかけていたことも。
リスカが、セフォーの夜間の外出に気づいていたことも、知っているかもしれない。
冬季間の旅行、どうしましょうか。
リスカはあらかた整理し終えた店内を見回し、溜息を落とした。外界はよく晴れ、平穏な時を刻んでいるのに、部屋の中には色濃い憂鬱が満ちていた。
森の方へ遊びに出掛けているシアのため、窓の一つを開放したあと、リスカは自室へと戻った。あとは衣装や小道具など身の回りの生活用品を片付けるのみで、然程の疲労感はなかったが、すぐに取りかかる気にはなれなかった。
倒れ込むようにして寝台に寝転び、両手を天井へと突き出してみる。欠伸を一つ。窓から差し込んだ光が室内に溢れ、その粒子が舞っている。暖炉があるのは居間のみで、他室で暖を取る場合には、灰晶(かいしょう)と称される、内部に炎の核を凝縮させた白い波模様の魔石を軽くこすり、発火させたあと、底に水をはった専用の容器に入れておく。狭い範囲を暖めるならば、灰晶がもたらす熱で十分足りるのだ。
しかし、今まで階下で片付けをしていたため、リスカの部屋は早朝目覚めた時と変わらず冷えきっていて肌寒かった。灰晶を発火させるのが面倒に思えたので、毛布に包まり自分の体温で暖を取る。
リスカはふと思い立って、毛布から腕を伸ばし、寝台の枠の隙間に手を差し込んだ。
そこに、以前雑貨屋で手に入れた銀の耳飾りを隠していたのだ。
セフォーに渡そうと思いつつ、未だリスカの手元にある。
渡すきっかけを掴めないのだ。
無理に理由など探さず、日頃の礼だと言って贈ればすむことなのに、どうしても躊躇してしまう。
リスカは指先で耳飾りを摘み、しげしげと観察した。細く何重にも輪を連ねる精美な銀色の装飾品である。飾り物にそれほど執着を持たぬリスカの目で判断しても、この耳飾りは上品な美しい細工であると思える。
似合うだろうな、とリスカは想像した。しゃらりと軽やかな音を立てて揺れる耳飾り。きっととてもよく映えるだろう。
どうして渡せないのだろう、とリスカは憂いの霧に覆われた迷夢の中に落ちていく。
●●●●●
夜明けに再び、贈り物を胸に抱えた異形の者が姿を見せるようになった。
ただ以前よりも警戒心を強めたらしく、数日はリスカが接近すると素早く逃げ出されてしまった。
そのため、彼が訪れる少し前に起きて、扉の下に礼代わりのお茶と菓子を用意しておくことにした。
更に数日が経過すると、警戒心が和らいだのか、リスカが顔を出しても逃げる素振りを見せなくなった。
ううあ、ああ、と不自由な舌で唸り、ぎくしゃくとした動作ですり寄る無垢な異形の者と接するのは、リスカにとって気晴らしにもなった。かの者の精神は壊れていたが、同時に穢れも消えてしまったのだろう。神聖な魂が、半分機械と化した異形の者の胸に宿っている。まっさらで何色にも染まっていない心に触れると、リスカも少しだけ澱んだ精神が清められる気がした。
異形の者と時間を共にしている時、セフォーが姿を現すことはなかった。
●●●●●
とある日の正午――セフォーがどこかへ外出したあとだ。
延ばし延ばしにしてきたが、いい加減フェイに返事をせねばならないだろう、とリスカは考え、シアを伴って彼の屋敷を訪問することにした。
防寒対策として厚めの外套を着込み、風よけに頭部まですっぽり覆ったあと、寒さに震えるシアを首元に入れる。シアはもそもそと体勢を変えたあと温もりを求めるように潜り、顔だけをちょこりと出した。リスカは少し笑って、乾いた冷たい風が吹く町の中を歩いた。
町は既に冬支度に入っており、行き交う人の姿は極端に少なかった。賑わいに乏しく、時折裕福な町人を乗せた馬車とすれ違うくらいで、町全体がひどく閑散としていた。そろそろ雪が降るだろうな、とリスカは白い雲に覆われた空を見上げ、足を速めた。
活気に満ちた夏の気配は嫌いではないが、冬独特の寂寞とした静かな雰囲気も決して悪くはないと思う。
孤独な気配はどこか厳かで、凛然としている。
そういえば、セフォーは冬の色がよく似合うな、と思った。白く、鋭く、超然としている。
リスカは微かに首を振り、セフォーの姿を脳裏から振り払った。
道沿いに並ぶ木々は殆どが葉を落としていて、錆びた色の枯葉を僅かに垂らしているのみだった。天空に伸びた剥き出しの黒い枝は、白い世界に焼き付いた影のように寂しげでひっそりとしていた。色彩を抜き取った影絵のような印象を与える景色だった。ざわめきも聞こえず、風の帳の中、町は静止しているかのようだ。
リスカは、はぁ、と息を吐き出した。
どうしてだろう、と思う。冬は哀愁を漂わせると同時に、心の琴線に触れるのだ。振り返る事なくこのままどこまでも歩き続けたいという不可思議な衝動が芽生える。果てしない世界をただ一途に、歩いていきたい。
それは過去のしがらみや苦悩を捨て去って自由になりたいという密かな願望を映しているのかもしれないと思う。
定められた生の道から苦難や悲嘆を取り除いてしまいたいのだろう。悲嘆は時に歓喜へと変貌し、苦難は時に幸福へ通じるものだが、それらの煩雑な感情や現象を排除すれば、一つ、孤独だけが残される。白い孤独。やはり、冬に似ているのだ。
波乱と悦びに満ちた生を選ぶか、それとも沈黙が降りる影絵のような生を選ぶか。
リスカは、冬が嫌いではなかった。