花炎-kaen-火炎:7
フェイの屋敷に到着したリスカを出迎えたのは、物腰の柔らかな執事だった。
執事は一旦大広間へとリスカを導き使用人と話をしたあと、フェイは今客人と対談中であるという事を告げ、丁寧に詫びた。
「恐れ入りますが、しばしの間お待ちいただけますでしょうか」
年若く礼儀正しい執事は、貴族でもないリスカに対して含むところなく穏やかに言った。
「こちらこそ事前に連絡もせず、失礼を」
執事は、いえ、と口元にのみ微笑をたたえ、目礼した。
「お預かり致します」
と、囁くように促され、一瞬何のことかとリスカは首を傾げた。すぐに外套を預かると言われたのだと気づき、礼儀を欠いたかと内心で動揺した。
すみません、とつい謝罪しそうになり、寸前で口を噤む。普通の貴族は外套を預けるくらいで執事に礼など言わぬだろう。
だが、自分は貴族ではないのだとリスカは思い直し、外套を渡す際に礼を述べた。
人によっては、目下の者にいちいち気をつかう客人を侮ることもあるだろうが、フェイに仕えるこの執事は教育が行き届いているらしく、ただ丁寧に一礼するのみだった。
執事は軽く手を上げ、絵画を飾った壁の前で待機していた召使いを呼び、短く耳打ちしていた。召使いは小さく頭を下げたあと、すぐさま身を翻し、両脇に美麗な女神の彫像を置いている階段を作法に反さぬ静かな動作で駆け上がった。リスカが執事に預けた外套は、別の召使いに手渡されていた。
「こちらへ」
と、執事は召使いが早足で駆け上がった階段へ手を差し伸べた。
どうも執事自ら客室へ案内してくれるようだった。ゆっくりと優雅な足取りで進む執事を眺めつつ、リスカは密かに感嘆する。
リスカが到着するまでの僅かな間に召使いが客室を整え、お茶の用意などをするのだろう。
以前、こちらに滞在させてもらった時も見事な仕事ぶりだったな、と記憶を辿り、執事の背を見つめた。フェイはきっとよい主人なのだろう。
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「御用の際には、何なりとお申し付けください」
リスカを部屋に通したあと、執事は穏和な眼差しを向けてそう言った。
返事をするのが一瞬遅れてしまう。
案内された場所は客間ではなく、以前リスカが使用させてもらった部屋だったのだ。
相変わらず空間に十分すぎるほどのゆとりがあり調度品なども豪華だ。リスカは少し躊躇いを覚え、執事に顔を向けた。
「こちらへお通しするようにと若君が」
気をつかってくれたのかな、とリスカは苦笑した。
執事は円卓の上に用意されていたお茶を陶製の杯に注いだあと、黙礼して部屋を出て行った。
なぜか小皿に木の実を細かく砕いたものまで用意されている。
リスカがきょとんとしていると、今まで首元に隠れていたシアが元気に飛び出し、ぱたぱたと羽根を動かして円卓の上に降りた。「食べていい?」と訊ねるようにこちらを見上げ、そわそわしている。
シア用に用意してくれたのか、とリスカは納得しかけて、別の疑問を抱いた。シアの分までよく用意したものだ。
ああ、そうか。あの執事。
廊下へと通じる扉を凝視し、そういえば滞在していた時に「フェイが閣下に始末され、野ざらしになっていないか」などと勘違いして鬼気迫る勢いで詰め寄ったことがあったな、とリスカは冷や汗をかいた。向こうはきっと無礼な態度を取ったリスカを覚えているに違いなかった。
リスカは「かまいませんよ」とシアに声をかけたあと、頭をかいた。シアはぴぴぴと嬉しそうに鳴いて、嘴を小皿に突っ込み、木の実の欠片を啄み始めた。どうやら好みの実だったらしく、至極ご満悦といった様子で堪能している。
若いが気の利く執事だな、と感心する一方で、どうにも平常心を欠いた自分の失態が次々と鮮明に思い出されてしまい、羞恥で顔が引きつった。過去は取り消せぬものなのだ。
うん、旅先の恥は忘れよう……とリスカは間違った考えで無理矢理自分を慰め、気分を変えるために窓辺へ近づいた。
窓の外へ出られる造りになっていて、そこから花園が一望できた。以前に滞在した時は自分に余裕がなかったため意識もしなかったが、屋敷の中でも眺めのよい部屋をフェイは用意してくれていたのだ、と今更気づき、少しばかり申し訳ない気持ちになった。
様々な意味で感慨に浸りかけた時、不意に気配を感じてリスカは振り向いた。
フェイではない、と相手の容貌を確認するより先に察していた。
「やあ――リル」
音もなく現れたのは、ジャヴだった。魔術師が好んでまとう袖や裾の長いゆったりとした衣装ではなく、身体の線に合わせた貴族的な衣服を着ている。その華やかな格好に違和感はなく、彼の美に彩られた退廃的な雰囲気によく似合っていた。
「こんにちは、ジャヴ」
窓を閉めたあと、リスカは挨拶をした。ジャヴがこの屋敷に滞在していることは承知していたので、顔を合わせる可能性もあるだろうとは思っていた。ただ、彼の方がこちらを避けるかもしれないという考えがあったので、こうして出向いてきたことに少し意外性を感じた。
木の実を一生懸命齧っていたシアが慌てて円卓から離れ、リスカの肩へ飛び乗った。シアはフェイとジャヴが苦手らしい。
「君一人で来たのかな」
ジャヴは濃艶に微笑しつつ、円卓の椅子に腰掛けて足を組んだ。軽く卓上に肘を置き、頬杖をついてこちらを見詰める。
「ええ。……シアも連れてきましたが」
と言っておかないと、シアがあとでいじけるだろう。
「変わった鳥だ」
何か異質の気配を感知したのか、ジャヴは興味深そうにシアへ視線を向けた。シアが羽根をびくっと震わせ、あたふたとリスカの髪に隠れる。
リスカは手を伸ばして、怯えるシアを撫でつつ円卓へと近づいた。
「まだあの異形と逢瀬を重ねているようだね」
リスカが椅子に腰掛けると同時に、ジャヴが呆れたような口調で言った。
「いけませんか」
「さてね」
ジャヴは僅かにはね付けるような響きを声に乗せ、リスカをじっと眺めた。透視しているのではないかと疑いたくなるような視線の強さに、リスカはいささか怯んだ。
それとは別に、ジャヴと対面した時自分は激しく狼狽するのではないかと危惧していたが、思いの外冷静でいられることに驚く。
人間とは面白いものだ。無意識による感情発露の匙加減は一種の防衛本能なのであろう。人が時に予想外の強さを発揮して逞しく生きていけるのは、奇跡のようでいて実は当たり前のことなのかもしれない。
人の心とはどれほど深く複雑で厄介なのだろうと思う。たとえば、眠れぬほどの大きな悲しみを抱いていても、意識の片隅では明日の予定を漠然と思い描いていたり空腹を感じたりするのだ。人間は一つの地図のようである。その地図は死を迎える瞬間まで、道が増え続ける。いや、死を迎えたあとですらも、作為的であるか否かの問題はまた別として時に誰かの記憶や風聞によって変化を繰り返し――
「リル」
「……は」
暴走しかけていた思考が、ジャヴの低い呼び声によって断ち切られた。
「私はもの言わぬ絵画などではないのだけれどね」
「……すみません」
このようなやり取り、確かフェイともかわした覚えが。
「複雑な気分になるな。私を前にして、己の世界に浸られると」
「そのようなつもりはないのですが」
ないのだが、気がつけば思考の罠に落ちてしまうのである。
「男ならばともかく、目前にいながら異性に存在を忘れられるというのは貴重な体験ではあるな」
何と答えるべきですか、ジャヴ。ここはやはり、光栄ですと誤魔化すべきか、貴重な体験ができてよかったですねと同意するべきか。
愛想笑いを浮かべると、ジャヴに溜息をつかれてしまった。
「君はいい意味でも悪い意味でも予期し得ない反応を見せてくれる」
悪い方の意味は忘れて良い方の意味とやらを是非聞かせていただけませんか、とリスカは内心で呟いた。
「目にも映らぬほど、私は魅力に欠けているのかな」
「いいいいえ、とんでもない、はあ」
何を言い出すのかと思えば……。
といいますか、一度でかまわないからそのような台詞を自分も口にしてみたい。
一瞬、気障な台詞を口にする自分を想像してしまい、青ざめるよりもまず鳥肌が立ち、仰け反りそうになるリスカだった。駄目だ、絶叫しそうになるほど全く似合わず、不気味である。狂気の沙汰である。世のため人のため自分のために、リスカが気障な台詞を人前で披露してはならない。ある意味、魔物の出現よりも恐ろしい。
なぜだろう、やはり容貌の美醜が大きな割合を占めるのだろうか。それとも性格が関係しているのだろうか。ならば自分は生涯、他人を口説いたり出来ぬということになってしまうが、果たしてそれでいいのか苦悩してしまう。
いや、別に、別に、異性をかき口説いてみたいという淫らな欲求があるわけでは……!
「リル」
「……む?」
「む、ではないだろう? 言ったそばから存在を忘れられると、さすがに私も気分が悪い」
「……は、失礼を」
「君との接し方を考えなくてはならないようだ」
「いえ、そんなお気遣いなく」
「百面相をして一体何を考えていたのだか、覗いてみたくなるな」
リスカはぎょっとした。今の考えだけは覗かれたくない。
「リル」
リルと呼ぶのだけはやめてほしい、と何度も頼みませんでしたか。
「なぜそう、男の姿でいる?」
リスカは沈黙した。閣下に散々視線で咎められつつも、つい性別転換の術を己に施してしまっている。
「いくら無精な術師とはいえ、女性ならば少しは身を飾ればよいのに」
もしやジャヴ、フェイと何か打ち合わせでもしたのですか。
フェイにも似たような指摘を受けたのだが。
「私が飾ってあげようか」
いえ、それはそれでかなり恐怖を感じます。
「君とは違い、これでも趣味はいい方だが」
一言多いですよ。私の趣味が悪いと思っているのですか。
リスカは内心で無礼だと反論しつつ、魅惑的な瞳を瞬かせるジャヴの前に杯を置き、お茶を注いだ。先程執事がいれてくれたお茶は、自分で飲む。
「口付けしようか」
「――!?」
リスカは口に含んだお茶を噴き出しかけ、慌てて手で覆った。
なななな何と言いましたか、ジャヴ。
耳が咄嗟に狂ったのですが、いえ、あわわわ、とリスカは激しく動揺しつつ、杯を卓上に戻した。首元のシアが「リスカ、挙動不審だよ……」と言うようにぴぴぴぴと鳴いた。
愕然としてジャヴを凝視した。ジャヴは平然とした顔をして、お茶を一口、飲んでいる。
そ、空耳ですか、錯覚ですか、今の言葉は。
「私としたくはない?」
ひえ! とリスカは瞠目した。なぜいきなりそのような不埒な話題に、あなた流の嫌がらせですか、いやしかし嫌がらせにしては変な具合に胸がざわめき、などとリスカの精神は四方八方に飛散し壊れかけた。
ああ思い出してしまった。数日前に店先で色々と、その。問題発言どころか、破廉恥な行為を。だがあの時は状況が状況で、深刻かつ緊迫した気配が漂っていたため、うまく言えぬが、今のようにくつろいでいる時とはまた何かが異なるのでは。
完全に硬直するリスカだった。
ジャヴが落ち着いた仕草で杯を卓上に戻し、布で口元を拭ったあと、静かに腰を浮かせた。そして円卓に両手をつき、軽く身を乗り出して、椅子の上で固まっているリスカの方へ顔を近づけ――
ひー! とリスカは胸中で叫んだ。このまま後ろへ仰け反って椅子ごと倒れるべきか!?
と。
「――ぴぴぴぴっ」
肩の方へ移動したシアが、微妙に怯えつつも怒ったような鳴き声を響かせた。
ふとジャヴの視線が、肩のシアへとずれる。
た、助かった、とリスカは胸を撫で下ろした。心臓に悪い。
ジャヴが再度、リスカへと視線を戻す。うぐっとリスカは呻いた。するとジャヴが顔を背け、肩を震わせつつ卓上に突っ伏した。
……笑っている。
からかったのですね、私を!
「ひどいです!」
くくくくく、とジャヴは堪えきれなかったらしい笑い声を漏らした。
「あんまりではありませんか!」
「……いや、君が、私を放って、考えに沈むから」
などとジャヴは見苦しく言い訳をしていた。
何という素行の悪い不良魔術師だ。
リスカは怒りで僅かに頬を赤くした。うむ、怒りだ。怒り。
「もうっ、くだらないことをしている暇があるのならば、とっととここへフェイを連行してきてください」
客人など結界にでも閉じ込めてフェイを誘拐してきなさい、などとリスカは無茶苦茶なことを考え、八つ当たりした。
ジャヴは未だ笑いを滲ませながら顔を上げた。
「そう、ところで君、どうするのだ」
「何ですか!」
あなたを成敗するという話ですか、それならば是非と答えますよ、とリスカは物騒な思いを抱いた。
「騎士殿の別荘へ行くのかい」
「――な」
あなたが訊くと、たとえ健全な誘いであっても、非常にいかがわしい意味合いが含まれる気がしてなりません。
「あなたには関係ありませんっ」
ああ全く、色々と余計な事を思い出してしまったではないか!
リスカは自分の顔が傍目にも分かるほど紅潮しているだろうと思った。先程までは冷静でいられたというのに、意識してしまうともう駄目なのだ。本当に、様々なことを思い出してしまう。いやはや、その、聞き間違いでなければ数日前の問題の朝、次のような凄まじい言葉を言われた気がする。みみみ身を差し出せとか、おおお溺れたくはないかとか何とか。ひわー! とリスカは内心で奇声を上げた。動揺のあまり言語が崩壊しかけている。
そればかりではなく、耳の下に触れた、く、唇の感触が……!
リスカは今頃になって壮絶に混乱した。情けない。
「何を思い出しているのかな」
察しているくせに、それを訊きますか!
ジャヴは口元を覆いながら、実に楽しげな表情を見せた。恨めしい。
大体、あなたの奇矯な振る舞いのお陰でセフォーにあわや抹殺されかけたのですよ、と胸中で文句を垂れ流し、はたと我に返った。
セフォー。
高ぶっていたリスカの感情は、がくんと一気に急低下した。心が寒い。
頭上に雨雲を呼んでしまうほど落ち込んでしまう。なぜ自分の気持ちがこれほど塞ぐのか。
ふっと鼻先をかすめる甘い残り香。幻の匂いに、リスカは項垂れた。
「リル」
「……何ですか」
「行けばよいではないかね」
「は」
リスカはぼんやりと、笑いをおさめて真面目な顔に戻っている美貌の魔術師を見つめた。
「いいと思うがね。あの騎士殿、貴族にしては珍しく精神が穢れていない。気高く、繊細だ。他者の心情を無下にはせず、知性もそれなりに備わっている」
「……どういう意味ですか?」
「本気で訊いているのか。だとすると、君もなかなか重傷だな」
ジャヴは椅子を横へとずらしたあと、膝の上で指を組み合わせて身を僅かに屈め、探るようにリスカの顔を覗き込んだ。
「――君はまだ、塔時代の傷を引きずっているのか。君が時々見せる愚劣さ、愚鈍さは、故意か?」
リスカは、すっと息を殺した。