花炎-kaen-火炎:8


「――過去は、封じました」
 リスカは一度瞳を閉ざし、抑揚のない声で答えた。
「意図せぬ時に溢れ出すのが過去というものだろう」
 リスカは無表情で、ゆっくりと首を振る。
「閉ざしたのです」
「リル」
「暴くのですか、あなたが?――おやめください。正規の魔術師であるあなたには、決して理解できぬ穢れです」
 そうだ、無理に封じたのだ。狂う寸前に、力ずくで封じた過去なのだ。
 炎。
 まだ、駄目だ。塞がなければ。受け入れられない。炎は嫌いだ――。
 不具の業火。
「リスカ」
 断ち切られた。炎色の記憶がまた、胸の底で眠りにつく。
 リスカは全身にびっしょりと汗をかいていた。何かの拍子に暴れ出そうとする記憶。ジャヴは、リスカの過去の断片を知っている。困る。
 誰だとて、思い出したくもない記憶があるものだ。
 セフォーにあるように。
 フェイにあるように。
 ジャヴにあるように。
 誰もが、時に過去から響く声に立ち止まり、はっと息を呑む。
 振り向けば、囚われる。
「あぁジャヴ。あなた、玩具となる身が欲しいと言っていましたね。そういう意味でしたか」
「リスカ、もういい」
 ふと視界が閉ざされた。ジャヴが手を伸ばして、リスカの額に触れたのだ。
「どうした、リル。随分――気が落ちている」
「……ええ。それで、冬期間は休養が必要で――」
 どこか会話がかみ合っていないということは自覚していた。
「リル」
 気遣わしげに髪を撫でられた。落ち着かなければ、と髪に触れる感触に意識を向けつつ、胸中で独白する。
「違う。私が先程言ったのは、そういう意味ではないよ」
「……」
「騎士殿は、よい男だ、と言いたいのだがね。若い娘ならば、惹かれるだろう?」
「何ですか?」
「少なくとも、君の破壊神よりは余程、好感が持てる」
 ジャヴは唇の端を歪めた。
「――師のことは抜きにして、だよ。セフォードは……よくない。正直、なぜ君が側にいるのかと、不思議に思う」
 リスカでは釣り合わぬと言いたいのか。
「類い稀な砂の使徒であることは理解している。彼は恐ろしく強い。だが、その強さ、歪みがありすぎはしないか」
 歪み?
 それは……あれだけの強大な力、見る角度によっては歪みと映るのかもしれないが。
「人の域さえ踏み躙ってはいないか、あの力は。なぜだ? 砂の使徒の力のみとは到底思えない」
 ジャヴの言葉に、何かが引っかかった。尋常ではないセフォーの魔力。純粋な力は、人智の秤では理解できぬもの。
「彼の気はあまりにも深い。まるで出口のない洞窟のように。おぞましいとすら思う。できうるならば、君は離れてほしい」
「それは」
「彼が呪縛しているのか、君を」
「違う――違います。セフォーは、私の護衛で」
「護衛?」
 ジャヴは不服そうだった。
 そうだ、伝記とまでなった特例の使徒達の中でも、セフォーの背景について明記されている書物はない。本来、リスカの護衛などではおさまらぬ、謎に満ちた巨大な存在なのだ、あの人は。
 けれども。
「時々、笑う人です。優しい人なのです。恐ろしくても、手が届かなくても」
 料理が上手で、よく眠って。
 リスカの頭を枕代わりに、寄りかかって微睡む人。
 ふと、あの奇麗な髪に触れたい、と思った。
 今は、それ以上考えたくない。
「ねえジャヴ。人は神の見せ物とあなたは言いましたね。どういう意味ですか」
 リスカは無理に話題を変えた。
「さてね」
 ジャヴは不機嫌そうに身を引いた。話の腰を折られて、不快に感じたらしい。こういう反応、フェイと少し似ている。
 リスカは密かに、大きく息を吐いた。
 平気だ。平常心は戻っている。
「ジャヴ?」
「本当に、しようか?」
「……は?」
 ジャヴが突然、表情をがらりと変えて意地悪く微笑んだ。果てしなく嫌な予感がする。
「口付け」
「はあっ?」
 だからどうしてそうなるのですか!
「秘密を一つ持っておくのも、楽しいだろう?」
「全然楽しくありません」
「私が楽しい」
「……」
 というか、思いっきりはぐらかしましたね。私の問いを。
 ぴー! とそれまで沈黙していたシアが鳴いた。「駄目!」と怒っているようだった。
「嫌がる者を手懐ける、というのもなかなか征服欲が湧くものでね」
 リスカは頭を抱えた。羨みたくなるほど見目が整っているので、怒りにまかせて美麗な顔を殴るわけにもいかない。たちが悪い。
 私ってもしかすると一生誰かに弄ばれる運命なのだろうか……と虚しくなった時だった。
「――俺に会いにきたと聞いたのだがな」
 えらく機嫌の悪そうな、厳しい声が響いた。
 リスカとジャヴは同時に振り向いた。
 部屋の扉に寄りかかり、腕を組んでこちらを睨みつける長身の影。
 フェイ。
 あ、何だか救世主を見た気が。
「フェイ。こんにちは」
 リスカは愛想笑いを浮かべた。
 フェイは苛ついた表情のまま、無言でリスカを睨み続けていた。なぜ私を睨むのですか、殺意を向けるのならば、是非こちらの魔術師に。
「したくなったらいつでもどうぞ」
 ジャヴは美形にあるまじきにやにや笑いを浮かべながら、波乱を呼ぶ余計な一言を口にし、立ち上がった。
 そのような軽口で私を煙に巻き、一人、さっさと安全圏へ逃亡する魂胆なのですね。
 逃がすものか、とリスカは据わった目をしつつ、ひらりと身を翻して退出しようとするジャヴの袖を掴んだ。
 都合が悪くなると話を逸らし、私の問いには背を向けるつもりですか。いい度胸ですね、と内心で皮肉を漏らす。自分も同様の事をしているという事実については勿論、意図的に無視している。うむ。
「おや。今、したいのかな」
 痴れ者! と盛大に喚きたいという衝動が膨れ上がる。
「君もなかなか大胆だねえ」
 とジャヴはわざとらしく感嘆し、ちらりとリスカを見下ろした。
 違います、そうではなくて私の問いに……と言いかけたリスカの顎を、ジャヴはやけに慣れた手つきでさらりと掴んだ。
 リスカは目が点になった。
 揶揄の色が浮かぶ碧色の双眸がぎくりとするほど間近に迫っている。
 さすがにリスカは本気で腹を立てた。どこまで私をからかうのか。
「――何を、したいって?」
 低い声が聞こえると同時に、ジャヴの眼差しが逸れた。忙しなく瞬きつつ見上げると、フェイが冷めた表情でジャヴを見据え、腕を掴んでいた。
「術師に秘密はつきものなのだよ、騎士殿」
 ジャヴは見事に整った微笑を浮かべてフェイを黙らせたあと、ぽんと軽く肩を叩いた。
「では、私はこれで」
 ジャヴは優雅に貴族式の礼をしたあと、早々と部屋を出て行った。逃げ足、早いですよ。
 フェイが僅かに眉をひそめて、ジャヴが去った方へ視線を向けていた。
「何を話していたのだ?」
 先程までジャヴが使用していた椅子に、フェイはすとんと腰を降ろし、気怠げに足を組んだ。
「何でしょう、色々と……」
 としか、答えようがない。
 あぁそうだ、本来魔術師と騎士は犬猿の仲という関係なのだった。それでもジャヴとフェイならば、案外うまくいくように思えたのだが。
「お前な……」
 なぜかがくりとフェイが項垂れ、額を押さえた。
「何ですか」
「何ですか、ではないだろう。もう少し――」
 実に渋い表情を浮かべてこちらを見つめるフェイの目が、ふと怪訝そうな色に染まる。
「どうした」
「え?」
「魔術師に、何を言われた」
「は」
 少しの間、お互いに沈黙した。
「もういい」
「はあ」
 ――自分はまだ強張った顔をしているのだろうか。
「ところでフェイ。客人がみえていたのでしょう。もうよいのですか」
 何気ない問いかけのつもりだったが、フェイは虚をつかれたような顔をした。
「よい」
 と、また不機嫌な顔をされ、短い答えを返されてしまう。
 ははあ、もしや女性との逢瀬を邪魔してしまったか、などとリスカは邪推した。
 が、そのような軽口を叩けば、益々フェイの機嫌を損ねてしまいそうだととりあえず自重することにした。
 ならば早く本題に入ればいいのだが、適当な言葉が見つからぬ。
 リスカは、別荘へ来いという誘いを、やはり断ろうと考えていた。最終的に、セフォーがどうこうというよりも何から何まで他人にお膳立てをしてもらうという状況では遠慮が出て休養にはならぬだろう、と結論を下したのである。
 さて、どう話を切り出すべきか、とリスカは思案した。
 ああ、その前に――少し探りを入れておきたい事がある。
「フェイ。そういえば……地下牢に閉じ込められていた者の行方などご存知ですか」
 地下の監獄に隔離されていた者がリスカの店に度々訪問している、という話をもしかするとジャヴから報告されているかもしれない。
 フェイは僅かに眉をひそめ、腕を組んだ。
「なぜそのようなことを気にかける」
 ふむ、聞いているのかいないのか、どちらともとれる表情だ。
 フェイの青い瞳をじっと見つめると、露骨に顔を背けられた。おや、これは何かを隠していそうだな。少なくともジャヴよりは素直な反応である。
「関わるな、と以前忠告したはずだ」
「何か問題があったのですか」
「俺の話を聞いているか? つまらぬ事にお前は関わりを持つな」
「あからさまに避けられると、知りたくなるではありませんか」
 反論すると、呆れたような顔をされた。
「そんな話をしに来たのか」
「いえ、まあ」
 などとリスカは笑って誤魔化した。
「それほど知りたいのならば、交換条件を出そうか」
「はい?」
「魔術師と何を話していたのか、包み隠さず白状すれば俺も事実を答えてやろう」
 相変わらず傲岸不遜ですね、フェイ。
 それに白状という言い方は何か違いませんか。自分、犯罪者扱いされていますよ、とリスカは内心でぶつぶつと不満を申し立てた。
「お前も魔術師も、己の事についての話になると途端に口が重くなるな。そのくせこちらに喋らせたがるのだ」
 自分を語らずに真実を探究するのが魔術師の本分ですからね、などとリスカはにこやかな笑みを見せつつ言い訳をした。
「なあ」
「はい」
「たとえば、だ」
 フェイは組んでいた腕を解き、一度天井を仰いだ。
「一輪の花と、首飾り、どちらを好む」
「私は術師ですので、花を選びますよ?」
 何だろう、突然。質問の意図が全く理解できないが。リスカは首を傾げながらも、正直に返答した。
「術師、というのは、脇に置いておけ」
「はあ……」
「では、宝石と書物ならばどちらを選ぶ」
「書物でしょうか」
 いや待てよ、宝石は金銭に化けるか。書物は金で購える。
「衣服と、酒ならば」
「それは、まあお酒でしょうね」
 うむ、酒を奢ってくれるという話なら、とても心ひかれるのだが。
「貴族の男に夜会への招待を受けた場合、どうする」
「……貴族になど知り合いはおりませんが」
 何の嫌味ですか、とリスカは半眼になった。ええ、夜会のお誘いなど誰がするというのです。術師を誘う奇特な者が存在するのならば、是非会ってみたい。
「金銀の靴を履きたいとは思わぬか」
「歩きにくくはありませんか」
 そんな派手派手しい靴、履いてどうするのだ。いっそ換金した方が生活の足しになるではないか。
 思ったままを答えたというのに、フェイは髪を掻きむしった。何なのだ、一体。
「参ったな、お前……」
「何です?」
「リスカ」
「はい」
「世に満ちる数多の夜――。神が放つ星の囁きが我が手に今宵落ち、やがて光の調べと変わるだろう。我が手より生まれし朝の歌声に、お前は弦を奏でてくれるか。そう問われた場合、いかに答えを返す」
 と、早口で挑むように言われて、リスカは惚けた。何の問答ですか。
「朝を生むという星の神話と弦楽器の関わりは、確か源響録全図説の森万記編……『破弦の章』第五説あたりに記されていたと思いますが。しかし、森万記編は数年前に改稿されているとか。新版の方には目を通していないので、その説が残っているかどうかは微妙ですね。編集された文章は判読しやすい分、肝要な箇所が削除される傾向にあるようです。ああ、神話側からの解説をお探しならば別の資料を当たらねばならないでしょうが、私は浅学なので」
「……分かった、もういい」
 フェイは激しく虚脱していた。訳が分からぬ。
「フェイ」
「お前が年頃の娘とは悉く違うというのがよく理解できた。いっそ見事だ」
 見事と言われても、全く褒められた気がしないのだが。
「私の何を試したかったのですか」
「お前、書物に詳しいのだろう?」
「好む、というだけで、人に誇れるほど読了してはおりません」
「御伽噺や流行の劇本などは読まぬのか」
「そういった書物よりは、別の――」
 リスカはきょとんとし、はたと気づいた。
 手の中で生まれ変わる夜と朝。それに弦を奏でてくれと――この台詞はもしや、気障な貴族達が好みそうな間接的な誘い文句、に聞こえるような。文面を読み解くと、要するに……その、朝まで側にいてくれるか、と。
 いやまさか、とリスカは顔を引きつらせ、まじまじとフェイを凝視したあと俯いた。まるで決闘を申し込むかのような厳しい瞳で問われたのだから、色事を仄めかしているなどといった意味はあるまい。
 事の真偽を確かめるべく恐る恐る視線を向けると、フェイは倦怠感を漂わせつつこめかみを押さえていた。
「あのな、リスカ」
「ははははい?」
 フェイが何か哀れむような眼差しをこちらに向けた時――
 扉を叩く音が響き、慌てた顔をした執事が姿を見せた。
「申し訳ありません、若君」
「何事だ」
 フェイが素早く立ち上がり、扉の前で恐縮している執事に近づいた。
「リィザ様が――」
 フェイのあとをさりげなく追ったリスカの耳に、困惑している執事の声が届いた。
 リィザ。確か町中で会った可憐なお嬢様ではなかったか。
「お引き止めしてはいるのですが、その」
 執事が一瞬、申し訳なさそうな目をリスカへと向けた。
 ふうむ、成る程。客人とはリィザ嬢のことであったか。恐らくフェイはリィザの相手をしていた途中で、こちらに足を運んだのではないだろうか。
 リィザ嬢の邪魔をしてしまったようだ。ならばこちらの用事を早く済ませるか。
「あの、フェイ、私は」
 リスカの用事など、一言ですむのである。ここへ訪問した理由は、別荘への誘いを遠慮するため、だったのだから。
 しかし、フェイはすっと片手をあげ、リスカの言葉を遮った。
「何を言いたいかは想像がつく」
 おや。
「だが、返事はもう少し伸ばしてみろ――状況が変化するかもしれない」
 状況?
 どういう意味かと、リスカは視線を向けた。
 フェイは苦笑を見せたが、説明をする気はないようだった。
「たまには、そうだな、術師より秘密めいているのも、いいだろう?」
 どこか楽しげに笑ったフェイは、ぽかんとするリスカの髪を軽く撫でたあと、足早に部屋を出て行った。



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