花炎-kaen-火炎:9
胸の中に、憂いの虫が住みついてしまったらしい。
何やら己のみが除け者にされているような気がするのだ。
セフォーもフェイもジャヴも皆、意図的かそうでないかはともかくとてして、リスカに何かを隠している。
心の隅々まで明け渡してほしいと願うのは愚かと知っているけれど、それでも――少し切なく感じるのはなぜなのか。
リスカは数日、煩悶の中に落ちた。
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このような時に限って、運命的な偶然が起こりえるものらしい。
いや、強い思念は無意識のうちに行動を左右する場合もあり、偶然を装った決定的な運命に矢を放つこともある。今立っている場所から、「こうしたい」「こうなればいい」という実体を持たぬ未来の映像が前方にぼんやりと浮かぶ。それがただの願望で終わるか現実となるかはやはり、段階をこえた次の意思による選択にかかっているのだろう。
冬期に備えて店は既に閉じていたのだが、突然飛び込んできた客の必死な頼みにより、商品の花びらを臥せっている病人の元へ届けなければならなくなったのだ。
どこへと言えば、花苑なのである。
顧客の中には、娼婦も多く含まれている。
商品の配達は本来、受け付けていないのだが、場所が花苑に存在する店と聞き、咄嗟に了承してしまったのだ。
セフォーが本当に花苑へ通っているのか、本音では知りたかったらしい。
花びらを届けるついでに、と言い訳できるだろうか。
もし、まさかという現実の場面を目撃してしまったら、自分は何を感じるのだろう。
恐ろしいと漠然と感じつつも、動き出さずにはいられぬ衝動が胸の奥に存在する。最終的に知りたいのは、セフォーの心情ではなく自分の心の行方なのではないかといささか自嘲気味に思う。
自分が時折見せるという愚劣さ、鈍感さ。それを指摘したジャヴの言葉に、ざわめきを覚えた。ゆえにとリスカはぎこちなく考える。こういう時の女性は、心のままに走り出すのではないかと。
一体何に対して鈍感だと言われたのか、その点を考えなくてはいけないというのに、リスカはあえて先送りした。
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「ありがとう、本当に助かったわ」
鮮やかな朱色の寝衣を羽織った妓が無意識らしい流し目と共に、リスカへ微笑みかけた。
顔色はまだ随分と悪いが、少なくとも寝台から上半身を起こせる程度には回復している。
「いえ――念のために、七日分の薬を置いていきますので」
そう言ってリスカは、保護紙で包んだ花びらを懐から取り出し、低い寝台横に備え付けられている繊細な造りの文机の上にそっと置いた。
その妓――名をヘフィトという――は夏先から病を患っていたようだが、熱を孕んだ身体を解熱薬などで騙し続け、先日倒れるまで休みなく働いていたのだという。長期に渡って無理を重ねたせいで病の根が身体の中に深く張り巡らされる結果となり、魔力を宿したリスカの花びらを用いても、一朝一夕では到底完治できぬほど深刻な状態に陥っていた。
遊女特有の病に加え、腹の奥がひどく荒れている。決して楽観はできぬほど病状は重い。
こういった病に用いる花びらは、外傷時に使用される治癒の花びらとはまた別のものである。身体に負担をかけぬよう時間を費やして治さねばならないものゆえ、怪我の治癒同様に一瞬で病の巣を体内から取り除くわけにはいかないのだ。それに、先天性の病などはいかなリスカでも治せない。後天性の病であったとしても、治癒できぬ場合も多い。
「ああ、本当、良かった。あなたがまだ町にいてくれて――それから、スィラも、ありがとう」
ヘフィトがほうっと深い息を吐き、両手で顔を拭うような仕草を見せたあと、小さく礼を言った。
リスカの店に飛び込み、床に伏したヘフィトのために何度も頭を下げて助けを求めたもう一人の妓――こちらはスィラという――が、ようやく眉間の皺を消し、安堵した様子で笑った。
華やかな衣装をまとう妓達。色香の上に築く表舞台では見せられぬ嫉妬や金銭地獄、そして足の引っ張り合い、騙し合いなどが日常茶飯事であるはずの遊女達の世界だが、目前の二人のように互いを労り合う関係もあるようだった。
この二人は、とにかく容貌がよく似ている。姉妹なのではと思うほど顔貌がそっくりなのだ。聞けば他人の空似であるらしく、ヘフィトの方が数歳年上なのだという。流行の化粧を施すため遊女は誰もかれも似てしまう、と言われたが、それにしても雰囲気から何から、実に似ていた。
微妙に髪の色が違うか。
どちらも赤い髪だが、元気な妓の方――スィラと呼ばれた方の妓だ――が僅かに色素が薄い。
「ねえ、少し代金が足りないのだけれど、あとで必ず不足分は持っていくから」
リスカの隣に座しているスィラが神妙な顔つきでそう言った。
「いえ、これで十分ですよ」
受け取った代金は確かに少しばかり不足しているが、リスカはこれでかまわないという心境だった。
病に冒されながらも客を取らねばならぬ状況であるというのに、これ以上の出費は本当にきついだろう。
「あら、いけないわ。商売なんだもの、ちゃんと受け取って」
リスカは曖昧な笑みを返した。いやはや、他の思惑もあって花苑に足を運んだという後ろめたさを感じるためか、何とも心苦しい。
すると高さのない寝台に腕を預けて座っていたスィラがしどけなく膝を崩し、リスカの顔を覗き込んだ。普段の仕草からして何やら色気が溢れている。
「妓相手に遠慮なんかしちゃ駄目よ。骨まで噛まれるわよ。妓なんて強かで狡いんだから、弱気な素振りを見せるといいように操られるわ」
「そう。病を逆手に、同情を買って奈落へ導くのが妓の業なの」
二人掛かりで色っぽく責められ、うっとリスカは息をとめた。何とも艶かしく、羨まし……ではなく!
「はあ、しかし、まずは身体を整えることが先でしょう」
リスカは内心、間違った方向へ胸をざわめかせつつも表面上は穏やかに答えた。
「ほら、だからね、妓なんかに親切心を見せちゃ駄目なのよ。つけこまれて、底の果てまでお金を使わされて、あとで泣く事になるの。男を破滅させるのが妓、そういう世界よ。情けは無用。誰もかれも意地汚いの。いい、あたし達は、破滅させた男の屍を食らって生きてるんだから。欲の魔物、色の亡者が踊る道、花咲く道、地獄道、袖で笑い、髪で食い…――子供だって知っている遊び歌。その通りなんだから」
なぜかスィラにこんこんと説教されるリスカだった。
「はあ……、それは何ともはや」
としか答えられぬ。
「いやねえ、もう。そんな顔されると手玉に取る気もおきやしない」
手玉ですか、とリスカは乾いた笑みを浮かべた。性別転換の花びらを使用しているため、リスカは今、男性体を保っているが、思考までは変容しない。
「まあ、私のことはともかく、ゆっくり養生して身体を治してください」
そろそろ暇乞いをしようと思い、二人の妓にぺこりと頭を下げた。
「惚けてなどいられないのよ」
腰を浮かしかけたリスカだったが、ヘフィトが肩掛けを羽織り直して悔しそうに唇を噛む様子が気にかかり、戸惑いながらも座り直した。
「しかし……」
悠長なことなど言っていられぬ過酷な世界に堕ちているのだ、と理解してはいるが、それでも身体あってこその労働ではないかとリスカは悩む。
「こうも新参者の女に縄張りを荒らされちゃあね」
「挨拶一つありゃしない」
二人が同時に吐き捨てた。
「新参者、ですか?」
訊ねると、まるでリスカが悪者であるかのように、非難の視線を浴びせてくる。
「どこから流れてきたのかなんて興味はないけれどね、近頃、花苑でもてはやされている妓がいるの。妓王が現れたと評判が評判を呼んで、こっちは商売上がったりってわけ。客を根こそぎ奪われたのよ。その妓が舞う館にね」
妓王とは、遊女の頂きに君臨する花盛りの女をさす。
昔語りの中に、天性の才知と美貌を武器に、さる国の王妃にまで登り詰めた遊女が存在したとある。
その妓が手中にした夢幻のような幸運にあやかるためか、王族や貴族の相手をつとめられるほどの美と叡智を備えた高価な遊女――中でも極めて優れた女を讃える時、妓王と称するのだ。
不意にリスカは、ジャヴの台詞を思い出した。
セフォーが、世にも稀な美妓を伴っていたという。
妓王と呼ばれる美貌の遊女。
「これみよがしにいい男を連れて、道中練り歩いているわ。腹立たしいったら」
スィラの言葉に、リスカは一度強く瞼を閉ざした。
間違いない気がする。確証も何もないが、それでもなぜか合点がいく。
あぁ、セフォー。
「それほど美しい人なのですか」
リスカは静かに訊ねた。膝の上で組み合わせた指が冷たい。
「何よ、女に興味がないって顔してたのに、妓王には惹かれるの」
「あ、いえ、そういう意味では」
「酷いわねえ、あたし達じゃ不満ってこと」
二人に矢継ぎ早に責め立てられ、リスカは狼狽した。
「違うのです、ただ、言葉通りの意味として、美しい人なのだろうかと疑問に思っただけで」
拗ねる二人に、リスカは慌てて弁明した。
「美人が好きなの、あなた」
「いえ、私は」
「じゃあ、あたしはどう。魅力に欠けているかしら」
「とんでもない、とても美しいと思います」
スィラに詰め寄られ、リスカは仰け反りつつ冷や汗をかいた。
「おやめ、スィラ。人のよい薬師をからかっちゃあ、罰が当たりそうね」
ヘフィトが苦笑して、仲裁に入った。
「でも、この人、これだけこなをかけているのに本当、つれないんだもの。真面目を通り越して堅物ね。それとも、慕う女がいるの」
その前に自分は一応、女であるわけですが、とリスカは内心で独白した。
「いいじゃない。慕う女がいるなんて。羨ましいわ」
ヘフィトがどこか気怠げな笑みを浮かべた。
「遊びの恋ではないのなら、尚更羨ましい」
「あの、私は」
「恋とはどんな想いだったかしら。誰かを一途に慕う想いなんて、とうの昔に忘れてしまった」
病に蝕まれて青ざめた横顔をヘフィトは見せた。美しいが寂しい眼差しだ。鮮やかに咲き誇りながらも、蜜をもたぬ花のような物悲しさを感じる。
「……恋でなくては、いけませんか」
知らず、言葉が漏れた。
怪訝そうに振り向くヘフィトに、思考を巡らせながらリスカは言葉を紡ぐ。
「誰かを強く想う感情は、恋という名の愛でなくては、ならないのでしょうか」
脳裏に蘇るティーナの微笑。二度と見られぬその美しさを想う。
死をもって完結した愛の意味を、まだリスカは十分に理解できていない。
友になりたいと今、思う。しかし、友としての想いは、恋に勝てないのだろうか。分からない。
「恋でなくとも誰かを愛し、守りたいと思えるのでは。――ええ、スィラは、あなたのために裸足で私の所へ駆けた。あなたを救いたいという一途な想い。それは恋ではないのでしょうが、確かな深い想いです」
ヘフィトが瞠目し、僅かに顔を赤らめているスィラへ顔を向けた。スィラの足は、裸足で町を駆けたために血が流れていた。その傷は、ヘフィトに会う前、リスカが治癒を済ませている。
「あなたを心から羨ましいと思います。このように恋と変わらぬほどあなたを慕い、想いを傾けてくれる者が存在するのですから」
スィラが困ったような顔をして、リスカを見つめた。
「すみません。差し出がましいことを口にしてしまいました」
リスカは丁寧に、二人へ頭を下げた。
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裏口から外へ出た時、慌てて追ってきたらしいスィラに呼び止められた。
「ねえ、待って!」
「はい」
振り向くリスカに駆け寄ってきたスィラだったが、しばらくの間、言葉を探しているかのように視線をさまよわせた。
「何か、他に必要な物がありましたか」
「そうじゃなくて」
スィラが当惑の色を瞳に宿しつつ、乱れた衣服の裾を何度も直した。
「あなた、妓王を訊ねるつもり?」
リスカは返答に詰まった。妓王を探したいという欲求、けれども胸によぎる不安を現実のものとして確定する事への怖れもまた、存在する。現状を守りたいのか、壊したいのか、それすら決められていないのだ。
おや、とリスカは内心で首を傾げた。どうして、壊れるなどと考えているのだろう。自分にとって今の事態はそんなに重要な意味を含んでいるのだろうか。
「分かりません。確かな事は何一つ、分からぬのです」
リスカは己に言い聞かせるようにして、慎重に言葉を紡いだ。
「ね、先程、残りの支払いはいらないって言ったわよね」
「ええ」
「本当言うとね、助かるわ。いやねえ、こんな身になっても誇りだけは捨てたくないって意地を張ってきたのに、あなたがそう言ってくれた時、喜んじゃったわ。我ながらさもしい自分に笑えてね」
スィラは裏口の戸に寄りかかりつつ、長い赤毛の髪を指先に絡めて、しどけなく笑った。
「勘違いをなさらぬよう。私から言い出した事ですよ。あなたが罪悪感を抱けば、こちらの立つ瀬がない。私の心の全ては善の念のみで占められているのではないが、時には気紛れもあるのです」
リスカはあえて素っ気なく答えた。この場で気に病むななどと安易な気休めを口にすれば、スィラに何らかのしこりを残しそうだと考えたのだ。同情や憐憫は、場合によっては無意識の蔑みとも判断される。
ゆえに、予期せぬ気紛れとしてしまおうと思う。
スィラが明朗な笑い声を響かせた。
「気紛れ、ね?」
「はい」
リスカは空とぼけた。
「あたし、こう言おうと思ってたのよ。残りの支払い分の代わりに情報を、って。でも、言い方を変えるわ。あたしも気紛れで、口を滑らせてしまうってことにする。他の妓への通り道を教えるなんて、普通はしないんだから」
スィラがふわりと腕を伸ばし、リスカの肩にもたれかかった。
「妓王の館、この先の十字路を三本越えて、右手に折れた先の通りを進んだ場所にあるわ。その一帯は花苑でも高級館が並んでいるの。似たような構えの店が多いから迷うかもしれないけれどね。目印は門前に飾られたララサという黒花よ。でもまだ日が高いから――そうね、もう少し時間を置いた方がいいわ」
リスカは瞬きを忘れて、スィラの言葉に聞き入った。
「娼婦のあたしが願うのはお門違いなのだけれどね、あなたまであんな妓に魅入られないでよ? 誰もかれも皆、妓王にひれ伏しちゃ、面白くないじゃない」
「はい、分かりました」
おどけた表情のスィラの言葉に、リスカは救われたような気分になった。
「それと、ね」
「はい?」
恐らく気前の良い客相手にのみ見せるような、魅惑的な微笑をスィラは作った。
どきまぎとするリスカへ、このような冗談を言う。
「あなた、遊びたくなったらいつでもおいでなさい。あたしとヘフィト、娼婦の誇りにかけて存分に気晴らしさせてあげるわ――勿論、お代、取るからね」
完全に固まるリスカだった。