花炎-kaen-火炎:10


 スィラが説明してくれた雅やかな通りを、リスカは居心地の悪い思いで俯き加減に進んだ。
 運良く妓王との邂逅が叶ったところで問うべき言葉が定まっていないというのに、このまますぐに帰路を辿る気にもなれない。
 大体、疑心に駆られて愚かしく先走りしすぎているかもしれないという消極的な自覚もある。胸に湧き上がる不安は、現実の前に幾つもの大袈裟な幻影を作り出し、淡い恐れまで生んでしまうようだった。
 後悔すると確信していても尚、歪な感情に突き動かされるまま、リスカは華やかな通りを彷徨っている。
 なぜこれほど気にかかってしまうのか。
 セフォーがどこでどのように振る舞っていようと、リスカには関係なく口出しする権利もありはしない。大切な同居人だから、などといった言葉では誤魔化しきれない不安定な思いにリスカはいつになく翻弄され、途方に暮れていた。
 こういう思いは、一体どのように受け止め、何と名付ければよいのだろう?
 理路整然と矛盾を片付け、己の内で分裂する奇怪な思いに早く決着をつけてしまいたいのに、正視することをひどく躊躇う自分もまた存在するのだ。
 理性は狼狽える己の間抜けさに失望し、感情の部分では意気地のなさを糾弾している。そもそもこんな悩みに対してまでも及び腰になり理の洞窟に逃げ込もうとしている時点で、最早処置なしの気がする。
 リスカは足早に突き進み、苦い表情を浮かべた。
 この周辺の何とも艶やかな空気にも正直閉口してしまい、自分が存在する異様さに戦きそうになる。全く、この一帯に広がる店々の華麗さと自分が、そぐわぬといったらない。
 自分がこれほどまで懊悩の沼に足を取られ、無様にもがいているのは、ジャヴが紡いだ不必要な言葉が原因だなどと責任転嫁をしたくなる。
 リスカは大きく溜息を落とした。
 もう帰ろうか。今の行動も思考も、決して褒められたものではない。他人の行動を探るなど、陰湿ではないか。
 後ろ髪を引かれるような思いを振り切り、曲がったばかりの道を引き返そうと決心した時だった。偶然的な遭遇というのはなぜ、疾しい気持ちを抱えている時に起こりやすいのだろう。いや、この場合は、当然の帰結かもしれない。
 踵を返して、道端に咲いていた枯れかけの小花にふと目を向けた瞬間、「我が友、発見!」という明るい声が響き、確認するより先に背中に柔らかな感触がはり付いた――というより、飛びついてきたのだ。
「……重…っ」
 と思わず顔を引きつらせ、背中に不審人物を乗せたまま前のめりで潰れるリスカだった。
「リカルスカイ君、捕獲だ!」
 不可思議な表現を用いた言葉が、背中から元気よく響いた。男性が持つ、低い声である。
「ツァル、重いですよ……」
 リスカにいきなり突撃してくる人間といえば、神出鬼没である友人の響術師ツァルしかいない。
「重いか、リカルスカイ君! これが友の重みというものだよ、存分に味わうがいいね」
 はははと軽快な笑い声を上げて、背にはり付いているツァルがリスカの肩に腕を絡め、嬉しげにぎゅっと抱きついてきた。
 よく分からぬが、とりあえずツァルはご機嫌のようである。
「ツァル、私、潰れています」
 虚ろに微笑みつつ、リスカはようやく振り向いた。
 おや、と瞠目するほどの美男子に変貌しているツァルが、何やら照れ笑いを浮かべていた。整った顔立ちではあるが、精悍や凛々しいといった表現ではなく、呑気な道楽息子とつい呼びたくなってしまうような容姿に見えた。
「ふふふ、不思議に満ちた瞳をしているね、リカルスカイ君。なぜ私がこの淫靡な花園地帯に出没しているか、不思議に思って言葉も出ないという表情だ。よしよし、分かりやすく説明してあげようね。実は、君の宅へ遊びに行ったはいいが、君も白き破壊王も不在だったのだ。このまま何の収穫もなく帰宅するなんて、あんまり寂しすぎて涙に溺れてしまうと危惧し、ならばと愛しい友を捕獲するまで足を棒にし捜索してやろうではないかと強く決意した次第なのだよ」
 背中から降りたツァルが、身軽な動作でリスカの前に移動し、とんと踵を鳴らした。
「勿論、広い町をたった一人で探すのは骨が折れるからね、ちょっと術を使って君の居場所を突き止めたのだが、いやいや、驚いてしまった。我が友が、我が友が! この私を置き去りにして、まさか誘惑の歌声響く香しき秘密の花園地帯へ足を向けるとは。天変地異の前触れか、動乱期到来か。こら白状したまえ、どんな遊びをするつもりできたんだね」
「いえ、遊びにきたのではなく、妓に花びらを届けに」
 後ろめたい部分を隠し、仕事帰りであると説明しかけたが、ツァルは聞いていなかった。
「なんと朴念仁な君が、妓に花束を届けるって! 誰だ、意中の妓は! 紹介しなさい」
「花束ではなく、花びらを」
「ひどいなリカルスカイ君。友を差し置いて、一人で楽しもうだなんて。さあ行こう、折角だから共に花々と戯れよう」
「え? ツァルっ!? ま、待ってください」
 こちらの制止を全く聞かず、ツァルは一体どのような結論を出したのか、リスカの手をぐいぐいと握って歩き出した。
「ツァル、あの」
「まだ時間が早いからね、開いている館は少ないかな。あっ、あの店がいい! あそこにしよう」
 通りに並ぶ館を物色していたツァルが、とある一件を指差して、握ったリスカの手を楽しそうに大きく振った。どうしたことか、珍しく男性体に変貌したためだろうか、現在のツァルの思考も肉体に倣って男性的に染まっているような気がした。そもそもツァルの本当の性別を未だに知らない。いやツァルの性別を問う前に、リスカは本来女性なので意中の妓も何もないのだが、そのあたりはすっかり忘れられているらしい。
「お待ちください、遊びにきたのではないのです」
 選んだ店の方へ近づこうとするツァルを懸命に引き止め、訴えた。するとツァルは足を止め、不思議そうに振り向いてリスカを見下ろしたあと、今度はまだ開いていない館へと近づき、その壁に寄りかかった。ついでのようにリスカも隣に並ばせられる。
「じゃあ、どうしてそんなに思い詰めた顔をしているんだい。花苑に来て暗い顔をする者は大抵、妓に溺れて借金塗れの地獄に陥りつつ、それでも足を運ばずにはいられないという救いようのない事情を抱えているじゃないか」
「では、私は、そういった人達の気にあてられたのでしょう」
「君は、友に嘘をつく人間なのか」
 むっとしたように問われて、リスカは困惑した。
「気晴らしが必要な顔をしているよ。なに、妓は一人じゃないとも。そうだ、最近ね、すこぶる美麗な妓が現れたと聞いた。どうせならば冷やかしにいってやろうじゃないか」
 寸前のところで、顔色を変えずにすんだ。
「やめておきます」
「なんだ、機嫌が悪いのかい、今日の君は」
「すみませんが、疲れているのです」
 ツァルを信頼しているし、大事な友人であると思っている。それでも今は、誰かと共に行動したくはなかった。どうにも無様な姿を晒してしまいそうだったのだ。
「……君を探しにここへ来たのに? 遊んでもくれない、ろくに話もしてくれないなんて意地悪だ」
 ツァルが拗ねた顔をして文句を言った。
「すみません、明日なら必ずつき合いますから」
「あのね、今日じゃなければ意味がないということもあるじゃないか。未知なる明日にどんな加護があるんだい」
 ツァルはどうやら意地になったらしく、なかなかリスカをすぐには解放してくれなかった。
 謝罪と言い訳を繰り返すうち、ツァルは本格的に気分を害したらしく少し落胆を覗かせた目をして、つんと顔を背けたあと、一人で娼館の一つに入っていった。
 残されたリスカは罪悪感を抱きつつ、ふうっと重い溜息を落とした。うまくいかない時は、些細なことでさえ空回りする。
 
●●●●●
 
 そうなのだ、幸運の糸は必死に守ろうとしてもすぐに断ち切れてしまうが、不運の糸は固い鋼を芯にしているのか大変硬質であるくせに、実は柔軟な面までも持っている。更には厄介なことに大抵輪つなぎとなっており、思いもよらぬ災難まで呼び寄せるものなのだ。
 以前にもよく似た考えを抱いた気がする。災難は次なる災難まで喜んで連れてくると。
 ツァルの機嫌を損ねてしまったことに罪悪感を抱き、一度は帰路を辿ったもののやはり無視できなくなって再び花苑へ戻った時だった。さて、ツァルは一体どの店に潜り込んだのだったかと、忍び寄る夕闇と共にちらほらと増え始めた通行人に怯えつつ、娼館の華やかな外観に視線を巡らせていた時、突然腕を強く掴まれてしまったのだった。
「わ!」
 リスカは素っ頓狂な声を上げて振り向いた。何とも目のやり場に困る薄布をまとった娘がにっこり目映い笑みを浮かべてリスカを見上げていた。
「遊ぼ」
 喉元をくすぐるような甘い声音に、一瞬身が硬直する。少し遅れて、この少女は客引きをしているのだと理解した。
 リスカは冷静な表情をなんとか繕いつつ内心でどうすればいいのかと強く狼狽していた。客観的に見れば、自分の姿はおそらく、どの店に決めるか迷っている客としか映らぬだろうとも理解した。
 小鳥のように愛らしくすり寄ってくる娘を、リスカは持て余した。通行人が増えてきたというのに、なぜいかにも花苑に疎いと分かる自分が誘われているのだろう。いや、疎いからこそ絡めとりやすいと判断されたのか。
「あ、あの」
 冷や汗をかきつつ、手を繋ごうとする娘を押しとどめようとした。何やらこのままではすぐにでも身ぐるみ剥がされそうである。
 複雑な意味で絶体絶命の状況を迎えているリスカを救ったのは、全く予期していない人物だった。
「悪いな、その者は俺の連れだ」
 しがみついてくる娘から視線を引きはがし、声のした方へ驚きの目を向けた。
 うわあと胸中で情けない悲鳴を上げてしまう。
 にやりと笑む、その者――いつぞやフェイと共に店へ訪れた、小柄な騎士が立っていた。
 
●●●●●
 
「花苑に慣れていないようだな」
 きっぱりと言われて、リスカは項垂れた。
 現在の場所は、娘に誘われた道から僅かに奥へ進んだ広い通り――小柄な騎士の手慣れた応対により困惑の時間から解放されたものの、なぜかこうして彼と肩を並べ歩いているという次第だった。別の意味で困惑してしまう。
「ありがとうございました」
 横を歩く騎士をちらりと覗いて礼を述べると、興味なさそうに手を振られてしまった。ぞんざいな仕草に戸惑ったが、そういえばこの騎士は、身分が高いであろうフェイと対等の立場で話していた上、砂の使徒についての事情も知っているのだった。ということは、深く思索するまでもなく、彼もある程度の身分をもった人物であるのが容易に知れる。
「お前、フェイの情人ではなかったのか」
「……はい?」
 リスカは何もない道で大きく転びかけた。
「まあ、別にどうでもいいが」
「ちょっとお待ちください、今すこぶる恐ろしい誤解をされた気がするのですが」
「どうでもいいと言っている」
 こちらは全然どうでもよくありません、もの凄く深刻な気分を味わいましたよ、とリスカは胸中でいい募った。どうしたことか、フェイが絡むといつもこういった誤解をされているように思う。ここでまたも誤解されたとフェイに知られた場合、凄まじい勢いで罵倒されそうではないか。
「わ、私はこちらへ、仕事で来たのです!」
 最早懇願の勢いで真剣に述べたが、騎士は全く聞こえぬ素振りでさっさと足を進めていた。どうして騎士というのは横柄な者ばかりなのだとつい胸中で叫んでしまう。
「どこへ向かっている?」
 気怠そうに問われ、ぐっと息を詰めたが、もう弁解しても無駄だと諦め、リスカは溜息をかみ殺した。すぐさま意識を切り替える。予想だが、この彼は、返答にもたついているとあっさり会話に値せぬ人物であると判断しそうだ。既に先程までの短い会話で、リスカに対する評価は下がっているように思われた。会話を望むのならば、彼の質問に対して間を置かず答えるしかない。そしてリスカの意識は、自身の困惑を解消するよりも強く会話を望んでいた。口を開くまでの間に考える。正直に、友人を探していると答えるか。いや、彼はツァルを知らぬだろう。無意味な返答になる。では。
「妓王を見たいと思い」
 騎士は瞬いた。
「妓王か。今が盛りの妖花だ。一見の者は容易くその時間を摘めぬ」
 駄目か、とリスカはわずかに落胆したが、顔に出さず頷いた。
「買いたいのか」
「いいえ」
 即座に否定する。見たい。それだけだ。なぜなら。――なぜなら?
「見る。それのみでよいのか」
「はい」
 答えると同時に、小柄な騎士は立ち止まった。
「来い」
 踵を返す騎士のあとを、無言で追う。全く、過去の出会いというのは予期しえぬ場所で繋がるものだと感嘆の思いを抱く。
「リスカは砂の使徒だったな」
 ふと思い出したように呟かれ、頷きかけたが、次の瞬間、ぎょっと目を見開いてしまった。
 フェイや彼と初めて顔を会わせた時、確かに名を告げたが、リスカという愛称は知らぬはずだ。
「フェイが時折、お前の話をする」
 何ですと! とリスカは再度転倒しかけ、騎士の呆れた視線を頂戴してしまった。
 一体どんな噂を流しているのですか、フェイ!
 
●●●●●
 
 どのような噂話を広げられているのかと怯えるリスカに頓着せず、騎士は黙々と花苑の通りを歩き、はっと息を呑むほどの壮麗な館の前で一度足を止めた。娼館とは思えぬほどの上等な門構えだ。まるで小ぶりの宮城のようだった。
 典戯(てんぎ)と称される娼館専属の護衛が二人、門前に立っている。一口に娼館といっても格の差は大きく異なり、客層も変わってくる。
 典戯の胸に飾られている黒い花にリスカは目をとめた。門柱にも同じ花が飾られている。ララサだ。
 騎士はちらりとララサの館を見上げたあと、臆した様子もなくさっさと門の奥へ足を進めた。慌ててあとを追うリスカに、典戯の二人が視線を向けてきたが、引き止められることはなかった。やはり案内役をつとめてくれる騎士は、それなりの身分を持っているのだろう。
 リスカだとて仕事柄、娼館の内部に足を運ぶことがある。だが、これほど壮麗な内観の館に入り込んだのは初めてだった。艶美の極みというべきか。天井からいくつもつり下げられた銀の鎖に、たっぷりと滴りそうなほどのララサの花が巻き付けられている。至るどころに溢れるララサの花の芳香に息苦しくなるほどだった。その中を、美しく着飾った娼婦たちが独特の艶かしい足運びで動いている。目の眩むような色気だった。
 辺境であるというのになぜか貴族の姿が多いこの町。花苑もそういった貴族たちを狙って、優美な外観の館を造る。
 ふと心に何かの違和感を覚えた時、騎士が足を止めた。リスカは思考を一旦切り替え、出迎えた館の敷者(じきしゃ:館の案内人)に視線を定めた。
「エジ様、ようこそお越し下さいました」
 騎士に敷者が愛想よく挨拶している間、リスカは数歩後ろにとどまり、華やかな内観をちらちらと捉えながら居心地の悪さに耐えた。自分の存在が恐ろしく場違いで、虚ろな微笑が漏れそうになる。
 何やら目眩まで覚え始めたため、近くの柱にさりげなく寄りかかり身を支えた。こちらが激しく葛藤している間、エジと呼ばれた騎士と敷者は密談をしているかのように小声で対話をしていた。やけに長い。少し不審に思った時、エジがすっと相手の手に何かを握らせた。もしや買収作戦というものか、とリスカは思わず目を逸らし、平静を取り繕った。いいのだろうか、騎士がこんなに堂々と……いや、一応隠すようにはしていたようだが……人目のある場所で店の者を買収して、後ほど発覚した場合問題になったりはせぬのだろうかとつい懸念してしまった。だが、よく考えれば、リスカの頼みを叶えるために店の者に取引を持ちかけたのだから、うむ、ここは余計な口出しをせずおおらかな心で見逃した方がいい。いささか姑息な結論をくだしつつ、リスカは一人頷いた。
 敷者と話をつけたらしいエジが片手を軽く見せ、内心狼狽しているリスカに合図をした。
「妓王は今上階にいる。既に客を引き入れているようだが、この後半刻ほど、客を伴って外へ出るそうだ。通路に面した一室を取った。帳をのけて前間にいれば、妓王が出る際、恐らくその姿を目にできる」
「……感謝します」
「必要ない。以前、お前に対して非礼を働いたことへの詫びと取れ」
 詫びとは思えぬほど尊大な態度だったが、リスカは彼の言葉をありがたく受け入れた。



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