花炎-kaen-火炎:11
現在、リスカはエジが取ってくれた一室の前間に座しているのだが。
よいのだろうか、と何度目かの途方に暮れていた。
「どうした」
「いえ」
勿論、一室を借りたのはエジなのだから、彼が同席することに異を唱えるなどできようはずがない。
ちらりと視線を向けると、エジが不審そうな顔を見せた。そう、酒を傾けつつ。
酒。
酒なのだ。
酒なのである。
リスカは強く葛藤した。真剣に煩悶した。
さすがは高級娼館というべきか、実にその、上品な酒を扱っている。美味である。限りなく美味だ。口当たりまろやかで、変な苦みもなく、香りが高い。うまい! と膝を打ちたい素晴らしさだ。ついつい心ゆくまで堪能したいという欲求が生まれるのも仕方ないほど、芳醇な味わいなのである。
いけない、自制せねば本来の目的を忘れ、本気で気持ちよく酔ってしまいそうである。
などと殊勝なことを考えつつも、酒の魔力に最早溺れている感がしなくもなかった。酒好きな自分がわずかばかり恨めしくなる。
「妓を取りたいのか」
突然異様な質問をされ、口に含んだ美味なる酒を噴き出しそうになった。咳き込みそうになり苦悶するリスカを訝しげに眺めつつ、エジが更に誤解を重ねた発言をした。
「取りたいのならば取れ。フェイには黙っておいてやるが」
ち、違います、やはり壮大な誤解をしていますよ、と頬を紅潮させつつリスカは荒く首を振った。そもそも自分の性別は女性なのだ。
「女との関わりも、あるいは嗜みの一つだろう」
嗜みですか、と無意識に顔を引きつらせてしまった。いや、確かに、様々な情報を集めるならば、こういった館の者とも通じておくという方法は容易く考えつく。あながち町の者の情報網は軽視できぬ時がある。
視線を思い切り泳がせていると、エジが一旦杯を傾ける手をとめ、そのまま寝転べる仕様になっている背の低い長椅子の肘掛けに片腕を預けてわずかに興味深そうな顔を見せた。
「フェイが術師を情人とするとは、意外なことだ。容貌にも優れた特色はない。だとすると、術師という性質上、抱えている知識がフェイの関心にかなったか」
歯に衣着せぬ散々な言われようだ、と項垂れそうになり、自分を慰めるため勢いよく杯の酒を空けた。
「理にうるさい者は、俺の好みではない」
あなたの好みなど知りませんとも! とリスカは内心で声高に反論した。内心でしか抵抗できないのがリスカである。
「情人は女でも男でもかまわぬが、容姿の美しさが重要だろう。他の美点は不要だ。むしろ邪魔となる」
悪かったですね美貌からかけ離れてて、と胸中でむきになりつつ嘆いた。人間とは事実を暴露されると傷つくものではないか、お世辞一つ言えないようでは世知辛い世の中を無事に渡ってはいけないのだ、きっとそうだ。
忍耐という文字を心に大きく描きつつエジの空恐ろしい問いかけをかわしている間に、通路の方が賑やかになった。
エジがちらりとそちらへ視線を向け、おもむろに立ち上がって通路と前間を仕切る帳を少し開く。だが、全ての帳を取り払うのはいくら何でも無作法とされるため、透けた薄布だけは下げたままにしておく。大抵の部屋は、中央広間で催しものがある際、前間から鑑賞できる造りになっているため、こういった薄布が垂らされている。特殊な織り方をされている布で、室内側からはよく透けて見えるが、通路側からはぼんやりとしか映らないのだ。顔を無防備にさらしたくない客への配慮とされている。
「妓王が通るぞ」
リスカは居住まいを正し、杯を置いて通路へ顔を向けた。酔いに襲われつつある頭の片隅で、なぜ自分は妓王を目にしようとしているのだったかとぼんやり迷う。
「来た」
ぽつりと告げられたエジの言葉に、我に返った。
いや、意識を現実に引き戻したのは、別の気配。
リスカは瞬いた。
薄布の向こう、騒がしくなり始めた通路に、甘い香りをまとわせた妓達が通る。その後ろを歩く人物。上等な薄青色の衣にリスカは目をとめ、顔を上げた。
セフォー?
まるで白昼夢の最中にいるような、即座には信じがたい光景だった。
何度も瞬きをして、すらりとしたその姿を確認してしまう。
本人、だろうか。よく似た他人ではと必死にあがいてしまいたくなる。
異国の軍人がまとうような、襟を多く広げた細身の外套。高めに結い上げられた銀の髪と外套の薄青色の対比は、薄布越しでも分かり、美しい。
「――」
セフォー、以前から不思議に感じていたのですが、そのような衣服、所持していましたっけ。
リスカはおよそずれた疑問を内心で零した。馬鹿げた疑問に思わず現実逃避してしまうくらい、ある意味混乱しているらしい。
普通の人間にも感知できる尋常ではない鮮やかな気配と、目を引く容貌。
けれどリスカは知っている。セフォーはその気にさえなれば、完璧に気配を殺して人の意識に残らぬよう行動する事が可能なのだ。今は他人の視線になど、全く頓着していないのが分かる。
言葉が見つからない。駆け寄る事もできない。
何かの間違いではという思いをこの期に及んでも捨てられない。
「どうした?」
リスカの様子を不審に感じたのか、エジが問うた。返答ができなかった。
リスカ達が借りた一室の側までセフォーや妓たちが近づいてくる。
何を思えばいいか分からず息を殺した直後、背後からセフォーの腕に手を絡める者の姿があった。
「あれが妓王だ」
これは――。
リスカは無意識に口元を押さえた。
美しい!
咄嗟に他の言葉が思いつかず、愕然と胸中で叫んだ。
妓王。
そのように冠される美貌の妓。
黒に近い濃紺の長い髪は、まるで星の欠片をまぶしたかのように煌めき。透き通るほど白い肌。花の雫を垂らしたような艶めく唇。鮮烈な深い青色の目。舞うように揺れる長い肩掛けがまた鮮やかな青色だった。
目眩がした。
肌が粟立つほど、美しい。異彩を放っているといってもよいのではないか。
リスカが知る女性の中で一際美しいと感じたのは、今は亡きティーナだった。だが、この妓が相手ならば、ティーナですら霞むだろう。存在感がそのまま華と映るような、圧倒的な輝きがある。
美は力。思い知る。
これが妓王か。
血の気が引いた。
セフォーの尋常ではない気配を前にしても決して霞まない。対等の位置に立てている。
セフォーと比肩する者が存在するなんて。それも、美貌のみでだ。
リスカは茫然自失の体で、二人を眺めた。
艶かしく唇をつり上げて笑う妓王が、手にしていた一輪の黒い花、ララサを軽く掲げて、セフォーに見せている。セフォーは見返すのみで何も答えなかったようだが、それでも――彼女を退ける雰囲気ではなかった。
セフォーが他者を受け入れている。人間嫌いと断定していいほど、他者に全く関心を示していなかったセフォーがだ。
なぜ?
分からない。リスカはただ呆然とするしかなかった。
妓王は微笑をたたえたままセフォーにララサを渡したあと、腕をゆるりと彼の腰に絡ませていた。
セフォーはその腕を拒まないで、促されるまま手渡されたララサを妓王の髪にさしてやり――。
リスカは唇を噛み締めた。
とにかくもう冷静に眺めていられぬ心地になり、俯いて、酒杯のふちを何度も指先で撫でる。
あぁ、何よりも胸にこたえたのは、二人の様子ではなく……セフォーが、すぐ側にいるリスカの気配に気がつかなかったという事なのだ。
あれほど感覚の鋭利な人であるはずなのに、全く察していない。
心臓が恐ろしい程の速さでどくどくと脈を打っている。指先が、全身が震えるくらい寒くて、頭の芯が激しく痛くて、ぼんやりしてしまう。
何を自分は血迷っているのだろう?
もとより、自分の側にはいつまでも存在するはずのない稀な人ではないか。
何を自惚れ、安穏としていたのだ。
勘違いも甚だしく。
けれど!
――セフォーは!
私だけがあなたに勝つのだと。時々は追えと。
そうして、全ての宝石を水に沈め、私に飾ってほしいのだと。
そう言っていたのに!
あなたを追って、知った光景がこれだ。あなたが誰かをその手で飾っているではないか。
「……」
リスカは目を閉じ、こめかみを強く押さえた。魔術師の心には枷がある。そう簡単に喚くものか。
身勝手に叫び、暴れ回っていた意識が、一息で凍え、しんと静まり返った。
馬鹿だ。
本気にした自分が誰より――いや、鵜呑みにしていたわけではない。他愛無い言葉のやりとりに過ぎないと分かっている。何かを期待するほど身の程知らずでもないし、自身の立場に陶酔してもいない。
愚かなのは、ただの慰めでしかなかったその場限りの台詞を、こうして覚えていた事なのだ。
セフォーの言葉が意味をもって重かったのではなく、ひとえに自分の心が余計な雑念をはり付けて重くしていたのだと気づく。
やはり自分の力量では彼の隣に立てないし、平等ではいられない。抜き出た何かがなければ、あっさりと潰されるのだ。ささやかな好意や感謝では届かない。残念ながら、事実だった。
暗愚だな。
リスカはこめかみから指を外し、静かに思う。
吐息が漏れた。
しばらく後、妓王とセフォーは、華やかな供の者を数人連れて店を出ていった。
「しばし奥で休むか?」
ふっとリスカは視線を上げた。エジが落ち着いた表情をして、先程までと変わりなく酒杯を傾けている。しまった、少しの間、彼の存在を意識の外に置いていた。
何を問われたのかと考え、きちんと理解するよりも前に、軽く首を横に振って笑みを作った。
不自然なほどの平静を取り戻している自分にわずかな違和感を抱く。
けれど、何も変わりなどありはしない。
時間は無言で今を刻み、過去を重ね、未来を招く。歴史を紡ぐ不変の環。自分が自分であることもそのままだ。
日常は平穏で。
人があり町があり木々が寒さに葉を落とし。
何も。
何も不都合はないのだと、リスカは自分に語る。
白い冬の静寂は、依然として密やかにリスカの心を包んでいる。
●●●●●
「――」
リスカは目を開けた。
瞼を開いた瞬間、激しい頭痛と吐き気に襲われ、低く呻くという醜態をさらしてしまった。
身を丸めつつ、額を押さえて、一体この痛みは何事かと急いで考える。すぐさま、なんとも情けない記憶が蘇り、自分自身に絶句した。
妓王たちを目にしたあと、エジになぜか強くすすめられるまま酒杯を重ね、深酔いしてしまったのだ。
リスカはどちらかといえば酒に強いのだが、エジは更に上をいく酒豪だった。何杯空けても、まるで水を飲み干しているかのごとく平然としていたのを思い出す。そういう相手と飲み比べなどするものではない。つられてリスカも随分多量の酒を体内に流し込んでしまうかたちとなり、途中で降参する羽目になったのだった。今となっては言い訳になるのだが、リスカは当初、すぐに辞去しようとしたのである。ところが、特に好意などを抱いていないだろうリスカ相手に、エジが執拗なくらい強く酒につき合うよう要求してきたため、何度かの遠慮の後、根負けしてしまったのだ。一室を借りてくれた恩が頭にあるため、そう無下に固辞できなかったという理由もある。
休むつもりなどなかったというのに、結果として娼館の一室で眠ってしまったらしい。
酒場ではないのにこういった部屋の借り方をしてよいのだろうかと、薄く滑らかな夜布に包まりつつ後ろめたさを抱く。
――などと煩悶する前に、エジはどこへ行ったのか。
「うう」
起き上がりたいのだが、身体が悲しいほど拒絶してくれる。いやいや、自分を甘やかしている場合ではない。
リスカは意思の力で身を起こし、寝台から降りたあと、ずるずると這いながら扉へ近づいた。情けない。
扉を開け、前間にまでなんとか這い進んだ時、ふと自分の恰好に気づいた。さて、どのくらい時間が経過したのかは分からないが、まだ性別転換の術はとけていない。それはよいのだが、いつの間に自分は着替えたのだろう。
思わず乾いた笑みを浮かべてしまう。夜着の上に、つるりと滑らかな生地の黒い衣を羽織っている状態だ。
一体自分の衣服はどこに、と焦り、扉を開け放ったままであった奥の間を覗き込む。どうやら寝台に潜り込む前に脱いで、床に置いたらしかった。
もう一度そちらまで這い戻り、所持品と衣服を確かめ、ほっと安堵の息を落とす。非常時用として持ち歩いていた花びらもちゃんとある。それを手に取り、着替えようとした時だった。
「?」
リスカは振り向き、動揺した。
通路側から、リスカがいる部屋の前間の帳が開けられ、誰かが入ってきたのだ。
ど、どうする! と自分に問い掛け、慌てて寝台に潜り込んだ。いわゆる、寝た振り、である。人間、どうも心に後ろめたさがあると、咄嗟に逃げの道を選んでしまうものらしい。
頭まで掛布を覆い、近づいてくる気配を戦々恐々とうかがった。
「――眠っているな」
どこか安堵したように低く紡がれた声に、掛布の中でリスカは目を見開いた。フェイ?
なぜフェイが来たのだ。
それに彼だけではなく、誰か別の者の気配も感知できる。
泥酔したリスカの身を引き取るよう、エジが彼をこの館へ呼んだのだろうか。
最も無難な考えを巡らせた時、掛布に誰かの手がかかった。リスカは慌てて目を閉ざす。
ゆっくりと慎重な様子で掛布がめくられた。寝た振りを必死に装うこちらの顔を、どうやらフェイが注視しているらしい。
「まだ起きぬな?」
「かなりの量の酒を飲ませた。普通ならば、あれだけ飲めば、朝までは起きぬが」
確認するような声音で問うフェイに、エジが答えていた。やはり、エジがフェイを呼んだのだ。
すみません起きてしまいました、とリスカは内心で思わず答えてしまったが、なぜか虚しい気分になった。
「お前の情人、呆れるほど酒に強いな。俺までも酔いそうになった」
誰が情人なのだ。
反論の声が喉元まで出かかっていたが、ここで起きては台無しになると判断できるだけの理性はまだ残っている。なにか、単純にリスカを迎えにきたのではなく、謀の空気を察したのだ。ただ、悪意のなさは分かる。
「言っておくが、情人ではないぞ」
ぽつりとフェイが反論した。
「どうでもいいさ。俺に弁明などいらぬ」
「弁明ではなく、事実だ」
あなた達、人の頭の上で何を話しているのだ。
眉間にしわを寄せそうになった時、まるで躊躇うかのような繊細さで、誰かの指が髪に触れた。
「全くお前は、なぜ揉め事の中に飛び込んでくるのか……」
フェイのその密やかな呟きは、どうやらこちらにあててのものらしかった。
リスカは身じろぎしそうになるのを懸命に堪えていた。髪に触れていた指が、こめかみや頬をするりと柔らかく撫でたのだ。
動揺するリスカの耳に、堪えきれなかったらしいエジのかすかな笑い声が届いた。
「フェイ、己の顔を一度鏡で見てみろ。それこそ、事実が分かるだろう」
「何を言っている」
「口づけをする前の顔だ、それは」
思考が停止した。こちらの頬を好き勝手に撫でていたフェイの指も停止したが。
「何を!」
「大声を出すな。しばしの間ならば外で待ってやるから、早く来い」
言いたい放題のエジの気配が遠ざかった。
フェイ一人になったのならば、事情を問うため起きてもよかったが、話の流れを思うととても目を開けられない。それどころか、フェイにも早く出ていってほしいと祈らずにはいられなかった。長く寝た振りを続けられる自信がない。
ふっとフェイが溜息を落とす気配を感じ取った。
「後ほど、迎えに――」
囁くような声が聞こえた瞬間、耳元の空気が動く。
閉ざしている目の下に、そっと押し当てられるささやかな感触。すぐに離れたと思ったら、今度は逆側の目尻に甘いと感じるほどの柔らかな感触が乗る。熱くはないのに、なぜか血がのぼりそうになるほどの熱を感じた。その熱は、身体の中に広がるというより、まるで響くかのようだった。
飛び起きなかった自分を褒めていいかもしれない。
触れてしまいそうな距離から見つめられている気配を感じた。実際、その認識は誤りではないだろう。額にさらりと、こちらを見つめているのだろうフェイの髪が落ちているのだ。
何だかもう、瞬きする気配まで感じ取れてしまいそうなほどフェイが近い場所にいるのではないか。
脳裏に、気怠げに瞬くフェイの顔が浮かぶ。鮮やかな金色の髪と青い目。フェイの姿を明確に覚えているからこそ、余計により近く感じ、緊張もしてしまうらしい。いや、目を閉ざしている分、尚更想像が質感を持つというべきか。見知らぬ者が相手ならば、ここまで事細かに、与えられた感触を追おうとはしないだろう。
リスカは、フェイの気配が離れて部屋の外へ移動するまで、死に物狂いと言えるくらい必死に寝た振りを続けた。
「……」
何を言っていいか分からない。
ぱちりと目を開き、上半身を起こす。
数秒の間、リスカは煩悶し、起こした上体を今度は前に倒して、小さく呻いた。実に情けない呻き声だった。