花炎-kaen-火炎:14


 リスカは咳き込み、血の色が薄く混じった唾液を吐き出した。
 腹部に衝撃を与えられたらしい。その場にうずくまりたいが、髪を掴まれているために身動きできない。
「そういう奇麗事はな、力のある者が口にしてこそ受け入れられる。お前が言っても底の浅い負け惜しみにしか聞こえない。散々理由をつけて尻込みしてさ、結局は怖いんだろ」
 痛みを逃がすために、何度も瞬きを繰り返した。
「俺は、無能な者が、勘違いして一人前の口を叩くのが許せないね」
「……力があれば、口にしてもいいのですか」
「そうとも。実力が伴えば、言葉にも力が宿る」
「何のための」
 リスカの問いに、蛾妖が眉をひそめた。
「力は力、額に入れて飾れるものではないでしょう。何かの目的のために必要とされるのが力。それ自体に美しさも醜さもなく、情も無情も関係はない。あなたは何を求めるがゆえに、力を」
「――お前」
 蛾妖の目の色が変化した。わずかに身を震わせてこちらを睨む蛾妖の気配に、濃厚な殺意が混ざり始めた。
 純粋な問いだったのだが、蛾妖には挑発と取られてしまったらしかった。
「口が達者なことだ。弱き者の生きるすべか」
「そうです。言葉も力。人によっては、心を凍らせる威力を持つ」
「威力ねぇ」
 蛾妖は嘲るように笑い、ふと何かを思いついた顔をしてから己の身を再びスィラの姿へと変えた。
「この人間な、顔は美しいが心は悪鬼だぜ」
 リスカの髪を片手で掴んだまま、もう一方の腕を上げて白い指先をひらりと振ったあと、蛾妖は自分の頬を撫でた。
「どういうことですか」
 スィラは蛾妖が作り出した幻の姿ではないのか。実際にスィラという女性が存在していたと。
「俺は相手の精気を食わなきゃ化けられないんだよ」
 なぜそんな事実をわざわざ明かすのだろう。
「最初は別の妓に化けて娼館に潜り込んでたのさ。このスィラという女、奇麗な顔をして心の中じゃ他の女をあしざまにけなしてたぜ。ヘフィトのこともな。口じゃ心配しているなどと言いながら、腹の中では笑ってた。いい気味だと」
 リスカは咄嗟に視線を険しくした。
「あなたがそう仕向けたのではないのですか」
「俺のせいにするなよ。もともとこの女がそういう奴だったってことさ」
 蛾妖は笑った。リスカから怒りを引き出せたことが嬉しいようだった。
「他の女を罵らずにはいられないくせに、そんな自分さえも呪っていた。わけが分からぬ女だ。弱い奴は雄弁で、迷いやすい。自分の言葉に嫌悪し、迷いを深める。弱者が抱く言霊のどこに威力が?」
「スィラは今、どこに」
 蛾妖は唇の端をつり上げて魅惑的な表情を作ったあと、自分の腹部に指を置き、円を描くようにゆっくりと撫でた。
「血肉だって、食えないわけじゃないんだよ」
「むごいことを」
「だってさあ、お前の治癒がヘフィトに効くと親切に教えてやったのは俺なんだ。なのにこの女、妓王のもとまでお前を連れて行こうとしなかった」
 リスカは至近距離にある蛾妖の目を見返した。今の話はどういう意味だ。リスカの店まで駆けつけてヘフィトの治癒を頼んだのはスィラ本人だったというのか。では一体、スィラと蛾妖はどこで入れ替わったのか。
 妓王への道をリスカに指し示した時には既に入れ替わっていた。だが、リスカの店から娼館まではスィラと離れることなく行動したのだ。ヘフィトの治癒の間も彼女は側にいた。リスカが彼女から離れた時は――あぁ、娼館を辞去する時しかない。
 蛾妖とスィラの入れ替わりは、リスカが裏口から出る直前に行われたのだろう。
「なぜあの時、道を教えるのみにとどめたのですか。あなたが私を妓王のもとまで連れて行けばよかったのでは」
「……セフォードがいるだろ。お前にはり付いていたと知れて、万が一にも――何を笑っている?」
 蛾妖がふと眉をひそめてリスカを凝視した。
「別に」
「何だと?」
 リスカはなけなしの意地でしらを切った。
 つい微笑んでしまったのは、スィラのことを頭の片隅で考えたためだった。
 血のにじむ足で、リスカのもとまで懸命に走ってきたのは蛾妖ではなくスィラ自身だったのだ。腹の中ではヘフィトや他の女性を罵っていたかもしれない。けれど、リスカの前に現れたスィラの姿は、どうだっただろう。
 正直、とても見られたものではなかった。走り通しだったためか、髪も衣服も乱れ、化粧も汗で流れていた。血走った目をして興奮状態のままリスカに詰め寄り、ヘフィトの治癒を頼んだのだ。
 人間ならば誰でも他人には見せられない呪いの気持ちを抱く時がある。親しい者に対してですら、存在を疎ましく思ったり妬みを抱く瞬間があるだろう。
 それでもスィラはヘフィトのために走った。きっと走らずにはいられなかった。
 誰がスィラを、弱いと決めつけられるだろう?
 いいや、強いも弱いもない。力は関係がない。
「なぜ笑った」
「あなたを笑ったのではない」
 蛾妖は舌打ちしたあと、視線で「言え」と促した。抵抗すれば本気で切り刻まれるだろうと悟り、リスカは口を開いた。
「人は強さ、弱さで計れないものだと。あなたは先程、ありのままの姿、という言葉を嫌悪していましたが、私はその陳腐な、ありのまま、という表現が好きらしい」
 なぜなら、スィラは、自分の心を努力して変えようと思い、走ったのではないだろう。
「くだらない!」
「そう、くだらない表現がいいのです。ある場面では軽薄な意味で、また別の場面にては強い思いをこめて、無数の人が繰り返し使ってきた表現。使い古された、都合のいい響き。それでも、死なない表現です。聞き飽きたという者もいる、価値のない表現だとうんざりする者も出てくる、けれども、何度だって聞きたいと思う者もきっといる。ゆえに、この先もずっと使われ続けるでしょう。力とは無関係に、それこそ、ありのままに」
 ありのままを認められて立ち直り、奮闘することができる。ならば、努力する前に使われても、いいではないかと思いたい。未来に対する餞としてだ。
「最初は誰でもありのまま。そこから始まるのが命」
「くだらない、くだらない」
 蛾妖は煩わしそうに首を振った。
「お前、やはり面白くない」
「面白い話をした覚えがないので」
「時間稼ぎの弁舌はもう飽きた。弱い者の論など、所詮は本来の姿を誤摩化すための自己陶酔の域を出ない。苦しめて殺してやろう」
 吐き捨てられた宣言に死を覚悟し、息をとめた時、不意に蛾妖がリスカの髪を掴む手に力をこめた。次の瞬間、頭に奇妙な音が響き、鋭い痛みが走る。髪を乱暴にひきちぎられたのだ。
「血という血、全て搾り取ってやろうな」
 崩れ落ちかけたリスカの身を、蛾妖が片腕で支えた。無理矢理襟元を広げられ、鎖骨の窪みを緩く撫でられる。
 目を閉じた直後、ぷつりと肌の裂ける音が身体の奥に響いた。鎖骨の窪みに置いた蛾妖の指の爪が皮膚を裂き、更に肉をも抉ろうとしているらしかった。痛みによる悪寒が走ると同時に、全身が冷たくなった。肉を傷つける蛾妖の指が、そのまま横へとずれていく。唇を噛み締めて叫びが漏れそうになるのを堪えたが、呻き声だけはどうしても誤摩化せなかった。汗が大量に滲むというのに、口の中はからからになる。
「へえ、花の術師の特性か。お前の血は香る、なかなか美味そうだ」
 蛾妖の声がひどく近かった。
 傷口を舐め上げられ、身がはねそうになったときだった。
 突然蛾妖が顔を上げ、素早く天井へ視線を投げた。
「何だ?」
 先程までの優越感溢れる態度とはうってかわって蛾妖はやや焦りの色を滲ませ、独白した。
 乱暴に身を放されたリスカは腹部を抱えるようにしてその場に倒れながらも、視線を周囲へと巡らせた。蛾妖が構築した結界が、どうしたことか、薄れ始めている。一瞬、セフォーが救助に駆けつけてくれたのかと考えたが、もし彼ならば理屈抜きに結界を一撃で叩き壊すというすこぶる明快な戦法を取るはずだった。
 では一体誰が、外部から結界を揺り動かしているのか。
 時折霞みそうになる意識の中でリスカは考えた。
 リスカを置き去りにして結界から逃れようとしたらしい蛾妖が、明らかに憤りを滲ませて大きく舌打ちした。
「あ」
 ふと壁を見つめ、無意識に呟いてしまった。
 壁の蝋が溶け出していたのだ。埋め込まれていた宝石が落ちて床に衝突し、水滴のように飛び散った。
 結界が崩壊する。
「畜生!」
 蛾妖の罵り声と同時に、視野が一瞬激しく揺れた。身体が捻られるような感覚に、呼吸も束の間奪われる。
「――」
 リスカは瞼を閉ざした。
 溶ける結界。
 甘い毒に溶かされる意識のよう。
 元の世界が戻ってくる。
 結界が阻んでいた気配を、リスカは感知した。
 溢れる魔力に、吐息を落とす。セフォーとは質が違う。その力をふるう本人を示す、高貴で上質な魔力だった。
 ああ、目映い。手が届かないほど目映く、奇麗な魔力だ。
 夜空にちりばめられた星のように、美という輝きを放つ宝石のように。
 優美で切ない力。
 すぐには直視できず、いつも一度視線を逸らしてしまう。
 羨望を抱き、諦めてしまう、その美貌。
「お帰り、リル」
 少し不敵な、艶めいた低い声が聞こえた。
 閉ざしていた瞼を開き、リスカは小さく笑った。
 さらりとした長い紺色の髪と、鮮やかな碧の瞳が見えた。
 ただいま、というべきでしょうか、それともありがとうが先でしょうか。ジャヴ。
 とても、面映い。
 
 
 不思議な既視感だ。
 以前にも、結界内に監禁され、こうして救助してもらったことがあった。その時は圧倒的なほど激しい力を持つ銀色の閣下様に救い出してもらったのだが。
 いや、それにしてもよくよく自分は監禁される運命にあるらしい、と思い至り、なぜだか虚しさを感じてしまった。
 リスカはなんとか上体を起こした。身を襲う痛みのため、きちんと立ち上がることはできない。
 周囲の様子をざっと確認してみる。花苑の通り道だ。リスカが術に落ちる直前まで立っていた場所だったが、一切の人気はない。どうやらこの一帯に別の結界が置かれ、他者の存在を遮断しているようだった。
 この結界を構築したのは勿論、目の前に立つ麗しの魔術師以外にいない。
 貴族の衣装をまとっているジャヴの手には、美しい細工の繊細な杯が握られていた。その杯が多分、リスカを監禁していたものだろう。蛾妖が杯の中に構築した結界を、ジャヴが見つけて溶かしたのだ。
 ジャヴの視線は、怒りに震えている蛾妖に注がれていた。
「お前、なぜ動ける! 精気を食ったはずなのに」
「なぜも何もね。泳がされていたのに気がつかなかったのか」
 表情に疲労を漂わせているものの、ジャヴは余裕の態度で蛾妖と対峙していた。
「私が蛾妖ごときに遅れをとるはずがないだろう」
 ジャヴがつんと澄ました顔を見せた。一度言ってみたい台詞だ、とリスカは状況を忘れて羨ましくなった。
「稚拙な結界だな」
「何だと!」
「確かに蝋は気配を遮断するがね。一つ忘れていないか。結界を構築するための魔力を蝋に溶け込ませているのだから、器を見つけてしまけば解除は容易いではないか。燃やせばいいのだ。簡単に蝋は溶ける。同時に魔力も燃え失せるというわけだ」
 ジャヴの説明に、蛾妖の顔がかっと紅潮した。
 冷たい光を宿した碧の双眸が、不意にこちらへ向けられた。
 何ですかまさか私にまで言葉の攻撃を仕掛ける気ですか、と思わず警戒してしまった。燃やせばいい、という実に容易い解除方法に気がつかなかったことを責めるつもりなのかもしれない。
 色々と他のことを考えていたために思い至らなかったのです、と言い訳しそうになったがそんな真似をすれば更に激しく侮蔑されそうだ。
 青ざめるリスカを見下ろすジャヴの目が、なにやら険しくなった気がした。
「随分いたぶってくれたものだ」
 ひぇ、と叫びかけたが、寸前のところで我に返った。ジャヴの凍り付くような鋭い台詞は、リスカにではなく蛾妖に向けられたものらしい。
「人に害をなす妖を見逃すほど、私は薄情ではないのでね」
 ジャヴが静かに詠唱を始めた。
 だが、蛾妖が編み出す攻撃の波動の方が速い。人である魔術師とは異なり、魔の類いは詠唱を必要とせぬためだ。
 リスカが顔を強張らせた時、蛾妖の波動がジャヴに向かった。しかしその波動はジャヴに衝突する寸前で乱れ、霧散した。水が弾かれたかのような音が響く。魔石の飾りをジャヴは持っていたのだ。その守護が彼の身を包んだらしい。
 蛾妖が間をおかずに何度も波動を衝突させる。魔石の効力がいつまで保たれるかと息を呑んだ時、詠唱を続けるジャヴの手首を飾っていた腕輪が砕け散った。魔石の力が失われたのだ。続いて耳飾りも弾け飛ぶ。その欠片がジャヴの頬を傷つけ、血をにじませた。
 駄目だ、蛾妖を一度で捕えるほどの大きな術を紡いでいるために、詠唱も時間を要する。更に言えば、蛾妖を泳がせるためとはいえ、多量の精気を与えてしまっている状態なのだ。魔石を所持していたということは、複数の術――守護の術を同時に構築するのは無理と判断したに違いなかった。
 身を守る魔石が全て砕け散ったのに気づいたらしい蛾妖が唇の端をつり上げた。かざした手に魔力が集中している。
 詠唱は間に合わない。
 リスカは悟り、息を深く吸った。
「!?」
 放たれた一際大きな攻撃の波動。
 ――よく身体が動いたものだと己に驚いた。
「お前!」
 咄嗟にジャヴの前に飛び出て、残っていた防御の花びら二枚を同時に放ったのだ。
 けれどもやはりリスカの魔力では弱い。二枚同時に使っても尚、蛾妖の波動の方が上回る。
 視野が一瞬赤く染まり、斜め後方に弾き飛ばされた。阻みきれぬ波動に身を裂かれたのだ。
 自分は全く戦闘に向いていない、と情けなさと痛みの中で痛感した。
「――」
 そのまま地面に倒れるはずだった身体が、強い力で抱きとめられた。
 ジャヴ。
 背後から腰を支えてくれる魔術師の気配が広がった。
 ひっと喘ぐ蛾妖に向かって、詠唱を終えたジャヴの術が降り注ぐ。
 白く燃える騎士の姿をとった精霊たちが術の鎖から飛び出し、蛾妖へ一斉に襲いかかった。
 ジャヴが作り出した精霊が容赦なく蛾妖を切り裂く。
 周辺一帯に結界をはっているために、蛾妖はこの場から逃げ出すこともできない。
「これが力というもの。お前が求めるには千年早い」
 さすがは正規の魔術師。
 感嘆すると同時に、リスカの意識は落ちた。
 
●●●●●
 
 リスカが目を覚ましたのは、ちょうど寝台に身を横たえられた時だった。
「リル?」
 リスカはぱちぱちと瞬きをした。起き上がろうとして、ジャヴの手でとめられてしまう。
「まだ手当てがすんでいない」
「……ここは?」
「騎士殿の屋敷だ。君が気を失っていたのはわずかな時間だよ」
 リスカはゆっくりと視線をさまよわせた。徐々に意識が正常に戻っていく。豪華で広い貴族の部屋。確かにフェイの屋敷だ。
「蛾妖は」
「滅したよ。手加減するつもりはなかったのでね。その後すぐに君を連れてこちらに転移した」
 あぁそうか。あの蛾妖はジャヴの術に負けて消滅したのか。
 聞きたかったことがあった。
 蛾妖は元からあの力を持っていたのではないようだった。おそらくは誰かに授けられたものだ。一体誰に力を与えられたのだろう。
 力に固執していた魔。何のために力を求めたのか、それも聞き逃してしまった。
 いや、人と魔は違う存在だ。力を求める意味もまた異なるのかもしれなかった。
「酷い怪我だ」
 不意に滑り込んできた言葉に、リスカの思考は打ち切られた。
 柔らかな寝台に横たわるリスカの頭の横にジャヴの手が置かれ、ついで顔を覗き込まれた。長い髪がさらりと彼の肩からこぼれ落ちる様子をじっと見つめてしまった。
「どうして……」
「話は君の手当てを終えたあとに」
 諭されて、リスカは口を噤んだ。
 片側の目がひどく開けにくい。自分がどの程度の傷を負ったのか、確かめるのが少しばかり恐ろしかった。覚えている限りでは、両腕が裂かれたはずだし腹部にも衝撃を受けた。最後には顔やその他にも鋭く痛みが走った気がする。
「馬鹿だね。君の力で私を庇うなど」
 馬鹿といわれてしまったが、声音はとても穏やかだった。
 リスカは紡ぐつもりのない言葉をそっと心の中に落とす。奇麗な容貌の魔術師。その彼の顔が血にまみれるところなど見たくなかったのだ。
 やはりなんだかんだと弁明しつつも自分だとて美なるものを崇めている部分があるのだろう。
「こちらの屋敷に連れてきた方が都合がよいと思ったのだが、困ったね。このような状態を騎士殿が目にしたら、私はひどく詰られそうだな」
 あの、手当てをしてくれるのでは……と思いつつ視線をジャヴの顔に向けた。
 といいますか、あまりその、じっと凝視されますと、本気で緊張するのですが。
 微妙に怯え始めたリスカの様子には気づかないのか、ジャヴは繊細な手つきで頬に触れてきた。
「ん」
「痛むだろう」
 うむ、今、頬に痛みが走ったようだ。ということは、顔にも間違いなく傷があるのだろう。
「ジャヴ」
「静かに」
「あの」
「寝ていなさい」
「ひ」
 いえそうではなく!
 何をしようとしているのですか。
「ままま待って、待ってくださっ」
 ひぅぇえ、とリスカは内心で身も蓋もない悲鳴を上げた。
 なぜ服を脱がそうとしているのだ、この魔術師は!
 蒼白になってもがくリスカに、ジャヴが冷たい視線を向けた。
「なぜって……手当てをすると言っただろう。自分がどれほど傷を負ったか分かっていないのか。腹部、肩、腕も負傷している。脱がせねば傷口の手当てができまい」
「ひぇ」
「色気のない奇怪な声を上げるものではないよ。ああほら、暴れるから痛みが強くなったんだ」
 いいですいいです、自分で手当てしますとも。
 どうすればこの窮地から脱出できるのか、リスカはある意味、蛾妖に監禁された時よりも真剣に考えた。
「うぐっ」
 これは何の拷問ですか。
 無理矢理上着を脱がされ、下に着ていたものまで剥がされかかった時だった。
 妙案が浮かんだ。いや、光明を見出したという表現の方が心情的には相応しい。
「花びら! そうでした、治癒の花びらがあるのですっ」
 少しの間、見つめ合ってしまった。
 リスカはぐったりとした。よかった、美貌の魔術師に全身をさらけ出す事態だけは免れた、と安堵しながら。
 
 
 治癒系統の花びらは四枚残っていたが、一枚は病用だった。怪我に有効な花びら三枚のうち、一枚をジャヴに渡した。
 目に見えて大きな怪我はなかったが、魔力を随分消費していたようだったのだ。
 己に対する治癒は、他者に施す場合と比較して、効力が弱まる。ゆえに二枚を使用しても完全に治せなかったのだが、あとはジャヴが術を施してくれた。そ、そうだった、ジャヴも魔術師なのだから、治癒の術を知っていて当然なのだった。
 では先程なぜ脱がされかかったのか、と遠い目をするリスカだった。
「治癒ついでに着替えさせてあげようとしただけじゃないか」
 呆れた顔で寝台の端に腰掛けるジャヴへ、ついつい恨みをこめた視線を向けてしまった。
「君の衣服、血塗れだ」
 いわれたあと、恐る恐る自分の衣服を眺めて卒倒したくなった。確かに血塗れな上、至る所裂かれている。
「それに治癒をしたと言っても、失われた血が全て復活したわけではない。落ち着きなさい」
 あっさりとした含みのない態度で諭され、リスカはやや項垂れながらも素直に従うことにした。自分だけが色々と意識しすぎていると気づき、非常に情けなくなったのだ。
 ジャヴは屋敷の使用人に話を通し、わざわざこの部屋に盥を運び入れて湯をはってくれた。着替える前に、肌に付着している血のあとを拭うのが先だった。こちらの身の負担にならぬよう、意外なほど甲斐甲斐しく世話をしてくれるジャヴの様子に少し驚いてしまう。
 リスカは気を取り直し、ありがたく湯を頂戴した。
 用意してもらった新しい衣服はあからさまなほど華美というわけではなかったが、手触りも着心地も素晴らしく上等なものだった。勿論、フェイの屋敷の使用人が、客人に対して見窄らしい衣服を用意するはずがない。また、貴婦人が好むような華やかなものではなく、男性がまとっても違和感のない衣服を選んでくれたことにリスカは感謝した。以前滞在していた時のリスカの恰好を、どうやら使用人達は覚えていたらしい。優秀だ、と内心で感心した。
 季節が冬であることを考慮して、暖色系の組み合わせを選んでくれたようだ。落ち着いた深い明度の橙色と薄めの緋色の重ね合わせはとても美しい。布ではなく革を使った硬い帯ですっきりとまとめる型の衣服だ。更に上掛けとして、赤銅色の糸で細かな刺繍が施された濃藍の長衣を軽くはおる。
 汚したりしないかな、といささか自分の粗忽さなどに怯えつつ衣服を着込む。最初、装飾品の類いをつけるのは丁重にお断りしたのだが、血塗れだった衣服を片付けてもらった時になにやらひどく仰天されてしまい、あれやこれやと必死に懇願されるうち、降参する羽目になった。少しでもいい思いをさせて受けた痛みを軽くせねば、といった使用人の心配りに恐縮しつつも面映さを覚える。と、まあ、こういった理由で鮮やかな紅玉の耳飾りを借りた。片側は大振り、もう一方は小振りという、左右で形が異なる耳飾りだ。
 貴族的恰好にどきまぎしてしまったが、そのおかげか、身に受けた痛みに対する恐怖などは随分薄れたと思う。
 まろやかな温かい飲み物までいただき、ほっこりと気持ちが柔らかくほどけた。そういえば屋敷の主であるフェイは不在なのだろうか、と今頃不思議に思ったが、同時に、色々と混乱を招く記憶が蘇りかけたため、深く考えるのはやめた方がいいとやや焦りつつ思考を遮断してしまった。うむ。
 長椅子に腰掛け、意識を切り替えたあと、ついくつろぎ体勢に入ってしまったリスカの側にジャヴが寄ってきた。呑気にだらけている場合ではなかったと我に返り、慌てて顔を引きしめるリスカに、一人掛け用の椅子の肘掛けに軽く腰を乗せたジャヴが微笑を見せる。くつろいでかまわない、と言いたいらしい。
「顔色が戻ったね」
 そ、そうですか? とリスカは自分の手で軽く頬を撫でてみた。
「先程までは真っ青だったよ。己の血に酔って気分が悪かったというのもあるだろう」
 争いに関わることのない一般の女性よりは動揺を抑えられるが、魔術師としては血に弱い方だろう。なんとなく後ろめたくなり、ジャヴの視線から逃れるため意味もなく虚空へと顔を向けてしまった。
「ゆっくり休みなさい」
 と、労りの笑みを浮かべたジャヴが部屋から出ていく素振りを見せたので、リスカは慌てて引き止めた。
「あの、話を」
「君には休息がまず必要だ」
 リスカは困惑した。このままだと真実を隠されて、曖昧にされてしまいそうな気がしたのだ。
「ですが、術師とは真実を求めるものでしょう?」
「真実。君にとっての真実は、身体がひどく疲労しているということだろう」
「あなたにとっての真実は」
 食い下がると、ジャヴは小さく吐息を落とし、先程の体勢と同様、椅子の肘掛けに軽く腰を預けた。
「困った人だね、リル」



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