花炎-kaen-火炎:16


「まあ、それで結局、元貴族でありながらそれなりの料理を作れる腕前になったのだが」
 ジャヴの何気ない一言に、リスカは抱いていた悲愴感を忘れ「うむ?」と首を捻った。
「その後、あなたが調理を担当するようになったということですか」
「そうだよ。この私がね、作った」
 リスカは一瞬、惚けた。ジャヴが料理を?
 ちゃんと食せるものを作れたのか、とつい無礼な質問をしそうになり、慌てて口を噤んだ。
「初めはまともな食事を作れなかった。シエル様は、それでも美味であると言ってくださったさ。作った私自身ですら口にできぬような代物であってもね。更には、食事に対する感想をまたしても同期の魔術師たちに文で送った。今日の料理はどういったもので、大変歯ごたえのよろしい奇抜な味である、まるで束縛の術を仕掛けられたがごとく舌が痺れ目眩を引き起こす、これはおそらく頭を目覚めさせよという弟子のさり気ない心配りに違いなく云々、などとね」
「それは、なんとも……」
「ああ、嫌味でそのような感想を書かれたのではないのだよ。あの方は本気で喜び、自慢して回ったのだから。だがいつまでもそのような文を書かれては、私とて沽券に関わる。ゆえに、料理人の元へ修行にいった」
「はい?」
「初めてまともな食事を出した翌日、私は塔で学ぶことをようやく許されたのだ。長かったね、そこに行き着くまでの日々は」
「お、おめでとうございます」
 としか言えぬではないか。
「シエル様は、私が作った食事以外に手を出さぬ。師たる己が何者かに食を預けるなど弟子への非礼、と仰ってね」
 自慢されている、とリスカはやや引きつった微笑を浮かべた。ジャヴの誇らしげな顔から思わず視線を逸らしてしまったが。
「君も美味と言っていただろう。私はなかなかの腕前ではないか」
「え?」
「失礼だね、リル。忘れたのか。以前、君と幾度か、食事をしたことがあっただろうに」
 リスカは仰け反った。確かにこの町でジャヴと会ってから、稀に食事をしたことがある。外食ではなく、その時彼が暮らしていた屋敷でだ。
「あの料理、あなたが作っていたのですか!」
「他に誰が作るというのか」
 てっきり料理番がいるのだと勘違いしていた。意外な新事実である。
「このように――シエル様は素晴らしい方だった」
 思わず「今の話で、どのあたりが素晴らしかったのでしょうか」と問い返しそうになるリスカだった。
 その後もジャヴは、シエルがいかに立派で尊敬に値する人物であるのかを、滔々と語ってくれた。たとえばシエル様は神鳴の力を術に取り入れるべく屋敷の庭に金物の山を作られた、とか、私の緋眼を開かせるためと言って魔物が多く出没する地で数ヶ月の野宿を決行した、とか、記念日には必ずシエル様が自曲を演奏して祝ってくださったが恐ろしく下手だった、とか、矛盾の多い不出来な論文を提出してしまった時は三日三晩嘆かれた挙げ句、師である己の指導が悪かったのだと自責の念に駆られ頬がこけるまで断食なさった、とか、正直無茶苦茶な話であったが、ジャヴがあんまり幸せそうな表情を浮かべていたので、何も言えなかった。リスカが密かに抱いていたシエル像は見事粉砕されたものの、この師弟がどれほど互いを大事にしていたのか、思い知る。ぎこちなく、不器用であり、深い。
 途切れることなく語られる思い出話。使用人が気をきかせて運んできた飲み物に目もくれず、ジャヴは話し続ける。
 最初は頷き、静かに耳を傾けていたリスカだったが、そのうち心配になってきた。まるで、思い出という御伽噺をその身いっぱいに仕込まれた機械人形のように語り続けていたためだ。停止の螺子が壊れているために、とまれない。
 少しでも話させれば楽になるのではないかと考え、そうさせたのだがもしかすると失敗だったのかもしれないと後悔し始める。
 夜明けが訪れ、幾度か使用人が休むようすすめに来ても、ジャヴは全てを無視して思い出を吐き出し続けたのだ。
 喋り続けたために、声が嗄れてきている。もういけない、とリスカは思った。さすがに見ているのすら辛くなってきた。
「ジャヴ」
「――それで、シエル様がご自分で衣服を繕おうとしたのだけれど」
「ジャヴ、もう」
 手を伸ばして、話し始めた時から体勢を変えずにだらしなく腰掛けているジャヴの膝をゆすったが、彼は柔らかな微笑を浮かべたまま、口を閉ざそうとしない。これは、おかしい。
「針の種類さえ見分けがつかない方だから、何度も失敗されて」
「ジャヴ、休みましょう」
「途中で諦めるのは、己で限界の線を引く事だと仰って、徹夜で衣服を」
「ねえ、お願いですから」
 たまらなくなって、リスカは椅子から降り、彼の肩を揺さぶった。手の甲に、さらりと艶やかな髪が触れた。
「ところが、繋ぎ目を間違えたため、前と後ろの長さが」
「口を閉じて。また、いつでもお話を聞きます。約束しますから、今日はもう」
 焦れたリスカは片手でジャヴの口を覆った。その瞬間、指に痛みが走る。噛まれたのだ。
「ジャヴ!」
「……長さが、異なってしまった。シエル様はとても難しい顔をして、ご自分で縫われたその衣服を長い間見ていらした。私のために縫ってくださったものだから、長さが多少違っても別に」
 リスカは言葉を失ってしまった。どうすればいいのか分からない。以前に己が無理矢理彼を現実に呼び戻した。その結果が、この姿なのか。とんと軽く叩いただけで呆気なく崩れゆく正気。いや、思考はきっと冴えている、自我もちゃんと残っている。けれども、愛の部分だけが壊れている。そういうことなのか。
 また、愛についてが分からなくなる。
「私は嬉しかったのだよ。王がまとう布よりも、私にとっては価値が――」
 突然、ジャヴは咳き込んだ。
 一度も喉を潤さずに一夜話し続けたためだろう。
「ジャヴ」
 咳が激しくなる。それなのにまだ話そうとするから、余計に咳がとまらない。
 ジャヴは苦しげに顔を歪め、僅かに身を倒して口元を覆った。
 慌てて椅子の側に跪き、顔を覗き込むと、病人のごとく真っ青になっている。
 リスカは思わず手を伸ばした。片腕でジャヴ頭を抱え込むようにし、もう一方で背をゆっくりとさする。
「大丈夫、いいんです」
 腕の中で、ひどく緊張していた身体が一瞬痙攣した。耐えきれずに少し嘔吐したのだ。
 ああこんなことが以前にもあったと、リスカは彼の背をさすりながらぼんやり考えた。そうだセフォーといた時――あの時は、リスカが背をさすられたのだった。
 苦しさのためか、白い頬を生理的な涙が伝っていた。えずいてもまだ嘔吐感がおさまらないらしい。吐きたいのに、吐き出しきることができない悲嘆。リスカは、子供に対するようにジャヴの頬を両手で撫で、濡れた唇を拭ったあと、乱れている髪を梳いた。
「今、全てを吐き出さなくていいのです。あなたが呼ぶなら、いつでも私は応えます」
 一旦離れて水差しを持ってきたあと、ジャヴの顔を仰がせた。
 無意識のような仕草でジャヴの手が動き、リスカの腕を掴む。腕に押し付けられる額のあたたかさを感じた瞬間、リスカは不意に泣きたくなった。許されたい、と思ってしまったのだ。
「リル。シエル様は、死にたがっていた。だから」
 もう喋らないでほしいのに、必死に言葉を紡ごうとしている。
「きっとこれでよかった。そうなのだろう? セフォードではなく、もし、力量に然程、差のない者であったなら。私は、きっと復讐した。セフォードのように、理を超えて力をふるう者で、よかったのだろう。手出しのしようがない強さ。神の裁きのようだ。それで、よかったのだろう」
 答えられなかった。
 死は死。尊さはあるのか。本当に厳かなのか。
 許されたい、許されたい、とリスカは胸中で何度も繰り返してしまった。季節は蘇る、心もいつか蘇る可能性がある、けれども死そのものは蘇らない。
 あぁ思い違いをしていた。ジャヴを楽にさせたかったのではなく、きっと自分自身が罪の意識から逃れたかったのだ。ゆえに、少しでも早く、ジャヴを立ち直らせたいと。
 利用してしまった。彼の愛を、自分のために。
 思わず、声に出して許しを乞いそうになった時だった。
 扉を遠慮がちに叩く音がしたのち、屋敷の執事が戸惑った表情を浮かべながら姿を見せたのだ。
 リスカは咄嗟に身を起こし、ジャヴの姿を隠すようにして立った。
「……若君が、こちらに戻られます」
 執事の眼差しが、じっとリスカに注がれる。
 そうだった、娼館で寝た振りをした時、フェイは「後ほど迎えに」と言っていたのだ。突然消えたリスカをどう思っただろう。
 どう反応すればいいのか逡巡した瞬間、背後から腕を取られ、リスカは目を見開いた。
 捩じれる空間。突然、視界が歪む。
 ――転移だ。
 驚いた顔をしてこちらへ一歩踏み出す執事の姿が見えた。だがすぐに、彼の姿のみならず視界に映るもの全てが照明を落としたかのごとく暗くなる。そして横殴りの強風に吹かれ、脆く崩れ去る砂の城のように、掻き消えた。
 己の身が重力のない空間に投げ出されたかのような錯覚を抱く。悲鳴に酷似した激しい耳鳴りに襲われ、リスカはたまらず目を閉ざした。例外もあるが、実際のところ、詠唱のみで行われる転移は上位以上の魔術師にしか扱えぬ術なのだ。一つ間違えば、死を招く難解な業だった。
「――」
 はっと我に返り、目を開いた時、既に転移はすまされていた――とんでもない場所にだ。
「うぐっ」
 リスカは実に女性らしくない呻き声を上げた。何なのだ、ここは。
 一瞬、牢獄内か、と絶望しそうになってしまう。が、よく見れば、違った。薄暗いために視野は鮮明と言い難いが、どうやら獣を閉じ込める檻の側に転移してしまったらしい。目の前にはいくつかの大型の檻が置かれており、内部に何やら黒い生き物がうずくまっていたのだ。
「ひ」
 まままさか猛獣ですか、とリスカは気絶しかけた。しかも、がたごとと大きく揺れている。荷馬車のような揺れだ。ということはつまり、猛獣を運ぶ荷馬車の幌の中に、転移したと。更に追加すればリスカたちは、前後左右、積み重ねられた檻のちょうど中央、なぜかぽっかり開いていた狭い空間に出現してしまったらしいのだ。どうも大きさの異なる檻を積み入れた際、偶然にも中央部分に空間が生まれてしまったようだった。これだけの檻を積んだ大きな荷馬車だ。蹄の音が強いということは、数頭の馬で引かれているに違いなかった。多少の重さ――リスカたちのことだが――が更に加わっても気づかれはしないだろう。
 それはともかく、降りるに降りられないではないか。いや、降りるためには、檻によじのぼり、越えねばならない。
 自分の腕を掴んでいた手がずるりと落とされる感触に、気絶する寸前だったリスカは慌てて振り向いた。
 足元にジャヴがうずくまり、咳き込んでいる。
「大丈夫ですか」
 この状態で転移を行うとは、とリスカは顔を強張らせた。到着地点を定めずに転移した場合、己の身が破裂する危険があるというのに、なぜ無謀な真似をあえておかしたのか。
 フェイが戻ってくると聞き、今の姿を見られたくないと考えたのかもしれなかった。
「ジャヴ、身体を楽にしないと」
 自分の身に寄りかかるようジャヴの肩を引き寄せる。彼はおとなしくリスカに身を預けた。
 水を飲ませなければ、といささか混乱しつつ周囲を見回したあと、はっと気づいた。片手に水差しを持ったままだったのだ。水差しのつぎ口部分を彼の唇にそっと押し当て、水を飲ませる。嫌な顔をされたが、わずかであってもいいからと無理矢理含ませた。
 それにしても、と水差しを置いたあと、青ざめつつ周囲を眺めた。檻である。奇妙な呻き声を上げる不気味な生物が檻に閉じ込められているのである。
 ジャヴ、せめて別の場所へ転移してくれれば、とつい泣き言を漏らしてしまいたくなるリスカだった。
 とりあえず、吐瀉物で汚れた上衣を脱がせたあと、自分が着ていた濃藍色の長衣を羽織らせた。役に立つ花びらがあれば、とリスカは眉間に皺を寄せた。治癒の花びらは既に使い果たしてしまい、今所持しているのは、病用の花びら一枚と攻撃系が二枚、媚薬系統が数枚だけである。全く意味のないものばかりだった。
 自分の魔術はどうしてこうも、肝心な時に役に立たないのか。
 リスカは内心、失望の溜息を落とす。これまで何度、失望したのだろうか。今、また、失望の数を増やした。
「リル、ここは……」
 と、まだ涙の滲む目で問われてしまったが、答えようがなかった。どうやら危険な動物を閉じ込めた檻の側、しかも荷馬車で運ばれているようですよ、という真実はなかなか口に出せないものがある。
「喉が痛い」
 ぽつりと言われ、尚更焦った。どうにかしてやりたいが、この状況で一体何ができるだろうか。
 咳はおさまったようだが、気力を使い果たしたかのようにひどく疲れた顔をしてリスカに寄りかかっている。移動中の荷馬車から飛び降りようかという提案はできそうになかった。
 荷馬車がとまった隙にジャヴを連れて逃げるしかない。もっとも消極的かつ現実的な結論に達したあと、リスカは一人、祈りを捧げた。どうか荷馬車の主に見つかりませんようにと。
「ジャヴ、荷馬車がとまるまで、堪えてください」
 リスカは小声で頼んだ。それにしても、よかったというべきなのか、突然の転移で出現したというのに、檻内の生物はどれもおとなしくうずくまったままだ。何より、檻内に転移しなくて幸運だったとしみじみ思う。また、到着地点がわずかでもずれていれば、生物の体内に転移し自分もろとも木っ端微塵……とそこまで考え、リスカは引きつった。恐ろしすぎる。
「荷馬車」
「はい」
「そんな所へ、転移したのか」
 自分自身に呆れたような、掠れた声でジャヴが呟いた。
 今の状態で、責めるのは酷だと思い、労るように髪を撫でる。
 しかし、リスカは忘れていた。はっきりと正気に返ったジャヴが厄介で面倒な人だったということに。
「寒い」
 季節は冬ですから、それは仕方ないです。外套も着てませんし。
「獣の匂いがする」
 ……この場所に転移したのは、あなたなのですが。
「疲れた」
 私もかなり疲れています。蛾妖に与えられた傷はまだ完治していないのですけれど。
「眠い」
 もう寄りかかったまま眠ってもらってかまいませんから。
「このような場所で私が眠れると?」
 どうするこの人、気絶させてしまおうか、と本気であくどい策略を巡らせたリスカだった。
 そもそもジャヴ、思い切り体重をこちらに預けていますよね。その上で文句を言いますか。
 リスカの首元に顔を埋めるようにして、しっかりと寄りかかっている。微妙に半腰状態であるリスカの苦労を察していないだろう。
「君が悪い」
「な、何っ……」
「私に喋らせるから」
「ひぃ」
「引き止めるにしても、もっと別の話題はなかったのか」
「ぐ」
「君のせいで、いつも理性が揺れる」
「ひ」
 なぜ! と内心で理不尽な思いに駆られ、リスカは項垂れた。おかしい、この人に対して許しを乞いたかったはずなのに、今は黒い感情とさりげない怒りが湧くのはなぜなのか。いや、気のせい、きっと気のせいだ。うむ。
 自分を宥めつつ、ジャヴの肩からずり落ちかけている長衣を掛け直してやった。何ですか、その生意気そうな目は。
「何?」
「何も言ってません」
 是非気絶して……ではなく、眠ってください、と言いたいところだが、理性を総動員して堪えた。
「ジャヴ、気分の方はどうですか」
 目が冴えているようならば、もう一度転移ができないだろうか、とふと考えたのだ。今度こそは正確に到着地点を定めてだ。
「最悪だね」
 きっぱりと答えられてしまった。
「君のせいで、精神が大きく乱れている」
 まるで舌打ちでもしそうな苦々しい声音で言われた。しかもリスカが元凶であるとされている。
「この乱れた状態で一度転移の術を行使してしまったために、体内の魔力の流れがひどく荒れている。時間を置かねば、正確には使えないだろう」
 ジャヴがそこまで言ったあと、小さく咳き込んだ。しまった、喉がかれているだろうに喋らせすぎてしまったのだ。
 謝罪の意味をこめて、ジャヴの背を丁寧にさする。
 魔力は繊細な流れを持つ。精神が大きく乱れれば、力に影がさし、術をまともに使えなくなってしまうという厄介な点がある。
 ゆえに魔術師は己の心に枷を作るのだが、それでも人間である以上、胸が破れるほどの苦しみを味わう時だとて訪れる。
「リル」
「はい」
 一応返事はしたが、無理に口を開くべきではないと伝えるため、リスカは視線を合わせて小さく首を横に振った。
 ジャヴは「構うな」というように、わずかに唇の端を歪めた。
「冬華祭が終わって何日後のことだったか。劇薬関連についての取り調べも済んだようだったのでね、そろそろ自分の屋敷に戻ろうかと考えていた時だった」
 不意にジャヴがそんな説明をし始めた。
 どうやらフェイは、ジャヴの状態を慮ってなのか、己の屋敷内にて聴取していたらしい。長くフェイの屋敷にとどまっていたのはそのためだったのか、とリスカは納得した。
「騎士殿に、協力を頼まれたのだよ」
「何の協力ですか」
 ジャヴはあまり話したくなさそうな顔をしたが、視線で促すと、素直に口を開いた。どうやら無謀な転移を行ったことについて、幾ばくかの後ろめたさを感じたらしく、不服ながらも多少の譲歩はしようと決めたみたいだった。
「花苑にて、客の不審死が相次いでいると。その調査の協力を求められた」
 リスカは無言で美貌の魔術師を見返した。



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