花炎-kaen-火炎:18


 ジャヴが不意に片手を広げる仕草をした。
「!」
 獣のように突進してくる渦の群れが、ジャヴの前で弾かれる。そうか、自分の髪を一本引き抜き、それに術を仕込んで魔力の乱れを支えたあと、大気に線の盾を描いたのだ。
 けれど、やはり術が荒い。縦と横の糸で織り込まれた布のような魔術の盾は、まるで目が不揃いだった。渦に押されている。
 もう少し時間があれば体内の魔力の乱れを正せただろうに、とリスカは悔やむ。そもそも彼の精神を荒らしてしまったのは、軽々しい動機で過去を語らせてしまった自分だった。
 魔力、体力、気力はそれぞれ深く干渉し合う。気力、魔力ともに削られている状態で、それでも術を構築しているのだ。肉体にかかる負担も大きいはずだった。
「――リル!」
 注意を呼びかけるジャヴの声に、リスカは肩を揺らした。この状況で悔恨の念に囚われ警戒を忘れるなど、最もしてはいけない愚行だった。
「ひぇ!」
 間抜けな悲鳴を上げずにはいられない。何しろ、身体がいきなり宙に浮いたのだ。いや、正確には違う。襟首を誰かに掴まれ、高く空中に浮かされている。
 手足をばたつかせつつもリスカは慌てて振り向いた。
「お前を殺す気はないと言った。俺の遊びが終わるまで、そこで見てな」
 ジャヴの意識を渦の方へ向けたあと、どうやら青年はリスカの背後に回ったらしかった。そして、リスカの身を攫ったのだ。
「うぐっ」
 リスカは呻いた。先程から宙に浮いている状態だった檻の上に、リスカの身は無造作に放られてしまったのである。地上まではかなりの高さがあるため、飛び降りれば怪我をするだろう。
「俺な、女の前で恰好つける男が嫌いだ」
 空中に佇んでこっちを見下ろしていた青年が、ふとリスカに囁いた。
 あの男の顔を切り刻んでやろう。その言葉に反応し蒼白になるリスカの表情をじっくりと堪能した様子で、満足そうに笑う。
 リスカは己に平静を命じ、無言で青年を見返した。魔物とはいえ、全てが全て、飛翔を可能とするわけではない。飛べぬ魔族だとて多いのだ。
 だがこの青年はいとも容易く飛翔している。――背に虫の羽根のような、黒みを帯びた透明な十枚羽が生えていたのだ。
 魔蟲か、妖虫か。
「魔蟲の種さ。お前らの中では、貝百(かいはく)と呼ばれる種」
 リスカの表情から悟ったらしく、貝百は自ら種族を明かした。
 貝百。大気の渦を作り、そこへ獲物を落として食らうもの。辛うじて下位の上、という程度の魔族のはずだった。変化の術は持たぬはずだ。その代わり、特殊な毒を身に持つという。位は低いが、貝百はあまり人の世に出てこないため、詳細が分からない。
「まあ、見てな」
 貝百の姿が変化した。整った青年の顔がぐにゃりと崩れていく。剥がれ落ちる顔の皮膚の下から出現した本性――蟻のように黒い巨大な虫の胴体に人の顔が乗っていた。後頭部側にも般若めいた顔がある。二つの面を持ち、十枚羽を震わせる種族、それが貝百だった。
 存分に痛めつけるつもりなのか、貝百は魔力を使わずに自らの手足を使って、渦をようやく消滅させたジャヴを襲った。ジャヴはまだ、貝百に対抗しうる高等魔術を構築できない。
 リスカは地上で繰り広げられる戦闘を見下ろしながら、身体を震わせた。貝百は残酷な戦い方をしている。一息に殺すのではなく、血塗れにした後、食らう気なのだ。
 どうすればいいのか。仮に今、リスカが檻の上から飛び降り援護に向かったとしても、全く役には立てない。それどころか足手まといになり更に事態を悪化させるだろう。
 せめて、攻撃や結界用の花びらがあれば、微力なりとも助力できるのに。
 リスカは唇を噛み締めた。己の魔力の歪みをつらつらと呑気に嘆き現実逃避している場合ではない。何か方法があるはずだ。
 リスカが乗っている檻の中で、生き物が盛大に鳴き喚いていた。その声に意識が乱され、集中できない。苛立ちのあまり、黙れと罵りそうになったが、ふと思い直して目を見開き、奇怪な四肢を持つ生物を凝視した。
 この生物の種は一体何なのか。
 見たことのない種だ。
 リスカの視線に気がついたのか、狭い檻の中をぐるぐると這い回っていた生物が顔を上げた。今更ながら、初めてこの生物の顔をしっかりと確認したのだ。
 これは異種混合生物ではないのか。
 驚愕し、更にじっくりと観察する。何の種を掛け合わせたのか、不意に理解し、驚きを強めた。そもそも異種混合体に関する研究は禁止されており、違法なのだ。その対象が人間であれば、尚更だった。
 束の間言葉を失うリスカの視線の先で、生物が喉を震わせ悲しげに鳴いた。圧力をかけられたかのように歪んだ顔は人間の特徴を確かに残していた。だが異様なほどおうとつのある、黒い毛に覆われた体躯は獰猛な獅子の肢体に酷似している。
 その生物は瞬きながら涙を落とした。背の部分が突如、膨れ上がる。たった一枚の鳥めいた羽根が開き、鉄格子を乱暴に叩いた。もう一枚、対の羽根があったのだろうが、混合に失敗したのか、瘤のように盛り上がっているのみだった。
 リスカは震える息を吐いた。迷っている時間はない。
 卑劣な方法を思いついたのだ。
 懐から花びらを取り出す。
 媚薬系統の花びらだ。
 まさか、この花びらを今使う羽目になるとは。
 リスカは二枚、その花びらを檻の中へ落とした。
 花びらは溶けるようにして混合生物の中へ魔力を注いだ。恐怖の色で血走っていた瞳がすぐに恍惚とした光を宿す。
「檻から、出なさい」
 リスカは視線を合わせた。魔術師の目は、緋眼と呼ばれる。意のままに相手を操ることができる。勿論、十分な力量を有する場合や意志の強い者にはこの暗示は通用しない。見定めにくい獣相手にもあまり効果は期待できない。ただ、リスカは今、媚薬系統の花びら……催淫効果をもたらす魔力を使用した。催淫というのも基本は相手の意志を弱め封じる術に他ならない。
「さあ出なさい。私の言葉に従え」
 見据えながら、暗示のように繰り返す。
 ぐるぐると上下左右に目の向きを変えていた混合生物がかっと牙をむき、大きく吠えた。恍惚を滲ませた狂暴な光が目に浮かんでいた。恐怖や嘆きは催淫効果がもたらす酩酊感に押し潰され、一種の興奮状態に陥っている。
 骨が砕けるほどの勢いで混合生物が鉄格子に突進した。その音に、ジャヴの腕に噛みついていた貝百が顔を上げた。
 混合生物は狂ったように体当たりを繰り返し、頑丈な鉄格子を破壊した。額から血が流れ出していたが、痛みさえも快楽に変化している目で、檻の上部に座っているリスカを見上げる。
 リスカは思い切って、檻から身を乗り出した混合生物の背に飛び降りた。
 混合生物は歓喜の咆哮を響かせ、檻の中から虚空へと身を踊らせた。
 一つ羽根があるためか、混合生物は僅かの間であれば宙にとどまることが可能らしかった。だが、自我を失っている状態であるために落ち着きがない。背上のリスカは体勢を整えられず振り落とされそうになった。荒い動きに自分の髪が乱れ、頬にふりかかる。
「狙え」
 低く命じたあと、リスカは覚悟を決めて混合生物の背から飛び降りた。神に祈りを捧げつつ。
「リル!」
 地面に衝突する、と内心怯えていたのだが、鈍い音が身体の奥に響いたのみで痛みが走ることはなかった。目を開けると、リスカを抱きとめた状態で地面に腰を落としているジャヴの顔がすぐ側にある。
 慌てて振り向けば、命じた通りに混合生物が唾液をまき散らしながら、驚愕の表情を浮かべている貝百を襲い、食らいついていた。
 予想外の襲撃に、貝百の意思が乱れたらしい。中空に浮遊していた他の檻が一斉に落下する。
 落下の衝撃により、音を立てて鉄格子が壊れた。閉じ込められていた生物は全て、様々な異形の肢体を持つ異種混合体だった。どの生物も皆、激しい興奮状態にあるらしく、魅せられたようにして貝百に襲いかかる。
「おのれ!」
 貝百が十枚羽を大きく震わせ、怒気を放った。リスカが最初に手懐けた混合生物を、一撃で破裂させる。血肉が四方に飛び散る凄惨な様子を見て、リスカは唇を噛み締めた。自分が殺したも同然だった。
「ジャヴ、今の内に」
 リスカは胸に湧いた悔恨を打ち消したあと、素早く身を起こし、ジャヴの腕を取った。途端に苦しげな声があがる。
 苦痛の声にぎょっとし、リスカはあらためて彼の状態をうかがった。これはひどい、と内心で茫然と呟く。上腕の肉が大きく抉れており、血塗れだった。いや、腕だけではない。全身と言っても過言ではないほど、衣服が血で濡れている。羨みそうになるほど奇麗だった長い髪も、あからさまに不揃いになっていた。貝百は本当にジャヴを嬲ったのだと分かる。
「立ってください」
 感情を押し殺して急かした。ジャヴがふっと微笑んだ。
「先にお行き、リル」
 先程の自分と同じだ。ともに行けば足手まといになると判断し、一人で逃げるようリスカを唆している。
 リスカは無言で屈み、比較的無事である方の腕を取ってジャヴを立ち上がらせようとした。
 混合生物の断末魔が次々と周囲に響き渡る。貝百は怒りのままに魔力を放ち、襲撃してくる混合生物を容赦なく殺していた。
 ほんのわずかな時間しか、貝百の動きをとめられない。もっとまともな魔力があれば、とリスカは自分を詰った。
 数歩逃げるのが限度だった。あっという間に混合生物を殺し尽くした貝百が大きく跳躍して、リスカ達の前に立ちはだかった。
「楽しませてくれるじゃないか」
 貝百が前脚をすりあわせ、舌なめずりする。そして後ろ足で握っていた混合生物の肉片を無造作に口へと放り、音を立てて咀嚼した。リスカたちの恐怖を煽るつもりらしかった。
「だが、お前達の前に」
 突然、貝百が首を後方へぐるりと回転させ、咀嚼していた口から渦を吐き出した。
 リスカは仰天した。
 いつの間に忍び寄っていたのか――およそ三十人ほどの騎士の小隊が、それぞれ木陰に潜むようにして、弓を構えていたのだ。
 
 
 数人の騎士が貝百の渦に囚われ絶叫した。
 と同時に、別の場所から次々と矢が飛び、貝百に突き刺さる。
 リスカは目を凝らした。小隊を率いているのは、なんとエジだったのだ。
 対魔種用の濃紅色をした聖衣をまとっているのに気づく。エジの視線が一瞬だけリスカに移ったが、すぐに彼は貝百の方へ向き直り、配下の騎士達へ号令を出した。
 貝百が騎士に意識を向けている間に、リスカはジャヴの身体を引きずるようにして木陰へと移動した。
 そのリスカ達の方へ、エジ本人が駆け寄ってくる。
 リスカは何を言われるより早く、懐から取り出した残りの花びらをエジに差し出した。先程も使用した媚薬系統の花びらだ。
「魔に接近できるのでしたら、これを使ってください」
「何だ?」
「一瞬だけではありますが、おそらく動きをとめられる」
 本来は媚薬用、使い方が大きく間違っているが、細かいことは言っていられなかった。リスカの魔力では長くは貝百をとめられないが、それでも多少の間であれば、まあ、媚薬の効果というべきか、身体を別の意味で麻痺させることが可能だった。
 貝百相手に苦戦している配下の騎士達を振り返り、エジはすぐに視線をこちらへ戻した。
「いいだろう」
 不遜な返事をしつつ、リスカの手から花びらを受け取って、貝百の方へと走り出す。たとえ戦い慣れしていても三十名程度の人間では、貝百を倒せぬ確率の方が高い。けれども一瞬動作を封じることができれば、形勢は逆転する。
 リスカは祈るような気持ちで、貝百に立ち向かう騎士達を見守った。なぜ彼らがここに現れたのかは分からないが、今のリスカにとっては天の助けにも等しい。
「あれは、何の花びらだ」
 痛みを押し殺すようにしてジャヴが軽口を叩いた。
 リスカはそっとジャヴの身を引き寄せ、自分の膝に寝るよう促す。
 素直に従ったジャヴの顔を見下ろすと、出血が多いためであろう、ひどく青ざめており、唇の色も失われていた。多量の汗をかいている。これはいけない、とリスカは息を呑んだ。このままでは死んでしまう。
 どうすればいい。
 リスカは自分の左手を凝視した。人差し指に浮かぶ不具の象徴。花の刻印だ。
 血がにじむほど唇を噛み締めながら左手をジャヴの額に置く。魔力を目覚めさせ、願う。癒しの術をと。だが左手に集まる魔力は当惑しているかのように巡るのみで、外へ放たれることはなかった。なんて使えない意固地な魔力なのか。奇跡さえも拒絶する。
「私は確かに美貌ではあるが――花ではないよ」
 からかいを含むような声がした。
 情けない思いで見返すと、ジャヴが傷の浅い方の腕を動かし、危うげな仕草でリスカの指を掴んだ。
「花と間違えたくなる気持ちは分かるがね」
 冗談に乗る余裕はなかった。
「ジャヴ」
 すみません、とリスカは小さく謝罪した。いつも自分は肝心な時にこうなのだ。ことあるごとに己の魔力は不具であることを痛感させてくれる。
「女性にそのような顔をさせて謝罪させる男など、ろくなものではないな」
 やはり笑い返せない。必死に見返すしかできないのだ。
「君は、己の魔力の歪さを、愛しむべきだ」
 無理だ、と思う。この歪さが自分ばかりか周囲にも不幸を招くのだから。
「よく聞きなさい。何もかもが完璧であると、男は大抵、怖じ気づくものだ。だから、君は、この歪さを、哀れさではなく、愛らしさに見せねば」
 もう、こんな時に何の話ですか。
「眠らないで、ジャヴ」
 なぜいつも、自分の腕の中に、死が近づくのだろう。嫌気がさすほど易々と絶望色の死が擦り寄ってくる。
「その台詞は、夜に可愛らしく言うものだね」
 ふわりとジャヴが笑った。どこか意識が飛んでいるような浮いた調子に、益々息苦しさを覚える。
 突然、意志に反して身が震えそうになった。悲しみや孤独を超えた眼差しが、ひどく怖い。
「お願いですから……」
 上体を折り曲げるようにして、ジャヴの頬を包んだ。命の雫を一滴でも漏らさぬように。汗で濡れている頬は冷たかった。
 魔力が欲しい。身を焼くほど強くまともな魔力がほしい。
「お願いです」
 濃厚な血の匂い。すぐ側では、荒々しい戦いの気配。ここは戦場ではないはずのに、聖の象徴である日が差しているというのに、どこにも救いを見出せない。
 失いたくない。冬を思わせるささやかな平穏よりも、真夏のごとくに烈しく彩り溢れる豊かさよりも、リスカは今、腕の中にある命を選ぶ。
 リスカは、叶うものならばジャヴのようになりたかったのだ。様々な意味で憧憬の対象だった。この瞬間においても、気持ちは変わらない。
 鮮やかな碧の瞳を、じっと見返す。濁りのない奇麗な目だった。ジャヴもまた、何も言わずリスカを見返していた。湖面のようなその目に、自分の顔が映っている。今にも泣きそうな、歪んだ表情だった。魔力と同様、歪で醜い。この人の目に、どうしても自分は美しく映らない。
 淡く、小さく恋い焦がれた過去がある。そう遠い昔ではない。あの頃の自分は、まさか未来にこんな現実が待ち構えているなど思いもしていなかった。
「ジャヴ」
 奇跡がほしい、魔力がほしい。子供のように頑是無く胸中で叫ぶ。願いの言葉が狂ったように激しく暴れるためか、心が痛い。
 どうか死を遠ざける力を!
 堪えきれぬ涙が落ちた時、騎士達の歓声が上がった。
 リスカはふっと顔を上げた。
 空に放たれる勝利の声、その向こうに輝く太陽を背にして、白い羽根を広げる鳥が見えた。
 リスカは目を凝らした。
 日の光に、輪郭を曖昧にして、少し危うげながらも懸命に飛んでくる小さな鳥。
 白い鳥は聖なる使いだと賢人は書物に記した。
「――シア!」
 リスカは光に向かって咄嗟に両腕を伸ばした。
 ぱたぱたと小気味よく羽根の音を立てながら飛ぶ小鳥の嘴には、小さな包みがくわえられていた。



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