花炎-kaen-火炎:24
一体どうする気なのだろうとやや不安を抱きながら、室内の造りを確認しているジャヴの様子をうかがった。彼は外套を脱ぐことなく、先程とは打って変わって真剣な眼差しを室内の隅々に向けている。彼の心情を推測するためにリスカも同様にして視線を室内のあちらこちらへ丁寧に巡らせた。室内の様相もやはりララサの館とよく似ている。前間があり、横長の座椅子などが置かれている中の間があって、更に奥にもくつろげる空間が取られているようだった。リスカたちは現在、中の間に立っているのだ。
窓は中の間につくられていない。奥の間にはあるのかもしれなかった。ふんだんに生けられている花の芳香か、あるいは飾られている紙製の華やかな壁掛けに香を仕込ませているのか、ほんのりと鼻先をくすぐるような甘い匂いが漂っている。隅には胸の位置まで高さのある細い灯火用の台があり、室内を鮮明すぎぬ程度に照らし出していた。この燭台は樹木を象っているらしく、蝋を立てる銀皿の部分が不規則な位置で幾つかに枝分かれしていた。
「リルは私の後ろ側にいなさい」
室内を点検していたジャヴが不意にこちらへ顔を向け、諭すように言った。リスカはおとなしく従い、彼の後方――奥の間に近い位置――へと足を動かした。その時前間に通じる扉が開かれ、春の花を連想させるような鮮やかな黄色の衣をまとった一人の美しい娘が姿を現した。銀の髪を後頭部でゆるくまとめている。白い肌と紅をさした赤い唇に目を奪われた。小柄な若い娼婦だったが、漂わせる色香は同性のリスカでさえも落ち着かない気分にさせるほどだった。
「まあ」
娘はジャヴの顔貌を素早く目にとめたあと、口許を袖で覆いながら愛らしく礼の姿勢を取った。
リスカは表情を変えぬようにつとめた。魔の気配とは、接近されれば必ずしも察知できるものではない。人間が体臭を隠すように魔だとて様々な知恵をつけて気配を断つ。最終的には力量差がものをいうが、まず魔の方に隠す意思があるか否かによっても事情が異なってくる。それに今はジャヴに無理矢理服用させられた玲薬の効果が発揮されているのか、己の身を巡る魔力すらどこか遠くに感じるほどで、とても感覚が研ぎ澄まされているとはいえない状態だ。しかしジャヴがあえてこの娘を選択したという事実を鑑みた場合、やはり魔が化けていると素直に推量すべきであり、自然と警戒の念が湧き出ても仕方のないことだった。
「綺麗な方は大好き」
あどけない口調で娘が笑った。すぐにお酒を用意させますから、と付け足して近づいてくる娘の腕を手慣れた様子でジャヴが取り、己の身の方へ引き寄せる。
「必要ない。私の顔に覚えがあるだろうに」
いきなりそんな好戦的な発言を、とリスカは戦きそうになった。いやよく考えれば『視線』で覗かれていたのだから、こちらの素顔は既に知られているはずで――。
娘がはっと真顔になり、ジャヴの顔を凝視した。何かに気づいた表情を見せ、次いで驚愕を映している。
「蛾妖と貝百の消滅に気づかなかったのか、それとも己の食欲の方がより大事か」
背の後ろに立っているため、ジャヴの顔は確認できなかったが、それでも声音を聞けば彼が今どういう表情を浮かべているのか充分判断できる。リスカは思い知った。美貌の者というのは実に悪役が似合うと。
「お前、魔術師。どうして。貝百に殺されたのでは」
どうやら貝百との戦いを覗いていたらしく、その最中でジャヴは死んだものと勘違いしていたようだ。確かにジャヴは瀕死の状態であったし、結果的に貝百のとどめを刺したのは騎士達だった。まさかその魔術師に潜伏場所を特定され、こうして姿を見せるとは想像していなかったらしい。
娘が言葉になりきらぬ不明瞭な罵声を響かせ、ジャヴに噛みつこうとした。その動きよりも早くジャヴが身をかわし、娘の脇腹を打って手荒く床に押さえつけた。すぐに目の色を変え、わずかに本性を覗かせて起き上がろうとする娘の首に、素早く何かを巻き付ける。糸を巻き付けたのかと不思議に思った瞬間、それはきつく娘の首を絞める縄の首輪に変化した。半分魔に戻りかけている娘が蒼白になった。
「岩の精霊の唾液で作られし紐だ。外せまいな、お前の力では」
悪だ、これほど邪悪な台詞の似合う魔術師がいるだろうか、とリスカは硬直しながら成り行きを見守った。予想ではもう少し会話の駆け引きなどをして情報を得たあと魔物と対決するのではなどと呑気なことを考えていたのだが、顔を合わせた瞬間攻撃に出るとは。
「くびり殺される気分はどうだ」
ジャヴが実に悪党極まりない残忍な挑発をしたあと、床でもがく魔から身を放し、立ち上がった。
太い悲鳴を上げる娘の顔――人としての皮というべきか――がずるりと剥がれ、内部から虫のような茶色の魔の顔が覗いた。ひぃ、とリスカは内心で叫んだ。紐が巻き付けられた首から下は悩ましい娘の肢体、しかし顔は皮膚の剥がれた魔という、凄まじく壮絶な姿が目前にある。
更にいえば、じわじわと紐が首に食い込み、絞り上げているのだ。
できるものなら今すぐ逃亡して身体をあたためる酒でもたらふく飲み、気持ちを宥めたいところだったが、魔の呪詛めいた低い悲鳴とその姿からどうしても目を離せない。
ちくしょう、と魔が呟いた。
「人が残酷でないとでも思ったか。図々しいことだ」
まさに極悪人といった声音でそう言ったジャヴが外套の前を開けて素早く広げたあと、気絶しかけているリスカの全身を隠すようにして包んだ。見えなくなったと思った矢先、その、色々と何かが……血肉の類いが潰れて激しく飛散するような恐ろしい音が響いた気がした。
針に刺されているかのような、痛い静寂が束の間訪れた。
「あ、あの、ジャヴ、どどどうなって」
知りたくないと痛烈に思いつつも、勢いでたずねてしまう自分が憎いとリスカは霞みそうになる意識の中で独白した。抱き込まれるような体勢だったため、思わずジャヴの長衣を皺がつくほど握り締めてしまった。
返答はなく、そのかわりに身を少し離され、こちらを庇うようにして上げられていた腕が降ろされた。リスカは戦々恐々と視線を巡らし、すぐさま深く深く後悔した。なぜなら先程の予感通り、くびり殺された魔の緑色をした肉片やら血片やらが四方八方に飛び散っていたのだ。
なぜジャヴが外套の前を開け、自分を含めたリスカの身を覆うような動作をしたか嫌というほど理解する。飛散した血肉で汚れぬようにするためだ。案の定、盾代わりにした彼の外套の表面は、魔のどろりとした体液で濡れていた。
ジャヴはその外套を惜しげもなく床に捨てた。
「何だね、その目は」
逃げ腰になっているリスカを責めるように、ジャヴが冷たく一瞥した。
「いえとんでもありませんお疲れさまでございました」
などと掠れた声でわけの分からぬ言葉を紡いでしまうリスカだった。この人と戦うような事態だけは絶対に避けようと本気で誓ってしまう。
「化け物でも見るような目を私に向けるとは無礼じゃないか」
「ひぃすみませんそんなことは決して欠片ほどもありません」
明らかに挙動不審な態度で平謝りしてしまった。いえない、今のあなたにセフォーの姿を重ねてしまったとは。問答無用かつ冷酷無比で一方的な戦いでしたよ。
呆れた顔をしていたジャヴがふと視線を虚空へ投げ、まさしく悪党の仲間入りができそうな笑みを浮かべた。
「さて、魔物たちが動いたようだ」
リスカは目を丸めた。他の魔物達を慌てさせるため故意に残酷な殺し方を選び、血肉を飛散させたのかと思い至った。そして娼館内で殺害するという点にも意味がある。魔の潜伏地を既に掴んでいる、と分からせるためだ。己の領域に執着する魔物たちとて、蛾妖、貝百と続き、ここで再び仲間の――仲間と言い切っていいのかは分からないが――無惨な死を身近な場所で感知すればさすがに慌てふためき、動き出すだろう。しばらくは身を隠して様子をうかがった方がいいと考え、逃亡する。
「そろそろ玲薬の効果もきれる。ほら、分かるか、魔物が逃げ帰っているようだ」
リスカには感知できないのだが、ジャヴはしっかり魔の動きが見えているらしかった。
「ゆっくり追いつめようか」
悪の微笑が目映いジャヴに、リスカはがくがくと激しく頷いた。逆らえるはずがない。
その後、悲鳴を聞きつけてこちらへ来た無関係な女性たちが室内の様子を覗き見て気絶したり絶叫したりと、束の間乱痴気騒ぎのような事態に陥ってしまったが、そこは要領のいいジャヴ、後ほど騎士たちが後始末にくるからそれまでの間館の扉を閉めておくように、などと実に適当で無責任な発言をし、怯えている人々を麗しの笑みで黙らせた。
いいのだろうか、自分は今この人についていって本当にいいのだろうか、とつい自問し苦悩するリスカの腕を引いてジャヴは女性陣に微笑を振りまきつつ館を出た。
「途中まで歩くか」
呑気な発言をするジャヴの顔を横目で見つつ、リスカはふらふらと足を進めた。
館を訪問する前、多くの他者と接し深くつき合え、などと言われたが、なんともいやいや。少なくともジャヴに関しては知れば知るほど驚きの連続だった。確かに人間とは奥が深いようだが、うむ、なぜか知ってはいけない裏の顔を垣間見てしまったような気がしなくもない。勿論、魔術師であることを考えればやはりどこか冷徹な面があるのも当然なのだがいやしかし、とリスカは更に深みにはまりつつあった。
悩めるリスカをよそに、何を思ったのかジャヴは、先ほどの道具は実に希少性の高い貴重なもので滅多に手に入らない云々、本来ならば中位以上の魔を捕縛する時に使用されるような強力な聖具で云々、などとしたり顔で丁寧に説明をし始めている。その話も興味深いといえばそうなのだが、なぜそんな貴重な聖具をこの場で使ったのかと思わずにはいられない。
もしやリスカという同行者がいるため少しでも危険を回避しようとしたのか。意外な気遣いと言ってしまうのは失礼であるものの、なぜか嬉しさや後ろめたさを感じるより先に、戦慄が走ってしまうリスカだった。ジャヴも大胆というかなかなか極端というか、うむ。
とつらつら余計な考えを弄んでいるうちに、魔物の通り道であるらしき路地裏に到着した。その場所に仕掛けてあった聖水の色が変色し、濁っている。
「やはり根城に逃げ戻ったようだね」
読み通りに進んで満足しているらしいジャヴが、小瓶の聖水を見つめたあと、少し思案するような顔をした。
この場に長居はせず、すぐに他の場所に隠し置いた聖水の確認へと急ぐ。
「では全面対決といこうか」
凝固しているリスカの頭に手を乗せたジャヴが笑顔とともに宣言し、転移の術を構築した。当然ながらリスカに拒否権はない。どころか、心構えの時間すらもろくに与えられぬまま目の前の空間が歪んだ。
景色が変化する直前、ジャヴについていこうと決めた過去の自分に「はやまってはいけない是非考え直そう」と本気で意見したくなったリスカだった。
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「おやリル、蒼白になっているが、転移に酔ったか」
転移後、すぐには目を開けられずにふらつくリスカの肩を支えた諸悪の根源ならぬジャヴが、平淡な口調でそう言った。
いえ転移にではなく胸に湧いた様々な後悔と恐怖とついでにあなたの凄まじい言動に酔ったようです、とリスカは内心で答えた。口に出せば命はない気がした。脳裏に先程くびり殺された哀れな魔物の肉片が蘇っていた。
「君は本当に体力がないな。もう少し鍛えなさい」
渋い顔をされてしまった。体力のなさが自慢ですなどと軽口を言ったらおそらく見捨てられるだろう。
「これからが正念場なのだが」
と不吉な独白をしたジャヴが、仰け反りそうになるリスカの顔をいきなり掴みぐいぐいとこすった。
「何ですかっ」
「目を覚ましてあげようとしたんじゃないか」
感謝されて当然だ、という表情のジャヴに、最早何も言えなくなった。そんな親切は本当にいりませんと心の中でだけ反論した。
「行けるのか?」
本音ではきっぱり潔く「いいえ」と返答したいどころだが、いかな失態の多いリスカであってもここでの否定はまずいと分かる。嘆息し、弱々しく頷いたあとでようやく周囲の景色を確認するに至った。だが、意外な場所に唖然としてしまう。
「ここは礼拝堂ですか」
「そうだ」
目の前には月を頭上に掲げて濃密な暗闇をまとう礼拝堂が佇立していた。以前、大殺戮の場と化した教会から距離を置いた場所に建造された、時計塔の機能も兼ね備えている古き礼拝堂だ。全体像は、段差をもつ台座に立てられた槍のような造りをした尖塔である。先端の、矢尻の部分となる位置に多角形の時計が設置され、壁に小さく緑一色の色硝子がはめこまれている。正面の扉は木製で聖女図の浮き彫り仕立てとなっており、左右に灯火のための柱が埋め込まれていた。
「墓地も近い。うってつけの潜伏地というわけだ」
「でも礼拝堂とは」
見上げてたずねるリスカに、ジャヴは苦笑を作った。
「何に祈りを捧げるのか。聖なるものに惹かれるばかりとは限るまい。淫祀もまた人の術。何事も正邪は表裏一体という」
「え?」
「ここはつまり、守られぬ聖域ということだ」
ジャヴは一歩踏み出し、懐から小さな瓶を取り出した。リスカがきょとんとし、それは何かと視線でたずねると、こちらに見せるようにして瓶の蓋を開けてくれた。中には、あまり触りたくないようなころりとした石が入っている。ジャヴの手の中にその石が落ちた時、かすかにどくりと動いた気がしてリスカはわずかに身を引いた。またしても珍妙な聖具の類いか。
「阿留(ある)という名を持つ毒鳥だ」
どくとり?
頭の中にしまい込んである妖鳥図録を急いでめくる。毒鳥。それは確か古代の妖鳥の一種で、身から結界ともなる毒気を放つという稀な生き物だったはず。
「これは貴重な毒鳥の化石。だが、ひとたび魔力を注げば、ほら」
鳥というが、体躯は人の親指ほどしかなく、しかも平べったく、幼虫めいている。いや、幼虫というよりもまるで人の舌のような形だ。ならばなぜ鳥の一種に分類されているのかというと、それは羽根がなくとも壁を伝うように宙を蠢くことが可能であるためだった。
ジャヴの手の中で、その小さな毒鳥が息を吹き返し、まがまがしい黒に変化した。目も口も耳もない虫めいた小さな毒鳥。蘇った妖虫の背は、それこそ人の舌のごとくぬるりと湿っているように見えた。
ぐ、とリスカは内心で叫んだ。毒鳥が背を波立たせ、ぶわりと噴き上がるようにして分裂し始めたのだ。はっきり言って、おぞましい光景だった。
「ふ、ふ、増え……!」
何十、何百と分裂し、ジャヴの白い指先を這って地面にぼたぼたと落ちていく。
「魔には魔をもって制す。礼拝堂をこの毒鳥の毒気で包囲する」
地面に落下した阿留の群れが目を疑うほどの速さで宙をよじ上り、螺旋を描いて礼拝堂を包囲した。
「心配はいらないよ。この阿留には私の名を刻んでいるから、よく命令をきく」
そういう問題ではなく視覚的に非常に気味悪く、尚かつ空恐ろしいものがあり、などとリスカは涙目で訴えた。もう決してジャヴの不興は買うまい、と誓わずにはいられない。
「魔物たちが飛び出してきた」
リスカの切実な心情など全く忖度する様子を見せずにジャヴがうっすらと笑った。その言葉に押されて視線を上げた時、礼拝堂の色硝子が音を立てて破壊され、内側からいくつかの黒い塊が勢いよく飛び出してきた。
魔だ、とリスカは咄嗟に身構えた。しかし、出現した魔たちは礼拝堂を包囲する阿留の毒気に身を絡めとられ、宙で動作を封じられていた。
「毒鳥は、毒気を放出するという能力しか有さぬ。唯一であるゆえにその毒はひどく強い」
殆ど攻撃らしい攻撃の力を持たない毒鳥だが、その毒気の濃密さゆえに下位には留まらないという。本来であれば魔術師にも捕えることが難しいはずだが、化石の状態である時に従属させれば――。
「どうかね、私もなかなかだろう」
ちらりとジャヴが視線を寄越し、少し誇らしげな顔を見せた。弟子に褒められたい師の図ですか、これは。いや、逆らうまい。
「ええ、お見事です」
嬉しそうに唇を綻ばせるジャヴの表情は美麗なのだが、目の端に映る魔の姿が凄惨すぎてにこやかに笑い返せない。
魔物が溶解しているのだ、毒鳥の毒素に身を溶かされ、空中で。
その肉片というべきか、血片というべきか、正視したくないほど不気味なものがどろどろと溶け落ちて地面に広がり、嫌な音を立てている。
無論、肉片を失いながらも毒素の膜を突破し、呪わしい咆哮を響かせてこちらへ襲いかかってくる勇敢な魔もいた。だがそれはジャヴが魔術を駆使し、片端から破裂させていく。そう、破裂だ。殴る、斬る、などといった生易しい表現は当てはまらない。
これまで時々、彼が上位の魔術師であることを忘れそうになったりもしたのだが、今はもう疑う気持ちなど吹き飛んだ。リスカは放心の状態でただ立ち尽くしているのみだった。
「片付いたか?」
既に礼拝堂の周囲は静寂に包まれている。意識を飛ばしている間に呆気なく魔退治は終了したらしかった。ジャヴがひらりと片手を差し伸べ、大活躍の毒鳥を呼び戻した。手の中で再び眠りにつき化石と変わる毒鳥を小瓶の中へと戻す。
「久しぶりに仕事をしたな」
「お、お疲れさまでした」
そう答えてよろめきながらジャヴの方へ一歩寄った時だった。大地が一度、波打ったのだ。
「何だ?」
リスカは目を瞬かせた。礼拝堂の壊れた色硝子から、どろりと何かが垂れ落ちた。
「あの、ジャヴ」
思わずリスカはジャヴの袖を強く握り締めた。気のせいだと思いたいが、何やら再び濃厚な魔の気配を感じる。
リスカとジャヴはひたすらじっと目を凝らしていた。
どろどろといつまでもしつこいほどに窓から溶解した肉片が垂れ落ち、なぜかこちらの方へ流れてくる。
「……リル」
「はい」
掠れた声で返事をするリスカの目前で、流れてきた肉片がたぷたぷと揺れながら立ち上がり、次第に大きくなった。その大きさ、見上げるほどの巌のごとくだ。だが、でっぷりとたるんでいる。なんというべきかこれは……巨大な肉塊か。先ほどの毒鳥の分裂とは別の意味で、大層気味が悪かった。肉塊はよく見れば、人の形を作っていたのだ。歯のない口があどけなく開き、猫のごとくに甘える声を響かせた。
「帰ろうか、リル」
なんですって、とリスカは仰天しつつジャヴの顔に目を向けた。ジャヴは眉間に皺を寄せて口許を覆っていた。
「醜い。実に醜悪だ。目に映したくない。これは冒涜に近い」
などと無責任極まりない発言をして踵を返しかけたジャヴを咄嗟に引き止めた。
「放置はいけません」
「気にするな」
「します!」
「戦う気が失せた。美意識に反する」
この人は!
「こ、この魔が町中を練り歩いたら大変なことになるでしょう!」
「それが何だ。君はこの私に、醜きものと争えと?」
リスカは半眼になった。基本、他人の危機など視野にないのが魔術師だった。
必死になりながらジャヴを引き止めていた時、なにやらすこぶる心地の良くないぷちぷちという音が聞こえた。ぎこちなく振り向くと、大地にべったり座っていた肉塊の腹部分から、まるで赤子のような愛らしい手が無数に生え始めていた。
「駄目だ、私の目にこの醜さは耐えられない」
弱気なことを言わないでください!
というよりもリスカだとてこの魔とは対峙したくない。
「わ!」
リスカは条件反射の動きで守護の花びらを数枚飛ばした。肉塊の腹から突き出た手が突然分離し、こちらへ飛びかかってきたためだった。守護の結界に弾かれて分離した手が燃え落ちる。
「ジャヴ!」
「頑張りたまえ弟子よ」
睨み合っている場合ではなかった。なぜ邪魔をするのか、というように肉塊が愛らしく首を傾げ、再び腹の部分に無数の手を生やし始めたのだ。こうなれば、と気味の悪さを押し殺して、攻撃用の花びらを飛ばしてみたが、恐ろしく強靭な肉塊に傷を与えることはできなかった。けれどこの攻撃は肉塊をひどく立腹させたらしい。全身に突然瘤を作り始めたのだ。いや、単なる瘤ではなかった。首だ。人間めいた小さな頭部をいくつも身体から生み始めている。
まさか今度は生首を飛ばす気ですか、とリスカは吐き気をもよおした。
「帰る」
我が儘全開できっぱりと断言するジャヴに、リスカは意を決して涙の浮かぶ目を向けた。
「師よ、あなたの比類なき術が見たいです」
ジャヴが無言で眉を寄せた。
「あなたの勇姿を、是非」
「……君って人は」
「我が師よ。私はあなた以外に師と仰ぎません。すべてをあなたから学びたい」
片膝を地面に落として礼をとった時、頭上から「まったく!」というやや投げ遣りな、しかしながら微妙にうわずっている罵り声が降ってきた。目を上げると同時にジャヴが魔力を使い、こちらへ飛んできた生首の群れに向かって光の刃を投げた。詠唱が歌のごとく淀みなく紡がれ、闇夜に広がる。
肉塊を削っていく光の刃。そしてとどめのように、いつか目にした騎士の精霊を呼び出し、肉塊を襲わせた。
肉塊が悲鳴を上げた。肉片を削ぎ落とされた魔は、血塗れの骸骨と化していた。人骨と同じだった。ただ爛々と血走った目だけがこちらを睨みつけている。血色の涙をこぼしながらである。
「――これは、魔に飲まれた人間だ」
「え?」
「むごいことだな」
精霊に切り刻まれ、もがく骸骨をリスカたちは最後の瞬間まで見続けた。