花炎-kaen-火炎:25


 どういう意味なのかを問うためリスカが口を開いた時、不意にジャヴは濃い警戒の色を宿した鋭い目をして背後に顔を向けた。遅れてリスカも同方向へと視線を投げ、些細な変化さえ見逃さぬよう念入りに窺ったが、特に異変はなく何者かの気配もまた感知できなかった。
「ジャヴ、どうしたんですか」
「いや」
 上の空という雰囲気でしばしのあいだ、視線を宙にさまよわせていたジャヴが、諦めた様子で軽く嘆息しこちらに向き直った。
「――私は他者の手の中で踊らされるのはごめんなのだが」
 独白口調で低く紡がれた言葉にリスカは戸惑い、足元を見下ろした。
「すみません、あなたを担ぐつもりではなかったのです」
 ジャヴの先ほどの台詞は、出現した肉塊を退治させるためにリスカが彼を師と呼び、頼んだことを示唆しているのだと考え、後ろめたさを覚えながら小さく謝罪したのだが、それにはすぐに否定が返ってきた。
「君のことを言ったのではないよ」
「それでは、一体」
「見られていたのだ。『視線』があった」
「まだ別の場所に潜んでいる魔が存在するのですか」
 全てあぶり出し、この場に、残らず集めたのではなかったか。驚きとともに吐き出した質問に、ジャヴはやや俯き、苦笑を見せた。
「広い意味では、どういった場所にだとて魔は存在するのだが――今回の事件に関わりのある魔、と限定して答えるならば、そうだね、残念ながら全てを駆逐できたわけではないようだ」
 そういう遠回しな言い方をして再びジャヴは遠方へと顔を向け、真剣に思案するような表情を見せた。
 今夜は星も月も大地から遠く離れているため、光が弱い。いや、それだけ闇が濃いのだろう。木々も建物も越えた先の更に奥、目ではとらえられぬ遥か彼方から、もの悲しげな獣の遠吠えが響いた。まるで耳鳴りかと錯覚するくらいの遠さだった。あまりにもかすかな鳴き声であったために、逆に今の静寂が際立つ。寂しい夜だ、とリスカは何の脈絡もなく唐突に考えた。
「帰るか、リル」
 この寂しい夜の大気にそっと言葉を乗せるかのようにジャヴが小声で言った。
「え?」
「どうも調子が狂う」
 柔らかな微笑を浮かべながらも、その目にはまだ強い警戒の色が宿っている。帰還を望むジャヴの真意を理解できず、リスカは動けなかった。
「どこに帰るのですか」
 以前にも――どこへ帰ればいいのだろう、とそう深く苦悩した時がなかったか。冬の厳しさと寂しさの匂いを遥か彼方の片隅にまでぎっちり詰め込んだこの夜は、自分の中に巣食う頑な感情と愚を目の当たりにしたあの苦難の夜と見えぬ線で繋がっているのだろうか。
「リル。リスカ」
 はい、と返事をする前にジャヴが両腕を伸ばし、リスカの首に回した。項あたりで緩く指を組み合わせたようだった。しかし密着しているとはいえぬ距離で、向き合う形となった自分と彼との間にはわずかな隙間があった。
「なんという日なのだろうかね。踊らされてばかりだ。我らが神の玩具であるならば諦めもつこうが、これでは――」
 落胆を仄かにうかがわせる声音に、リスカは一瞬視線を落とし、慎重に考えを巡らせた。ジャヴの艶やかな低い声には確かに疲労もまた滲んでいたため、不用意に返答した場合、彼の心に余計な重圧を与えてしまうのではいかと思われたのだ。
「……踊らされているのだとしても、それでも最後まで踊ってみませんか」
 ジャヴの真意は掴めぬままだったが、考え抜いた結果、リスカはあえて戯れ言めいた言葉を口にした。
「一度乗ってしまった舞台、途中で逃げるくらいなら、いっそ最後まで誇り高く踊りきりたいです」
 まだ帰る気はないのだと暗に伝えた時、ジャヴが瞬きも忘れた様子でリスカを見返した。ありきたりな賛辞ではあるが、本当に美しい、宝石のような目だと強く思う。涙に濡れても、冷たく残酷な光を宿しても、あるいは癒せぬ孤独を映したとしても、美しいものは美しいままなのだろう。
「たとえ私が君を守りきれなくても?」
 リスカは密やかな思惑を胸の底に沈めながらも、少し強張った顔でそう告げたジャヴを必死に見上げた。
「冗談であっても私を師と言った君を可愛いと思うよ。そうだね、困難に落ちている時には無償で手を貸してもよいと思えるくらいには。だが、生死を決める場で君の盾にはなれない」
「はい」
「分かっていない。防げぬ危機と直面した時には、私は君を見捨ててでも己の身を優先すると言っている」
「はい。あなたは死ねないから」
「本気で聞きなさい。これは、万が一の話をしているのではない。今まさに、そういう局面を迎える手前に、私も君も立っている、と言っているのだ」
 リスカの返事を遮るようにしてジャヴは素早く言い添えた。彼の言葉をゆっくりと咀嚼する。つまりは、仮に今、ここで全てに背を向け安全な場所へ避難すれば、彼が示唆する危機からはとりあえず逃れられるという意味なのか。
 けれども危機に形があるのならば、いつだってそれは弓なりなのだ。今回避しても近い未来、速度と威力を増していずれ必ず己が身に返ってくる。世に起こる出来事はみな、業の図式に組み込まれているのだから。
「我らが今、無事に生きているのは、幸運なのだろう」
「それは」
「いいか、リル。恐らくは何より脆い幸運だ。それも自らの意思で引き寄せたのではなく、他者がもたらす気紛れな幸運にすぎないのだ」
「あなたは、全てを見通していますか」
 一体どういうことなのか。防げぬ危機と気紛れな幸運、その対極ともいえそうなもの二つを創造し、もたらすのは誰なのか、また、何の意図が隠されているのかをジャヴは既に看破しているのだろうか。
「この先の行き場は決まっている。道を進むというならば。しかし、その後何も保証はできない。君はもしかしたら、特に」
「私が?」
「己の中ではじき出しただけの推量を、事実であるかのごとくに説明はできない。あらゆる事情に通じているわけではないのだから。ただ、君が殺されかけた時、私はきっと助けられない、これは事実となるだろう。しかしまた別の展開を見せるかもしれない。今は何も先が読めないのだよ。ゆえに、危機が訪れるかもしれない」
 ジャヴはとても慎重にそう言った。
「今、私が進む道を選べば、未来は全く予想できないのですね? けれど回避の道を選べば少なくとも今後の安全率は増す、ということですね」
 ジャヴはこの場で推測し得る全ての説明をするつもりはないのだろう。そこでリスカは、理解できた事柄のみを口にした。
 返答はなかったが、否定もされない。正しい解釈だったのだろう。
 リスカは少しの間、考えに沈んだ。
「私、行きます」
 自分では決然と覚悟を固めたつもりだった。
 しかしジャヴが一瞬覗かせた表情を見た時、選択を間違ったのかもしれぬと思った。
 最後まで踊り切る、そうすれば成果がもたらされるというのは――おそらく踊らされるしかない人間の切実な願望だったのだと、後々分かる。
 
 
 行き先はどこになるのか、という質問には、予想外でありながらも何か納得できる思いを呼び起こす場所が告げられた。
 今は無人であるはずのティーナの屋敷――そこから何者かの『視線』を感じたのだという。
 エジやフェイたちも既にそちらへ到着しているらしい。なぜかといえば、不法の見世物が今宵その屋敷で開催されるとの情報を掴んだためであるようだった。場所に関してはもう少し早い時期に突き止めていたらしいが、一体誰が首謀者なのか、そして見世物対象となる異種混合生物がどこに軟禁されているのかが特定できなかったので、ならば公開当日まで待機し、姿を現した関係者たちをその場で一網打尽に捕縛するといった計画に変更したとのことだった。
 とりあえずこの場にもう用はない。
 踵を返して先をいくジャヴのあとを追おうとした時だった。目の端に何かが映り、足をとめた。何だ? まさかまだ礼拝堂の中に魔物が潜んでいたのか。そう思ってジャヴを呼び止めようと手を伸ばした。
「!?」
 リスカが愕然とするのと、先を歩んでいたジャヴが勢いよく振り向く時間が重なった。
「リル!」
 ジャヴがこちらへ戻ってくる。
 だが――慌てて伸ばした手が彼に触れることはなかった。
 視覚では捉えられない透明な壁がリスカとジャヴの間に立ち塞がっている。
 なぜ。
 愕然としたのは一瞬で、すぐさま強い恐怖と警戒心が芽生えた。魔力の発動など一切感じなかった。感知能力に長けているはずのジャヴでさえ気づかなかったのだ。
「ジャヴ」
 透明な壁に両手で触れた。ほんの数歩、ジャヴの側から離れただけだ。それなのに。
 ジャヴもまた目を見開き、こちらへ片手を伸ばした。だがやはり見えぬ壁が阻む。目の前に立っているというのにだ。
 瞬きも忘れた様子でリスカを凝視していたジャヴの目がふと動いた。
 リスカは振り向き、呼吸を忘れた。
「……セフォー?」
 なんて弱々しい声を出してしまうのかと自分に驚く。
 冥府の王のごとく、銀の装飾をふんだんにあしらった白い衣服を着込んだセフォーが、壊れかけている礼拝堂の正面扉から姿を見せたのだ。
 セフォーがなぜここに?
 リスカは驚きのあまりその場にへたりこみそうになった。
 長くゆったりとした外套の裾を軽くさばきながら、こちらへ悠々とした態度で近づいてくる。闇夜の濃い色でさえ弾く白銀の髪が美しい。仰天するほどの威圧感も、眼差しの鋭さも健在だ。
 その気になればセフォーは己の圧倒的な威を隠して動くことができる。今まで全く感知できなかったのは意図的に気配を断っていたためなのか。しかしなぜ静観していたのだろう。何よりも、魔種の巣窟であったはずの礼拝堂内になぜ隠れていたのか。
 そして、やはり癖のように全くこの状況に相応しくない些末な疑問まで抱いてしまう。以前に着ていた白い外套とはまた違う衣服なのだが、一体どこで購っているのだろう、と。以前の白い外套には黒い毛の襟巻きを合わせていたが、今夜は毛の短い薄灰色の襟巻きを垂らしていた。
 華やかな外貌に見とれかけて、我に返る。セフォーがこの透明な膜を構築したのか?
 些末なものから深刻なものまで、多くの疑問が乱舞し混乱しかかった。なんという人なのだろう。本当にこの人の行動は予測しがたい。
 しかしセフォーならば警戒しなくてもいいのではないかと安易に考え、わずかに喜色さえたたえてそちらへ一歩を踏み出した時だった。
「行くな、リル!」
 見えぬ壁にジャヴが拳を打ち付け、叫んだ。余裕のないその声に、リスカは肩を揺らして硬直した。
 ジャヴの言葉を踏みつけるようにして、セフォーがするりとリスカの目の前に立つ。見下ろす眼差しはいつものごとく刃物めいた冷酷な……ではなくとびきり冴えた色が浮かんでいる。ジャヴの目が磨かれた宝石ならば、彼の場合は氷漬けにされた宝石である、などとかなり無礼なことを考えてしまった。
「セフォー?」
 気配を探り、感情に乏しい彼の瞳を必死に見つめた。頭痛がするほど集中して探っても、違和感は何もない。セフォーだ。
「リル、離れろ!」
 けれどどうしてこんなにもジャヴは焦っているのだろう。
 リスカは心底戸惑った。一度も、セフォーには本気で攻撃されたことがない。だから傷つけられるはずはないと思い込んでいたのだ。
 リスカはセフォーから視線を外し、振り向いた。そこで血の気が引く。
「ジャヴ、後ろに!」
 ジャヴの背後の地面が、いくつも盛り上がっている。
 地中から、魔物が這い出てきたのだ――いや、違う、この異様な体躯は、異種混合生物。それも、胸焼けがするほどの強烈な魔力を身に帯びている。
「――もらっていく」
 低い声が聞こえた。リスカの項をかすめる感情のこもらぬ声。セフォーが言ったのか。
 一体何を、と動揺した時、セフォーに腕を掴まれた。
「セフォー? ま、待って、ジャヴが!」
 見えぬ壁の向こうで、多種多様な体躯を持つ混合生物に包囲されたジャヴがいる。早くこの透明な結界を解いて助けなければ、そう言い返そうとしてこちらの腕を取るセフォーを焦りながら見つめた。
「うわ!」
 リスカは実に女性らしくない素っ頓狂な悲鳴を上げた。セフォーの腕が腰に回ったのだ。
「なななんですか!」
 身体が浮いた。持ち上げられているのではない。セフォーとともに、身が宙に浮いたのだ。
「セフォー、おろして!」
 なぜセフォーが飛翔できるのか、などという問題は後回しだった。地上ではジャヴが詠唱し、白く燃える精霊を呼び出して、殺意を見せる混合生物たちに反撃している。
「宴にようこそ、リスカ」
 セフォーが小さく笑い、そう言った。
「セフォー?」
 
●●●●●
 
 セフォーはリスカを抱えたまま、礼拝堂の頭頂部――おそろしく足場の悪い屋根の上に降り立った。
 槍型をした部分である。少しでも身を乗り出せば、呆気なく地面に落下するという危険極まりない場所だ。
 斜め下の地上ではジャヴが混合生物と争っていたが、彼の安否を気にかける余裕はない。場合によってはリスカの方が危機にさらされているかもしれないのだ。
 セフォーがリスカの腰から腕を離す。場所の問題もそうだが、別の恐れが大きくなり立っていられなくなった。その場に崩れるようにして腰を落とし、茫然とセフォーを見上げる。
「――あなたは、セフォーじゃない?」
 気配は何もおかしくない。どれほど探っても、セフォー本人としか思えないのに。
「どちらでもかまわないだろう」
 首を傾げてセフォーが笑う。
 かまわないはずがない。そう言いたいのに、言葉が出ない。己の姿を変化させていた蛾妖には反論できていたのに、今目の前に存在するセフォーには何も言えない。あまりにもセフォー本人に見えるためだ。けれども、もしこれがセフォーではないのだとしたら。
 これほど完璧な擬態を可能とする存在がいるのか。
 驚異的な力量を持つセフォーのすべてを真似る者――。一体どれほど強大だというのか。
「怯えているのか?」
 どちらかといえば親しげな感が漂う柔らかな聞き方だった。
 へたりこんでいるリスカの前に、セフォーもまた身を屈め、片膝をつく。
「そう怯えないでほしい。そもそもは、お前たちがわたしを呼んだのだがね。わたしの『視線』にあの魔術師が気づき、そしてお前がこちらへ来る意思を見せた。そうだろう」
「わ、私が」
 声が震えた。
 嬉しそうにセフォーが笑い、指先を伸ばしてリスカの顎に触れる。
「だから、お前がわたしを呼んだことになる。そしてわたしはお前に興味を持った。これで私たちは同じ景色の未来を共有する結果となった。因果の成立だ」
 拒めない。この指を振り払うどころか、身じろぎさえできない。それは純然たる恐怖に違いなかった。リスカでは計れぬ者なのだと唐突に理解した。恐怖の根源。その存在は。
 優しげにすら感じられる指先が、甘やかすようにしてリスカの頬や首元を撫でる。
 ジャヴの懸念の言葉が脳裏に蘇った。何も先は見えない。踊らされるしかない。上位魔術師でさえ防げない可能性のある危機。
「あなたは」
「イルゼビトゥル。人間は、わたしを水紫の高位悪魔と位置づけた」
 高位の悪魔イルゼビトゥル――。
 
 
 水を自在に操る位高き悪魔であるという。
 その性は淫猥、残忍。人をよく誘惑し、堕落させる。いかなる気紛れなのか、頻繁に顔を出しては平穏の時を壊し、争乱の世を招く。容貌は一国を傾けるほど美しい。
 イルゼビトゥルが人の世に混乱を招いた数は多く、その非道の行為は知られているだけでもおよそ二百を超え、十数冊の本に渡って記載されている。だが他の高位悪魔とは異なり、復興できぬほどまで徹底的に国を破滅させることは少ない。慈悲の念がわずかなりともあるのではなく、ただただ狂乱の渦の中で悲嘆し足掻く人の様を眺めるのが好みであるらしい。自身は破壊行動をそれほど好んでいないようだ。
 かの悪魔を本気で封印するのであれば、一国を壊滅させる覚悟をもって向き合わねばならないだろう。ただし、完全なる、という意味での討伐……消滅を望むのは不可能だ。なぜなら、かの悪魔は天地開闢の――万物を創りし古き闇から生まれた不滅の主の一人であり、神話さえも飲み込む大いなる歴史の図によって守護された存在であるためだった。
 これほど強大な悪魔がなぜこのような辺鄙な町に出現し、ささやかに日々を送っていたリスカに興味を覚えたのか。本来なら、到底信じられぬ話だ。
 だが確かに一度、フェイの屋敷でこの悪魔の名を言いかけたためしがあった。その時、セフォーに阻止されたのだ。
 悪魔は己の名を形成する響きに敏感だ。それも、高位であればあるほど名に威力を持つという。ゆえに高位悪魔は、己の名が呼ばれた時、耳を傾ける。わずかに開かれた扉の奥を覗くように、と――そういった表現を書物に記載した研究者がいたのを思い出した。
 ゆえに、力を持つ者がその名を呼べば、奇跡のような確率で悪魔の到来を招く危険性があるという。しかしこれは、「早く寝ないと悪魔が攫いに来る」と眠らぬ子供を寝かしつける時に紡がれるような、他愛ない戯言とされているのではなかったか。まさか本当に、リスカが言いかけた名の音を、拾ったのか。
「わたしは人が好きだから。名を紡がれた時には大抵耳を傾ける。食指が動けば接触するし、面倒ならば放っておく。初めにわたしの名を呼んだのは、男だったな。そのあと、再び呼ばれかけた。探ってみれば、愉快な事実が転がっていた」
 セフォーの顔をしたイルゼビトゥルが淡く恍惚感を目に宿しながら、丹念にリスカの顔を撫でた。
「セフォードが目覚めている。これは愉快だ」
「……セフォーをご存知なのですか」
 戦慄による震えがとまらなかったが、それでも無理矢理言葉を吐き出した。
「知っているとも。わたしは過去にセフォードを可愛がっていたのだから。未だ殺めずにいるお気に入りだ。いや、現在のセフォードならばわたしの力量と匹敵するかもしれない」
「お気に入りって――ひぅえ!」
 こんな時でも実に奇怪な悲鳴を上げてしまう自分に泣きたくなった。速攻で悪魔の機嫌を損ねてしまったのではないかと蒼白にならずにはいられない。別の意味でも青ざめていたが。なんの悪戯なのか、腰の立たぬリスカの身を、悪魔が引き寄せたのだ。
「お前と少し話がしたい」
 話します思う存分お話ししますから私の身を膝に乗せるのだけはやめてください、と内心で思わず懇願し、更に冷や汗が流れた。リスカが持つ混乱の極みともいうべき愚かな思念など、この悪魔が相手ならば全て垂れ流し状態だと気づいたのだ。読心術も透視もなんのそのだろう。
「まだ時間はある。あの魔術師が果てるか――あるいはセフォードが現れるまで、お前の身は傷つけないから」
「え、ええ!」
 心底気絶したいと思った。いくらセフォーの顔をしているとはいえ、実態は泣く子も黙る高位悪魔なのだ。そういう至高とも讃えられるべき凄まじい存在の膝に乗せられている自分が恐ろしい。これだけ強大な力を抱く、道理でセフォーが持つ気配を完璧に模倣できたはずだ。
「せ、セフォーは今」
 今どこにいるのか、と続けたいが、とても滑らかには話せない。悪魔の片腕がリスカの腹部に回されている。そして触れるほど近くに顔がある。悪魔も人間と同じ体温を持つのかと、どうでもいい発見をしてしまった。いや、わざと人の体温を宿しているのだろう。
「わたしはね、知りたいのだ。セフォードはお前に執着しているのか。もし固執しているのであれば、お前を助けにくるだろう。ならば今、生かす価値がある」
 それは極論をいえば、セフォーの関心がリスカにないのならば無価値であり、すぐさま殺害するという意味では、と内心でつい独白し、この考えも読まれただろうとすぐに気づいて絶望したくなった。笑顔で肯定されたら、それだけで軽く気絶できる自信がある。勢い余って命さえ散らしてしまいそうでもある。
「なぜセフォードはお前に付き従っているのかな。お前、何をした?」
 穏やかな声音だった。これが高位悪魔。まるで慈悲さえ見えるような語り方ではないか。
「と、特別なことなど、何も」
「お前、砂の使徒というのだろう。もともと不具の術師は少ないというが、その中でも花に束縛された魔力というのは珍しいな。優雅なものだね。嫌いではない歪みだ」
 とととんでもない滅相もない、とリスカは心の中で大仰に否定した。謙遜では決してない。
「ひ!」
 悪魔が面白そうにリスカの後頭部に片手を回し、髪に唇を押し付けてきた。駄目だ、このままでは確実にリスカの精神は崩壊し塵芥と化す。ある意味、初めてセフォーと遭遇した時の恐怖を超えている。
「面白い、お前の中の花の枷、容易くは動かせぬ宿命であるらしい」
 命の底まで覗き見られている。恐怖せずにいられようか。
「私好みに作り替えてみたかったのだが、それを本気で実行すれば、どうやらお前の命道を狂わせてしまうようだ」
 ひぃ、と卒倒しかかった。寸前のところで意識が瓦解せずにすんだのは、悪魔の言葉で一つ、謎が解明される予感があったためだった。
 悪魔の好みに、人を作り替える。
 その作業は、まさに細工を施す職人だ。
「……あなたが、ミゼンの身に細工を?」
 イルゼビトゥルは、そうだよ、と肯定して、清らかなる神官のごとき目で笑った。



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