花炎-kaen-火炎:26


 ということは、今回の事件の首謀者――。
 リスカは内心で大きく呻いた。ジャヴが成敗した魔種たちは、間違いなくイルゼビトゥルの配下であったのだろう。しかも娼館でジャヴは惨殺といっても過言ではない過激な殺め方をした。部下を無惨に抹殺され、もしかして途方もなくこちらを恨んでいるのではないか。
 この戦慄を激しく呼ぶ懸念もまた、悪魔には筒抜けだった。
「ばかな人だね。怨みなど持つものか。あの魔術師の力量が手下の者より上回っていたというだけのこと。第一、もう少しうまく立ち回れば死なずにすんだのだ。それなりの力を分け与えてやったのだから」
 この高位悪魔が、蛾妖たちにその強烈な力の雫を注いだのだ。
 軽く笑い飛ばす悪魔を寛容だとは思えなかった。
「どうして、蛾妖たちに力を与えたのですか」
 勇気を振り絞って質問したが、声はどうしようもないほど震えている。
「何だ、そんな話。まあよいか。まだ下の方も決着がつかぬようだし――。退屈凌ぎに夜の縁を散策していた時、死にかかっていた下級魔たちを発見しただけだ。どうやら討伐隊に殺されかかったらしく、人に対する憎悪を垂れ流していた。ならばと試しに蘇生させてみれば、感極まったのか、わたしの僕になりたいという」
 ああ、この悪魔は単なる気紛れで蛾妖たちに力を分け与えたのだ。
 なぜ蛾妖たちが力にあれほど執着していたのか、ここで理解した。力があれば死なずにすむ。運命を覆せる。彼らのいう力の象徴が、この美しく気紛れな高位悪魔だったのだ。
 そしてどれほどの憧憬と畏怖をイルゼビトゥルに注いだのだろう。蛾妖が向ける痛切なる畏敬すらも、この悪魔にとっては酒肴の一つにすぎない。
「だが、他の興味を覚えたし、そろそろ飽きたので捨てようかと思っていたのだがね。そういう時に、お前たちに名を呼ばれた」
「他の興味……?」
「うん。わたしはそれまで、王都にいたからね」
 イルゼビトゥルが妖艶に笑った。どういう意味だ。王都?
 考えがまとまる前に、悪魔が話の先を続けた。
「久しぶりにセフォードを見た。これは面白い。その上、不具のお前をあきらかに守護している。手を出さずにはいられないだろう?」
 お願いです出さないでください、と心の中で叫び、またしても余計なことを考えてしまったと項垂れたくなった。
「けれど、すぐに結果を招くのは退屈だ。お前たちの様子をもっと見るのも面白いから」
「そ、それで蛾妖たちを花苑に?」
「なんの。勝手についてきたのだ。お前達には手を出すなと命じたがね。他は特に何も言っていない」
 では我妖たちは自分の判断で花苑に潜入し、食事をしていただけなのか。なんて呆気ない事実だろう。
 これでもう一つ謎が解けた。蛾妖がリスカを最初は殺そうとしなかった理由だ。手出しは禁じられていた。けれども、主たる悪魔の興を引く者を意識せずにはいられず、つい独断で動いてしまったのだ。異変死を追うジャヴたちの捜索もあり、尚更気にかかったのだろう。思わず手を出してしまい、その後接したリスカの態度を見て、なぜこんな人間が主の関心を買えたのかと立腹したのだ。ここでジャヴの介入があり滅する羽目になったのだが、高位悪魔は蛾妖の存在など何も頓着していない。だからどれほどジャヴやフェイ達が花苑を探り、最終的に危機に陥っても、決して助けには来なかった。むしろ面白く見守っていたのではないか。配下の下級魔が味わう苦痛さえも高位の悪魔にとっては娯楽の一つだ。
 しかし、もう一つの見世物事件の方とは一体どういう関わりがあったのか。それに天才職人と言われたミゼンになぜ精緻な細工を施したのか。
「あの、でも、なぜミゼンを」
「お前たちを見る間の退屈しのぎに決まってる。わたしは人が好きなのだと言ったろう」
 まるで恋人に悪戯するかのように、軽く額を弾かれた。
「人間とは本当に愉快だ。人の想像力も気に入っている。あのミゼンという細工師の作品は美しいな」
 まさか、殺すのが惜しいと?
「違う。ちょうど目にとまっただけだ。ああ、先ほどあの魔術師が滅ぼした奇形は、ミゼンの弟だよ」
 何――?
 先ほどの奇形とは、生首やら手やらを飛ばしてきた醜い肉塊のことなのか。
「才能豊かな身内の者に対する激しい劣等感と怒り。ミゼンを超えたいか、とたずねれば、悪魔に魂を捧げてでも見返したいのだと返事をする。ゆえにミゼンを穢す方法を教えてやった」
 それはどういうことだ。
 ティーナたちがミゼンを閉じ込め、自我を奪うほどの暴行を与えたはず。その才能を羨む弟が、ミゼンの身を彼らに売ったのではなかったか。そうするよう誘惑したのが、イルゼビトゥルだと?
 まさか、この悪魔はセフォードの目覚めを知る前から――。
 駄目だ、今は冷静に考えられない。
「その後、細工まで施してもやった。職人である者が、細工される立場になる。人の感覚でいえば、これは何とも痛烈な皮肉となるのだろう? それに、ミゼンを解放した時のお前達の反応も見たかったし」
 それで意図的に、細工を施したあとのミゼンを解き放ったのか!
「憎悪を歓喜に変える手伝いをしてやった。けれどもね、その代価は支払ってもらわねばなるまい。悪魔との取り引きには命をかけるものだ、古来よりの決まりだろう?」
 だから、代償としてミゼンの弟本人も後に混合生物へと変えたと。
 これが悪魔の本性か。愉楽を与えたあとに地獄へと突き落とす。
 そして――イルゼビトゥルはリスカたちの様子を窺う合間の退屈しのぎとして、別の人々を堕落させるため動き、不法の見世物を開こうとしたのだ。これでまたもう一つ疑問が氷解した。今回の見世物には魔物と人間が手を組んでいたように見えた。イルゼビトゥルは心が邪悪に傾きかけていた複数の者を誘惑し、その人心を操って、人と獣、あるいは人と機械、人と魔物、という異種混合生物を何体も作り上げた。初めにミゼンに細工を施したことで、興が乗ったのだろう。
 人は神の玩具。
 人は人を玩具にする。ジャヴの言葉だ。これは見世物にされる人と、そう仕向けた人に対する台詞だった。
 人が心に秘めている、その暗く淀んだ欲望を、イルゼビトゥルは突いたのだ。
 強大な悪魔ゆえに、容易く人を殺すのは面白くないと考える。だからこそ狡知をもって忍びやかに陰湿に人の心に罠を仕掛ける。その方がより、人から人へと悪意が伝染し、連鎖するためだ。
 今回の見世物は、イルゼビトゥルが楽しむための芝居のようなものだった。
 一方でリスカやセフォーも見世物の対象としていた。セフォーがどこまでリスカを気にかけているのか、蛾妖の手出しを知りながらも面白く見守っていたに違いない。
 けれどもこの時、セフォーはリスカを救いにこなかった。既にセフォーの関心はリスカから離れていたといえないだろうか。
 この考えもまた読んでいるだろうに、イルゼビトゥルは答えなかった。
 なんて悪魔なのか。
「ああ、魔術師が苦戦しているようだね」
 リスカは我に返った。イルゼビトゥルの膝の上で身を捩り、地上へと目を向ける。
 いかな上位魔術師であろうとも、苦戦して当然だった。高位悪魔の魔力をわずかなりとも注がれた生物と戦っているのだ。それも一頭のみではなく、複数と同時に対戦せねばならないのだ。
「リスカ」
 セフォーのようにリスカの名を呼ぶ悪魔に、目を転じた。
 セフォーの目に、悪魔の色が浮かんでいる。違う、この外貌は模倣なのだ。
「魔術師を助けたいか。わたしと取り引きをする?」
 リスカは身を硬くした。悪魔の取り引き。比喩でもなんでもなく、自分の命を抵当にいれた恐るべき取り引きだ。
 リスカは悪魔関連の書物を幾つも読んでいる。いずれも、不幸な結末が人の側に訪れるといった内容だった。
「なんとも人とは愛らしい。わたしは人が葛藤する姿を見るのが好きだ」
 愛しき玩具。悪魔が囁く。
 どうする、このままでは再びジャヴを犠牲にしてしまう。彼は最初、動こうとするリスカをとめようとしていた。まさかイルゼビトゥルが黒幕だとは分かっていなかっただろうが、それでも未来に対する危機や事件の中に含まれた何らかの矛盾と、何者かの意図を察していたのだ。その上で最後は、リスカの意思を尊重してくれた。弟子を見守る師のように。
 そういう存在を見殺しにするのか。死ぬわけにはいかないと言っていた人を。
 けれども、悪魔と契約した者の命は、未来永劫地獄の鎖に繋がれ、転生が許されないという。
 それほどに壮絶な束縛力をもつ契約だ。魂の色さえ塗り替えられるのだ。
 悪魔は急かすことなく愛おしげに微笑みかけてくる。
 セフォー、私はどうしたら。力には、力でしか勝てないのか。自分が持つ力とは何だ。
 リスカは一度目を瞑った。
 繊細で厄介な、しかし穢れを知らぬ美貌の魔術師。あなたを救うことができるのか。
「――契約を、」
 リスカが言葉を絞った時だった。
 悪魔がひどく楽しげに唇を綻ばせた。
「残念。お前は生きる価値があるようだ」
 突然何を――。
「本当に執着されているんだね、お前」
 悪魔は嬉しそうに言ったあと、唖然とするリスカの腰を支えながら立ち上がった。
 透明な壁――イルゼビトゥルが構築した強固な結界が割れた。
 悪魔の術さえ叩き割ることが可能な人など、一人しか知らない。
 
●●●●●
 
 銀の雨が降ったかのように見えた。
 いや、まるで流星の刃だ。イルゼビトゥルの結界を突き破り、そうしてついでのように混合生物達も貫く流星。
 なんて壮絶なのだろう。なんて冴えた力だろう。
 闇も光もなんのその、遠慮も手加減もない、無慈悲なほどに硬質で鋭い魔力だ。
 そう、なにせ異名は死神閣下。苛烈な戦場の王とも呼ばれている。
 これはきっと、悪魔の操り糸さえ断ち切る鋭利な威力を持つ雨なのだ。身が凍り付くほどの威。
 それでも決してリスカを傷つけない威だった。
 ならばもう、ただ黙って手を伸ばすしかないではないか。
「セフォー!」
 
 
 えらく身軽にとんとんっと壁の装飾を足場にして姿を見せた銀色の人。イルゼビトゥルは白い衣をまとっているが、本物の閣下様は闇色の外套を着込んでいた。これもまた上質な衣服だ。本当にそういう豪華な衣装が似合いますね、と思わず言いたくなってしまった。
「セフォード、楽しませてもらったよ」
 イルゼビトゥルが未だ彼の容貌を模倣したままで親しげに言葉を発した。
 本物のセフォーは何も言わず、じいっとリスカを凝視している。
 あの、セフォー。思い違いでなければ高位悪魔に拘束されている私を救助にきてくれたのですよね、しかしなぜそんな、皮膚を貫き骨まで砕くかのような厳しい視線で見ているのでしょうか。まさか本気でご立腹、とリスカは嫌な汗をかいた。今、途轍もなく壮絶な二人に挟まれていませんか私、人生最大の恐怖に包まれていませんか、と神に訴えずにはいられない。
「見事に愉快だ」
 いえ私は全く愉快ではないのですが、とつい悪魔の独白に突っ込んでしまった。
「いいだろう、今回は楽しませてくれた礼に、この人間を返してあげる」
 セフォーの視線がようやく悪魔の方へ移動した。なぜだろう、助けにきてくれたことへの感謝が凍り付いているのは。
「お前もこの人間を追った。またこの人間もお前を気にかけている。だから今は見逃して、また別の楽しみを考えてこようか。折角だから長く楽しみたい」
 もう本気で結構です満足です満腹です、とリスカは力一杯遠慮した。
「それにしても、お前が本気で不具の者に目をかけるとは。少し妬けるよ」
 からかうような声にぎょっとした時、セフォーが無言で腕を持ち上げた。指先から滴る血が一瞬で変化し、柄のない刃と化す。それが躊躇いなくこちらへ突進してきた。ひい、とリスカは内心で絶叫した。串刺しですか。
 リスカの顔の真横を突き抜けた刃が、イルゼビトゥルの顔や喉を裂いた。耳元で炸裂する破裂音に、リスカは気絶しかかった。身体に思い切り何かの飛沫が降り掛かったのだ。今なら望まれずとも、喜んで気を失えるだろう。
 よろめき、あわや落下しかけたリスカの身は、こちらへ伸ばされたセフォーの腕で支えられた。荒く呼吸を繰り返しつつぎくしゃくと視線を巡らせたが、既に悪魔の姿はない。まさか今の一撃で悪魔を撃退したのだろうか。
「いえ」
 リスカの表情を見たセフォーが短く返答した。この端的言葉はひどく懐かしいが、どういう意味なのだろう。
「本体では」
「ええと」
「影です」
 よく分からぬが、今のイルゼビトゥルは本物ではなく、ある意味己の力を移した人形みたいなものだったのだろう。本体でなくとも、これほどの力を発揮できるのかと別の恐ろしさを抱く。
「私といましたので」
 セフォー、感動の再会ですよね、しかしまだ私の頭は激しく混乱しているために端的言葉をいつものごとく解読できません、とリスカはつじつまのあわぬ考えを抱いた。
「あれの本体は、今まで別の場所に私といたのです」
 高位悪魔を、あれ呼ばわりですか……とリスカは虚ろな目をした。ではなく、セフォーと行動をともにしていたのか?
 どきまぎしながら見上げると、なぜか眉間に皺を寄せられてしまった。目の錯覚だと思いたいが、むしろそう懇願してもいいくらいだが、とにかく、不機嫌そうに睨まれている気がする。なぜ! とリスカは半泣きの状態で恐れ戦いた。
「とととりあえず、地上に降りませんか」
 提案するので精一杯なリスカだった。
 
●●●●●
 
 なぜ地上に降りたがったかといえば、ジャヴの安否が気になったためである。
 結界を破壊しついでに混合生物も成敗したのはいいとして、更についでにジャヴまでも殺害したのではないかと不安だったのだ。
 けれども、ジャヴの命は守ってくれたようだった。
 勿論、それまで混合生物と対戦していたためにジャヴはひどく疲れた様子だったが、深刻な怪我は負っていない。
「相変わらず凄絶だね」
 ジャヴが乱れた髪を整えつつ、複雑そうな視線をセフォーに向けた。
「――騎士殿たちが心配なのでね。私は先に転移させてもらう」
「どこへですか?」
「ティーナの屋敷だ。本来はそこで見世物が開かれる予定だった」
 驚くリスカに、「あとからおいで」と言い残してジャヴは転移をした。久しぶりにセフォーと顔を合わせたリスカへの配慮なのか、いや、やはりシエルのことが頭にあるのか、言いたいことを複数抱えているはずだろうにジャヴはこの場に長居しようとしなかった。
 しかし、ここで取り残されてもえらく戸惑う。
 セフォーと二人きりになってしまったのだ。
「ええと、そのう」
 目の前に立つセフォーの無言の威圧が身を苛む。そういえば寒気がする。すっかり忘れていたが、冬なのだ。吐く息が白いことをようやく思い出した。この瞬間まで、寒さなど気にかける余裕がまったくなかったのだ。
「私、あの、本当に気配りが足りず、いえ、けれども」
 もごもごと支離滅裂な言い訳をして俯くリスカの頭に、氷のような視線が突き刺さる。
「それでも、私なりに、あなたを追ってみたり……いえっ、本当に微力な魔力ですし、運動不足で」
 最早言い訳にすらなっていない。己ですら何を言いたいのか理解していなかった。
「なぜ」
「はいっ?」
 思わず直立不動の姿勢で元気よく返事をしてしまうリスカだった。情けない。
「なぜです」
 すみませんセフォー、端的言葉が冴えすぎててさっぱり質問の意図が掴めません。
「なぜ追ってきた」
 相変わらず平淡な口調だったが、どこか投げ遣りな響きを含んでいた。
「追わねばよかったものを」
 そう言われて……リスカは正直、心に打撃を受けた。今の言葉は拒絶なのだろうか。
「だ、駄目でしたか?」
 恐る恐る真意をたずねてしまった。
「考えたのですよ」
 と言われたが、随分言葉を端折っている上、別の話題に転じていませんか。できればもう少し言葉を長く紡いでほしい。
 そんな内心の願いが届いたのか、銀色閣下様は眉間に皺を寄せたまま嘆息した。ひぃ殺戮衝動がまさか強まったのですか。
「あなたは私を必要としていないから。逃してやろうと考えたのです」
 命だけは見逃してやるという意味なのですかそうなのですか、とつい物騒な発想に取り憑かれてしまった。
「あれが、私に注目した。ならば必ず接触してくる。私に目を向ければ必然的にあなたにも注目する。ゆえに私は距離を置いた。――私が関わらねば、あれはあなたに接触することはないだろう」
 リスカは瞠目した。
 悪魔はセフォーがどの程度リスカに執着しているかを知りたがっていたようだった。もしかして、悪魔の興味を逸らすため、リスカが危機にさらされていた時も、セフォーは来なかったのだろうか。蛾妖や貝百の時にはセフォーは動かなかった。思い返せば、危険な目に遭遇したとはいえ、最終的にはジャヴやエジに助けられている。そして、シアにも。決定的な死にさらされてはいなかったのだ。
 けれども、悪魔本人――いや、悪魔の影に囚われた今この時には、来てくれた。それは、これまでの危機と比較して、見過ごした場合決定的な死を迎える可能性があったためなのか。他の魔物はともかく、影とはいえ強大な高位悪魔なのだ。大軍を率いてくるならいざしらず、単体でセフォー以外にかなう者はいない。
 一体、イルゼビトゥルとセフォーはどういう繋がりをもっているのだろう。ここまで悪魔に注目され、なおかつお気に入りだと言われるくらいなのだ。単純に、悪魔の興味本位のみとは思えない。
 セフォーの顔を無意識のうちに長く見つめてしまった。ふと、今の彼の台詞を反芻する。悪魔の興味をこちらに向けぬためにセフォーはリスカと距離を置いたのだと。この言葉の裏に隠された事実を理解して、愕然とした。敵対する者や気に食わぬ者には容赦のない苛烈な死神閣下が、らしくもなく守りに回っている。
 それはつまり――セフォーでさえ封じられぬ相手だという意味か。勿論、相手は高位悪魔だ。簡単には封じられないだろう。それでもリスカは心のどこかで、セフォーの力量ならば打ち勝てるのではないかと思い込んでいた。リスカにとってセフォーはまさに輝かしく鋭利な不敗の王だったから。誰にも奪えぬ王の座に傲然と座る、孤高の存在だと。
 嘘だ、と叫びたい気持ちになった。
「あれは強大です」
「……はい」
 返事が遅れた上に、声を震わせてしまった。
「一騎打ちという条件ならば、封じられるでしょう」
「えっ」
「しかし、高位の魔ならば大抵、多くの下級魔を配下に持つ。それに多彩な能力を持つのです。間隙をつくようにして、狡猾な戦い方を選ぶ。こちらの戦力を多方面から削いでいく、ゆえに厄介なのですよ」
 言われてみればそうか、と納得できる。悪魔は奸計を巡らすものだ。素直に真っ正面から戦うはずがなく、あらゆる卑劣な手段でもって襲いかかってくるのだろう。
「なぜ私を追ったのです。追わねば、あれはこのようにあなたや私を執拗なほど試そうとはしなかったのに」
「それは……」
「あなたにとっても、その方が楽でしょう。ここで私と離れれば、あなたには平穏が戻る」
 本気でこのまま去ろうとしていたのだと分かり、リスカは大きく動揺してしまった。
 でも、あなたは以前、時々でいいから追えと言ったのだ。
「手放すのが惜しくなりましたか。私は悪魔のごとく強いから」
 違う、そういう意味ではないと反論したかったが、言葉に詰まってしまった。
「どうです、リスカ」
 突き刺すかのような目で見下ろされた。
「分かりません」
「分からない?」
「よく分からないんです。けれども、どうしても追いたかったのです。どうしてでしょう?」
 訊かれているのは自分なのに、聞き返してしまった。
 しばしじいっと見つめ合った。いや、大地を震撼とさせる兇器のような氷の目に負けて、咄嗟に指一本分視線を落としてしまったが。
「これであなたも、あれに注目されたのですよ」
「ひ」
「あれは必ず、再びちょっかいを出してきます」
「ぐ」
「仕方のない人だ」
 思わず平身低頭して謝罪したくなった。
「あなたを恨みたくなります」
 リスカは冗談ではなく本当にがくっと腰を落とし、地面に両手をついてしまった。恨まれている本気で恨まれている抹殺決定ですか、運命の恩赦というものがあるならば今こそ必要です、と神に救いを求めたくなった。
「私に恐れるものなどなかったのに。あなたのせいで、私は躊躇いが増えた」
 一昼夜謝罪し通しますから許してください、と言いたくなった。
「あなたを優先させる己が恐ろしいのですよ」
 すみません私はあなたの苛立ちがいつ殺意に変わるかが心底恐ろしいです、と実際口に出した場合、この場でばっさり叩き斬られる気がした。
「聞かないのですか」
「なな何をでしょう」
 リスカはなんとか顔だけ上げて、戦々恐々とセフォーの様子を窺った。セフォーは溜息まじりに身を屈め、リスカと視線を合わせた。
「あれとの関係を」
 聞いてもいいのだろうか。
 またしても睨まれ……ではなく、凝視されて心臓が凍えそうになった。
「行くのでしょう」
 あ、今何だか拗ねませんでしたか。
「あの騎士や魔術師の所へ」
 セフォーが譲歩したことに驚いた。
「行きます行きます行きましょう」
 意気込むリスカに、セフォーはもう一度溜息をついた。
 びくつきながらも、リスカはそうっとセフォーを見上げる。
 本物だ。
 どれほど驚異的で凄まじくても、この人はリスカが知るセフォーだ。
 あなたにようやく追いついた。リスカは胸をおさえて、気づかれぬよう小さく小さく笑った。嬉しいのに胸が痛い。



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