花炎-kaen-火炎:27


 結局セフォーの過去を聞かずじまいで、フェイたちがいるであろうティーナの屋敷に行くことになった。
 ティーナの屋敷は現在無人であり、尚かつ他の貴族邸とは距離を置いた場所に建っている。ゆえに、本来ならばその敷地周辺は、夜中ということもあり閑散としているはずだった。
 けれども、リスカとセフォーが到着した時、そこには多数の悲鳴が溢れており、夕暮れ時のごとく鮮烈な赤に染まっていた。幸いといっていいのか、野次馬の姿はない。推測するにジャヴあたりが、無関係な人間を集めぬよう結界を構築しているのだ。
 リスカは隣にセフォーがいるのも忘れて、ぼんやりとその赤を見た。
 火炎だ。
 ティーナの屋敷は炎上していた。
 火の粉を舞い上げ、怒りを放っているかのように天を焦がす炎。屋敷周辺では、火勢を鎮めようと必死の形相で動き回る騎士たちの姿があった。屋敷内で見世物がひらかれる予定だったという。おそらくはその見世物を目にしようと訪れた貴人たち、そして見世物の対象となるはずだった異形たちが、炎をまとう屋敷内から命からがら逃げ出してきたのだろう。付近で鎮火にあたっていた騎士達が、ほうほうの体で外に飛び出してきた彼らを保護し、同時に捕縛している。
 どういう理由で屋敷が炎上しているのかは分からない。屋敷内で何か揉め事があったのか。
 リスカはその理由を考える余裕がなかった。ただひたすら、炎に魅入っていた。
 火炎。炎が咆哮している。なんて赤い炎なのか。
 この色を知っている。
 焼かれてしまえと思った。
 見世物屋敷など、炎の中に葬ってしまえ。弱きも醜きも、炎がすべて平等に焼いてくれる。
 リスカは目が眩んだ。
 火葬したはずの過去へと、意識が落ちていく。
 
●●●●●
 
 炎の底に眠る過去へと遡り――
 
 
 幼き頃、自分は愚かにも聡い者であると信じていた。
 盲目だったのではない。周囲の者と比較して、自分は開眼していると冷静に思っていたのだ。
 リスカは王都から遠く離れた、小さな村で生まれた。家族仲はよく、優しい両親がおり、姉と妹が一人ずついた。特記するほど貧困だったのでもなく、日々遊んで過ごせるほど裕福だったわけでもない。今思えば、これ以上は望みようもない幸福な環境だっただろう。
 遠方の地から客人が一人訪れるだけで村中の噂になるような――穏やかで平和な暮らしの中、リスカは育った。
 やがて、家族の中でどうしたことか、己のみに魔力があらわれた。小さな村であった上、やや閉鎖的でもあったので、この不可思議な力が魔力だとは当時誰も思い至らなかった。また、リスカ自身も行使の仕方を知らなかったゆえに、ただ特殊な能力を持っているのだと結論づけていたのだ。
 のちにこの特殊な能力を、透視、読心術と理解するのだが、幼少時のリスカはこれを己の聡明さが卓越しているのだと誤解した。相手の目を覗き込めば大抵、何を考え、どういった願望を抱いているのかが読み取れる。心に生まれる細やかな動き――柔らかに笑んでいても内心では激しく憤っていたり、手放しに賞賛する裏で口汚く罵倒していたり、卑劣な感情を隠していたりと、他人が見せまいとする本心をよく悟った。だからリスカは、あえて見ぬ振りをしたり、的確な発言をしたりと状況に合わせて利口に立ち回った。物事の先を正確に見通せる自分がうまく行動すれば、そこに争いは生まれず円滑な良好関係を維持できる。実際、この考えは役に立った。リスカはよく皆に褒められた。頭のいい子だ、気配りのできる素晴らしい子だと。
 人々の賞賛に惑わされ、得意になったことはない。むしろ当然だと捉えていた。なぜなら、人よりも多くの真実を見ているのだ。
 真実。それを突き詰めるのが面白くなった。狭い村でさえ、大なり小なり多くの隠されし真実が埋もれている。人の中に。ならばこの広い世界はどうなのか。
 もっともっと、目を見張るほどの荘厳な、気高い真実が存在するのではないかと夢を見た。たとえばそれは、未だ暴かれたことのない深い洞窟で輝く鉱石のようなものだ。静謐と闇だけが、真実という澄んだ鉱石を愛でている。
 この世に眠る全ての謎を解き明かし、真実を得たいと思うようになった。野心とは違うだろう。地位も名声も興味はなく、ただひたすらに己の探究心だけが重要だったのだ。
 
 
 ある日、姉が嫁ぐことになった。良縁だったらしく相手は平民でありながらも、下級貴族と繋がりを持つ男だった。
 思えばそれがきっかけだった。
 姉に付き添って新居に必要な道具を買いそろえるため、遠方の大きな町へと足を運んだときだ。
 そこで、一人の魔術師と出会った。
 混雑する町中ですれ違い、振り向かれたのだ。
 初めて魔力の存在を知った日だった。己以外にも賢者の目を持つ者がいると知り、急速に惹かれた。のちにこの目を、魔術師ならば誰でも持つ緋眼と理解した。
 魔力を持つ者は都の塔に入門し、術を学ぶという。リスカも導かれることになった。家族は嘆いた。なぜなら、魔道をゆく者は、家族との繋がりを完全に断ち切らねばならないためだ。そして、真名を守護するために、魔術師、家族ともども、必要な記憶を消されるのだった。とはいえ、過去を根こそぎ消されるわけではない。自分がいかなる者か、また、どういった生まれかなど、根底となる部分は消しようがないためだ。家族が存在することも消されない。ただ、仮に道端で偶然出会っても分からぬよう、互いの顔を思い出せなくするような、あるいは百年も昔の思い出であるかのような、記憶の操作がなされるのだ。痕跡のない過去として記憶の壁に飾ることだけが許される。
 塔への導きを反対する家族が不思議だった。無論、その心の動きについては理解できるのだが……死別するわけではないのに、と思う。
 生まれ持った魔力。これを磨けば、更に世界が開ける。様々な真実が知りたい。人の中の真実ではなく、今度は勇壮なる世界の謎を解き明かす。未知なる宝を探して航海に出向く冒険家のような心境だ。これほど心躍る未来はない。
 だってリスカはもう、人がどういうものか見破ってしまった。愛を深めるために嘘と駆け引きを用いること、利益を優先させるために怒りを飲み込むこと、そういった作為的な言動の操作と、その他一連の情動は見尽くした。人の心の変化や行方も何のことはない、規則性が隠されている。たとえるならば、人は理と情をそれぞれ左右の手に提げた回転式の天秤なのだ。これに気づけば、先読みして行動するのは呼吸をするのと同じほど容易い。
 それは家族であっても同様だった。だから、多少の寂しさを感じても、決定的な離別を選ぶことに悔いはない。人の生とはそもそも、別れが必ず歩む先に用意されているのだ。
「いつだって、ずっとずっと愛しているわ、たとえ記憶が消されてもよ、リル。お前は私たちの大切な娘だから」
「はい。私も愛しています」
 両親が悲しそうな目でリスカを見ていた。頭を撫でてくれる姉の手もまた、深い悲しみに満ちていた。
 愛は、記憶だけが磨くものではないか、とリスカは思った。
「――お前が忘れても、私たちが忘れても。誰より愛しい娘、幸せになりなさい」
「はい」
 ありきたりな別れの言葉。それはやはり、感情を生む心に法則があるからだ。
「リル、幸せに」
「さようなら」
 リスカは過去を捨てた。呆気なく。
 
 
 塔で見た真実は、およそ想像とはかけ離れた残酷なものだった。
 思い違いをしていたのだ。
 自分だけが正しく先を見通していたのではなかった。
 村は狭かった。だから分からなかった。魔術師の卵が集まる塔には、狭い世界しか知らなかったリスカが途方に暮れるくらい凄まじい才を持つ者が溢れている。
 そして、更に思い知った。いくら皆と同じ術を学んでも、己の中にあるはずの魔力がまったく動かない。
 この修正できぬ不測の歪みを砂の使徒――即ち、不具の使徒というのだと。
 初めての挫折であり、決して超えられぬ壁だった。
 塔も、ある意味では狭い世界だったが、その中で暮らす卵たちには強い自負と競争心があり、未来に対しての激しい執着もあった。不具と知られた瞬間、皆の態度は一変した。家族と切り離され、己の才知だけで一歩ずつ歩んでいかねばならぬ生。不安と孤独、目に見えぬ心の魔物と絶えず戦う日々を過ごす彼らは、異質なものが己に近づくのを極端に恐れ、嫌う。その異質さに自分もまた取り込まれ、望む未来を手に入れる前に敗北してしまうのではないかという恐怖が芽生えるためだ。無念な結果で終わるなら、一体何のために愛しい故郷を捨てたのか。皆の心理はそう傾く。
 賞賛に浴することしか知らなかったのに、リスカは足場もないと表現したくなるほど多種多様な侮蔑で身を固められた。
 不具。穢れた魔力。欠陥の証である枷。
 皆と同じ術を学べない。これは屈辱だった。ゆえに、我を忘れるほど書物を漁り、様々な分野の知識を詰め込んだ。それでも拒絶はついてまわり、決して認められなかった。魔術の実技がすべてだったのだ。
 得たはずの知識で正確に組み立てた言葉であっても皆に届かず、歓迎もされない。悔しくて身の置き所がなかった。言葉で構築された論など現実の前では無力なのか。
 
 
 失意の底で喘いでいた頃、もう一人の砂の使徒と出会った。
 ツァルという。これがまた、容易くは性質を読み取れぬほど奇想天外な人物だった。
 この頃リスカは、ただ一人で歪な魔力と格闘していた。固く閉ざした部屋にこもり、書物ばかりを頼りにするという余裕のない日々を続けていたのだ。
 ツァルは最初、卵たちに学を教授する魔術師のような恰好と容貌でリスカの前にあらわれた。ゆえに本当に教師なのだと長い間誤解していた。ツァルは実際、教師のごとく様々な知恵を与えてくれた。鬱屈していたリスカを外へ連れ出し、遊び回ることもあった。随分ツァルには救われた。この人がいなければ、リスカはいつまでも暗い部屋の中で孤独を味わい、己の中にある苦悩に押し潰されていただろう。
 ツァルもまた砂の使徒だと知ったのは、ある昼下がり、塔の屋根の上で話をした時だ。いや、建設的な会話ではなかった。ただ愚痴を聞いてもらっていたのだ。どうして魔力が歪なのか。歪だから無力だと詰られるのか。これほど知識を詰め込んでもなお、無力だというのか。
「知識がすべてなのかな?」
 ツァルは笑みながら言った。
 すべてではないが、重要だと答えた。
「では、この空に知識がある? 森には、星には、大地には?」
「あるかどうかではなくて、知識をもって説明できます」
 ツァルは片眉をあげた。
「なぜ説明する必要が?」
 苛ついた。解き明かさねば、意味がない。
「そもそもね、知恵を持たぬ子供だって空を説明できるのだよ。空には太陽があります。夜になると星が見えます――ほら、これも説明だ」
 違う、違う。そんなのは誤摩化しで、何も説明になってはいない。まったく意味がないのだ。
 けれど、意味とは、なんのために必要なのか……。
「意味などなくとも空は青いし、星は輝く。意味を知っても、理解したとはいえない。だから、歪であっても魔力は魔力。詰られても褒められても、それは変わらない」
「変わります」
「変わらないよ。人の心と同じだ。読心術で他人の心を知ったからとて、利口になどなれないよ」
 ツァルがさらりと告げた言葉にリスカは息を呑む。胸に刃を突き立てられた気がした。
「でも、知ったら、次にどうすればいいのか分かるでしょう。それで良好な関係が保たれる。争いを生まずにすむ」
 だから知識が必要だ。真実に近づく。
「それが何だというのだろう、リカルスカイ君。相手の気持ちを逆撫でせず、嬉しいだろう言葉を紡げば、諍いを生まずにすむ。こんなのはね、理屈をもってあれこれと小難しく説明せずとも、皆ごく当たり前に分かることじゃないかね。それでも、人はあえてそういう優しい言葉を切り捨てる」
「ど、どうして」
 何かが壊れていく。人の心が見えていたから、今までうまく立ち回ってきた。諍いを生まず、人を傷つけないよう、円滑に。
「魔力などなくともね、誰もが利口で、愚かだ。知識や真実で、関係を築くのではないよ」
 嫌だと思った。不具の魔力だと罵られる今、積み上げた知識さえも否定されたら一体自分に何が残るのだろう。
「別に! 私は誰かと関係を築きたいのではなくて!」
 そうだ、もう人の心の動きは理解した。幼い頃から分かっていた。
「ではなぜ、君は他人の言葉に傷つくの?」
「それは!」
 皆、見えていないためだ、何を言った時人は傷つくのかを。どう振る舞えば人を喜ばせられるのかを。
 そういう心の法則に気づいていないから、安易に悪意を吐き出して――いや、違う。この塔で学ぶ魔術師の卵たちは緋眼を持つ。人の心を読み解くのに長けている。ならばなぜ、分かった上で不用意な言葉を口にするのか。違う、違う! 卵たちは余程の事情がない限り、読心術で他者の心を覗き見しようとはしない。ならばなぜ、適切といえるくらい的を射た効果的な侮蔑の言葉を思いつくのか。
 何かがおかしい。こんなはずはない。
 そうだ、自分は他人になどもう興味はない。だからこんな話に意味はない。迷う必要なんてないはずだ。
「なぜ傷つくか、なぜ傷つけられるのか。君は分かっているのか」
 リスカは赤面した。それは、それはこの歪な魔力のせいだ。穢れた魔力だから差別を生む。ゆえに多くの知識を得て、この穢れをいつか取り除く。
 そうすれば――。
 そうすれば、一体何なのか?
 分からない、何がどうなっている。この醜い魔力の原因を解き明かしたいはずなのに、なぜそこに人の心が割り込んでくる。
 仮にこの魔力の歪みを修正できたとして――今受けている蔑みを、自分は簡単に忘れられるのか。
「理由を分かっているだけでは駄目だ。先読みすることばかりに腐心して何になる?」
 聞きたくないと思った。
「いいかい、先読みして行動する、それも確かに必要なんだろう。だが、先回りばかりをしていて他人が本当に喜ぶだろうか。そして君の本心はどうなる?」
 寒気がする。
「もう結構です。部屋へ戻ります」
 リスカはツァルの言葉を振り切るようにして立ち上がった。
「リカルスカイ君、私も砂の使徒なのだよ」
「――え?」
「響術師という。言葉を用いて魔力を発動させる、そういう力だ」
 ツァル――響術師は微笑した。
 裏切られたと思った。同じ砂の使徒ではないか。そういう者が、自分に諭すのか。まるで、正規の魔術師のように一段上の場所から?
 リスカは腹を立てた。そして内なる衝動のままに、随分ひどい言葉をツァルに投げかけたと思う。
 けれどもツァルは反論しなかった。
 リスカはいたたまれなくなり、その場を去った。
 
 
 その後、ツァルとは疎遠になった。
 再び一人で不具の力と格闘する日々が続いた。数の少ない砂の使徒であるために、師がつくことはない。術の教えようがないためだ。ゆえにリスカは塔の中で、亡霊のような存在として扱われた。亡霊と言うのは日々をどのように過ごそうが決して咎められないという意味であって、周囲の冷たい視線はいつでも向けられていた。
 何がきっかけだったのか――自分の魔力が、花の中にしみ込むと分かった。その事実は絶望しか呼ばなかった。使い方を知りたかったのではないのだ。この歪さを正しい方向へ修正する、その方法が知りたかった。
 
 
 塔の貴石、と騒がれる才知溢れる魔術師と言葉をかわしたことがあった。
 ほとんど人付き合いなどなかったリスカだが、その人にまつわる華やかな噂だけは耳に挟んでいた。容姿も魔力も優れており、リスカとは別の意味で通常の授業を免除されているのだと。既に学徒の最終試験には及第しているらしく、特次術師という、誰よりも先に次の段階へと進んでいた。彼は近いうちに上位魔術師として認定されるだろうとのことだった。
 遠目から幾度か彼を見かけたこともある。噂通りに華やかで、端正な容貌だった。まるで神々の祝福を受けたかのようだ。彼の周囲にはいつも誰かがいたし、たとえ一人でいたとしても自分から近づく気持ちにはなれなかった。こういう卓抜した人にまで侮蔑を投げかけられるのが嫌だったのだ。
 ある夜、リスカは一人で図書室にこもっていた。本来ならばこの時刻、図書室への立ち入りは禁じられているのだが、なにせ砂の使徒である。厄介事はごめんと見て見ぬ振りをされるのだから、これを利用しない手はない。一般学徒の閲覧は禁止とされている書物だって自由に目を通せる。――禁断の術式を知ったからとて、この魔力ゆえに決して悪用できないと誰もが高をくくっているためだった。
 こういう理由で毎夜、人の絶えた時刻を狙ってリスカは図書室の閲覧席、それも禁書のみを並べている狭い席を独占していた。手燭の明かりを頼りに眠気と戦いながら紙面をめくる。
 随分集中していたので、他人が訪れたことに気づかなかった。
 夜の静寂の中、ことりと椅子を引く音がして、そこでようやく驚いたのだ。
 リスカはどぎまぎしながら顔を上げ、更に驚愕した。向かいの席に、美貌の魔術師が腰を下ろしたのだ。
 目を丸くして凝視するリスカに視線を向けた魔術師が、悪戯が見つかったような微笑を浮かべた。
「内密にね。君のことも他言しない」
 何を言われたのか分からず、リスカは当惑したが、彼が禁書を開いた時、ようやく気づいた。
 知らないのだ、この人は。リスカが砂の使徒であるがゆえに、誰にも咎められることなく禁書を閲覧しているのだと。
 たとえ特次術師とはいえ、正式には上位魔術師とは認定されていない。だからまだ、禁書の類いは閲覧を許されていないはずだった。これら書物は、卵たちが全ての実技と試験に及第し、一人前の魔術師として認められた時、そして閲覧申請をして許可された時に目を通せるものだ。中には中位以上の魔術師しか閲覧できぬ重要な書物もあるため、禁書が並ぶこちら側の閲覧室には術を仕込んだ鍵が扉にかかっているのだが、リスカの場合は、まだツァルと親しくつき合っていた時にこの鍵をもらいうけている。ツァルはどこからか、こういう鍵や呪具の類いをよく入手していた――砂の使徒だから蔑視されることも多かったが、それでもツァルには友人が多くいたのだ。
 ともかく、塔の貴石と呼ばれるこの魔術師は、先に訪れていたリスカを己と同様、禁書を閲覧するためこうして夜中に忍び込んできたのだと勘違いしているらしかった。ゆえに共犯者のごとく、他言しない、と言ったのだ。
 知られたくない、とリスカは思った。今だけでも、砂の使徒と知られたくない。
 それと同時に、もし今後も彼がここに来るのならば、もう自分は二度と利用できないだろうと強く思った。
 だからこの一夜だけでも、対等に。
 緊張を押し隠しながら静かに書面をめくる。
「――君は学徒?」
 突然たずねられた。
 リスカは答えられず、曖昧に笑った。まだ少年の名残を残している美貌の魔術師も、こちらに目線を向けていた。
「あなたは、確かシエル様の」
 リスカの慎重な言葉に、彼は頬杖をつき面映そうな表情を見せた。その才知ゆえにもっと気難しく高慢な人かと思っていたので、柔らかな表情は意外だった。
「そう。実はね、この間、師に提出した論文の出来が悪くて。だから挽回しなくては」
 ああ、この人は師を心底から尊敬しているのだと思った。
「私は師に近づきたい」
 嬉しげに、そして楽しげに言う魔術師に、リスカは微笑んだ。
「師のようになりたい。けれどもね、いつまでたっても叶わぬのだ。きっと永遠に超えられない」
 リスカは首を傾げた。なぜそんなに幸せそうに言うのか理解できない。いや、超えられぬということをなぜ決めつけてしまうのかが分からないのだ。目標が見えているのならば、やるべきことも見えているはずだった。リスカは考え、そして次に答えを見出す。超えられぬのではなく、超えたくない、の間違いではないかと。けれども師の立場からすれば愛弟子がそのように考えているのは残念とならないだろうか。この人には、そんな事実も分からないのだろうか。
 いや、違うだろう。だとすれば、弟子に超えられるのを師が内心では恐れているから――? しかし塔の貴石とまで呼ばれる者が、弟子に嫉妬するような、狭小な心の師を尊敬するはずがない。
 ならば相手の心を試すためか? 人は愛情を計るために、わざと虚言を紡ぐ。
 でも、彼の声音には、嘘も駆け引きも含まれていなかった。
 だとすれば。
 頭が痛くなってきた。思考を巡らせていくつも言葉を積み上げたが、どうしてかどれも正解ではない気がする。
「――などと情けないことを師に告げれば、きっと私は叱責されるだろうな」
 独白の口調で言い、彼はまたも幸せそうに笑った。
 叱責されると分かっているのに、嬉しい?
 師を失望させて、嬉しいのか?
 リスカは言葉を失った。なぜそんな、あえて互いの関係を悪化させるような真似をするのか。全く合理的ではない。
 それなのになぜ満たされた顔を――。
 もっと考えなければ。
 考え尽くせばきっと真実が見える。なぜなら人の心には法則性がある。
 分からないなどと言って、諦めたくないのだ。
 諦めてしまえばそこで道を見失う。
 ……一体、何の道を?
 失う道など、最初から意味は。
「ああ、ごめん。邪魔をしたかな」
 考え込むリスカに気づいて、彼が少し困ったような顔をした。リスカは慌てて笑みを作った。なぜなら、素直に頷けばこの場を居心地悪くしてしまう。
 そう結論を出して気遣ったつもりなのに、彼は再び謝罪し、口を閉ざした。
 リスカは気づいていなかった――自分が既に最初の目的を忘れていることに。
 
 
 それから日が経過し、彼が上位魔術師として正式に認定されたという噂を聞いた。
 塔の回廊ですれ違ったことがある。
 彼は相変わらず、多くの友と一緒にいた。
 すれ違った時、物珍しげな目で見られた。初めてリスカを見るような目だった。図書室での邂逅を覚えていないのかもしれなかった。
 すれ違う前に、側にいた友人からおそらく、あれは砂の使徒である、と聞いたのだろう。彼が寄せる物珍しげな目は、リスカを図書室で出会った時のようにもう個としては捉えていなかった。
 リスカは何も言わず、足早に去った。
 
 
 何年が経過したのか。
 疎遠となったツァル以外に、自分に接触してきた魔術師がいた。
 ワンスという名の魔術師だ。中位として認定されたばかりの青年で、青みがかかった髪は少しだけ、上位魔術師となった塔の貴石を思わせた。
 彼は屈託のない、優しげな面立ちの魔術師だった。目を奪われるほどの華々しさをもっているわけではなかったが、口調も物腰も穏やかで、友人にも恵まれ、人望があった。
 なぜ彼と親しくなったか――それは塔で管理している庭園での出来事が原因だった。リスカはその時、庭園で栽培されている花をいくつか選んでいる最中だった。しかし庭園の花はリスカの魔力とあまり相性のよいものが咲いておらず、やや閉口していたのだ。
 その時、ワンスが声をかけてきた。中位に認定された祝いとして友人たちからもらった花束をいくつも抱えていた。リスカが単純に花を集めているのだろうと勘違いしたらしく、持ちきれないからよければ一つどうか、と花束を渡されたのだ。
 リスカは考え、一度は断った。
 友人から祝いとして贈られたという花束を、リスカの魔力研究として使ってしまうのは後ろめたさを感じたためだ。花を手折るリスカの指には、ただ無感動な慎重さがあるだけで慈しみなどこめられていない。
 この頃のリスカは、少し疲労しそして諦観を持っていた。もうこの魔力の歪さは手出しのしようがないのだと。だから正直に、ワンスに告げた。
 自分は砂の使徒であり、魔力の受け皿として花を選んでいたのだ。美しい花を、美しい花として部屋に飾ることはない。
 ワンスは驚いた顔をした。きっとすぐに彼も皆と同様、明確な侮蔑の表情を見せるだろう、そう先読みして身構えるリスカに、けれど彼は悪戯を思いついたような明るい顔をした。
「それはちょうどよかった。ほら、多種の花をもらったから、中には君の魔力に合うものがあるかもしれない。……友人には悪いけれど、僕は花の手入れの仕方なんて分からないからね。君が好きに活用してくれ」
 リスカの腕に花束を押し付けるワンスの軽やかな言葉に、凍りかかっていた心が溶けたような気がした。



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