花炎-kaen-火炎:28
他者との関わりに消極的になり、逃げ腰になっていたリスカを厭わずに、ワンスは明るい外の世界へと導いた。光と影が溢れる色鮮やかな世界だ。目映く、すべてが美しい。
彼はいつも温和な笑顔を見せながら、戸惑うリスカの隣を悠然と歩いた。歪な魔力の研究にも根気よくつき合ってくれた。まるで家族であるかのように、親身になってリスカを助け、行動してくれたのだ。どんなにリスカがぎこちなくなり、間抜けな失敗をしても、失望を見せずにいつだって解決策を考え、迷わず手を差し伸べてくれる。リスカは笑うようになった。豊富な話題、尽きない優しさ。とても、とてもあたたかい人だと思った。そして、ここにきてようやく、家族の絆がいかに大事であったのかを理解した。夢を追うために、簡単に切り捨てようとした家族。身勝手だった過去の自分を恥じた。嫁いだ姉たちがどれほどリスカに心を砕いてくれていたのか、どれほど惜しみなく微笑んでくれていたのか――ありがちな感情だろうが何だろうが――痛いほどに分かった。けれどももう遅い。術師の道を選んだリスカには最早、帰る道もなく、曖昧な記憶しか残されていない。
「私は間違いだらけですね」
隣を歩く優しい人に、ぽつりと懺悔した。ワンスは少し驚いた表情を見せたあと、くすりと笑ってリスカの肩に腕を回した。
「リルは一生懸命で可愛いよ」
リスカは動揺のあまり転びかけ、その後片手で顔をおさえて涙をこらえた。
ワンスとともに過ごすようになって以来、必然的に他の術師とも会話をする機会が増えた。
初めの内は砂の使徒だということもあってどこか一歩引いた冷ややかな空気が流れていたが、ワンスの屈託なさに皆ほだされたのか、いつしか普通の友人のように挨拶をし、笑い合うようになった。時には、先人の記した書物について、夜更けまで議論をたたかわせる。
そうか、とリスカは得心した。今までの自分はきっと何か大切なことをはき違えていた。蔑まれる魔力に固執するあまり、現状を何も変えようとはしなかった。疎遠となってしまったツァルの言葉をよく思い出し、考えるようにもなった。ツァルも砂の使徒だったけれど、友人が多かった。きっと響術師は大事なことを語ってくれたのだ。もう少し……あと少しで、ツァルの言葉が理解できるのではないか。そう信じた。もし理解できた時にはツァルの所へ行き、心を込めて謝罪しよう。もう一度、何かを語ってくれるだろうか。自分の愚かさが壊してしまった関係を、もう一度新しく築くことができるだろうか。
人は複雑な生き物だ。心を覗き見するばかりでは駄目だった。綺麗に整った言葉だけでは、人は満足できないものだった。自分を殺してただうまく立ち回ろうとする浅はかなリスカの存在は、他者にどれほど気味悪く映っていただろう。
蔑まれて当然だった。
自分を見せずに、心ない言葉だけを吐き続け、そのくせ相手の全てを暴こうとしていたのだから。実体のない影のようだ。一体誰が、水のごとくに形を変える誠意のない影を信頼するだろうか。
何事も肯定するばかりでは、人は生きていけないのだ。
ツァル、あともう少しであなたの言葉の意味が分かると思う。
塔には、博士関という様々な研究を行う部門がある。たとえば言語、歴史、神話、術式の開発など――複数の部門が存在し、下位魔術師以上となる者は自由に選択して研究を続けることができる。
中位であるワンスも塔に残り、何かしらの研究に日夜勤しんでいるようだった。専門分野によっては門外不出の内容もあるため、リスカは彼が手がけている研究の詳細を詮索しなかった。
多忙な日々であったろうに、それでもワンスは時間を作ってリスカによくつき合った。時には己の抱えている研究を脇にのけてまで熱心にリスカの面倒を見てくれた。リスカは恐縮しながらも、面映い思いでワンスと行動した。
魔力と馴染む花が見つかった時、彼は手放しで喜んでくれるのだ。ある日などは、知り合いの花屋に協力してもらったと豪語し、リスカの部屋を花だらけにしたこともある。
なんて優しい人だろう。ワンスに何か、恩を返すことができたらと思った。
しばらく後、いつもは朗らかなワンスが研究に行き詰まったらしく、悩み深い表情をするようになった。
「手伝えることはありますか?」
リスカがたずねると、ワンスは真面目な顔をして答えた。
「ありがとう、リル。そのうち協力を求めても?」
はい、とリスカは強く頷いた。
ある夜のことだった。星も月も薄い雲の奥に隠れ、闇が深く感じる夜だ。
手伝ってほしいことがある、と深刻な顔をしたワンスに呼び出されたため、リスカは応じて、塔の裏手に並んでいる小屋の一つに足を向けた。この場所に建てられた小屋は学徒が授業の中で制作した作品や、使われなくなった調度品、網、菜園用具など、殆ど倉庫として利用されている場合が多い。稀に密やかな逢瀬の場所としても使われているようだった。羽目を外した学徒たちが夜中集まり、翌日の昼日中まで酒盛りをしたという笑い話もある。
なぜ真夜中に、人目を忍ぶようにして呼び出されたのか多少不思議には思ったが、研究内容を他者に漏らさぬよう警戒しているのかもしれないと考え直し、リスカはそっと小屋の扉を開けて内部へと身体を滑り込ませた。
「リル、こちらへ」
ワンスは既に到着していたようだった。
招く声にリスカは少し緊張した。小屋内にはワンスだけではなく、他の魔術師もいたからだ。外に明かりが漏れぬようにするためか、四方の壁面には黒い布が下げられている。
「あの……」
黒い布で囲まれた室内を照らすいくつかの蝋燭が、すきま風に吹かれて小さく揺れている。まるで何かの儀式でも行われるかのような異質な空気を感じ、掌が緊張で汗ばんだ。同時に鼓動も速くなり、一層不安をかき立てられる。
「おいで」
異様な雰囲気に立ちすくんでいると、小屋の中央までワンスに手を引かれた。
「研究に行き詰まってしまってね、君に協力してほしい」
「はい、でも」
何をすればいいのだろう、とリスカは当惑しながら魔術師たちを見回した。何かがおかしいと思ったが、いつも別け隔てのない親切をくれたワンスに対して懐疑心を抱くのはひどく後ろめたさが付きまとった。
「僕はね、砂の使徒の歴史と魔力を研究している」
「――え?」
ぼんやりしていたリスカは、そう紡がれたワンスの声で我に返った。
「歪な魔力。なぜ魔力に枷が生まれるか」
「ワンス、それは――」
「不思議だとは思わないか。突然変異として魔力を束縛する枷が生まれるのか。その謎は未だに解明されていない。これを解き明かせば、魔術の発達に貢献できる。なぜなら、砂の使徒には稀に、悪魔と比肩するほどの魔力を持つ者が現れるからだ」
何を言われているのか咄嗟には理解できなかった。
揺れる蝋燭の炎に照らされるワンスの顔が、見知らぬ者のように白々しく映る。
「古き書には、砂の使徒の起源は、罪人の血であるゆえと記述されている。まずこの点を追究してみた。確かに、砂の使徒には他にはない特徴が身にあらわれる。リルにもあるね。花の刻印――それは罪科を持つ魔術師に与えられた、入れ墨の証だと」
罪科?
「死罪にすら値せぬほどの大罪を犯した魔術師……要するに、遠い過去の中で、魔道を穢すほどの許されぬ罪を犯した魔術師が、その入れ墨を施されたのだ。大罪であるがゆえに、世に対し隠蔽もできない。罪を忘れるなかれ、そういう意図で、あえて魔力に枷を与えたのだという。そして歴史の波にも消されぬよう、罪人の血筋の者に、刻印が生まれる」
リスカは蒼白になった。
それはつまり――リスカの祖先が罪人だったと?
「この説は正しいのではないかと思う。現在にまで砂の使徒に対する強い差別が残っているからね。これは過去の名残ではないか。調査の結果、この説を支えるいくつかの有力な話が見つかった。まず一つ、赤魔全記(せきまぜんき)と呼ばれる魔道分岐の始まりとなった伝説――これは有名な逸話であるが、砂の使徒の名は出てこない。けれども、砂の使徒をさしているだろう記号があり――…」
ワンスの声が遠くなった。
リスカは混乱した。砂の使徒の研究? 罪人の証である入れ墨?
どういうことなのか。一体何を聞かされているのか。
無数の優しさを見せてくれたワンスの顔が、リスカの目に歪んで映る。記憶の中で笑う彼の笑みまでもが、無惨に叩き割られていく。あの日、リスカの部屋を花だらけにして、少し誇らしげに笑っていた人が、どうして。
「――…から、身体を見たい」
リスカは瞬いた。
気がつけば、リスカは両腕をワンスに取られていた。
「……からだ?」
「そう。リルは指だけに入れ墨がある。他の場所には? 歪である証は他にないのか。魔力のゆがみは、人としての肉体に何か別の影響も与えるのか」
ワンスが優しくリスカの髪をすいた。
リスカは目の前に立つ人を見上げながら、記憶を呼び起こす。花で溢れる部屋。甘い芳香と楽しげな笑い声。この記憶は掛け値なしに愛しかった、ふと思い出した時につい笑みがこぼれ、そうしてあたたかな涙までもが滲むほどに。
その愛しさが、澱に塗れていく。
「ああ、心配せずともいい。危害をくわえる目的はない。彼らも研究員だから、君を傷つけたりはしない」
リスカは息を止めた。
違う、その優しさは、何かが違う。
これならいっそ、嘲笑う目的で、脱げと言われた方が――。
「あとで少し血ももらっていいかな。それと髪。愛液。唾液。涙も。仮に罪人説が正しく、断罪の意味で魔力を歪める刻印を与えられたのだとすれば、なぜ長い歴史の中で、いびつでありながらも強大な魔力を持つ者が現れるようになったのか。歳月の中で、歪みの重なりと濃さがそういった異様な強さを抱く者を生む結果となったのかな」
「わ、私」
「リル。怖がらなくていい」
蒼白になって震えるリスカに気づいたのか、ワンスが宥めるように声音を柔らかくして背を撫でた。
「決して君を傷つけないし、無論、誰にも傷つけさせない。僕は君を大事にする。それは今後も変わらない」
喘ぎそうになる。
ワンスは嘘を言っていない。まるで慈しむかのように、あたたかい目でリスカを見ている。
「本当にね、僕は毎日、君のことばかりを考えていると思うよ」
話を聞いていた魔術師達が苦笑した。まるで同意を示すような、親しげな笑い方を誰もが見せていた。
リスカは何度も瞬き、ワンスの顔を見返した。
だから――だからなのか。あんなに熱心に、リスカの側にいてくれたのは。魔力の受け皿となる花探しにも根気よくつき合ってくれた。ちょっとしたかすり傷を負った時には、リスカ以上に慌てふためき心配してくれた。愛しむかのように髪を撫でてくれた。見知らぬ魔術師に罵られた時には毅然と背に庇ってもくれた。
好きな食べ物は何か、嫌いなものは。こと細かく、色々な質問も受けた。リスカ自身に興味があったのではなく、それは。
「ワンス」
彼が示すのは、本物の慈しみと優しさだ。それは間違いがない。
だが、なんて残酷な優しさなのか。
偽りはないのに、完膚なきまでに叩きのめす優しさだ。
「このために? 研究のために、私を理解しようと?」
「リル、誤解しないでほしい。僕は本当に君を知りたいのだ。君の全てを」
額に口づけられた。
寒気がする。彼は決して悪意などではなく、純粋な心でリスカを理解したい――分析したいと言っている。
なぜだろう、これほど彼は真摯な思いでリスカと向き合っているのに、喜べない。どころか、泣き出したいくらい悲しみが溢れそうになっている。向けてくれる笑みの優しさが、心から辛くてたまらないのだ。
この人は何も変わっていないのに。
リスカの中の何かが変わってしまったのだろうか。
「君を解き明かすことは、未来において、強大な魔力を持つ術師を生み出せるという可能性を秘めている。知っているだろう、今、我が国の権力は二分されている。この図を覆し、法王の管理下で国を統制できる可能性がある」
魔術師は法王側に属しているから。もし、血の謎が解明されて、強大な魔力を有する魔術師を人為的に作り出せるようになれば――権力の図は書き換えられる。
現在において二分された権力は拮抗しており、長く膠着状態が続いていた。騎士団などを抱えあくまで武力を重視する皇帝と、術力の強化を求める法王との、果てしない権力闘争図。だがいくら均衡しているとはいえやはり、法王側の方が後手に回っているのが現状だ。なぜなら、魔術師の数は騎士団総数と比較した場合、圧倒的に少数なのである。
けれどももし、たとえ少数であっても個の力量が悪魔と比肩するほど強大になれば、二派の勢力図は大きく変化するだろう。
ワンスの研究は、夢物語と言いたくなるほど極端ながらも、国を揺るがす壮大な展望となるのだ。
「過去にもこの血筋の研究を計画した者もいたようだけれどね、皆途中で断念する。まず砂の使徒の協力が得られないし、法に触れる危険もある」
それは当然ではないのか。一体誰が、喜んで自分の身を実験動物として提供するだろう。
また、人為的な生命の図式の操作は国法で厳しく禁じられている――神を裏切り人道を穢す行為であると、国王が真っ先に施行した法案だ。正道をうたう法令の裏には、禁忌に手を染めてでも権力の拡大化を望む法王一派への牽制の意味が隠されている。国の閉鎖的気質も、もとをただせば技術と知識の流出を何としてでも防ぎたいという国王側の意思が反映されているのだった。
個人の意思はどこにあるのだろう、とリスカはぼんやりと考えた。
「それにリル、君の魔力は砂の使徒でも特殊な方だ。残念ながら力量的には誇れないが、花を操る魔力というのは美しいと思う」
「……そうですか」
リスカは抑揚のない声で答えた。
「協力をしてほしい。文献を辿るばかりでは解き明かせない。魔力をしみ込ませたその血、体液を仔細に分析しなくては」
期待を込めた無邪気な目をしてワンスが微笑み、リスカの髪を一房手に取った。身の回りのことなどいつも二の次だったので、リスカの髪は今、背中のあたりまで伸びている。以前は、癖でよく髪を掻き回しぼさぼさにしてしまっていたのだが、最近はワンスが丁寧に梳いてくれたりしていたため、絡まることもなく心地のいい手触りを保っていた。髪の間をゆっくりと滑るワンスの指の感触が蘇る。魔力で使えぬ花を冠にして、リスカの頭に飾ってくれたこともあった。あの時、ワンスはどんな言葉でリスカを褒めてくれただろう。自分はとても恥ずかしがった記憶がある。
思い返せば、元々この、光を寄せ付けぬ灰色の髪は好きではなかった。益々嫌いになりそうだと思った。
ふと視線を巡らせると蝋燭や書物を乗せた卓の上に、小型の刀が置かれていた。リスカは何を考えるでもなく刀を手にとり、軽く髪をまとめて、首あたりの位置からぶつりと断ち切った。
「――どうぞ」
切った髪を、ワンスに差し出す。
ワンスは丁寧な仕草で髪を受け取ったあと、労るようにリスカの頭を撫でた。そして、髪の束を近くにいた魔術師に渡す。
「ありがとう。リル、あとで髪を綺麗に切りそろえてあげるから。そう、身体を調べても?」
身体の震えはおさまっていた。
「ええ」
リスカは微笑した。促される前に、自らの手で長衣の帯をとく。
そうだ、私は知っている、とリスカは内心で独白した。私はいつだって他人の心情を察するのに長けていたのだから。
ここで断れば、不和を招く。相手の望みが分かっているのだから、あえて逆の道を選び互いの関係を悪化させる必要などないのだ。いつだって軋轢を生まぬよう、相手の望み通りにことが運ぶよう、先を読んでうまく立ち回ってきた。
人の心には法則性がある。だからリスカは何事も円滑に進むよう、相手の望む言葉を紡ぐ。
繰り返しそうしてきたのだ。
今回だとて同じことだ。
長衣の袖を腕から滑らせ、床に落とす。
ああやっぱり、と虚ろに思った。やはりこの魔力がすべての原因ではないか。リスカがどう反応しようとも、何も変わらない。心よりも先に、魔力の質が高く立ちはだかる。真相なんてくだらない。
何のためにこの塔へ入門したのだったか。今となってはもう目的までもがくだらなく思えた。
内衣の帯に手をかけた時、ぐっと頭の奥が痛んだ。なぜなのか。リスカは理性を重んじている。自分がどう振る舞えばいいのか冷静に、客観的に見通している。それなのに、帯をほどくはずの指が動かない。不意に目頭が熱くなった。けれども死に物狂いで動揺を殺し、平素通りの態度を貫いた。
人の心の行方など見飽きた。だから自分が傷つくはずがない。
ゆっくりとした動きで内帯をとく。身体を調べられたあとは、涙を落とせばいいのか。そして血を渡し、他の体液を。
まるで見世物のようだと自らを振り返る。
そう望まれているのであれば、やはり従うのが正しいのだろう。
だからこの胸の中に生まれた感情は、悪しきもので――。
「やあ、お邪魔させていただくよ」
突然、凛と響いた場違いな声に、リスカは顔を上げた。ワンスも他の魔術師もまた、怪訝な顔をして小屋の扉に視線を投げていた。どうやら彼らの仲間ではなく、招かれざる闖入者が現れ、明るい声を発したようだった。
「取り込み中のところすまないけれどね、問答無用、反論却下、満場一致じゃなかろうと、独断で彼女を誘拐させてもらうよ」
「……何?」
リスカは、ワンスの呆気に取られたような顔から、闖入者へと視線を移動させた。
扉の前に、見たことのない少女が、影のない笑みを浮かべて立っていた。彼女の大地の色をした目が、茫としているリスカを貫く。笑顔を裏切るようにその瞳は厳しく、真剣だった。
――ツァル。
少女の正体に気づいたのは、その眼差しが最後に見た時の目と重なったからだ。何より、これほど怪しく素っ頓狂な台詞を他の誰が口にするだろうか。
「何だ、お前」
魔術師達が警戒の顔をして椅子から立ち上がった。
「私の友を踏みにじる輩に名乗る名などない。お前達の思惑などくそくらえだ」
笑みを消したツァルが低い声音で言い、次いで反論を許さぬ勢いで高らかに言霊を解き放った。
「燃えてしまえ、こんな夜!」
魔術師たちが動くよりも早く、ツァルが手近な場所に置かれていた蝋燭を引っ掴み、彼らに向かって投げた。
燃えてしまえ。そう言ったツァルの言葉通り、突然大きな炎が室内に生まれ、壁面を覆っていた黒布を燃やした。
「ツァ――」
茫然と名前を口にした時、一瞬でこちらに接近したツァルに強く腕を取られた。
「燃えてしまうのがいい、傷も無情も夜も!」
ツァルは響術師。その言霊通りに小屋が炎上する。魔術師たちが慌てふためき、壁を焼き床を舐める炎を消そうとしていた。だが消えないのだ。言霊で作られた幻の炎なのだから。しかし幻であろうと人は炎を本能的に恐れ、怖じ気づく。
と同時に、とても鮮やかな赤い炎だから、魅入られずにはいられない。
燃えて、朽ちてしまいたい、とリスカは望んだ。
この炎にまかれて全て消してしまえたら。
「おいで!」
内心の願いを叩き消す強さで腕を引っ張られ、リスカは転ぶようにしてツァルのあとを追い、小屋の外へ飛び出した。
「リル!」
背後から叫ばれて、リスカは振り向こうとした。ワンスの声だった。慣れ親しんだ、その心地よい声。
「振り向くな!」
ツァルの叱責に、リスカは一瞬動きをとめた。はだけかけている前衣をぎゅっと掴む。
「振り向く必要などない!」
目頭が再び熱くなった。リスカの腕を掴むツァルの手に力がこもっていた。
炎を吹き上げる小屋を背に、リスカは導かれるまま夜を走った。
すぐに追いつかれるだろうとリスカは思った。
束の間、視覚に騙されて炎を鎮静させようとするだろうが、彼らだとて魔術師なのだ。幻と分かった瞬間に術を解除し、こちらを追ってくるはずだった。
裏手側の塔の非常扉を通り抜け、長く広い通路を走る。時間が時間なために、人気はなく、明かりも絶えていた。冷たい夜気に包まれている通路に、二人分の足音がこだまする。
どこへ行けばいいのか、そう思いながら必死にツァルのあとを追っていた時だった。
前方にふわりと明かりが灯った。誰かが照明を持って立っている。もしかしたらツァルが作った幻影の炎をどこからか見とがめ、こちらに駆けつけたのかもしれない。そう思ってリスカは息を呑んだ。
「――何をしている?」
かけられた静かな声に、リスカもツァルも足を止めた。この声を知っている。
足音とともに、明かりもまた近づいてきた。手燭を掲げるその人の顔を見て、リスカは驚く。
「君、そうだ、思い出した。塔の貴石だ。ヒルド殿だね」
ツァルがぽんと手を打ち、相手を凝視しながら声を上げた。ツァルの言葉通り、美貌の顔に驚きを映している塔の貴石が立っていた。
「いいところで会った。上位魔術師殿に折り入って頼みがある」
「……何か?」
「実はこんなに麗しき女性である私たち二人を襲おうとする愚かな者がいてね。今追われているところなんだ。ということで上位魔術師殿、その者を成敗するか、軽く昏倒させてくれないか」
彼は、あっけらかんと物騒な頼み事をするツァルに一瞬不審そうな顔をしたが、リスカの様子に気づきわずかに眉をひそめた。
リスカは俯き、きつく前衣を握った。自分の手で途中まで服を脱いだあと、すぐに逃亡となったので、きちんと着直していなかったのだ。しかも髪も短く不揃いになっている。随分怪しい恰好と言えるだろう。
「一体何があった?」
事情を問われて当然だった。
その時、非常扉が開かれる微かな音が耳に届いた。ワンスたちが追ってきたのだろう。
「君に人の心があるならば詮索せず、私たちを逃がしてほしい」
「――無礼な言い方だね」
「嫌味ではなく、言葉通りの頼みだ」
早口で即座に切り返すツァルを見下ろした彼の目が、すぐに闇の奥へと動いた。
「行きなさい」
彼が呟き、そしてリスカの横をすり抜けた。
「行こうか」
ツァルがちらりと彼の背を見て微笑み、再びリスカの手を引いた。