花炎-kaen-火炎:30


「なんて薄情な冷たい友だろう! 私が心を痛めていても君はおかまいなし?」
「いいえ。いいえ、あなたはとても大事な人です」
「だったらなぜ、私はここに一人でいた!」
 癇癪を起こしたようにツァルが叫び、敵意さえうかがえる激しい眼差しを寄越した。けれども眼差しの強さとは裏腹な、か弱い少女の姿は、ツァルが胸に秘めている心情の在り方をそのまま示しているように思えた。
「誰もいないから、だから私は、どんどん悪意を吐き出して醜くなる。自分の形を見失う」
「ツァル」
「君は知っているのに! 私が何より恐れることを知っているだろうに」
「すみません、戻るのが遅くなりました。けれど」
「君、知っている? 私がたやすく姿を変えていると思っていたか。そんなはずはない、いつだって痛みと恐れが伴う。肉体が作り替えられる瞬間の苦痛は言葉にしがたい、最早己の原型すら分からない。女なのか男なのか、老いたる者か若き者か、一体私は何なのだ」
「ツァル!」
「ああ嫌だ、恐怖がこんなにも満ちていく! こんな魔力! ふざけている!」
 リスカは思わず、ツァルの手を勢いよく握り、引っ張った。がくりとツァルの身体が揺れた。
 ツァルは夢から覚めた様子で眼差しから怒りを消したあと、きつく繋がれた手をじいっと見つめた。
「……悪かったね、今の私はどうかしている。うまく己を制御できないのだよ。暴走する心の、なんと醜いことか。我が魂の不浄が災いだろうか」
 響術師の魔力ゆえに、発した言葉の通り姿が変化を見せる。けれど、確かな形を作れず泥土のようにぐにゃりと歪む。崩れたその姿は、いつか暗い地下牢で目にした哀れな囚人と似てしまう。
 いけない、と思った。言葉に乗った魔力が、いつか枷の力も破ってツァルの姿を本格的に狂わせる。
「何も醜くはありません。いえ、醜くてもよい。あなたはいつだって私の友です」
 遠い過去で、ツァルが他者よりもリスカの幸福を優先させると言い切ったように、否定が入り込まぬ強さで誓う。
 ツァルが地下牢の囚人と酷似した姿でリスカの胸に飛び込んできた。
「リスカ、私は柔らかな言葉を紡いでいたいのに、どうして現実に吐き出す言葉はどれもこれも穢れたものばかりなのだろうね。時には嘘でもいいから、綺麗なものを作りたい。けれども、いつか君に見せた、どこまでも平らで安らぎに溢れた楽園のような幻影を、誰も求めてはくれない。もう私の中に、一切の綺麗な何かが残っていないからだろうか」
「何があったんですか。何があなたを苦しませるんでしょうか」
 押し倒すような勢いで、リスカに身体を押し付けてくる。まるで姿の見えない恐怖から少しでも逃げようとする子供のようだった。
「――私は禁を破っている。ねえ君、私は今ね、近づかぬと誓ったはずの、血族の庇護下で暮らしているのだよ」
「血族の?」
 とっさに呟き、リスカはそれ以上の言葉を失った。魔道を選んだ者は、故郷、そして血族との接触は一部を除き、原則として厳しく禁じられている。そのために予め必要な記憶の操作をされるのだ。それが、なぜ。
「塔を出てしばらく経ったあとのことだ。身をおちつけられる場所を探していた私のもとに、血族の一人が現れた」
 リスカは黙って、ツァルの小さな肩を撫でた。
「この町から南下した場所にある、ゴズスという町。そこに血族の屋敷がある」
 ツァルの私生活を聞くのは、初めてだった。暮らしぶりを隠したがっていると気づいたのは随分前のことだ。親しい友人であるがゆえに、深く詮索する真似をおかせなかった。リスカは恐れたのだ。事実を暴いたあと、愛すべき友を失うのではと。
「斜陽貴族でね。いや、貴族というのもおこがましいよ。大金を抛って手に入れた身分だ。だがそのために破産寸前まで追い込まれていた。ゆえに――私は家族の懇願を受け入れて、この声で人を操り、詐欺紛いの悪事をいくつも働いてきた」
 ツァルが小さく笑ったようだった。
「他人を騙すしか使い道のない声なのだ、全くやるせない」
「違います、あなたの声はもっと……」
 光知らぬ暗いものを、鮮烈な美に変える力がある。その作られし美は幻と知っていても尚、胸に安らぎをもたらす。
「事実なのだよ、これが」
「事実を覆したいと思ったから、あなたはここに来たのでしょう?」
「だって、人を攫えと、そう言われたから」
「攫え?」
 強く抱きつかれた。
「この町で、不法の見世物を開くという。私の血族は一体どこで人買いと接点をもったのか。人を攫えば金を弾むと」
 リスカは表情を険しくした。まさかツァルまでもが、知らぬところで妓王の垂らす糸に囚われていたとは。
「でも見世物とされる者の末路を耳に挟み、嫌になった。――獣と身を結ばせられると聞いたから。それは、そんな真似だけは、できない」
 内心で安堵する。ツァルはぎりぎりのところで妓王の糸を逃れたのだ。加担していない。
「血族の元から逃げてきたのですね?」
「……だから、もう、帰れはしないだろう? 身内の者を裏切る行為だ、私は悪だろうか?」
 魔術師は孤独な道を選ぶ。親族と離別し、己の魔力を見定める。そこで大成せねば、あとは転落のみだ。不具の力しか宿さぬ砂の使徒ならば尚更、門は狭い。
 そんな時に、切り捨てたはずの親族が現れれば――当然、強く揺さぶられずにはいられない。二度と得られぬだろうと思っていた家族の絆を、再び結び直せるかもしれないのだ。ならば魔道を穢すくらいなんだというのだろう、そういった思いに足をとられる。
 けれども、謎が残る。
「あなたに接触した血族の方は、一体どういう方法で、消されたはずの記憶を取り戻したのでしょう」
 しばしの間、ツァルは沈黙した。
 リスカは胸中で嘆息した。
「偽者だったのですね、本当は」
 血族である、と偽ってツァルの精神に触れたのだ、その者は。
 きっとツァルだとて気づいている。それでも差し出されたあたたかな腕にしがみついてしまった。そうせずにはいられなかった。
 怒りがわく。よくもツァルの心に遠慮なく触れてくれた。許し難い。都合よく利用するためだけに、ツァルの優しさと孤独感を引っ掻き回してくれたのだ。
 塔を抜け出たばかりの時、ツァルもきっと居場所のない思いを抱いたに違いなかった。その心の隙間に、誰かが嘘に塗れた赤い舌を差し入れた。本当はあの時、ツァルとともに行動したかったのだ。けれども別々の道を進んだのは逃亡直後に二人で行動していた場合追跡されやすいからであり、その懸念がなくなるまで充分な月日を置いたあと、必ず再会しようと決めてしまったためだった。そしてリスカは、今度ツァルと顔を合わせる時はもう少し成長した己になっていようと考えていた。
 おそらくその者は、ツァルにとても優しかっただろう。本当に、家族のごとく偽りなき慈しみを注いでくれたことだろう。
 なぜなら、そう、金のなる木に等しいから、必要だ。
 炎に包まれた過去が再び脳裏に蘇る。
 偽りのない残酷な優しさ。分かっていてもそのあたたかさに負けて、抜け出せなくなる。
 ワンス、あなたは今、どこにいて、何をしているだろう。もう会うことはないだろうけれど、きっとこれから先、何度も思い出すに違いない。
「……許せません、ツァル。私はあなたに、腹を立てています」
 どこか傷ついた目で見つめられてしまった。
「その者の、幸福の延長にあなたの不幸があるのならば、私は決して許さない」
 これはツァルが言ってくれた言葉だった。
 ツァルはいつだってリスカを守る言葉ばかりを注いでくれた。それはどこまでも平らで安らぎに溢れた楽園の言葉だった。少なくとも今のリスカはそう感じている。
「その方の幸福を築くために、あなたが存在するのではない」
 あの時見せたツァルの表情の意味と怒りが、ようやく理解できた気がした。ここにくるまで何年を費やしただろう?
 リスカは友の幸福を守りたい。自分の心の中と、そしてこの世界においても、友の幸福は大事にされてほしいのだ。
「だから、あなたは逃げていいのです」
 ツァルがしばしの間、リスカの顔を凝視した。
 そして、力の抜けたように、淡く笑った。
「――うん。逃げてきた」
 
●●●●●
 
 その後、疲れた様子ですぐにツァルは眠りについた。きっと眠れぬ日々を過ごしてきたのだろう、安眠を約束する花びらを枕の下にそっと差し込み、祈りの言葉を小さく紡ぐと、ツァルの表情がわずかに和らいだ。
 寝台を貸したので、さて、リスカ自身はどこで寝ようかと首を傾げた時、重大なことに気づいた。閣下様。
 熟睡しているツァルを確認したあと、そうっと部屋を出る。ちなみにシアは、好きなだけリスカの髪をぼさぼさにしたことで溜飲をさげ……いや、寛容な心で機嫌を直したらしく、「まかせて!」という感じでツァルの枕元に降り立ち、護衛をしてくれるようだった。必要はないと思うが、念のためだ。
 明日はシアの好きな木の実を用意しようと感謝しつつ、足音を立てないよう注意しながら居間へと移動する。
 居間には、既に身を清めたセフォーがいて、一人晩酌をしていた。いや、飲んでいるものは酒ではなく白湯だったが。
 恐る恐る近づくと、ちらっと見られた。
「あの……」
「今、私は不機嫌です」
 愛想笑いを浮かべて話しかけた瞬間さくっと鋭く先制され、リスカは気絶したくなった。その不機嫌はまさか殺意に繋がっていますか、とまるで習慣のごとく失礼千万な台詞を胸中で叫んでしまう。
 痛みすら伴うような焦燥感に苛まれつつ、水滴を垂らすセフォーの髪を見つめた。身を清めたのはいいが、ちゃんと髪を拭かないと、身体を冷やしてしまうのではないだろうか。
「疲れました」
「は、はい」
 そうですよね、悪魔の力と戦ったのだから疲れるはずですよね、とリスカはもともとぼさぼさな髪を更に乱す勢いで、必死に頷いた。否定の気持ちは微塵もない。
「悪いと思ってますか?」
「思ってます!」
 即答する以外の選択もない。
「あなたのせいです」
「そんなっ……いえごもっともです!」
 やはり逆らえない。軟弱である。
 ひとしきり苦悩していたら、微妙に険を含んだ真冬の眼差しで見つめられてしまった。頭からぱりっぱりに凍り付いてしまいそうな威圧感である。
 それでも、この数日よりは距離が近づいている、と安心してしまった。
「いいです」
「は」
 何でしょう、閣下様。
 それにしても私たちの会話は何か色々と間違っていませんか。再会の喜びもその他複雑な感情も見事に全て蹴り飛ばしてませんか、この戦慄がくせになったらどうしましょう、とリスカは胸中で滔々と語った。己の心の中だけでなら、いくらでも雄弁になれるリスカである。
「休養したいのでしょう」
「えっと」
「今回の騒動がありましたから。しばし町を離れた方がいいでしょう」
 リスカはきょとんとした。
「騎士の別荘」
 と言われて、ようやく話の内容を悟った。
「仕方がないのでつき合ってあげます。どうせあの騎士は余計な者も招いている。あなたも響術師を誘えばいいでしょう」
 随分生意気そうな……ではなく高圧的な……いやいや、随分譲歩してくれた言葉がセフォーの口から飛び出した。
 つまり、以前にいただいたフェイの誘いを受けろと仰っているのですか。
 フェイのあの誘いはまだ有効なのだろうかとつい現実的なことを考えてしまうリスカだった。
 更に現実を考えれば、確かにセフォーの言う通り、一連の騒動に決着がつくまではしばしこの町を離れ、どこかに身を隠した方がいいように思える。なぜかというと、その、セフォーは先ほど騎士たちの前で剣を振るって目立っただろうし、リスカもまたジャヴと行動し、花苑の方で軽く館の者を驚かせている。
 何しろセフォーなどは悪魔と知り合いなのだ。もし、事件との繋がりに気づいた騎士たちにこの点を追及された場合、監禁、捕縛……されるならばまだいい。逆にセフォーが身に降り掛かる面倒を厭うて騎士たちを問答無用に抹殺する危険がある、などと再び無礼な発想をしてしまった。
 本当の事情はフェイのみに打ち明けることにして、ここは騎士たちの安全のためにも、しばし逃げた方がいいのだ。
 あ、何だかこの状況、いつぞやの時と激しく似通っているような気がする、とリスカは虚空を見つめた。
 まあともかく、こういうことなので、フェイによくよく頼み込んで別荘に泊まらせてもらおう、とリスカは現金な考えを抱いた。おそらくフェイには、いい迷惑であろう。
 と、結論を出して人心地ついたリスカの様子を眺めていたらしきセフォーが、なぜか眉間に皺を寄せた。
「私はあなたのせいで、寛容にならざるを得ない」
 セフォーの口から「寛容」という言葉が飛び出したことに本気で戦いたリスカだった。
 寛容ってどういう意味でしたっけ、と口に出せばまず命はないだろう、失礼な問いを内心で紡いでしまった。だがしっかりと目に表してしまっていたらしかった。室内の温度が確実に下がった。
「殺めるのが一番早いのに」
「ひ」
「けれどそうすればあなたが泣くだろうから。私は本当に、嫌になるほど我慢しているのです」
 だから褒められてしかるべきだ、という大層ふてぶてしい顔をされてしまったが、リスカはもう既に気を失いかけていた。一体誰を始末したがっているのか、この真意だけは絶対に聞いてはいけないだろう。
 おかしい、先ほどまでのリスカは自分の過去とツァルの事情、その他諸々の出来事に激しく心を痛め、荒んでもいたはずなのに、全てがこの場で強制的に浄化されかかっている。
 よろめいたリスカの頬に、セフォーが触れた。身を支えてくれるのかとおもいきや。
「ぐっ」
 なぜか結構な力で頬を引っ張られてしまった。何の嫌がらせですかセフォー。
 情けない意味で泣きそうになったリスカを冷たく見下ろしたあと、閣下様はなんと、つんっと腹立たしげに顔を背け、さっさと居間を出ていった。
 リスカは茫然としつつ、赤くなった頬をさすり、長く項垂れた。
 
●●●●●
 
 その後である。
 リスカがフェイに直訴というか、いやいや直談判……ではなく直接頭を下げにいかずとも、彼の方から先に使者を寄越して「早急に町を離れ、しばしのあいだ身を隠していろ」と命じてきたのだ。
 詳細な事情の説明はなかったがのちほどフェイも合流するとのことだ。
 使者から旅費と別荘地までの地図を渡された。気前よく荷馬車も用意してくれているらしい。
 この準備の迅速さは、勿論こちらに対する親切心も含まれているだろうが、やはり現実的な対処の意味も隠されているはずだった。炎上したティーナの屋敷で、フェイもおそらく、水を操る妓王の姿を目撃しただろうと思う。屋敷炎上時までは、まさか花苑で噂の美妓が高位悪魔だとは考えていなかったはずだ。というのは、ここ最近までセフォーが、足しげく妓王のもとに通っていたためである。フェイはセフォーの顔を知っているし、リスカの護衛をつとめているというのもまた然りだ。花苑の方に足を何度も運んで調査していたというのなら、当然妓王の横に立つセフォーの姿を幾度か見かけたことがあるはずだった。現に、騎士の調査に協力していたジャヴやエジだとて知っており、それがために軽くからかわれたのである。
 人を揺さぶるのが好きなジャヴとは異なり、なかなか気遣いのできる面を持つフェイはたぶんリスカに対する配慮で、この事実を知っていても告げ口するような真似をしなかったのだろう。というより、既婚であろうが独身であろうが男が花苑に通うのは別段珍しくもないので、わざわざ告げる必要などないと思ったのだろう。
 また、セフォーが恐ろしく強いということも、フェイは身にしみて知っているはずだ。何しろ以前、彼の目の前で殺戮の宴が開かれたのだから。――話は少し脇道にそれるが、この時、よくフェイはセフォーを恨まなかったと思う。当時、確かに彼一人殺されずにはすんだが、それでも教会と屋敷の広間で部下の騎士を数多く惨殺されたのだ。いや、彼はあの場にいた騎士達を仲間と認めていなかったのだったか。騎士達の一部は権力を得るべく、欲に塗れて伯爵を担ぎ、無害な人々を虐げていたのだった。確かな証拠を掴むまではと考え、彼らの身勝手な行動を内心忸怩たる思いで見逃していたのだろう。当時のフェイがえらく投げ遣りで荒んでいたのを思い出す。
 などとどこまでも脱線してしまったが、ともかく、こういった壮絶な理由により、セフォーの力量が半端ではないと骨身にしみるくらい理解していると思うので、まさか、馴染みの妓と映る妓王が悪魔で尚かつ一連の事件の真犯人だとは予想していなかった可能性が高い。ただ、炎上する前の、見世物が予定されていた屋敷内にセフォーは妓王とともにいたという。この時、もしかしたら二人で行動している姿を発見し、事件に関わっているのかと疑い警戒したかもしれない――真相を暴露すれば、セフォーは惚れていたのでも事件の関係者だったわけでもなく、妓王が際限なく暴走せぬよう側にいて牽制していたのだが。
 どちらにせよ、妓王が悪魔であるという事実だけは最後の時まで気づいていなかったはずだった。
 けれども状況は、屋敷の炎上時に一変した。
 リスカより早くフェイ達のもとへ赴き援護に回ったジャヴもまた、水を操り獣を解き放つ妓王を目撃したはずだ。ならば妓王が高位悪魔イルゼビトゥルだとすぐに気づいたはずである。何しろ、その直前まで礼拝堂で苦戦させられていたのだ。
 そしてフェイに、セフォーと悪魔に何らかの事情が隠されていると報告したに違いなかった。悪魔の仲間だとは思われていないだろうが、少なくとも目をつけられている、という話くらいはしただろう。
 これらの事情を鑑みれば、少しのあいだ、複雑な事情を後回しにしてでもまず、リスカに、というよりはセフォーに、町から離れていてもらいたいと彼らが考えて不思議はないのだった。
 イルゼビトゥルの性質は実に厄介である。その心理も言動も、決して人の思惑では理解できない。気紛れな悪魔がいつなんどき悪戯心をおこして町に現れ、セフォーに手を出すか全く予想できないのだ。セフォーが町に残り、そして再び悪魔が出現すれば、今度はそれこそ全く無関係な人々を巻き込み、多くの犠牲を出してしまうかもしれない。
 ゆえに事情聴取や何やらの問題を一旦棚上げし、町から離れひとけの少ない別荘地へ移動せよと言っているのだろう。
 無論、悪魔がこのまま沈黙するのならばそれにこしたことはないのだが、万が一出現しても、標的となっているリスカやセフォーが別荘地移動後だったら他者を巻き添えにせずにすむ。
 ということで、こちらも望んでいたのだし、町の者にも迷惑をかけたくはないのでいちもにもなくリスカはその申し出を受け入れ、慌ただしく荷物をまとめて出発したのだった。
 危険が及ぶ可能性もあるのでツァルには無事な場所へ行ってほしかったのだが、遠回しにそれを伝えたら本気でいじけられたので、結局同行してもらう運びになった。
 それにしても……この分だと冬を無事こしても町に戻れないのでは、と馬車に揺られる途中、何度も考え遠い目をしてしまった。人生とは、先の見えないものである。
 
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 およそ一週間をかけてようやく辿り着いたハルグラムは、先に聞いていた通り、とても静かな自然の多い地であった。
 季節が夏であれば、密生する草花や木々の豊かな緑が見られ、大いに目を楽しませただろう。フェイの別荘がある場所はとくに静かで、見える範囲には屋敷の類いが存在せず木々が群生していた。少し先には小さな湖もあったが、その水面は今、冷たい大気にさらされて薄い氷の膜に覆われている。
 生活用品が不足した時には人家や店が建っている場所までいかねばならぬが、そこまでは徒歩で一刻以上の時間を要するという。確かにこれだけの距離があれば、他者を巻き込まずにすむだろう。
 しかし、とリスカは荷馬車を降りて屋敷の外観を見つめ、首を傾げた。しばらくのあいだ使用されていなかったというが、屋敷のまわりは綺麗に整えられている。使用人を常時置いて管理させていたのだろうか。
 門はつくられていないが、それでも立派な屋敷であることは間違いない。石造りの薄灰色をした外観で、尖った屋根を持つ。三階まであり、露台が広く設けられていた。周囲の静寂と相まって、どこか幻想的なたたずまいを見せている。
 少しのあいだ見とれていた時、屋敷の前扉が内側から開かれた。やはり使用人がいるらしいと納得し、荷物をおろしているセフォーやツァルを横目で見ながら、挨拶をしようと使用人の方へ近づいた。
 なぜか使用人は、隠者のごとくに長い外套を着込み、頭まですっぽり覆っている。
「あ……」
 使用人がリスカの前に立ち、丁寧に頭をさげたあと、ようやく顔を見せた。
 リスカは瞠目した。
 ――顔に大きな傷を持っている。いや、傷というよりも爛れた痕に見える。
 不意にフェイの言葉が脳裏をよぎった。以前、一度は別荘地への誘いを断ろうとしたことがあるがその時フェイは、どこか楽しげな表情で、返事は少し待て、と言った。たまには術師よりも秘密めいているのもいいと。
 こういうことだったのか。
 この使用人は、地下牢に監禁されていた者なのだ。
 フェイは地下牢から解放された者を何名か保護したと聞いた。けれども、地下牢で長く虐げられていたため、身体に大きな損傷があったり心にも傷を負った者が多い。人の多い場所で暮らすのは苦痛となり恐怖と感じる者もいただろう。ゆえにその傷を癒すべく、彼らをこの静かな地に連れてきて匿ったのだ。
 自宅に戻った時にセフォーが口にした「騎士は余計な者も招いている」という言葉も、きっと彼らのことをさしていたに違いなかった。
 リスカは微笑んだ。
「しばらくの間、お世話になります」
 リスカの言葉を時間をかけて理解したらしく、その者は目を和ませてもう一度、深く頭を下げた。
 
 
 この別荘にいるのはどうも全員フェイに保護された者であるらしい。全員、といってもリスカと会ったのは四名のみだ。
 中にはリスカたちの姿を見て怯えた態度を取る者もいたが、どうやら最初に出迎えてくれた者がいわば皆の責任者で執事の役も担っているらしかった。
 荷物運びを手伝ってくれ、まずはリスカたちをそれぞれの部屋に案内してくれる。部屋は既にあたためられており、清潔を保たれている。リスカは一番に部屋へとつれてきてもらったので、その後彼はセフォーたちを案内すべく出ていった。
 一人になったあと、リスカは荷解きをするのは後回しにして、室内を眺めた。中央部には白い毛の敷布の上に長椅子と花模様が描かれた小卓があり、壁に大きくつくられた窓の側には飴色の揺り椅子が置かれていた。高さを持つ雅な衝立の向こうに寝台があり、衣装棚の類もそちら側につくられているらしかった。壁面を飾る皿の模様が鮮やかで、目を楽しませる。
 華美すぎない装飾が気に入った。とはいえ、一つ一つの調度品はおそらく飛び上がるほど高価なのだろう。
 壁際に寄り、吐息を落とす。窓の向こうには白い空が広がっていた。雪がちらちらと降り始めている。
 この別荘で匿われている四名の中に、ミゼンはいなかった。
 それが少しやるせない。無事だといいのだが、とリスカは胸中で呟き、儚い粉雪を落とす空を見つめた。



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