花炎-kaen-火炎:32


 威を宿す銀色の瞳に見据えられた。セフォーが語り始める。
 リスカは瞠目した。心の強張りを溶かすような美しいその旋律を、頭で理解することができない。
 古代文字よりも貴重な、祖の神々が操る言葉と言われている神閤文字をセフォーは紡いでいるのだ。世にちらばる高名な魔術師たちの中でも、神の言葉とされている神閤文字を理解している者は少ないという。だからこそ――その旋律の中に、鮮やかな幻が生じる。いや、神の言葉が力の確かさをもって、幻を作り出す。
 過去という名の幻が、リスカを圧倒した。
 
 
『どう生きる。欲と美を味方につけて身を売るか、それとも力と無情を友として戦うか』
 どちらも大した差異はあるまい。しかし高き望みがあるならば、いずれ立身できよう。未来の行方など所詮は己次第。
 彼を見下ろしながら、赤黒い顔をしたその男は腹の肉を揺すり、存外人のよい目をして豪快に笑った。
 
 
「……戦士となる道を選んだのですか」
「剣奴の子として生まれたので」
 幻影に見入りながらも思わず口を挟んだリスカに、虚空へと視線を投げていたセフォーがこちらを向き、通常の言葉で返答した。唐突に幻影が消滅し、リスカは激しく瞬いた。
 我に返ったあと、繋がれたままだったセフォーの手を見る。剣奴。この人は奴隷の子だったのか。
 戸惑っていると、セフォーが緩慢に上体を起こし、リスカの手から指を引き抜いて気怠げな様子で髪をかきあげた。更なる説明を求めるリスカの視線にどうも観念したらしく、再び過去を語り始める。
 だが、美しき響きを持つ神閤文字を操るのはやめたようだ。セフォーのことだからおそらく最初は、わざわざ詳しく語るよりも、神の言葉に引き寄せられて生まれる幻を見てもらった方が早いと考えていたのかもしれなかった。
 端的言葉で淡々と綴られる過去の書。それはリスカにとって、不謹慎な言い方だが随分興味深く、謎に満ちている話であった。
 剣闘士競技。海の果てに存在する遠い国の王が、貴人や民たちの娯楽のためにと称して始めた、おおがかりな血腥い催しものだ。いや、市民の目から政治の闇を隠すため、また機嫌を取るために用意された見世物だ。闘技場で剣奴同士、あるいは禽獣の類いをどちらかが命を落とすまで戦わせる。刺激に飢えた観客を満足させるような、華々しい勝利をつかみ取った者には相応の褒美を。敗者には容赦なく血塗れの死を。
 端的かつ前後の脈絡なく飛躍するセフォーの話を、密かに苦心しつつなんとかまとめてみる。どうもセフォーは、褒美として剣奴にあてがわれた奴隷女の身から生まれたらしい。それもなんというか、平和な生まれのリスカには正しく想像しきれぬ波乱に満ちた誕生であるが、実際、そういった経緯で産み落とされる赤子は少なくなかったようだ。当然、身分などなきに等しいので、成長した子供の大半は剣奴となるか、見目が麗しければ性奴となる。
 幸運なことに、セフォーはすぐに剣士として頭角をあらわした。祖の血がここで一気に花咲いたというべきなのか、剣術師としての能力が幼き頃から身にあらわれたのだ。着実に戦勝を重ねていき、名をあげていけば、やがて貴人の目にとまり、いつ命を落とすか分からぬ剣奴の立場から解放されて身分を得られる。
 そして若きうちに、騎士軍の上部にまでのぼりつめた。これは破格の昇進であっただろう。
 おそらく、伝記となった強烈な一文は、国々が争いを繰り返すこの時代に生まれたのではないか。破壊を好む戦場の王。孤高にして強靭、苛烈。骸の椅子に座る死神閣下。
 ともかく、そうしてセフォーは命じられるままに敵国と干戈を交え、見事な不敗の記録を作った。けれども、次第に飽いてきたらしい。命のやりとりに飽くというのも凄まじい話だが、物心つく前から血の匂いを嗅ぎ、人が容易く死していく様を見ていれば、恐怖や躊躇いなどの感情は麻痺してしまうのかもしれない。
 しかし、とセフォーが言いよどんだ。
「恐怖を見た」
 戦場に築いた屍の山で――悪魔と会ったのだ。
 高位に匹敵する獣型の悪魔だったという。ただの獣でもなく、人でもなく、狡猾な知恵を宿す強大な存在だ。たとえ不敗の王と言われようとも、それは人間界での話にすぎず、相手が悪魔であれば勝手が違う。初めて味わう恐怖は、我を奪う。
「恐怖を味わい、それを恥と取るよりも、怒りを覚え……」
 死を遠ざけたいと感じた。胸を突き破るような激しさで、感情が暴れる。
 だが、上位の悪魔の殺し方など、当時のセフォーは知らない。恐怖をいかに克服するか。生き抜くためには何をするか。
 そう考え、けれどどこかで諦めも抱いた時だ。
 別の悪魔が現れた。上位悪魔の主というべき存在だ。
 それがイルゼビトゥルだった。
 高位悪魔に唆された。
「食らえと」
 セフォーが過去から目を逸らし、今この場に存在するリスカの手を再び取って、自分の唇に押し当てた。
「私の身は既に、血肉を失いすぎていた。このままではいずれ死ぬ」
 だから、上位悪魔の心臓を奪え。
 リスカはその言葉を聞いたあと、わずかに身を震わせた。
 そうなのだ。ここで理解できたことがある。砂の使徒だというわりには、なぜかセフォーは多彩とも呼べる能力を持っていた。通常、剣術師であるのならば、他の力は宿さない。それに、己の身を無機である剣の形へと変貌させるなど、最早、悪魔の術ではないか。そもそも魔剣とは、悪魔の魂が形を変えたものなのだから。
 以前、ジャヴが危ぶんでいたのは、このことだったのだ。人の域を踏みにじっているのではないか。
 踏みにじっていたのではない。超えていたのだ。
 リスカは息を呑む。
 まるでセフォーも、人と魔物の混種であるようだ。
 イルゼビトゥルとの関わりもここにあった。その後セフォーは悪魔と同行する。新たに得た能力を自在に操れるまで。いや、その言葉は建前だ。きっと美しく残忍なこの悪魔に魅入られた。それが何よりの理由だっただろう。更に言えば、剣奴として見世物にされる日々を送っていたのが、今度は逆の立場に回っている。悪魔の配下についてもなんら咎める心はもたなかったのだろう、なにせ閣下は人世に固執していないのだ。
 だが、やがて――再び飽く。
 時間をかけて腐りゆく果実のごとく人の心を忍びやかに狂わせる、そういう陰湿な遊びを好むイルゼビトゥルとの暮らしにも、命のやりとりにも、目新しさを感じなくなる。
 今度こそ、消せぬ倦怠に身をおかされる。
 それでイルゼビトゥルと決別し、打ち捨てられていた神殿にて、己の身を封じ、魔剣として長い眠りにつく。
 どのくらいの歳月が経過したのか、ある日、盗賊が神殿を荒らした。魔剣の状態で他国へと運ばれ、そして――。
 意識を浮上させても、人型には戻れなくなっていた。長い歳月の中で、魔力が枯渇していたのだ。
「あなたと会いました」
 そうだった。店を盗賊に荒らされて雑木林の中を逃げ回っていた時、魔剣の状態だったセフォーと出会った。というよりも、拾った。
 あまりに美しく鋭利な魔剣だと思ったから死なせるのは不憫になり、治癒の花を探したのだ。
 ああ、そういえば、あの後人型を取り戻したセフォーはすぐさま屍を作り……とリスカは思わず深刻だった空気を消して束の間虚ろな目をした。
「人の部分が死に、悪魔の芯だけが残るのかと。その考えが、再びの恐怖を生んだのです」
 セフォーが淡く笑った。これまで味わった恐怖とは差異がある。自我が悪魔の血におかされるという恐怖。
「だから、魔力を渇望した。その願いは叶えられた。柔らかな癒しを注ぐあなたが、何より美しく見えた」
 リスカは絶句し、つい反射的にセフォーの手を放り出して仰け反った。
 色々と詳細な記憶が蘇る。まるで暗殺請負人のごとき白づくめの危険人物がリスカの部屋に侵入していて、最早絶体絶命、自分の命もここまでかと心底恐怖を抱いた日のことが。確か、怖れるあまり言語能力まで壊れ、水責めやら生皮を剥ぐやらといった壮絶な殺され方を予感したのだった。うむ。
 ところがそんな、眼差しの威力も気配も壮絶で氷河のごとき冷酷さを宿す暗殺者……ではなくきらびやかな銀づくしの閣下様は、非情な殺害宣告ではなくなぜか突如として詩的な端的言葉を発したのだ。大地を潤す雨のように、術が美しかったと。
 し、しかし、脅迫の方がよほど相応しそうな抑揚のない声音で語られたので、素直には喜べなかった気が。
「あなたが、人である私を生かしました。だから、あなただけが私に勝つ」
 獰猛な獣……いやいや銀髪の閣下様が、楽しげに唇を綻ばせ、なぜか手近な場所に転がっていた丸い座布団をぐりぐりと弄んだ。もしや照れ隠しだろうか。リスカは見蕩れるよりもまず、ひ、と叫びそうになった。大概失礼な反応であるとは分かっていたので、辛うじて堪えたが。
「私の過去など、面白味はなかったでしょう」
 いえ面白味どころか、やはり想像通りの凄まじい内容でした、とは正直に言えぬリスカである。同情、慰め、共感、憧憬、嫉妬といった、そういう普通であれば抱くだろうはずの感情がなぜか芽生えない。いや、芽生えるまえに、意識が霞む。
 おそらく今の話、別の者が語っていれば、リスカはもっと感情豊かに嘆いたり驚愕したりと、様々な反応を見せただろう。ところが我らがセフォー様の過去なのだ、最早ちょっとやそっとのことでは激しく驚かなくなっている。むしろ、平和な家庭で健やかに育ちました、と聞いた時の方が仰天するに違いない。そういう意味では閣下様、えらく損をしているなあ、とリスカはつい微笑んでしまった。
 場違いな微笑を浮かべたリスカに不審を抱いたらしいセフォーが訝しげな目を向けてきた。
「いえ、なんというんでしょうか。過去というのは」
 リスカはそこで一旦、言葉をきった。ふいに緊張の糸がほぐれたような心地になり、思考が飛ぶ。
「決して過ちだけではなく、また醜いだけではないのかもしれないと」
 そうなのだろう。
 過去というのは、案外、重くないのかもしれない。気の持ちようで軽くできる、というべきか。
 リスカはずっと自分の過去が誰かの手で無造作に暴かれるのをおそれてきた。その惨めさと愚かしさゆえに、誰にも知られたくないと思い、まるで大罪であるかのようにおそれてきた。
 けれども、セフォーに知られてしまったあとでは、なんてことはないと安心感すら抱いている。むしろ、今までなぜこれほど大仰に怯え、隠してきたのだろうと自分に呆れる気持ちさえ芽生えている。
 過去とはこういうものなのだ、とリスカは再度納得した。己の過去だからこそ盲目になって必要以上に深刻に捉えてしまい、世の終わりのごとき辛さを感じてしまう。ある意味、自己に対する過度な憐憫ともいえる。他者からすればきっと、実際の過去での出来事についてよりも、その過去に引きずられていつまでも鬱屈し足踏みしている現在の姿の方がよほど滑稽で、いかんともしがたいものだと思うのではないか。
 リスカはもう一つ、得心する。ジャヴのいう通り、確かに他者と関わるのは、己を成長させるのかもしれない。こうして話をすることで、随分気が楽になる。過去が呼ぶ声は、決して恐るべき魔物の咆哮ではないと、理解できる。そう、過去が重かろうが軽かろうが、大丈夫だと己を鼓舞し、未来に突き進んでいけるだけの余裕を抱ける。
 誰かと関わり心を分かち合うとは、こういうことなのだろうか。
 つい笑みを深めた。
 まあ、比較するのはどうかと思うが、それでも、自分とセフォーの過去の大きな違いにやはり何か感慨のような念が芽生えた。なんというべきか、よっぽどセフォーの方が凄絶な日々を過ごしてきているというのに、そこで不満を鬱積させるでも嘆くでもなく、まるで小雨に降られた程度というような、気負いのない飄々とした態度をごく自然に見せているのだ。更に言えば、特に嫌悪も否定もしていない。こうまで違いを見せつけられると、いっそ清々しい気分にすらなる。
 参ったなあ、とリスカは内心でひとりごちた。炎に囲まれていたリスカの過去を、なんとも軽く叩き潰し、無理矢理浮上させてくれるのだから、本当に計り知れない人だ。
 たえずもたもたし空回りして自滅するリスカには、ちょうどいい強引さなのかもしれなかった。
 うむ、とつらつら考え、一人頷いていたら、何を誤解したのか、セフォーが座布団をぐいっとリスカに押し付けてきた。何の嫌がらせですか、閣下様。
「あなたを恐れさせるのは、おそらく私が食らった魔の部分ですね」
「ぐ」
 そ、その部分はあまり深く考えないようにしていたのだが。言葉通り、心臓を食らったのだろうか、とかなんとか、いやいや想像するのはやめた方がいい。絶対にいい。
 とっさに視線を思い切りそらしたら、手加減なしに髪を引っ張られた。痛いですよ、本当に。
「無理に飲み込んだ魔の力、これが残忍さを求める、という部分もあるんです」
「ひっ」
 途轍もない存在だ、とリスカは改めて認識し、頭を抱えたくなった。今更だが、なぜ自分の周囲には、波乱に波乱を重ねたような生を持つ者が多いのだろう。
「恐れさせたくはないから、言わずにいたのですが」
 でも閣下、知る前から既に色々と恐怖を感じていたので、そのお気遣いは、ある意味無用だったような……と本音を正直に告げた場合、この場で逆鱗に触れ、抵抗の余地なく駆除されそうだ。
「不思議なものです。過去を容易に語れぬということが、罪のない日常においてでも口を重くする結果になるとは」
 失礼ではあるが、驚いてしまった。泰然としているように見えたセフォーでも少しは自分の過去に悩んでいたのか。
 といいますか、久しぶりに長めの言葉を発しましたね。それに、たとえ平穏に満ちた日常の中であってもセフォーの言葉は大半が端的でしたよ。これはもう口が重くなるという以前の問題で……と調子に乗って遠慮なしに反論した場合、やはりこの場で消滅を望まれそうである。
 妙に気忙しく冗談を言いたくなるのは、こちらの過去を見るばかりではなく己の過去も打ち明けてくれたことに対して、たぶん喜びを感じているためなのだろう。先ほどセフォーが微妙に照れた気配を発した理由がなんとなく理解できた。面映いのだ。
「よく分からないのですよ。私の歩んだ道は、いずれも争いばかりです」
 セフォーがふっと視線を暖炉へ投げた。
「ゆえに、平穏時の、他愛もない話というのが、分からない。人は穏やかなる時に、何を話すのでしょうか」
 そんなことを本気で戸惑い、恥に思うのか。
 戦い、殺す。女と寝て、眠る。人であった頃は単調ともいえる日々を、疑うことなく淡々と送っていたという。その不穏で退屈な生活に、他愛のない会話は必要なかったのだと。むしろ、弱き者の方が饒舌であったから――。
 そして悪魔との日々も、新鮮に映ったのは初めのみで、大して差異など見られなかったのだと。退屈ならば、殺す。それだけなのだった。
「一体、あなたは、私が何を語れば、喜ぶでしょう」
 セフォーの言葉に、リスカはゆるりと視線をあげた。
 この人はどこか自分に似ている部分がある、ととっさに思ったのだ。
 だから追いたくなったのか。身体も心も考えも、対極にあると言いいたくなるほどまったく違うはずなのに、重なる部分が見えるから?
 話がしたい、と強く思った。
「……セフォー、端的でもいいですから、たくさん話をしましょう。他愛ないことでもいいのです。空が青い、星が輝いている――そういう、意味のないような言葉でも、なんでもかまわないから。そうしたら私は、空の青さを喜び、星の輝きを讃えるような言葉を、きっとあなたに返します。こうして少しずつ声に言葉を乗せ、共感を求めたり、互いの違いに感心していきましょう。やがて言葉は増えていく、青い空にはあたたかな地を目指して飛ぶ鳥の羽根が広がり、星が輝く空には澄んだ水で磨かれたかのような清らかな白い月が映り――視界は開け、語る言葉が増えていく。つまらぬ会話に思えても、いつか遠い未来でふと思い出した時、穏やかで満ち足りたやりとりだったと、そう幸せを抱けるかもしれない」
 セフォーがぱちりと瞬きをした。不思議そうな顔だった。
「私が喜ぶような、あるいは楽しいと思うような会話をしなければ、と無理に言葉を生み出さなくていいのです」
 リスカは頭の中で言葉を整理するよりはやく、先を続けた。
「嬉しいのは、きっと、私が嬉しいと思うのは、偽りであっても真実であっても、あなたが話したいと感じたことを口にされることです」
 リスカはそこで息をつき、暖炉の中の炎に視線を向けた。炎は悪魔の術だという。けれども今ここにある炎はなんて優しく、あたたかいのだろう。
 リスカはちょっと胸をおさえた。奇妙な具合に鼓動が強くなっている。
 まだ明瞭には見えていないが、自分は今、何かをようやく掴めたのではないか。
 ああいけない、理屈で片をつけてはいけない。無理に自分の心を解明しなくてもいい。
「私も、よく分からないから。穏やかな時にどんな話が相応しいのか、分からないのです。だからきっと何度もぎこちなくなり、あなたを閉口させるかもしれません。それでも、努力とはまた別のところで私と言葉をかわしてはもらえませんか」
 リスカは次第に動揺してきた。話にとりとめがなくなってきている。
「ああ、つまり、その――私のために、時間を無駄にしてもらえたら嬉しいんです。というのも、『会話すること』、それが無駄かどうかを判断するのはただ気持ち一つだけでしょう?」
 リスカは己の狼狽ぶりを隠すために、意味もなく髪をわさわさとかき上げたり、頬を撫でたりした。セフォー相手にこれだけ話をするなんて、今日の自分はかなり健闘しているのではないかと胸中で誇ってみる。
「リスカさん」
「はい」
「要するに、あなたは私といたい?」
「そ、そういうことだと思います、たぶん」
 さすがは閣下様、脈絡も整合性も吹っ飛ばして、口にするのはなんとも気恥ずかしい願いをすぱっと口にする。
「それもわからない。会話の筋となることをなぜ遠回しに表現し、むやみに広げる必要が? 今の話も一言、ともにあれ、と言えばすむでしょうに」
「……ねえセフォー、人の心というものはなかなか複雑なものでして、確かに一言で容易く言い表せるはずなのですが、それを実際口にするのはえらく労力といいますか、覚悟が必要になるといいますか、いやいや羞恥などもありまして、素直には言えず、つい婉曲な言葉を選んでしまうのです」
 セフォーがわずかに不満そうな顔をした。なんて顔をするのかと、つい笑いそうになった。
「ええと、婉曲に表現するのは、ただ逃げのためだと決められないこともあります。なんでしょう、直接的ではなく柔らかく表現することで相手を傷つけずにすむ場合も多々あり――それに、一言だけでは不安にもなるでしょう。正しく伝わっているのか悩み、言葉を多くついやすことも。その他にも色々と思惑が隠されていたりしますね」
 リスカは遠い目をした。確かに先ほど、どんな他愛ない会話でもいいからしようと持ちかけたのだが、なぜこんな説明に終始した内容の話になっているのだろう。何かが間違っている気がしなくもない。
「そういうものでしょうか」
「ええ、たぶん」
 不服そうである。
 リスカは乾いた笑みを作った。
 閣下様、表現過多になる理由の一つには、その人とともにいる時間をできる限り引き延ばしたいから、という健気なものも実はあるんです、とはなかなか言えない。いやこれは、言えぬというよりも、気づいてほしい、という類いの願いに入るのではと思う。
「よく分かりません」
「そ、そうですか」
 閣下様どうしてですか、私今途轍もなく責められている気がするのですが、とリスカは内心で訴えた。もしや、分からないのは私のせいだとお思いですか。
「面倒です」
「ぐ」
 おかしいですねセフォー、先ほどあなたは何を話せば私が喜ぶのか、と神妙に聞いてくださった気がします。しかし、もう会話が面倒になっているのでしょうか。まさにこれが泡沫の努力、などと失礼な感想を抱いた。
「不安も何も、直接聞いた方が間違いないでしょう」
「いえ、ええと」
 本当におかしいですね、私の話を聞いてくださってましたか、と少しばかり問い掛けたくなったリスカだった。
「私は己より、あなたの喜びを重んじると言っているのです」
「ひ」
 えらく傲慢そうにそう言われたため、申し訳ないが喜びとは程遠い別の感覚に襲われた。これほどふてぶてしく容赦のない譲歩があるだろうか、いや、ないはずだ、というより譲歩の形をとっているが中身は強制に近い、いわば詐欺の常套句ではないか、とリスカは胸中で断言した。しかし口には出せない。軟弱だ。
 駄目である。閣下様に普通の感覚を求めてはいけないのだとしみじみ理解した。
「大体、あなたは言葉に頼りすぎる」
「ひぃ」
 なぜだろう、やはりリスカは確実に責められている。
「そういうのは」
「はい」
 セフォーが片手を床につけ、わずかに身を乗り出した。獣が獲物を狙う瞬間のような――と思わず考えて身震いしたリスカである。
「色気に欠けると思いませんか」
「はい……はい?」
 謝罪の準備万端、という情けない姿勢で聞いていたリスカは、ぎょっと目を見開いた。
 わずかにこちらを見上げるような体勢をとったセフォーが、ちょっと楽しげに唇を綻ばせた。蛇足だが閣下様の銀髪はもみくちゃである。
「言葉だけが喜びではないでしょう」
「セフォー、あの」
 突然、とんと、肩をおされた。慌てて体勢を整えようとしたら、すぐに阻止され、抵抗する間もなく押し倒された。猛獣にのしかかられた、と真面目に表現したくなった。
「会話が必要ない時は、どうします?」
 後頭部を床にぶつけ、その痛みに内心で暴言を吐いていたリスカは、つい茫然とした。こちらを見下ろすセフォーは、いつになく楽しそうだ。それはいいのだが、一体この体勢は、と冷や汗が滲む。
「特にあなたのような人は、婉曲表現など意味がないと思うのですが。ただ事実から遠ざかるだけです」
「あのっ穏やかなる時に何を話すのかという会話でしたよね」
「リスカが嬉しいのは、私が語りたいことを口にした時だと」
 今すごく屁理屈の空気を感じましたよ。
「だが、あえて語りたくない時も、あるでしょう」
「え?」
 くくっとセフォーが笑った。目の錯覚だと思いたいが、実に悪巧みに満ちた微笑のような気がする。
「語らせない、という時も、あるでしょう」
「ええ?」
 ぽかんと口を開けるリスカを見下ろしながら、セフォーが身に纏っていた鮮やかな着物をやけに緩慢な仕草で脱いだ。さらりとかすかな音を立てて、袖が腕から滑り落ちる。リスカはつい、肌に走る剣術師の入れ墨を凝視した。美しく細やかな模様である。
 リスカは我に返り、ぎょっとした。いや、自分も時折性別を変えたりするので珍しくはないのだが、しかし、たとえ上半身とはいえ人様の裸を無遠慮に眺めるのはどうなのか。
 視線をさまよわせて焦るリスカの両手を、なぜか閣下が奪った。
「わ!」
 奪われた両手が、セフォーの胸に置かれた。眼差しは氷のごとくなのに身体はこんなにもあたたかい、とリスカはまったく失礼な感想を抱く。
 絶句しているうちに、その手をゆっくりと下へ下げられる。鼓動を伝える胸から、固く引き締まった腹部。皮膚の下のゆるやかな起伏。セフォーは意外にも細身なのだと思った。滑らかな肌の感触が少し驚くくらいに心地よく、だからこそ過剰といえるほどに心拍数が上がった。神経の末端までおかされているような、粟立つ感覚だった。じりじりと火で炙られたかのように、顔が熱くなってくる。
 慌てて手を取り戻そうとしたが、こちらの手首を掴むセフォーの力は痛くないというのに強い。
「セフォー、離してください」
「なぜ」
「なぜって!」
 自分の指先が、腰の線をなぞる。いや、強制的になぞらされているのだが。
 不思議なものだ、肌の表面をただなぞっているだけなのに、まるで掌がこの人のすべてを読み取っているような――ずしりとした身体の重み、ぬくもりの全部を感じている気になるとは。
「ようやく理解してもらえたようで、嬉しいです」
「な、何を」
 聞かねばいいものを、つい馬鹿正直に反応してしまう自分が憎い。
 セフォーがふふんとかなり意地悪そうな表情を作った。――この人はいつの間にか、様々な表情を浮かべるようになっているのだと気づいた。
「私はこの通り、男です」
「そんなこと、知ってます!」
「いいえ、触れなければ分からぬこともあるでしょう。言葉よりも雄弁なのが、感触というものです」
 リスカは反論のために口を開いたが、喉の奥に何かが詰まっているかのように言葉が出てこなかった。
「どうですか、私はあなたが考える以上に、目を引く者ではないですか」
 どうにか逃げようとするリスカの動作を塞ぐようにして、セフォーが更に身を屈めた。限界まで目を見開くリスカの腕を背の方へ回すように誘導される。どうしてだか逆らえない。それはいつもの恐怖を呼ぶ威圧感や逼迫感とはまったく違った、だけども屈せずにはいられぬ悩ましい気配だからだ。
 早く目を逸らさなくてはとリスカは焦った。けれど眼差しの自由さえ奪うように、セフォーが意味深な動作でリスカの顔の両側に腕を置いた。リスカはとっさに息をとめてしまった。というのも、息をとめねば、吐息が触れてしまいそうなほどにセフォーの顔が近かったのだ。こぼれ落ちる銀色の髪が影を作り、暖炉の明かりが見えなくなった。
「悪くないでしょう、私」
 ここで頷けば解放されるのだろうかと混乱しながら考えた。こちらの顔を覗き込み、つぶさに表情の変化を観察しているセフォーの髪が、くすぐるように頬に触れた。
「だから、あなたに触らせてあげます」
 意図的であるかのような囁き声に、リスカは頭がくらくらした。傲慢な言葉であるくせに、目眩がするほど優しい。ああ、そうだ、セフォーの優しい声なんて滅多に聞けないではないかと思ったが、そんな発見にのんびりと感動している場合ではないのだろう。
「好きにどうぞ」
 待った! とリスカは内心でとめに入った。混乱の極地である。一体どうしてこういう会話の流れになったのか、さっぱり理解できない。
「あ、あの、セフォー、少し、どいて」
「駄目です、あなたは分かっているくせに、いつも分からぬふりをして逃げようとするのだ。少しは私と向き合いなさい」
 見ていられなくて目を閉ざしたら、そのささやかな抵抗さえ許してくれるつもりがないらしく、セフォーが指先でとんとんと床を叩いた。耳の側でそうされたために、驚くほど音が響いた。
「肩でも腕でも背でも、好きなように」
 そう言われたが、実際に触れられたのはリスカだった。仰向けに硬直しているリスカを潰すようにして、セフォーがじっくりとこちらを見つめながら、頬や首筋、両肩を撫でる。罪のない子供の接触とはまるで異なる。肌も心も弄ぶように、柔らかく、強く触れてくるのだ。
 リスカは堪えきれずに息を吐き出し、必死にもがいた。けれどもセフォーはわずかに片側の眉を上げ、ちょっと馬鹿にしたように唇を曲げるのみで、リスカの上から退いてはくれなかった。急激に腹が立ったが、それでも押しのけようとして触れるセフォーの素肌が、やはり掌に心地よく感じられて、息が苦しくなった。

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