花炎-kaen-火炎:33


 ぱちぱちと暖炉の火がはぜる音がふいに聞こえた。しかし、意識を逸らせたのは一瞬だけで、すぐに自分を翻弄するセフォーの方へと戻ってしまう。
「私で遊んでいるでしょう!」
「そうですね」
 そうですね!?
 即座に肯定が返ってきたことにリスカは愕然とした。思わず睨みつけてしまい、それで結果的に視線が交わることとなった。遊んでいると肯定したというのに、ぼやけそうなほどに近い距離にあるセフォーの眼差しは冷ややかでも残忍でもなく、蕩けそうな色に満ちていた。ぞわぞわと首に鳥肌が立った。
「でもあなたは私を追って来たんでしょう? ならば何をされようとも、本望なのでは?」
 リスカは目を剥き、ついで憤慨なのか何なのか分からぬ激しい感情を抱いた。本望! なんてことを言うのだろう。
 セフォーが実に楽しげにくくくと笑った。何ですか今の笑いは!
 大声でも上げようか、とリスカは自棄になったが、次の瞬間思い出した。ここは人様の別荘なのだ。
 内心で深く悩みを巡らせた時、頬を両手で包まれた。ひ、とリスカは口の中だけで叫んだ。
「セフォー、本当に……」
 怒りと懇願と情けなさが入り交じったリスカの言葉を封じるように、セフォーが頬を包んだまま親指で唇に触れてきた。先ほど、セフォーの身体に無理矢理触らされた時、目の裏までがかっと熱くなるほどその肌の感触が心地よく感じられた。けれども今、頬をこすられ親指で唇のふくらみをやんわりと潰されている、この感触もやはり、呼気が狂うくらいに甘いのだ。
「柔らかい」
 と言われて、リスカはまたもや息を止めずにはいられなくなった。全身がこれほど緊張感に包まれて既に気絶しそうだというのに、セフォーはまったく頓着せず、唇の形を丁寧になぞっている。
「わ」
 とリスカは実に情けない声を上げた。もういけない、気を失いたいと思うのに意識がひどくざわめいているし、感覚までも鋭敏になっている。だというのに抵抗できないとは一体どういうことなのか。
 ふっと唇に吐息が触れ、リスカはとうとう瞬きまでできなくなった。重ねられそうな距離まで近づき、からかうように離れた直後、はむ、と顎を甘く噛まれた。リスカは怒濤というような勢いで、瞬きを再開した。身体中、鳥肌が立ったような気がしたが、それは悪寒とはやはり違うものだった。
 頬の輪郭を辿り、耳朶をいじる指先の感触にもなんだか参った。否定しようなく色気に満ちた触れ方だった。必死に名前を呼ぼうとしたら、喉元に唇を押し当てられて、仰け反りそうになった。熱い! と叫びたくなる。銀色の髪の毛がさわさわと首筋や頬をくすぐった。
「わ、わ!」
 奇声を上げずにはいられない。自分でも、顔がゆで上がっているのではと思うほどに熱い。美味しいはずもないというのに、首のいたるところに口づけられて、時々きゅっと軽く吸われる。頭の芯まで響く艶かしい濡れた音と、舌先が触れる湿った感触と、かすめる肌の熱さに、リスカは無意識に手足をばたつかせた。しかし、いつの間にかあらゆる抵抗さえ禁じるように、左右の上腕を痛いほどの力で握られていた。それでも暴れようとしたら、セフォーは焦れたようにわずかに身を起こし、リスカの両手を掴んで、今度は背中ではなく首の後ろに両腕を回すよう促した。どうしていいのか分からず、リスカは項の方へと回した手でぎゅっとセフォーの髪を引っ張ってしまった。痛みがあっただろうと思うのに、セフォーは嫌がる素振りを見せなかった。肩を強く掴まれ、押し潰すのではなく擦り合わせるようにして抱きしめられた。胸がいっぱいになるような感覚に、リスカはこのまま殺されてしまうのではないかとすら思った。腕の中にあるこの人にきっと殺されてしまう。
 ふいに下唇のすぐ下に、軽やかな感じで口づけられた。
「セフォー」
「はい」
 律儀に返答がある。少しだけ安堵が芽生えた。
 小さく、ちろりと下唇を舐められ、リスカは鼻の奥が痛くなるほど硬直した。小さく舐められたところが、かすかな空気の動きさえ感じ取ったのか、ひんやりとした。途端、混乱の極みだった意識が、与えられる感触すべてに屈服したような気がした。
 口づけられる寸前で、セフォーがぴたりと動きをとめた。
「やめます」
「……は」
 少し身を起こしたセフォーが、自分の乱れた髪を無造作にかきあげた。突然身体の重みと熱が離れ、寒々しい心地に襲われた。茫然と見上げるしかできない。
「あなたがもっと自覚しなければ意味がないのでした」
「は」
 放心のていで見上げるリスカの首を、セフォーが宥めるように指先で撫でた。
「リスカの方から、どうしても口づけたいと思った時に」
 ぐほっとリスカは喉を詰まらせた。色々なものが逆流しそうになる。
 咳き込んでいると、セフォーが呆れたようにリスカの腕を取り、ぐっと引っ張った。ぐにゃりとしているリスカの上体が起き上がる。支えてもらったが、呼吸がえらく乱れており、涙が滲んできた。なんですかなんですか、私本当に頭の中が色々と散乱して激流にまみれてますよ、と内心で大声を上げたが、実際には一言も訴えられない。
「あなたはもっと意識すればいいんです」
「ぐ」
「このくらいされれば、いかなあなたでも少しは考えるでしょう」
 いかなあなたでも、とはどういう表現ですか、紛うことなき侮辱ですか、とリスカはまだまだ咳き込みながらこっそり反論した。だがやはり内心のみである。
「まだあなたに歩調をあわせてあげますから、深く反省して自覚なさい」
 と理不尽なお小言を頂戴したリスカは項垂れた。
 全力でそこら中を駆け回りたいくらいに言いたいことがあるのだが、どれも明確な言葉に変わらず、えも言われぬ焦燥感のみが募る。
 いや違う。
 反省も自覚も何もそんな、そうだ、そんな、ようやく自分の過去に怯えずにすむかもしれないと立ち直りかけたばかりの時に、突然男になられても、そんな、どう反応していいか分かるはずがないではないか。
 分からぬふり、見てみぬふりはやめろと言われ、そうしたいとは思っても、長年の習性など簡単には変えられないのだ。だってそんな恥ずかしくてどうすればいい。リスカは胸中で切々と訴えた。自分がなんとかの一つ覚えのごとく、そんなそんな、と同じ言葉を無意味に繰り返しているのに気づく。
 まだ熱が上がっている顔をリスカは両手で押さえ、唸った。その瞬間、背を支えてくれていたセフォーの腕が離れ、重力の導くままにリスカの上体はどたりと床に倒れた。ひどすぎる、腕を離すならば、事前に一言くれてもいいのではないか。
 ぐぐぐ、と涙目になりつつ身を起こしながらセフォーを見つめると、彼はこちらを一瞥し、先ほど脱いだ羽織を適当な仕草で肩に引っ掛けていた。憎らしい! どうしてこう平然としていられるのか。
 せめて一言、苦情を言わねば精神が瓦解する、とらしくなく固い決意をもって口を開いた時だ。
「行きますよ」
「セフ……はい?」
 再び腕を掴まれた。
 行くって、一体どこへ。
「未払いなのでしょう」
「は、い?」
 リスカはぽかんとした。未払い?
 前後の脈絡がまったくわからない。
 何の話だろうか。
「支払っていないのでしょう」
「……」
 思考が答えを引き出すよりはやく、身体が反応していた。だらだらと冷たい汗が流れて来たのだ。
「な、なん、何を、何でしょう! 突然何の話で」
「シアからとっくに聞いています。耳飾りの代金」
 束の間、乾いた沈黙が降りた。
 シアー! とリスカは内心で大絶叫し、号泣した。裏切りである、無情である。ぐつぐつと煮立ちそうになるくらい頭に血が上った。大半は八つ当たりである。
 リスカは再度奇妙な唸り声を上げながら、暖炉の前で居眠りしているシアへ鋭い視線を向けた。くぴ、くぴ、と寝言が聞こえる。が、だまされてはいけない。先ほどとは異なり、今の寝言には緊張感が混ざっている。つまり、嘘寝というものだ。いつから目を覚ましていたのか分からぬが、とにかく、現在シアは卑怯にも寝たふりをしてごまかそうとしているのだった。
「でも、セフォー、実は!」
 言えない! とリスカは葛藤した。実はあなたに贈ろうと思っていたその耳飾り、ミラクに返してしまい、尚かつその後ツァルの手に渡ってしまいましたとは。
「いいです、想像できますから。どうせあなたのことだ、迷ううちになくしたか、何者かに譲ったか」
「……はい」
 閣下様、本当に察しがいいですね、うん、さすがです、という愛想笑いを浮かべてリスカはそっとセフォーの様子を伺った。セフォーは嫌そうにこちらを一瞥したあと、溜息をついた。
「なんて私は寛大なんでしょうね」
「ええ!?」
「……」
「はい、はい! 本当に! 寛大の王です」
 すごい勢いで眉間に皺が寄りましたよ閣下様! とリスカは泣き笑いの表情を浮かべた。混乱の国の住人と化しているリスカだった。
「もう行きますよ」
「はい!……ってどこへ」
 死の予感に震えていたリスカの腕が強く引っ張られた。ぎょっとした次の瞬間、何が行われたかというと、そう――転移だ。
 唐突に景色が歪んだ。
 視界も意識も、光すら遮断する白い闇で覆われる。激しい耳鳴りと目眩がした。背筋が粟立つような浮遊感にリスカは戦く。
 そして、辿り着いた場所はただ一つ。
「……よう」
「……こ、こんにちは」
 呆気に取られた顔の店主に、リスカも茫然としたまま挨拶を返した。
 辿り着いた場所は馴染みの雑貨屋、つまりリスカがくだんの耳飾りを購った場所だった。
 
●●●●●
 
 いやもう何から驚くべきなのか。
 セフォーも転移の術を操れたことにまず仰天するべきなのか、いやそれとも転移の地点に驚愕すべきなのか、いやいやそうではなく問答無用で転移の術に取り込まれた自分自身を不憫に思うべきなのか、甚だ難問である。
「お前な……ただでさえ不審なんだからよ、せめて来店する時は普通に扉から来いや。な?」
「すみませんすみません」
 どうして自分が平謝りせねばならぬのだろうとリスカは頭の片隅で思ったが、確かに、突然目の前に誰かが一瞬で出現するという出来事は、えらく心臓に悪いだろう。現にこの、馴染みである筋肉質の店主は、目玉がこぼれ落ちそうなくらいに、かっと目を見開き、作業中の金具を握った状態で驚いていたのだ。
 普通の人間ならば悲鳴をあげ倒れているかもしれない。雑貨屋の店主は硬直するほど驚きはしたものの、魔術師の転移をどうやら知っているようだった。
「まあ、しかし、何だ、お前たちな……」
 硬直がとけたらしき店主が珍しくも言葉を詰まらせ、丸刈り頭をつるりと撫でて、戸惑いの目をこちらに向けた。
 様々な商品が雑然と並ぶ店内をぼうっと見回していたリスカは、我に返り、あたふたとした。そうだった、リスカ一人で転移してきたのではないのだ。リスカはぎくしゃくと、自分の腕を掴んでいる諸悪の根源……ではなく、死神閣下様を見上げた。
「ひぃ」
 思わず叫ばずにはいられない。
 店主が当惑するのも無理はない。なんというかその、冷静に見れば、セフォーの恰好は実に怪しいのである。やけに明るい色の長衣は完全にはだけており、ただ肩に羽織っているだけという状態なのだ。少なくとも人前に出る恰好ではない。
 よくて寝起き姿、深読みすれば何ともはや、である。
 リスカはよろめきそうになった。どうしてこう、自分の回りには某魔術師を含めて強引に転移を行う者ばかりがいるのだろう。
「――おいおいおい、お前やっぱりそちら好みだったのか」
「ななななんですって」
 自失していた様子の店主が、不意ににやりと笑った。実に嫌な笑みである。目も口も、見事に弓なりとなっている。
「色気のない小僧にしちゃあ、こりゃ随分と上玉じゃないか。……いや、少しばかり不穏というかな、凄まじい気配を激烈なほど感じなくもない男娼だな、おい」
「なっ、なっ、何を仰るんですか!」
 惨すぎる誤解にリスカは激しく狼狽し、次いで戦慄した。
 もうこうなれば自分が男色家と間違われることくらい気前よく笑って許そう、だがしかし、戦場の王、慈悲の念が薄いとまで評される天下の死神閣下様に、よりにもよって、男娼などと!
 今すぐ誠心誠意、腹をかき切る勢いで謝罪しなさい、そうすればご自身は惨殺されるかもしれませんが、殺戮の宴だけは阻止できますよ、町の壊滅だけは免れるやもしれませんよ、とリスカは内心で力強く訴えた。
「お前の趣味は本当に変わっているな、もっと、こうな、腰つきが色っぽくて華奢な、可愛らしい男娼を選んだらどうなんだ」
 やれやれと大仰に肩をすくめられて、リスカは怒りではなく恐怖で身を震わせた。セフォーの沈黙が恐ろしい。よくもまあ、閣下に対してこれだけの向こう見ずな暴言を口にできたものである。
 セフォー、こうなったら私が代わりに心を込めて謝罪します、この店主はただ無謀な命知らずというだけで決して悪意があるわけではないんですよ、なのでどうか町人全員を胴体まっぷたつにするなどの大量虐殺だけは許してください、とリスカは胸中で切々と訴えた。あくまで胸中のみで、である。
 そんな悲壮なる心の声を知ってか知らずか、セフォーはぎゅっと掴んでいたリスカの腕から手を離し、一人頷いている店主に向かって動いた。
 まままさか本当に店主を細切れにするつもりですか駆除ですか、とリスカは青ざめた。
 セフォーがゆっくりと、腕をあげた。リスカは戦々恐々と見守った。
 てっきり店主の首をへし折るつもりなのだと思っていたらそうではなく、セフォーは伸ばした腕を、天井からつり下げている籠に向けた。セフォーの指から、金色の硬貨がかちゃかちゃと数枚落ちる。
 リスカは目を見張った。お、驚いた、殺害するのではなく、耳飾りの代金を踏み倒しかけていたリスカのかわりに清算してくれたのか。しかし閣下様、一体どこからその金貨を取り出したのですか、直前までは何も持っていなかったですよね、というよりも金貨を所持していたのですか、とリスカは思考を違う方向へさまよわせた。
「へえ、こりゃまた気前のいい男娼だ」
 神をもおそれぬ店主の言葉に、リスカは泣いて切願したくなった。
 もう本気でやめてください、というかもしや、セフォーを挑発するためにわざと男娼と繰り返してませんか、世界を破滅させるつもりなのですか、なんて罪深い、とリスカは慟哭した。これも無論、内心のみである。
「男娼ではない」
 底冷えのする声音に、とリスカは気が遠くなりかけた。しかし、きちんと否定するあたり、セフォーは案外律儀である。
 何が面白いのか、店主は音がしそうなくらいに、にやりと大きく笑った。
 セフォーの正体に感づいた上で面白がっているとしたら、大したものである。そういえばこの店主は情報屋も兼ねているのだった。
「へえ、じゃああんたはこいつの何だい」
 どんな拷問ですかこれは、リスカは神を恨みそうになった。
 もう一つ思い出したことがあるのだが、確かこの店主は以前、リスカに「お前の男を連れて支払いにこい」などと勝手な条件を出していたのだった。不本意というかまったく予想外ではあるが、この状況は店主が出した条件にあてはまっているのではないだろうか。リスカは腰砕けになりそうだった。
 セフォーがわずかに首を傾げたあと、微笑を見せた。ぞくっとするほど嫌な予感がした次の瞬間、腰を抱かれた。
 あわわ、と色気のない声をあげるリスカの髪に、セフォーが一度、口づけを落とした。
「愛人」
 何ですって?
 凍り付くリスカの前で、店主が大笑した。
 今なんですか、何を言ったんですかセフォー、と茫然とするリスカの視界が、突然ぶれた。
 またもや転移だ!
 だから唐突すぎます、あなたの行動は! と内心で憤った時――
「餞別だ、持ってけ」
 器用に片目を瞑った店主が、こちらに何かを放った。おたつきながらも放られた品を受け止めた瞬間、景色がねじれた。
 
●●●●●
 
「寒!」
 転移後の第一声が、これである。
 唐突が連続した転移。帰る場所は勿論暖炉の火があたたかな屋敷内であろうと思ったが、間違いだった。
 いやはやこの人に普通の感覚を求めてはいけなかったとリスカは改めて確信した。言動がまったく予想できない。
 転移の後辿り着いた場所は、なぜかそう、屋敷の側にあった湖の上だったのである。
 
 
 おかしいですよセフォー、なぜこんな寒い場所に降り立つのですか、それに今にも湖面を覆う氷が割れそうで実に恐ろしいですよ、とリスカは本日何度目かの切実な懇願をした。繰り返すが、内心のみでである。
 一体どんな意図が、と寒さに震えながらセフォーを見上げる。なぜかセフォーは不満そうな顔をしていた。
「間違えました」
「はい?」
「得意ではないのです」
「……それは、転移のことですか」
「ええ」
 リスカは胸中でのたうちまわった。信じられない人である、転移地点を間違っただけとは! 不測の事故が起きた場合どうするつもりだったのか、こんこんと説教したい気分になったが、現実にはならずに終わるだろう。
「私、こう見えて転移もできるのですよ」
 と今更、本当に今更、セフォーが誇らしげに明かしたが、転移地点を間違われたあとでは賞賛する気になどとてもなれなかった。
 今までリスカの前でセフォーが転移を見せたことはない。いや、だが、きっと使っていなかったわけではないだろう。たとえば、リスカが牢獄に閉じ込められた時や、悪魔に囚われて絶体絶命だった時、セフォーはふっと姿を現したのだ。
「ああ、もう、セフォー」
 何を言えばいいのか分からないではないか。
 盛大に項垂れた時、セフォーが実に寒そうな恰好をしていることに気がついた。衣の前がはだけているのだ。
 リスカは渋い顔を作ったあと、ぶちぶちと口の中で小言を垂れつつ、セフォーの衣を掴み、きゅっと前をかきあわせた。
 セフォーがちらっと不遜な態度で視線を落とし、リスカの背に両腕を回した。抱き潰すつもりですか、とまたもや内心のみで悪態をつくリスカだった。
「約束」
「はい?」
 また話が飛躍してますよ、もう。
「以前、私の願いを何でも聞くと」
「は」
 リスカはきょとんと顔を上げ、すぐさま顔をひきつらせた。
 そ、そういえば、確かにあの殺戮の場と化した教会で、苦し紛れにそんな約束をかわした覚えがある。ああ、それに、なぜか自室の窓から落下した時にも。
「今、叶えてください」
 もももしや今こそ血肉をまき散らせとか、生皮をぺりっと剥げとか血の風呂を用意せよとか、などとリスカはすこぶる物騒な発想に取り憑かれて世を儚んだ。
「教えてください」
「は、はい?」
「踊りです」
「踊り?」
 セフォーが少し身を離し、どこか不貞腐れたような顔をした。もしかすると恥じらっているのだろうか。
「私、踊りを知らぬのです」
 その言葉に、リスカは瞬いた。
 それは――リスカとて、踊りなど知らなかった。けれども一度、永遠の空間で、無音を友にし、騎士殿と踊ったことがある。
 踊りを知らない生。知らずとも生きてはいけるし、知ったところで未来が大きく揺れ動くとは思えない。
 けれどもほんの少し、彩りを増すかもしれない。
「私も、あまり踊れないのです」
 リスカは小さな声で答えた。
「上手ではないですが、それでもいいですか」
 そうっとうかがうと、小さな笑みが返ってきた。
 リスカも肩から力を抜き、微笑み返す。
 降る雪を音楽のかわりにし、緩やかに衣の裾を翻して、そうして白い世界の中、稚拙であっても踊ってみるのは案外悪くないかもしれない。
「じゃあ、私と踊ってください」
 リスカはそう言って、ちょっと嬉しそうにしているセフォーの手を引いた。
 
 
 
 以下、拙いながらも穏やかに踊るリスカたちの会話である。
「わ、割れそうですよ、この湖面」
「そうしたら転移しますから」
「……。そうだ、さきほど、店主からいただいたものを、帯に入れていて」
「何を?」
「ちょっと待ってください。これをいただいて……って、これは何でしょう」
 一度、ここで踊りがとまった。
 リスカはまじまじと問題の物を凝視したあと、憤りをこめて帯の中に戻した。
 店主が投げて寄越したのは、唇を彩る匂紅(においべに)である。これは娼婦たちがよく使うもので、紅の中に多少、いかがわしい成分が含まれているという艶かしい代物だった。どういう意味で寄越したのか、リスカに色気がないから、とでも言いたいのか。無礼千万、余計なお世話である。
「リスカ」
「いいんですいいんです、なかったことにして踊りましょう」
 リスカは無理矢理、微笑みを作った。

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