花炎-kaen-火炎:34
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――屋敷の本来の所有者であるフェイが姿を見せたのはそれから数日後のことだった。
ちらちらと粉雪が舞う午後、複数の豪奢な馬車が到着したのだ。
もはや定位置というべきか独占状態というべきか、相も変わらず暖炉の前に陣取りぬくぬくと惰眠を貪るセフォーとシアを横目で確かめながら、リスカは静かに立ち上がり、談話室を出た。到着早々室内にこもってしまったフェイの様子を見にいくためだ。彼とは本当に一言、二言、慌ただしく挨拶し今回の件に関して礼を述べたのみで、まともな会話をしていなかった。
まさか町で処理しきれなかった残務を今も必死に片付けているのだろうか、と心配になりつつフェイの部屋の前に立つ。扉を軽く叩いてみたが、返答はない。
リスカは少し考えたあと、後ろめたさを抱きつつも無断でそっと扉を開け、内部を覗き込んだ。室内はしんと静まり返っている。ちなみに部屋の構造は、リスカにあてがわれた所とほぼ同じだった。品よく飾られている置物や家具が多少違う程度である。
戸惑っていたら、部屋の中央寄りに置かれている長椅子で、もぞりと影が動いた。余談だが、以前何気なく予想した「各々が好みそうな椅子の色について」をふいに思い出し、リスカは内心で、残念、とちょっぴり悔しくなった。フェイはてっきり青か緑系統を選ぶのではないかという予想、外れてしまったのである。この部屋にある長椅子にはられている布地の色は、西日を連想させるような橙色だったのだ。これはこれで色鮮やかであり、布地の光沢がさらに華やかさを演出しているのだが、うむ。
いや待てよ、この橙色はフェイの好みではなく使用人の選択の結果かもしれない、などとしばしのあいだ思考を余計な方向に巡らせるリスカだった。
気を取り直したあと、そちらを見つめ、忍び足で近づく。
珍しいこともあるもので、フェイは長椅子に横たわって居眠りしていた。よほど疲れているのだろうと納得しながら、彼の顔を注意深く見つめる。そういえば、セフォーやジャヴの寝顔を見たことはあるがフェイは初めてではないだろうか、と変な発見をしてしまった。意外にも、あどけなさが漂う寝顔だった。
いや、寝顔というのは誰でも無防備なものか。
叩き起こすわけにもいかず手持ち無沙汰な状態でいるためか、なんとなく凝視してしまう。起きている時よりも寝ている時の方が随分と素直そうな雰囲気が、などと好き勝手に失礼な感想まで抱いてしまった。閉ざされた目の下に少し隈ができている。これはやはり随分疲れているのだな、と同情の気持ちが湧いた。一応、室内用の衣服に着替えはしたらしい。深い色合いの下衣の上に、手触りの良さそうなふかふかとした水色の長い外衣を羽織っている。肩から袖口にかけてゆるやかに広がっている作りの衣だ。同生地で作られた腰帯がちょっぴりほどけかかっていた。
それにしても、羨ましいほど鮮やかな金髪である。ついでに睫毛も淡い色だ。リスカは唸りそうになるのを堪えた。光を寄せ付けぬ自分の髪の色やらなんやらが虚しくなる。
まあ、そんな虚しさはともかく。色々と小さな発見があるものだ。耳の形がきれいだった。耳飾りをつけるための穴があいているのだが、左耳には二つある。そして、こめかみにごくごく薄い小さな傷痕が見えた。こうして覗き込まなければ分からぬくらいの薄い痕だ。
リスカは少し笑いそうになった。口角がほんのちょっと荒れている。それに、やや顔を右側に向けるようにして肘掛けの部分に頭を預けているため、わずかにそちらの目尻が突っ張ってしまっているというか、潰れてしまっている。
腹部に無造作に置かれている手の指には大胆な造りの太い指輪が二つ。意外にもがっしりとした大きな手だ。
リスカは意味もなく、その手の甲に浮き出ている血管をじっと見つめた。それから再び顔を眺め、毛布でもかけてあげようかと思いつく。室内には暖具が置かれているが、それでも少し肌寒い。
「――いつまで、俺は見られていればいい?」
毛布を取ってこようと考え踵を返しかけた時、ふいに声が響いた。掠れた、柔らかくも戸惑いが滲む声だった。
「すみません、起きてしまいましたか?」
リスカはずっと寝顔を見ていたという不躾な自分に気がつき、動揺しながらもなんとか言葉を返した。
いつから起きていたのだろう。
「いや……」
曖昧な言葉が返ってくる。フェイはまだ、目を閉じたまま長椅子に横たわっており、動こうとはしない。
「何か、感想は?」
「え?」
「あれだけ熱心に俺の顔を見ていたのだから、何か思うことがあるだろう」
もしかして私が部屋に入って来た時から目覚めていたのでは、という少し気まずい考えが頭に浮かぶ。
「ええと」
「咎めてはいないが」
「はい」
「好きなだけ見ればいい」
どきりとした。つい最近、セフォーにも似たような言葉を言われなかったか。いやいやいや、今思い出しては色々と自分の精神に支障が、などと奇妙な言い訳をしつつリスカは慌てて心を封印したが、それでもぽろぽろと隙間からこぼれるようにして記憶の断片が蘇った。つい息を詰めてしまい、咳き込みかける。
リスカは少々恨めしい思いを抱いた。厄介な美貌の魔術師やセフォーに散々責められ、時には実力行使の勢いで説教されたためか、最近どうも妙な具合に感覚が鋭くなり、他者の些細な言動に対して過剰な反応を示してしまいそうになっているのだ。たとえばだ。声音の微妙な変化、一瞬の沈黙がもたらす雄弁な心情などといった曖昧なものを、目を凝らすようにして深く追ってしまう。そういう、かつては意図的に気づかぬふりをしていたことが、もう見過ごせなくなり、やけに胸をざわめかせるのだった。それは、今のリスカにとって、何より恥ずかしいといった感情を抱かせる。
リスカは次第に焦りを感じた。こういった特定の羞恥を含む感情が芽生えること自体、己にとっては当惑するほどの急激な変化であり、素直に信じられないことでもあった。なにしろ対応の仕方が見えない。理解はしても、行動の助けにはならないのだ。
「もう見たくないのか」
「いえ、そんなことは」
額を片手で押さえ、唸りそうになるのをこらえた。まったく本当に、最近の自分はどうしたことか。今までとは別の視点で他者を見るようになっているのではないか。
「俺は簡単に見飽きるような男か?」
「いえ、いえいえ」
リスカはついつい視線をさまよわせた。
――あまり気がつきたくはないのだけれど、そうたぶん、「客観的に見て」などと苦し紛れにごまかさずともこの人は、言葉通りに魅力的で美しい男なのだろう。
だからリスカはごく自然に、その寝顔や華やかな色の髪や大きな手に見とれたのだ。見蕩れるだけの、雄々しい美しさが彼にはあるのだった。好意の有無が問題ではなく、優麗なものは優麗だと認め、賞賛する気持ちくらいは持っている。
しかし一方で、そのように感じることは後ろめたく、また不実であるかのようにも思えた。
それにしてもだ。私にもこういった繊細な恥じらいの心があったのか! とリスカは一瞬、寂しい方向に驚きを抱いてしまった。
「どうした」
フェイが未だ瞼を閉ざして長椅子に横たわった体勢のまま、穏やかにたずねた。
微妙に的外れな考えを弄んで葛藤していたリスカは、一旦自分の声に蓋をし、ここへ来た本来の目的を優先させることにした。
「あの、少々話をしていただきたかったんですが、お疲れのようですね。また時間を改めてきます」
「かまわぬ。何が聞きたい」
疲れているのだろうと思って退室しようと考えたのだが、フェイは気にした様子もなく鷹揚に話を促した。
リスカはきまり悪げに頭をかき、寝転んでいるフェイの頭側の方に近づいて、床に片膝をついた。直立したままフェイを見下ろして話をするのは、どうも気が引けたのだ。
「町の状況は?」
簡潔なリスカの問いに、フェイがすぐさま返答した。
「お前たちが案じることはない。悪魔の到来は、天災と同義。来たりし時、それは既に災いの訪れと定められている」
「しかし、セフォーの処遇はどうなるんでしょうか」
リスカが聞きたかったのは、高位悪魔が町に残した傷痕の規模と、その災いに多少関わった閣下様やジャヴの処遇についてだった。
「大体のところは魔術師に事情を聞いた。お前の護衛殿は、高位悪魔と面識があるのだとか?」
うむ、フェイの声が実に豊かな感情をうかがわせている、とリスカは精一杯の愛想笑いを浮かべ、なおかつ無邪気に映るよう首を軽く傾けてみた。普通、高位悪魔と親しい、などという突飛な話は物笑いの種にしかならない。しかし、一般常識を軽く覆してくれるのが我らが死神閣下様なのだ。
「はあ、いやいや」
「もういい。俺は何も聞いていないことにする」
フェイが虚しさを覚えたように目を閉じ、えらく深いため息を落とした。すいませんと本気で謝罪したくなった。
「とはいえ、こちらの部下たちに、妓王に変化していた悪魔と逢瀬……ともに行動していた彼の姿は知られている。どこまで隠し通せるかは分からぬが、護衛殿は悪魔の策略に巻き込まれただけとした。無理にでもそう主張しておいた」
「本当にご迷惑をおかけしまして」
リスカは表情を改め、心から礼を述べた。とりあえず、逢瀬という言葉を、行動、と言い換えた意味について考えるのはやめておく。
フェイが、無理にでも主張した、とあえていうくらいなのだから、それがどんなに大変だったか容易に想像がつく。もしやまたしても事実を隠蔽し軽く捏造するために、あちらこちらに働きかけて多額の金品をばらまいたのではないか。
「魔術師に関しては、当分の間はこちらに協力をしてもらう形が続くが、処罰は回避できるだろう」
「もう本当にありがとうございます」
フェイさまさまだ。盛大に拍手したくなった。
「ただし、魔術師もお前の護衛も監視下に置く。これは仕方がない条件だ」
「はい」
従順に首肯してはみたものの、内心ではなんとも複雑な気持ちだった。反発心を覚えたわけではない。多少なりとも常識を備えているジャヴはともかく、我が道を貫く天下無敵の閣下様を果たして容易く監視下におけるだろうかという懸念である。
「次に、地下牢に監禁されていた囚人たちだが、こちらは、残りの者も見つけ次第保護する」
フェイは瞼の裏に描かれた文章を諳んじるように淡々と説明した。
「炎上したティーナの屋敷については、その一帯は当分厳重に封鎖する。こちらの処置は神官達が担当する手はずになっている」
そうだ、屋敷周辺、魔物と人間の血で濡れたのだ。怨みと恐れが充満し、地の奥にまでしみ込んでいる。丹念に清めなければ、穢れは深まり、いずれ悪霊の巣となるだろう。
「花苑についての被害だが。なんとも逞しいことだ、あの一画は悪も悪魔も関係なく、何事もなかったように開かれている」
「そうですか」
リスカは微笑んだ。納得はできる。悪魔が潜入していたのは確かだが、建物の損壊や火災の類いは発生していないのである。
「こんなところか。ああ、お前たちは、しばらくはこの地から出るな。俺は一応、お前達の監視役なのだ」
という名目を周囲に振りかざし、頃合いを見計らってこちらに駆けつけてきたのだろう。笑みを深めて視線を返したら、なにやらやけに胡乱な目をされ、ちょっと悔しそうな顔までされた。
「ジャヴは今どこに?」
「花苑を警戒中だ。万が一、下級悪魔の残りが潜んでいるかもしれぬゆえ。だが片付いたあとは、こちらへ向かうよう声をかけている」
ジャヴは来るだろうか。セフォーと顔を会わせたくはないと思う。
「あの、それで……」
と更なる疑問を口にしかけた時、フェイが遮るように片手をあげた。
「これ以上は詳しく話せない。言っておくが、お前は騎士ではなく、善良な民の一人なのだから、本来、事細かには内情を明かせない」
「はい」
言葉と表情できっぱり牽制されてしまったため、リスカは渋々引き下がった。まあいい、一気に問いつめれば相手の口が重くなるだけである。聞きたいことは、日を改め、警戒されぬよう別の話題に混ぜて少しずつ切り出せばいいのだ。何しろ、あの町には矛盾と謎が目白押しなのだった。
姑息なことを考えながら、リスカは自分を宥めた。術師の好奇心を侮るなかれ、だ。
「休息中のところ、すみませんでした。毛布、取りましょうか?」
「いらない」
フェイが短く答え、眠気を覚ますためにか指先で瞼を押した。
安眠を邪魔してしまったという認識があるため、リスカは長居せず静かに部屋を出ていこうと決め、そっと腰を上げた。その時だった。
「それで、もういいのか」
「え?」
リスカは腰を上げかけた中途半端な体勢で、問い返した。先ほど、もう詳しく話せないと言われたはずだが、なぜ催促を、と怪訝に思う。
「もう見飽きたのか?」
フェイが瞼を開き、青い目をこちらに向けた。既に彼の気配と意識は、先ほどまでの会話から離れているようだった。
一瞬の間のあと、会話を最初の時点にまで戻されたのだと気づく。
だがまさか、再び同じ問いを投げかけられるとは予想していなかっただけに、頭が動かない。
「いえ……」
返答に窮し、リスカは狼狽えた。
「別に見られるのは嫌ではないと言った」
リスカは唇を引き結び、警戒の目をフェイに投げた。一体何を言いたいのだろう。
「充分堪能したというのなら、交代しようか」
「交代?」
フェイが長椅子の上で姿勢を少し変えた。片腕を枕にして横向きになるよう、寝転び直したといえばいいか。
「俺が見る。リスカ、動くな」
リスカは呆気に取られ、次いでぎょっとした。
動くな、と命じられても非常に困るのだ。腰を伸ばしかけ、といった微妙に情けない己の体勢をどうしたものか。
「あの、私、今、とても中途半端な姿勢で腰が痛いのですが」
「膝を床につくのは許す」
なんでしょう、その命令し慣れた横柄な態度は。何様ですか、と文句を内心で垂れたあと、紛うことなき高貴な騎士様だったと思い出す。完敗の気分を味わった。
「残念ながら、私は見られるのに慣れていなくて」
「俺は見るのに慣れている」
「あなたが見続けるほどの優れた容姿では」
「見たいと思うものが、必ずしも秀麗とは限らないだろう」
どういう意味ですか、遠回しに侮辱されたような気分になりましたよ、とリスカは胸中で抗議した。そこは嘘でもお世辞でも信条に反してでも、ええ、やんわり否定すべきだと思います、その方が後々のためですよ平和的解決というものですよ、と脅しなのだか哀願なのだかよく分からぬ独白も追加してみる。
「見ることには慣れていても、見飽きない」
「……もう戻ります」
「駄目だ」
「フェイ、私の嫌がることをしないでください」
「俺は我慢したと思うが。お前に寝顔を見られても」
それを言われると、反論できない。
ぐ、と言葉につまり、しかめ面をするリスカを、フェイはさきほどの言葉通り飽きた様子もなく真剣な顔で見ていた。まるで、視線を筆代わりに、リスカという画を描いているかのような熱心さだ。これは非常に気まずい。じわじわと冷や汗が滲みそうになる。
取り合わずに素早く離れて部屋を出ていけばいいだけのことなのだが、やはりそんな真似はできない。そもそもフェイには身の安全だけに留まらず、衣食住と何から何まで大きく世話になっているのだ。多大な迷惑をかけているという自覚があるため、本人の機嫌を損ねるような言動はなかなかに取り難い。
「私は観賞用の置物ではないのですが」
「俺は以前、まったく不本意ながらもお前にそういう扱いをされたと思ったが」
これはもう誰の指導を受けたのか、魔術師並みの屁理屈である。
大体、とリスカは内心でひとりごちる。
見たい、というその欲。
突き詰めれば、欲しい、という言葉と同義なのだ。分かっているのだろうか、この傲岸不遜な騎士様は。
リスカは本当に困ってしまった。自分の意識が変わったせいなのか、それとも周囲もまた、何らかの変化を望んでいるのか。今までとはどうも会話の運び方が違い、社交辞令のたぐいでは簡単にかわせなくなっている。
「リスカ、あの破壊的な護衛殿はお前の恋人か?」
突如、言葉を濁すことなくはっきりと聞かれて、リスカはぎしっと固まった。頭が真っ白になる。ついでに一瞬、目の前も真っ白になったが。
「お前達の関係はよく分からない。ともに行動するくせに、互いに遠慮が多い」
「――本当に、もう私、行きます!」
強い焦りに突き動かされるようにして、リスカは勢いよく立ち上がった。こんな会話、とても続けていられない。
ところが身を起こした瞬間、腕を掴まれ、前のめりになった。
あわてふためくリスカの身を、上体を素早く起こしたフェイが無造作に抱きとめる。肩が相手の胸にぶつかり、鈍い痛みが広がった。
「なあ、リスカ。いくらなんでも、縁もゆかりもない他人に対し、ささやかな好意のみでこれほど優遇すると思うか」
「でも、あなたは、騎士だから」
自分で言って、説得力などないと分かっている。
それでも、なんとしてでも彼の言葉を遮らなくてはという息の詰まるような焦燥感に急かされ、言わずにはいられなかったのだ。
「だが貴族でもある。俺は身分高き者だ。だから、どんな願いであっても、などと大仰なことは言えずとも、大抵の望みは叶えられる。そう、望めば俺は、力ずくでお前を囲える」
フェイの腕から逃れようともがいていたリスカは、最後の一言に、鞭打たれたかのごとく身を震わせた。
奥歯を噛み締める。少なくともリスカは、こういった面になるともたつき愚鈍の者と化すが、放たれた言葉の意味が理解できぬほどには幼くない。勿論、それはどういうこと、などと、理解していながらあえて知らぬふりをするといったしたたかな真似もできない。
こちらの両上腕部分を掴むフェイの手は大きく、そして力強かった。リスカは短い苦悩の末、視線を落とし、一度唾液を飲み込んだ。こういう場合、普通の女性はどう対応するのだろうか、というなんとも情けない思いがよぎる。駆け引きのような会話を楽しむ余裕は見事にない。
「不埒なことをおっしゃいますね」
真面目な態度で切り返した直後、小さく笑われ、顔を覗き込まれた。
「俺は貴族だから」
だから何だというのか。
「貴族の世では、不埒が美徳とされるのだが。つまりそれは、褒め言葉だな」
リスカは呆れるあまり、顔を上げてフェイと視線を合わせてしまった。それが狙いだったとすぐに気づいたが、交わった青い目は、引き下がることを許さぬ束縛の意志が明確に浮かんでいた。
「なあリスカ」
「離してください、腕が痛いです」
「お前は実に可愛くない」
はい?
喧嘩を売っているんですか。
リスカはつい顔を引きつらせた。たとえるならば、真正面から斬り掛かられると予想していたのに、背をどつかれた気分である。
「世の中には可愛らしいものが山と溢れているのだから、せめて私くらいは不屈の精神で可愛げを持たぬよう心に誓っているのです。そうしなければ、世の均衡が崩れるじゃありませんか。私は貢献しているんですよ、立派な功労者です。というわけなので、離してください」
「まあいい。諦めているから」
「あの、私の話を聞いていますか。手を離してください。ちゃんと一人で立てます」
「どうしてお前はいつも髪が四方八方にはねているんだ? いいか、櫛というのは、髪をとかすためにつくられた偉大な物なんだ。部屋の化粧台に置いてあっただろう。道具は使用してこそ価値がある」
「本当に私の話を聞いてますか。私の髪がはねているのは、きっとそう、下を向くまいという不屈の精神です、向上心です。人間とは天を見上げて生きていかねば」
「向上心が聞いて呆れる」
「話、聞いているじゃないですか。変なところにだけ反応しないでください」
「お前の程度に会話を合わせてやろうとするこちらの親切が見えぬのか」
「何ですって、親切! 私の耳は壊れたんでしょうか。それとも、言葉はすべて逆さの意味で使えという法律が?」
「魔術師の皮肉を禁ずるという法ならば、諸手をあげて支持する」
「ついでに貴族の尊大さも禁じてみませんか」
「好きにしろ、俺は尊大ではないし、害は被らないから」
「私という被害者がここに」
「加害者の間違いだろう」
至近距離で睨み合ってしまった。しかし、どうしてフェイとはいつもいつも言い争いをしてしまう結果になるのか。
十分睨み合ったのち、実に嫌そうに舌打ちをされてしまい、ならばこちらもとやり返してみたい誘惑に駆られたが、それはあまりにもおとなげないと気づき、寸前のところで堪えた。
「フェイ、私が悪かったです。だから本当に、意地悪をせず。あなたは勇猛果敢な清廉たる騎士なのだから、魔術師を超えるほど底意地が悪くなってはいけません」
「なんて憎らしい皮肉魔なのか。まったく信じられない。その情熱をもっと別のところに向ければいい。たとえばその髪とか」
ま、また私の髪にこだわるんですか!
フェイがわざとらしく溜息をついた。押しのけようともがくリスカを睨み、だが自由を許さずに逆に拘束を強くする。まるで暴れる子供を御するようなたやすさでリスカの背に両腕を回したあと、己の両手の指をきつく組み合わせ、完全に束縛する。
「フェイったら! 寝ぼけているんですか」
そんなはずはないと分かっていた。だが、どうすればいいのか。
フェイの行動と言葉の一つ一つに困り果て、翻弄されている。こんな展開はまだ、リスカには追いつけない。
フェイがただからかいや遊びの目的で軽く言っているのならかまわない。けれども向けられる視線は悩ましく官能的で、一見威丈高ととれる態度にもどこか切なさが滲んでいる。だからこそ、リスカは口答えしつつも心底狼狽えてしまうのだ。まさかと思う。そう否定する一方で、胸の片隅には認める気持ちもある。でもやはり、まさかそんなありえない、という気持ちの方が断然強いのだ。
「本当に腹立たしい。俺はそれなりに財を持ち、また身分もあり、容姿だとて目を逸らさずにはいられぬほど酷いものではないはずだ」
「な、何を言っているんですか、もう!」
「とはいえ、万能ではないのだから、これまでの生の中で幾度も過ちをおかし、失敗もした。悔いることも大なり小なりある」
「懺悔したいのなら、神官にお会いください」
「だが、総合的に判断した時、過ちと悔いの最たる出来事が、これではないか」
「はい?」
思わずリスカは半眼になった。
「なぜこんなに間抜けな女の魔術師に惹かれてしまったのだろう。幾度考えても理由が分からぬ上、悔いばかりが募るのだ」
「――フェイ!」
リスカは咄嗟に、フェイの口を封じようとした。聞いてはいけないと思った。なぜなら、放たれた言葉は取り返しがつかない。なんらかの答えをもたらさなくてはいけなくなる。
しかし、フェイはきつい目をした。こちらの卑しい思惑を真正面から糾弾するような強い憤りがこめられていた。
「ほら、言わせまいとする。それが憎い。けれども俺はお前の不誠実さなどどうでもいい」
「よくありません!」
「お前、口はなんのためにある」
「何ですって?」
「男の唇が愛を語るためにあるのなら、女の唇は愛を奪うためにあるのでは? それが傲慢な生き物である女の証」
フェイが服従するかのように、リスカの首筋に額を押し付けた。
「とめたいなら口づけてみろ。できぬのなら、黙って聞け。いつもいつも、女の気紛れにはつきあっていられない」
囁き声が身体の奥に滑り落ちる。
リスカは瞠目した。彼は熱い身体と激しい感情を抱きし者。束縛の強さが体温と同化し、かすかな衣擦れの音が吐息に重なる。この身勝手さは、とても腹立たしいというのに、決して嫌悪をもたらさない。
「あの碧眼の魔術師は、お前を外の世に連れ出し、人という刺激を教えてやれという。ところがお前の護衛殿は逆に、お前を籠の中に入れたがっている。俺はそのどちらも、やはりどうでもいい」
「フェイ」
低い声が耳の下の皮膚に当たり、緩く嬲った。リスカは腕の拘束から逃れようとしたが、まったく力がかなわない。その事実に寒気すらした。
「可愛くもない色気もない、小賢しいくせに鈍く、しかも口だけ回る嫌味な魔術師だ。更にはその力、不具であるともいう。平民にすぎぬ上、美しくもない。財も権力も見事にない。ではせめて、男を悦ばせられるようなわざを持っているのかといえばそんなこと、確かめずともまったくあるはずがないと断言できるだろう」
一瞬、リスカはこの状況を忘れて、本気でフェイを殴打したくなった。ひとつも褒めていないではないか。
「今、世で俺の心理ほど、矛盾に満ちたものはないのではないか。こんなに可愛くもなく、時々男に変貌するような、間の抜けた女が、どうにもたまらず可愛く見える。神よ、信じられぬ!」
「私を心の底から侮辱しているんですかっ」
口を挟まずにはいられなかった。これが会話を途絶えさせぬための作戦というのなら、大したものだとさえ思った。神に訴えたくなるほどの性悪な人間になったためしはないというのに。
「してない。していたらこれほど触れたくならない」
「触れたいのではなくどつき回したいの間違いでは?」
「これだ! 神よ、聞いたか。なぜ俺をこんな、状況を解さぬ皮肉な魔術師に惹かれさせたのか。一体俺は前世でどんな罪を犯したというのだ」
「前世ですって! あんまりですよ、あなた、私を愚弄することに使命を見出してませんか!」
「なんて意義も名誉もない使命だ。そもそもお前、これを愚弄というのは己を知らぬ証拠だぞ。お前が男だったら既に思う存分叩きのめしている」
思わず、上等です、と言いたくなったがそれは堪え、かわりにこう告げた。転換の術で男になりましょうか、と。
「そんな真似をしたら、お前の髪をとかして粉をまぶしてやる」
神よ聞きましたか、この騎士はどれほど私の髪を恨んでいるのでしょう!
再び反論しようとして口を開いたリスカの身を、フェイが強く抱きしめた。
「撫でて、あやし、甘やかしたい。これを恋と言わぬのなら、人という種はとうに滅んでいる」
「待って、待っ――」
「俺は馬鹿だ、きっとお前に恋をした」
ぐっとリスカは口を閉ざした。ただ、泣きたくなった。