花炎-kaen-火炎:35


 リスカは血がにじむほど強く唇を噛み締め、フェイがまとっている外衣の襟に視線を定めた。
 どうたとえたらいいのか。頭の中になみなみと酒を注がれ、なおかつ力一杯揺さぶられたくらいの衝撃だと?
 あれだけ好き放題暴言を吐き、貶めたあとで、そのすべてをきれいに引っくり返してくれる。明らかな怒りを覚えたぶん、最後に受けた驚きは大きく、心に鋭く響いた。ある意味において、けなした言葉のすべてが一瞬で賛辞に変わってしまったようなものではないか。
 なんで、この人は!
 悔しいのに責められない自分がわからない。
 貴族の男に明確な恋情を注がれたためしなどないのだ。いや、経験の有無が問題ではないのだろう。彼は、優れたる男だ。尊大だが情を知っている。以前、手酷い扱いを受けたけれども、それでも憎しみはもう持っていない。持ち続けられない。十分すぎるほど面倒を見てもらった。この手は優しい。ああ、だから何を言いたいのだろう。
 一体どうして、と愚かにも問いたくなる。己の不具をリスカは理解しているのだ。もしリスカが男なら、自分のような頭の固い、色気にもしとやかさにも欠いた女になど惚れない。恋情を抱いてもらえるような美点となる何かが己に備わっているとは、その、素直に認められぬ複雑な感情があるものの、さらにいえば微妙な切なさすら覚えるものの、やはりとても思えない。むしろ欠点の方が目につきすぎて乾いた笑いが漏れる。それなのに恋だなんて。どうしてなのだろう。とっさに問いかけて、そうだった、と思い出す。彼自身が先ほど言っていたではないか。そう、神に訴えずにはいられない様子で、過ちと悔いの最たる出来事が、この恋なのだと。フェイ自身が、己の中に生まれた思慕を信じられないと言っているのに、どうしてリスカに説明できるだろう。本当に人の心は計り知れない。
 だとしたら、リスカは今、何を言えばいいのか。
 何かを言わなくてはならないのに、言葉のすべてが凍り付いている。こういう肝心な時に、ぱっと適した言葉が思い浮かばぬというのなら、一体何のために知識を持っているのか。
 いや、駄目だ、こんなに尊大で、口達者な魔術師と肩を並べるほどの捻くれ屋で、尚かつ財も身分も持った綺麗な男など、どう考えても自分とはつり合わない。そもそも世間に申し訳ない。彼の背景にどんな事情があるかは知らぬが、おそらく目映い未来が待っているだろう。リスカは必死に、胸中で冷静な言葉を用意した。自分の乱れに乱れた浅はかな心理などにいつまでも頓着している場合ではない。ともかくもう、深く考えてはいけないと思った。感情を超えたところで、早く断らなければいけない。そうだ、これが絶対の結論だ。けれども、なんであっても傷つけたくないと強く感じた。虫がよすぎるとわかっていてもなおだ。
 まったく混乱ここに極まれりだ。まさかこんなややこしい事態になるとは夢にも思っていなかった。男というのはなぜ突然、こちらに心構えもさせてくれないうちに、視線を縫いとめるようなあでやかさに満ちた男の顔を見せつけるのだろう。卑怯だ、とそういう理不尽な憤りさえ生まれる。ここ最近の自分の周囲はとんでもなく荒れ狂っているのではないか、まずセフォーだって……とずるずる考えたところでリスカはふいに凝固した。素っ頓狂といいたくなるような感覚の中で、あれっと内心で声をあげてしまう。ついには冷や汗どころか脂汗まで滲んできた。あれ、あれ、と疑問というか疑惑というか驚愕のような思いが勢いよく胸にあふれた。深く反省して自覚しろ、と命じたセフォーの表情が脳裏によぎる。自覚?
 どどどういうことなんですか! とリスカは内心で叫んだ。あの人の言動はいつも突飛すぎてわからない。真面目な話の途中で勝手に口づけしようとして、だがその寸前で気を変えて、挙げ句リスカの方からしたくなった時に、などとつらっと言う。なぜそんな発言をするのか。というよりもなぜ今の場面でセフォーの言葉を思い出すのか。いやいやいや違う! 閣下様の言葉なんて額面通りには受け取れない。そう考えたが、次の瞬間、リスカは真正面から頭突きをされたような強い衝撃を覚えた。逆だ、閣下様の言葉はいつだって端的で裏がない。まさに文字通りではなかったか。なにせセフォーは、婉曲表現など面倒だときっぱり切り捨ててしまう過激な人なのだ。寝たふりをしてごまかされそうになったことはあるけれど、嘘や遠回しな言い方などしない。
 ではどうしてセフォーは、まるで特権であるかのごとく、リスカに触らせようとしたのだろう。
 えええ! とリスカは胸中で騒がしく喚いた。なんだというのか、まったくなんなのだろうか! もう勘弁してほしい。なぜなのか、というより何がなぜなのか、疑問がもつれにもつれて錯綜どころか破裂しかかっているのではないか。おかしいことだ、過去に一心不乱というほど知を求めてあがいたはずなのに、なぜ、という疑問が今でさえ一向に減っていない。どころか反対に、わからぬことが山を築けるほど増えている。リスカは血迷うあまり、訝しげな顔をしてこちらを覗き込んでいるフェイに教えを乞うてみたくなった。一体私はどうしたのだろうかと。彼ならば呆れたり喧嘩腰になりながらでも最後には誠実に答えを返してくれそうな気さえした。危うく本当に実行するところだった。
 だが実際に口を開き、躊躇って、結局声にできそうなのは、ただ相手の名前だけだった。それでも何も言わぬよりましに思えた。
 しかしだ。
 不審の見本のような態度で赤面したり青ざめたりとひどく狼狽えていたリスカを見つめるフェイの表情が、つん、と拗ねたようなものに変わった。
「――お前を口説くのは命懸けという気が強烈にする。まあいい。お前の事情を考えていては日が暮れる」
「ええ?」
 リスカにとっては驚天動地の告白であったというのに、当人はまったく憎らしいくらい平然としていた。いや、いつものごとく不遜に見えた。目が点になる。なんだろう、彼のこの、不必要なくらいの落ち着きぶりは。
「大体女というのは、無用であるほどに何でも深刻に受け止める。今日着る衣服を選ぶのでさえ、女にとっては運命のわかれ道と呼べるくらいの激しい戦争だ。策を巡らす軍師をも超える情熱をそこに傾け、帽子一つ、手袋一つ、靴一つ、少しでも気に食わぬと感じた瞬間、天を呪い慟哭する。本気で絶望し部屋の奥にこもる女の機嫌を直すのに、一体どれほどの言葉と花と忍耐を必要とすることか。だから俺は勝手にする」
「は」
 唖然とするリスカに、フェイが顔を近づけた。と思ったらなんの嫌がらせなのか、リスカの前髪にふうっと軽く息を吹きかけた。わずかに前髪が揺れる感触に我に返り、ぎょっと片手で押さえたら、フェイが笑みをごまかすように目を細めた。
「何を考えているのか知らぬが、どうせろくなことではないだろうし、無駄だ。お前が狼狽えたところで、何にもならぬ」
「ひ」
 なにか、話の運びが不穏になってきていないだろうか。うまくいえぬのだが、何だろう、この、聞いた覚えのない異国語を耳にした時に抱くような、不可思議な感覚は。
 この時になってようやく、フェイと己の価値観や感覚が微妙にずれているのでは、という危機感を抱くに至った。
 思わず一歩離れようとしたが、そういえば思い切り身を拘束されているのだった。相手の胸に両手をおき、つっぱろうとしてみてもわずかさえ動かない。なんて頑丈な身体なんだろうと唐突に腹立たしさが芽生える。むっとしつつ更に動こうとした瞬間、その仕草に鬱陶しさを感じたのか、フェイが溜息をついた。今のは明らかに一段高いところから見下すような感が漂う、生意気極まりない溜息だった。そう苦情を述べる前にしかし、項を片手で掴まれ、ぐいっと押された。自然、相手の首筋に顔を埋める形となった。外衣の襟を思わず噛みそうになってしまう。圧死を狙っているんですか、といきなりの窮屈さに問い掛けたくなった時、なんだかぐりぐりと頭に頬を寄せられて、リスカは再び目を点にした。
「俺は別に、お前の立場がどうであろうとかまわぬ。人妻であれば離縁させるし、神女であれば還俗させるし。まあ、実際はそうではないのだから、面倒はないが」
「……はい!?」
 リスカは限界まで目を見開き、愕然としながら聞き返した。とはいえまだ項に手を添えられているため、顔をあげられない状態だった。
 今、何と?
「フェイ、フェイ?」
「だがお前の場合、立場や身分を論じる前に、他の女と実に異なる点がある。ああ、その口に布を押し込みたくなるほど皮肉屋である、ということ以外にだ。しかもかなり厄介で危機的な――あの護衛殿、常人の理屈を凌駕しているだろう? お前達の関係がよく分からぬためにいささか迷うものがあるが、いつまでも足踏みしていては意味がない」
「ち、ちょ、ちょっと待ってください。何ですかあなた、さらりとおそろしい発言をされませんでしたか、私の聞き間違いですよね」
 おかしい、どうしてなのか、今一瞬、セフォーに通じるような途轍もなさを、独白口調で何事かを呟いている金髪青年から感じた。
 しかも先ほどの胸を締め付けるような切ない衝撃は薄れ、むしろ恐怖に近い感情がじわじわとわいてきた気もする。
「あの、私の意見はどうなるんですか、あなたの言い方では、まるで、まるで」
 私の気持ちは無視のように聞こえましたよ、とリスカは内心だけで訴えた。いや、自分の感情などどうでもいいとは先ほど思ったのだが、現実にそうされると随分驚くものが。
 盛大にもがき、やっとのていで顔を上げて、戦々恐々としながらフェイの反応をうかがうと、予想外の言葉を聞いた、という訝しげな表情をされた。怪訝に思いたいのはこちらの方である。すぐさま反論しようとして、リスカは気づいた。
 そうだった。傲岸不遜なこの彼は、貴族も貴族、大貴族なのだった。
 貴族の子息はそう、恋にはまり、恋する己に陶酔する、といった厄介な面を持つ。彼らは老いも若きも、男も女も総じて恋がとにかく大好きだ。宮殿に行けば、軽いものから重いものまで恋の噂が立たぬ日など、それこそ太陽が昇らぬことがないというのと同じくらいに、ありえない。
 しかし火遊びするだけならば、どこまでも紳士的になおかつ冷酷に動くだろう。一時の楽しみにそそぐのは、一欠片の情熱と情欲のみだ。だが真剣な恋となると様子が違ってくる。
 要するに火遊びではそれほど気にする必要がなかった体面が関わってくる、ということだ。実に馬鹿馬鹿しいと思うが、あえて身持ちのかたい人妻に恋をして、その激しさと忍びやかな雰囲気に酔う、というひねくれた貴族もいるのだった。だから、相手の女に夫がいようが恋人がいようが、おかまいなしなのである(これはあくまで男側の話であり、女の方ではまた事情が違ってくる。夫を持つ女の姦淫は厳重に罰されるのだから)。むしろ障害があった方が俄然熱中する。そこで難攻不落と言われる女を手に入れれば、結果的に周囲から、それほどまでに本人の魅力が図抜けている――飛ばぬ鳥もはばたかせるほど有能であると好意的に判断されるのだ。女が仇敵にたとえられるのはこういう男たちの、幾重にも思惑を含んだ政治的な多情さが関係しているのではないか。
 これまで、意外に話が通じる相手であると評価していたが、そのフェイだとて根底には貴族特有の冷徹で淫猥な価値観が根付いている。リスカの護衛であるセフォーがどれほど脅威であってもそれで簡単に諦めるはずがなかった。いや、逆に、悪魔の力量と匹敵する剣術師の守護を破ってその恋を成就させられたら、なるほど見事なものだと賛辞されるだろう。
 そう、これは恋の話だ。正式な妻を迎える、といった話ではないのだ。
 どんなにフェイが真剣であろうと……いや、本当に真剣なのか、遊びに毛の生えた程度なのかまったく判断のしようがないのだが、まあそれはともかく、恋は恋にすぎない。所詮は平民のリスカが彼の一族に迎えられるはずがなかった。たとえ長く寵愛されたとしても、せいぜいが愛人の立場ではないか。
 そして肝心な点は、女の側に何一つ決定権はない、ということなのだ。
 リスカが拒絶しようと嫌悪しようとまたは快く諾と言おうと関係なく、彼の判断と望みが全てであり、現実的な結果ともなるのだった。だからこそ、リスカが意気込みながら異論を挟むなど、本来ならば考えられない話なのである。フェイに怪訝な顔をされて当然なのだ。
 リスカがとっさにこの事実に気がつかなかったのは、ある意味において仕方のないことだった。弁を得意とする術師としての意識が先に立つために、論ずることが許されぬ、といった不愉快な展開にあまり馴染みがなかったのだ。
 などとまでつい深く考えてしまい、リスカは本気で落ち込んだ。身分や価値観の違いと虚しい現実についてのみ落胆したのではなく、そこまで考え、穿った判断をしてしまう懐疑的な自分に嫌気が差したのである。普通、恋とは頭ではなく、虹のごとき七色の色鮮やかな感情で語るものではないのか。だからこそ過ちが生まれ、恋の威力も強まるというのに。
 こんなことでさえ言葉で冷淡に解明しようとしている自分は一体何なのだろう。どこまで感情を愚弄しているのか。
 だがすべての盾を外して感情のままに動くのは、どうしても恐ろしくてならない。こちらが警戒をとき偽りのない心を見せた途端、掌を返したように嘲笑われるのではないかとそこで更に穿ってしまう。
「……どうした?」
 突然沈み込んだリスカの様子に気づいたらしいフェイが、不思議そうな顔をした。それから少し体勢を変え、自分の膝の片側にリスカを座らせて腰に腕を回した。リスカはふうっと吐息を落としながら、フェイの肩に軽く手を乗せて重心をとった。逃げ出さなかったのは体力的、身体能力的にかなわないためというのもあるが、少し諦めの境地だったからだ。
「あなたは、私の言葉には耳を傾けてくれないのですか」
「充分傾けているだろう」
「他愛ないことならば。でも、そういったことじゃなくて」
 最後まで口にせずとも、リスカが何を言いたいのか理解したらしく、フェイはわずかに顔をしかめた。
「仕方ないだろう。俺は貴族なのだから」
「その前に、人でしょう?」
「何が不服だ。俺は、俺の持ちうるものすべてを、お前にくれてやるつもりなのに。何がほしい。宝石でも服でも、望むだけ贈ってやる。好きなだけ贅沢をさせてやる。その他に何がある?」
 フェイが何を言いたいのかは分かる。リスカとて人の子だ。稀なる宝石や華麗な服には、抗いがたい魅力があるだろう。際限なく贅沢をさせてやると甘い言葉を囁かれて、欠片たりとものぼせぬ者がいるだろうか。なぜなら豪奢な品、あるいは伝統芸術品には確かに、人に自信と強さをもたらす力が眠っている。それは一概に、浅ましい軽さとはいえないはずだ。
 けれどもリスカは贅だけでは満足できない自分を知っている。術師であるがゆえにリスカは聡く、だが不具であるという意識が生んだ卑しさを捨てきれないために己を殺してうまく立ち回ることができない。たぶん己は頑なまでに知識を求めすぎた。この、知に対する激しい執着こそが、今のリスカを鈍らせている。
「あなたも、私を対等には見てくれませんね」
 リスカは溜息まじりにこぼした。勿論、対等の位置に立てぬのは彼らの責任ではなく、己の側に問題があるのだ。分かってはいる、だが、今は言わずにいられなかった。おそらくそれは、リスカの甘えに他ならない。
 当たり前の事実に対して己を恥じることなく不平を漏らしたのだから、フェイは失笑するだろう、とリスカは覚悟していた。いや、覚悟というよりも、故意に吐露した心情なのだ。これで失望するか、あるいは歯牙にもかけぬ様子を見せたなら、リスカはためらうことなく彼から離れられる。そういう卑劣な意図を隠した言葉だった。
 けれどもフェイは表情を改め、位置的に少し高い所にあるリスカの顔を静かに見つめた。
「そうだ」
 フェイは穏やかに肯定した。
「お前を対等には見ない」
「はい」
 リスカはその、素晴らしく青い目を見返した。青空の色にたとえるべきなのか、それとも青空を映す海の色にたとえるべきなのか迷った。たとえを持ち出したくなるほどに美しい色だ。吸い込まれそうだと思った。
「リスカはこの意識を俺の差別と感じるだろうか。俺自身は否と思っている。だがお前の立場から見れば、やはり差別ととれるかもしれない。それを承知の上で言う。この世から、差別は消えてなくならない。なぜなら、この悪しき差別が革命を起こし、世の発展を助けることがあるためだ。特に、激動の時代と未来で呼ばれるような世では」
 真面目な返答だと思った。正しいか過ちかの問題ではない。フェイはとても真摯に言葉を紡いだ。ゆえにその答えは、リスカにとって最も誠実なものとなった。
「――私は不具の術師です。そのために過去、師を抱いたことがない。けれども、術師たちが集う学びの場において、幾度か、敬うに値する魔術師に、教えを乞うたことがあります」
 フェイが無言で先を促した。
「ほとんどの魔術師は、答えもしてくださらず、横をすり抜けていきました。私は人でありながら、亡霊のように扱われました。それは屈辱でした。ゆえに私は癇癪を起こし、彼らの無情な背に叫んだことがあります。私が望んで不具の生を選んだわけじゃない! するとたった一人振り向いてくださった。その方は、あなたと同じようなことを言われました。差別を見、知って、人は奮起するものだと。私はその言葉を、なんて身勝手なのだろうと思いました。犠牲を強いられている気になったためです。――けれど、違うのですね、きっと。今のあなたの答えも、冷酷であるばかりではないのですね」
 ゆっくりと刻むようにして言葉を吐き出すリスカに、フェイが微笑んだ。
「そう、少なくとも俺は、お前を見下していない」
「はい」
「けれどもお前の許可を待ちはしない。俺は女の下では満足できないから」
 リスカはやはりやるせないような、許せないような心地になり――フェイの表情を見てぎょっとした。今の言葉、単純に、先の会話と繋げただけでなく少々どころかかなり卑俗な意味がこめられていたと気づいたためだ。高貴な騎士様が、異性相手に言う言葉ではない。
「どうしてもというのなら、時々は乗らせてやる」
「フェイ!」
 不埒にすぎる。思わず非難の声を上げたら、くすりと笑われた。
「知らなかったか、俺だとて恋を楽しむ心があるし、女を可愛がろうという気も持っている」
 リスカはつい唸った。するとどういうつもりなのか、顎の下を指先でいじられた。
「リスカ、お前が口づけてくれたら俺はきっと、女王を前にした時のように、お前にかしずく」
 ふいに甘くねだられ、その青い目を見ていられなくなった。
「悪いようにはしない。だから――」
 暴れ狂ってでもフェイの言葉を叩き斬ってやろう、とリスカが全身に力をいれた時だった。
 こんこん、と扉が慎重に叩かれたのだ。
 リスカとフェイは同時に扉へと顔を向け、動きをとめた。
「何だ?」
 フェイがやや大きめの声を出し、それでリスカは身体の硬直がとけた。慌てて彼の膝から飛び降りる。とっさという様子で腕を掴まれたため、大きく体勢を崩し、リスカは床に潰れた。痛い、思い切り膝を打ったではないか!
「やー、リカルスカイ君と騎士殿! 邪魔をして悪いが、騎士殿にお客様だよ」
 なぜかミラクに負ぶさっているツァルが扉から顔を出し、にこにこと大きく手を振った。
 客?
 情けない笑みを浮かべつつも、思わずツァルに手を振り返してしまったリスカだが、客とは誰だろうと首を傾げた。
「もう、騎士殿もすみにおけないねえ。綺麗な金髪のお嬢様と従者その他がお見えだ」
「何?」
「何ですって?」
「あ、それにねえ、我らが美貌の魔術師殿と君のご友人の騎士殿もご到着だ。なんだかこの二人は実に険悪な気配をまとっていたが、いやいや賑やかになったねえ。というかリカルスカイ君、君はいつからかの魔術師殿の弟子になったんだ! いや本当に君たちはすみにおけないね」
「何?」
「何ですって?」
 リスカとフェイは、先ほどと同じ驚きを示してしまっていた。
 綺麗な金髪のお嬢様――なんとなく察しがついた。というよりもそういった貴族の女性は一人しか知らない。リィザだ。フェイを慕っていたはずだから、もしかしたら健気にもここまで追って来たのかもしれなかった。
 それから、美貌の魔術師とフェイの友人の騎士……しかも険悪な雰囲気であるという。ま、まさかジャヴとエジですか、とリスカは顔を引きつらせた。
 しばしの沈黙後、リスカは「さ、いってらっしゃい」と素晴らしく爽やかな笑顔でフェイを立たせ、背を押した。フェイは怒りの表情を浮かべてリスカを睨んだが、この屋敷の主がはるばる訪れた客人を放置するわけにもいかないと諦めたのだろう。小さく吐息を落として、髪を少し直した。
 扉へ近づくフェイの代わりに、ツァルが、というかツァルをおぶったミラクが室内に入ってきた。リスカは目を見開いた。なぜなら、ツァルの髪の中に、シアがもぐっていたのだ。ということは――
 通路に出ようとしていたフェイの足が、部屋の出入り口である扉に到着する直前で、不自然にとまった。リスカは思わずふらふらとそちらへ歩み寄った。
「セフォー?」
 なんというべきか、セフォーもこちらへ来ていたらしかった。し、しかし、セフォー、明らかに寝起きといいますか、目が死人のように淀んでいますよ、髪も私よりぼさぼさで、なおかつ衣服が実に威勢よく乱れていますよね、とリスカは内心で細かく指摘した。
 セフォーが瞬きし、ちらっとフェイを見た。フェイもまた、まったく人目を気にしていないセフォーの乱れっぷりに呆れた目をそそいでいた。二人が扉のところですれ違う時、リスカは少々どきまぎした。金銀の、対極の色ともいえる華やかな髪を持つ二人がそうして並ぶのは、雰囲気的にも容姿的にも場を圧倒するものがあり、ぞくりとしてしまった。
 すれ違った直後、セフォーが不意に足をとめた。
「――」
 リスカはきょとんとした。通路に出かかっていたフェイが何を察したのか、弾かれたように振り向いた。
 セフォーもまた、ふっと振り向く。そしてくるりと足を返し、扉の方へと――フェイの近くへと寄った。
「――リスカが、許しているから、殺さぬだけだ」
 全身で警戒しているフェイを見据えながら、セフォーが抑揚のない声で告げた。
 リスカは息を呑んだ。
 セフォーが小さく笑ったあと、まるで愛撫するかのようにフェイの顎を掴み、顔を少し近づけた。指先で一度、愕然としているフェイの唇を撫でる。
「お前、誰より、殺したいな」
 どこか楽しげにさえ聞こえるセフォーの言葉に、リスカは鳥肌が立った。おそらく、口づけできそうなほどの距離でセフォーの殺意に触れたフェイも、全身粟立っていることだろう。
「私が愛でる、可愛い人だ。必要以上に近づくな。分かるか、男」
 せ、セフォー! 脅してます、それ脅迫です! とリスカは全身全霊、おののいた。
 フェイの顔が一瞬で青ざめた。
 それはそうだろう。あの鋼を貫く氷の眼差しと魔王のごとき威圧感の両方を、至近距離で受け止めさせられたのだ。リスカだったらたとえ己に罪はなくとも全力で平伏する。
「……奪う時が楽しみだと言ったら?」
 凝固していたフェイが背を伸ばし、ぐっと目を鋭くして呟いた。
 信じられない! とリスカは叫びそうになった。殺意をのぞかせている今のセフォーに挑発の台詞を投げつけるなど、もはや正気の沙汰ではないし、到底信じられない。会話の内容について驚くよりもまず、フェイのやけくそな度胸に激しく感嘆してしまうリスカだった。
「奪えるのか?」
 セフォー、今の表情と声音、完全に悪役ですよ、とリスカはぶるぶる震えつつ手に汗握った。すでにこの段階で、自分のことについて二人は話をしているのかも、という疑いなどそっちのけで固唾をのみ、見守っている。
「奪えないと思うのか?」
「無論」
 二人で挑発し合っている!
 しかし、突如セフォーは興が削がれた様子で、フェイから手を離した。
「必要以上に近づけば、リスカがとめようと殺す」
「そんな真似をして、女の心が射止められるとでも?」
 フェイの憤りを背に受けながら、セフォーがリスカの方へ近づいてきた。
 ひ、とついつい逃走をはかりかけたリスカの髪を、まったく信じられぬことに閣下様はその手で鷲掴みした。これはなんと表現すべきか、首根っこを無造作におさえるような感覚でリスカの髪を引っ掴んでいるのではないか。
 セフォーは答えず、どこか、ふふんと高慢な微笑をつくって、厳しい顔をしているフェイに振り向いた。ちなみにリスカは、罠にかかったひ弱な獣状態で固まっていた。
「――こらこら君たちはなんだね。さきほどの魔術師殿と騎士殿のように空気がすっかり凍えてしまったじゃないか、屋敷の中まで冬景色に変えないでほしいよ。ほら白銀の死神殿は、仮死状態になっている哀れなリカルスカイ君の髪を離してあげたまえ、騎士殿ははやく皆を迎えに行きなさい」
 深い同情の色をたたえながらこちらを見つめていたツァルが、ぽんぽんと手を打って二人に催促した。ツァルが本気で慈悲の天使に見えた瞬間だった。
 神よ、私が今気絶しなかったのは奇跡です、とリスカは内心で泣き笑いした。

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