桃源落花:3


「あの、ジャヴ」
「なんだ」
「いえ、その」
「なんだね。もたもたしていないで君も手伝いなさい」
「ひ」
 現在、リスカたちはまごうことなく悪逆無道の本泥棒と化していた。
 そう、図書室の最奥部に収蔵されていた、准中位魔術師以下は閲覧不可の貴重な古書を盗み出そうとしているのである。
 いいんですかいいんですかこんなことして、これで私も立派に闇夜を生きる悪党の仲間入り、暮らしに貧窮する以外の理由でまさか犯罪に手をそめるはめになろうとは、とつい自分の哀愁ただよう生活事情を視野にいれて嘆いてしまうリスカだった。
 
●●●●●
 
「思ったよりも、有益となる書物があまりないな」
 貴重本がずらりとならぶ棚から数冊を抜き出して小脇に抱えたあと、ジャヴがじつに身勝手な独白を落とし、不満そうに眉を寄せた。不法侵入及び窃盗行為についての反省や罪悪感などはさらさら持っていないというのがそのふてぶてしい態度から明々白々に見て取れる。日々をささやかに生きる小心者のリスカにはまったく考えられない不敵さである。そうか、師のように一貫した唯我独尊主義を堂々掲げていないと生活水準はいつまでも変化しないのかもしれない、と気づいたところでなにも役に立ちそうもない余計な思考まで巡らせ、世の無情さ非情さにひっそり嘆息してしまった。人生の半分は、無用の悩みで占められているものらしい。
 ちなみに、禁書が並ぶこの部屋は特殊な魔術が仕掛けられた鍵できっちり施錠されていたのだが、そこは我らが上位魔術師のジャヴ様である。不出来で浅はかな醜い式だ、このように稚拙で未熟な術、もし行使したのが私であったら恥辱の極み、他者の目に触れさせるようなまねなどとうていできぬ、そもそも年々魔術の質が落ちてきているではないか、いや魔術師の能力自体が低下しているのか、まったく由々しき問題であるというのにだれも危機感なり向上意欲なりをもたぬとはなんという情けないていたらく、この調子では遠くない未来に魔術世界が滅ぶだろう、などと好き放題にぶつぶつ悪態をつきながら鍵に施されていた魔術を手早く解除してしまったのだ。さわらぬ師に祟りなし。うむ。
 そういえば塔時代の私たち、こっそりと禁書を閲覧しにここへ来て、偶然顔を合わせたことがありましたね、とリスカは遠い記憶に思いを馳せた。あのころのジャヴは今考えれば、別人と見まがうほどに初々しく清らかで、希望と熱意に溢れた礼儀正しい好青年だった……と時の流れの残酷さに涙せずにはいられない。人間、成長するものである。邪悪な方向に。
「リル」
「くひ」
「手伝えといったろうに。はやくせぬか」
「く」
 ジャヴが探しているのは魔術体系全般、算術式本、古代術学、術画論、悪魔や魔物に関する生態学、神話本、はては民俗学やら御伽噺やら暗号詩歌やら王都地形図やら、とにかく選別基準がひとつにさだまっていない上、すべて初版本あるいは改編前のものといった、じつに厄介な限定本ばかりだ。一冊一冊を棚から引き抜き奥付を確認するだけでも手間であり、なおかつ古いだけあって大半が旧字体。もっといえばかすれていて羽虫の小さな灯りだけでは読みにくい。
「これはひどい。参考になりそうな書物がほとんど置かれていないじゃないか。以前はもっとましだったはず。処分したのか? いや盗まれでもしたか。いったいどこの不届き者が持ち去ったのか」
「はあ」
 あの、以前のことはわかりませんが現在ここにその不届き者が二名ほど、と事実を告げる勇気を持ち合わせていないリスカだった。
「つまらぬ書物ばかり揃えるから、術師の質が向上せぬのだ」
 これといった良本がなかなか見つからないためか、ジャヴが憤懣やるかたなしといった様子で腰に片手を当て、書棚を睨んだ。床に直接すわりこんで難解文字と格闘していたリスカは、今にも棚を攻撃し書物根絶計画を実行しそうな危ない目つきの師を見上げ、頭をひねった。命じられるまま手伝いをしているが、そもそもこれら様々な系統の書物をかき集めていったいなにをするつもりなのか、術の開発だろうか。最初の話通り、弟子に講義してくれるつもりとか。それにしては傾向がばらばらだ。
 いや、そのまえに。
「あのう、ジャヴ」
「なんだね」
「これ、本当に持ち帰るつもりですか」
「まさかここで呑気に閲覧していけとでも? 君も意外に剛胆というか楽観的というか。捕まりたいのか」
「いえっ」
「だったら無断拝借以外にないだろう」
 え、そんなあっさりと断言していいんですかもしや悩む私のほうが異常ですか、と平然としている師の姿を凝視しながらリスカはうろたえた。いやいや、セフォーの心胆を寒からしめる殺戮の宴と比べればまだましのような気が――ちがう、判断基準がなにやらとんでもないことになっている。
 リスカの動揺をなんと受け止めたのか、書物に殺人的視線を熱く注いでいたジャヴがこちらを見下ろし、すうっと酷薄な薄い笑いを作った。
「私欲にまみれた騎士どもならず、この塔が、多岐に渡ってあれほど貢献していたはずのシエル様を最後にどう扱ったか、それを思い返せば砂粒ほども良心など痛まない。そもそも塔の傲慢な術師どもはシエル様の屋敷から大半の財や資料を奪い去った。どうして私が今、躊躇を覚えようか。第一、魔術師に一般的な良心など必要か? 邪道こそが我らの正義だろうに」
「う」
「君だって酷い目にあったからこそ、先ほどは本気で嫌がり帰りたがったのだろう?」
 影を引きずるような重いまなざしを向けられ、リスカは縮こまった。胸を乱す記憶がちらほら脳裏をよぎり、心を冷水付けにする。
 ずぶずぶと暗がりに落ちかけたリスカを見てジャヴが微笑を優しげなものに変え、頭に手を乗せてきた。
「悩むな。私が師となったのだから、ひとりで鬱屈せずになんでも相談しなさい。過去に惨い行為を受けて未だ傷となっているというなら、私がその痛みをもたらした相手にもがき苦しむほどの報復を」
「いえいえいえ大丈夫、大丈夫ですとも! お気持ちだけで本当に!」
 と嘘でも言わずにはいられない。もがき苦しむって、どれだけ残虐な報復をするつもりですか。
「なんだね、遠慮して。私が弟子の悲嘆を放置する薄情な者だとでも?」
 いえその逆で、なんだかセフォーと同じ極限的な壮絶さを感じずにはいられないんですが。もしやセフォーと大親友になれるのでは、と思いつき、ぶるぶる震えずにはいられないリスカだった。そういえば以前にもこれと似たような考えを抱きおののいた気が。万が一、本当にジャヴとセフォーが意気投合し手を結んだら、大抵の悪事は遂行可能となるだろうと。殺戮規模が国単位ではなく世界単位、とか。ひ…!
 完全には否定できない凄惨な妄想は自分の安寧のためにきっちり抹消するとしてだ。よほど師弟関係というのが嬉しいのか、方向性やら発想はえらく危険であるもののジャヴがとてつもなく過保護になっている。そこはかとなく嬉しいような真剣におそろしいような。私もこれ以上、師の居丈高な悪徳至上精神に感化されて図太くなったらどうしよう、どうせ似るならその美貌だけで…、などと自分の身を振り返りもせず大層無謀で無礼千万な苦悩をしてしまうリスカだった。
「気が変わったらいつでもいいなさい。他者を徹底的にいたぶるのは楽しいからな」
「いた、ぶ…」
「己を強靭と過信している傲慢な者を叩き潰すのは愉快だろう」
「愉…」
「屈辱と恥辱を与え、その驕った心根もへし折り踏みにじる。胸が高ぶるな。ああむろん、弱者も弱者でつつき回すのは楽しいが」
「師よ、それは報復ではなくもはや嗜虐嗜好…」
 などと奇妙にずれた会話を時折かわしつつも作業を一応続けていたのだが、しばらく経過したころ、書物漁りに見切りをつけたらしいジャヴが気怠げな顔をしてふうっと小さく息をはいた。
「どうもたいした資料は保管していないようだ。以前は良きものも充実していたのに、これはあてが外れたかな。しかたがない、ここまでにして引き上げよう」
「わかりました」
「書物を片付けるか」
「はい。私、やりますので、少し休んでいてください」
 リスカは軽く答え、出しっぱなしにしていた不要な書物を元の通り、棚に戻した。まあそれでも抱えられる分は盗み出してしまうつもりなのだが。当分のあいだ書物の紛失が発覚しないことを切に祈ろう。
 盗みの神に祈りを捧げつつ作業を終え、持ち帰る書物もしっかり抱えて、次の指示を待とうとジャヴに向き直る。
 室内がきれいに片付いたことを確認したジャヴが軽くうなずき、先に立って歩こうとして――ふと動きをとめ、リスカに目を向けた。
 なんだろう、書物は全部整理したはずだが、なにか不備があっただろうか。どぎまぎしつつ見つめ返せば、どういった心理に至ったのか、ふふっと面映げに笑われてしまった。
「べつにね、なんでもない」
「は、はあ」
 不愉快そうではないし、この場合はしつこく理由をきかなくても大丈夫だろうか、と若干戸惑いながらもリスカは口をつぐんだ。
 ジャヴが笑みを深くし、リスカが両手で抱えている書物をつんと指先でついた。危ないです、けっこうな冊数なんですからつつかれると落としてしまいますよ、とリスカはおたついた。
「心配せずともよい。これら書物は、読み終えたらあとで返却する。そうしたいのだろう?」
 一瞬の驚きのあと、リスカはほうっと安堵し、表情を限界まで崩した。師よ、あなたったらもう口は悪いし態度も回転しそうなくらい曲がっているけれど、本当は純粋で尊敬できる人です、などと内心で褒め讃えた。無断拝借にはちがいないが、のちに返却するのとそうしないのとでは、心情的に雲泥の差である。よかったよかった。
 リスカは嬉しくなり「ありがとうございます」と礼を述べた。するとジャヴが、なにやらあどけない少女のように自分の指にくるくると髪を絡ませて、笑みの残るまなざしでリスカを見つめた。
「な、なんでしょう?」
「いや、弟子とは愛らしいものだと、そう思っただけだよ」
「は」
 リスカは目をぱちぱちさせたあと、仰天した。ジャヴの師弟関係好きはいろいろと冷や汗が噴出するほど思い知ったつもりでいたが、今の言葉は予期できなかっただけに鳩尾に一撃いれられた気分だ。
「いつもそう素直でかわいい弟子でいなさい。わかった?」
「ひ。はい」
 この人は本当に、全身を掻きむしりたくなるほど弟子に甘くなるのだ。
 
●●●●●
 
 リスカたちは塔全域を覆う守護結界の穴を狙ってふたたびの転移で戻るべく、図書室を静かに出た。
 行くのはたやすく、帰りは困難。えてして世の中とはそんなものだ。
 ジャヴの話によると、塔の守護結界は強固に三重仕立てとなっているのだが、術の重なりが逆に穴を生むという矛盾をつくってしまっているらしい。その穴を見抜けるのは上位以上の力量を持った魔術師くらいであり、もっと複雑な事情を暴露すれば結界を構築した術者はあえて隙間が生じるよう式を設計しているらしいのだとか。完璧すぎる術の層を長期間保持した場合、内部空間になんらかのゆがみや異変をもたらす危険性があるためだという。これを住居にたとえるならば、風通しをよくしておかねば空気が濁る、といったあたりか。
 ちなみにその穴の位置は一定時間が経過後、不規則に変動するしくみになっているので、先ほどの到着地点と同じ場所からではもう転移が不可であるらしい。
 ジャヴは図書室を出てしばし無人の通路を歩いたあと、暗いばかりの周囲に目をむけておもむろに立ち止まった。思案顔をして、なにやらごそごそと外套の中に手を入れ、懐から小さな半透明の容器を取り出す。親指ほどもない本当に小さな容器だ。
 たぶん結界の抜け穴を探すための道具なのだろうが、どのように使用するのか。さすがは上位魔術師なだけあってリスカの知らない様々な術や魔具を所有しており、興味がつきない。
 好奇心をふくらませてうずうずしているリスカに気がついたらしく、ジャヴが少し笑って容器を軽くこちらにかたむけた。リスカはしがみつくようにして師に近づき、じっと容器を見つめる。ちちち、とあたりをゆるく飛び回っていた灯りの羽虫が、まさかリスカのように好奇心をいだいたわけではないだろうが、ジャヴがさしむける容器のすぐそばにまで寄ってきた。おかげで容器が見やすい。
 塔へ侵入したときにはこういった道具を使っていなかったが、すでになにかしら準備し終えていたのだと思う。行きと帰りとでべつの方法をとるのは、おそらく守護結界にかかる外からの圧力と内の抵抗力の違いではないか。
「これがなにか、知りたいか?」
「はい」
 せがむ勢いで深くうなずくとジャヴが目を伏せるようにして笑い、リスカの肩に手を置いた。そして、容器を持ったほうの手だけで器用に蓋を開ける。説明は、穏やかな声だった。
「灰蟲(かいこ)だよ、聞いたことはないか?」
「灰蟲」
「そうだ。太古の岩から樹皮のように剥がれ落ちた苔を乾かし、粉状にすり潰して、使役の術を施したものだ。これはさほど古き術ではないが、とくに華々しいものでもないから、扱う術者はそういないだろうな。だが術式はじつに精緻だよ。手軽で華美なものしか会得せず、こういった堅実な算式の術を打ち捨てるから魔術師の質がさがるのか」
 後半悔しそうに独白する師の様子に笑いをこらえつつも凝視していると、容器から薄い煙のようなものがわき上がってきた。いや、ちがう、煙ではなく、極小の、砂の粒?
「肉眼では見えにくいが、一応は虫の形をしている。まるで埃のようだがね」
「どのように使う術ですか?」
「うん。使い道は極めて限られる。これはあやかしの存在を暴く――要するに、隠されし術を見出すとその式の軸に付着する」
「以前花苑で使用した聖水とはまたちがうのですか」
「ああ、花苑にひそむ魔物を捜索するときに使ったものか? あれは魔物の魔力に反応する聖具、こちらは術を見つけるための魔具だ」
「なるほど」
「術というのはじつのところ、ひどく煩雑な手間なり制限などがある。ひとつの術で、あれもこれも可能にするということはまずもってない。だからこそ多くの術式を覚えねば、魔術師としては使いものにならない」
「はい」
 リスカは神妙にうなずいた。ジャヴのいわんとするところはよくわかる。極端な例を出すと、治癒の術式で、結界を構築したり攻撃を仕掛けることはできない。治癒はあくまで治癒のみ。そうすることによって術の効果も高くなる。ただリスカの場合は特殊で、媒体となる花びらに魔力が適合さえすればあとは術式の精度のみの問題だ。けれど正規の魔術師は、術に見合った道具選びもまた重要であり、大変な知恵と労力を必要とするにちがいなかった。
「もともとは、罪を犯して逃亡した魔術師が身を隠すときなどに構築する術を暴くためのものなんだが、今の場合はこの、不規則に発生する結界の穴を探すために使う。まあ、そこは発想の転換というものだ」
 はい、現在私たちこそが犯罪者ですよね、結界から出るために使おうとしてますもんね……とちょっぴり後ろめたさというかこの術にたいして申し訳なさを感じてしまったリスカだった。
  灰蠱たちはもやもやとけぶるようにしてしばし宙にとどまったあと、ジャヴの命を受けて結界の穴を探すべくゆっくり飛び去っていった。
「しかし、術というのはおもしろいだろう?」
「はい」
 リスカも塔時代、山を築くほどの書物に目を通したものだが、花びらにしか振り向かないこの魔力の限界を悟ってからは正規の術師たちが使う術式系統の教本には関心が持てなくなった。むしろ劣等感がいや増すとわかっていたので、ことさら避けていたように思う。
 塔を離れ、自由な暮らしを手に入れてからだ、教本のたぐいもやはり読み解いてみようと思い直したのは。そういった理由で、まだまだ、学ぶべき術式は無限なくらいに存在する。
「リル、我らの術式では確かにそのままでは君の魔力になじまないだろうが、魔具の中には花を石化させたものや液状化させたものもある」
「は」
「研究を重ねていけば、思いもよらぬ方面から君専用の新たな魔具を作り出せるかもしれない。だから、一方に偏らず、はじめから無理だと拒絶せず、なんでもすすんで学んでみなさい」
「はい」
「周囲の批判や嘲笑など、しょせんは雑音。そうだろう、批評を口にする他人が君の生活を支えたり苦しみを肩代わりするわけではないのだから。無責任ゆえの辛辣さだ。耳を塞げとはいわないし稀に得るものもあろうが、気にしすぎると視野が狭まる。君の現実を、他人の玩具にさせるな」
 師のまなざしが、世の真理かどうかは知らない。たぶんリスカを奮い立たせるために、あえて偽悪的に言っているのだろう。
 ただこれだけは断言できる。世の美しさとあたたかさをきっと凝縮させた目なのだろうと。
「学問とはすべて、楽しいものだ。なにもかも自分の歩調で楽しんでいけ。そしてときには、だれかの手を取り、助け合え」
「はい」
 リスカは、少しばかり――目を潤ませそうになった。この言葉。塔時代に、底なしの失望の中でもがいていたときに、一度でいいからききたかった。そうすれば歪んだ魔力をここまで恨むことなく、自分を励ましながら強い心で過ごせたのではないか。大半は自業自得とわかっているけれども。
 いや、もういい。いいのだろう。もうなにも恨まずともきっと強くいける。だって今は――
「ふふ、すぐ泣く弟子だ」
「泣いてませんよ!」
「嘘つき」
「泣いてませんったら」
「そうか?」
「そうですとも」
「じゃあ顔をお見せ」
「いやです」
「どうして」
「恥ずかしいからです。他意はありません!」
「ああそうだね、はいはい」
「くぅ!」
 などと状況を忘れて怪しく楽しく師弟愛をくりひろげつつ、灰蠱を追って通路を賑やかに進んでいたのがまずかったのか。
 ふたたびの足音が背後まで接近していることに二人ともまったく気づかなかったのだ。油断と隙と脱線の多い呑気な師弟である。反省したい。反省させたい。
「――おまえたち!」
 突然響いた厳しい呼びかけに、リスカはうぎゃっと飛び上がった。こらこらこらだれですかこんな真夜中に大声を出すなんて近所迷惑な、常識と礼儀がいささか欠けているのでは、もしやジャヴに教育的指導されたいんですか我が師は見た目こそ美しく優しげですが騙されてはいけません、中身はセフォーにそっくりですよ半死の目にあいますよきっと、などと不法侵入と窃盗という二重の悪事を現在進行形で行っている事実を完璧に棚に上げつつ、リスカは太鼓と化して激しくばくばくする心臓をおさえ、非難した。胸中のみで。一部、ジャヴについて命を顧みない大胆表現があるため、とても口にはできない。
 戦々恐々と振り向けば少し距離を置いた先に、さきほどジャヴの虚言で退散したはずの世渡り上手な夜勤術師ともう一人、明らかに応援を求められてきましたといった感の屈強そうな術師が手に灯りを掲げ、立っていた。
「おや、しばらく寄るなといったのに、戻ってくるとは」
「ずいぶん威勢のいいことだが、そこまでだ」
「ふうん?」
 ジャヴの応答に、夜勤術師が勢いよく指を向けた。
「おかしいと思ったのだ、おまえの顔に覚えがない。塔に籍を置く者ではないな。薄汚い侵入者め。だが、この塔に潜り込んだ度胸だけは認めてやろう。容赦はせぬがな」 
 どうやら退散したのちに冷静に状況を思い出し、疑問をいだいたのだろう。夜勤術師がどうだとふんぞりかえり、まさに勝ち誇った顔そのものをリスカたちに見せた。強そうな味方もいるから心強いにちがいない。うむ。
 顔を引きつらせつつもびくついていると、ジャヴがかばうような、というより、抱きこむような仕草でリスカを身に引き寄せた。まちがいない、我が師はこの緊迫した状況を大変おもしろがっている。悪である。
「さあて…、容赦ね」
 じつに妖美な雰囲気を醸し出しながらジャヴがささやき、笑う。絶対にまちがいない、我が師はろくでもない演技をしかけるつもりだ。謝罪したい。
 悪巧みの微笑を浮かべるジャヴを仰いだあと、リスカは書物をひしと抱えつつ次の展開を怯えて待った。とめるつもりのない自分もじつは同罪であるという事実に気づいていないリスカだった。
 強面な術師が、ややいぶかしげにジャヴを見据え、こう問いかけてきた。
「おまえたちも魔術師だろう。だが、塔でも見かけたことはなく、罪人として手配されている顔でもない。何者だ? なぜこの塔に侵入した」
 いやあそれがですねいろいろと深い事情がありまして、ともみてをしつつ思わず愛想よく答えそうになったリスカだった。
「何者だと思う?」
 とジャヴがいかにも秘密めいた様子で問い返した。すみません我が師に悪気はありませ……いやありすぎるほどあるんですがだからといって悪人ではなく……もありませんがしかし決して犯罪行為に手を染めるような人では……ありますが、ううう、とリスカは一生懸命ジャヴをかばおうとしたが、すべて徒労に終わった。ふがいなし。
「問うているのはこちらだ!」
 と夜勤術師が怒鳴った。あの、ですから今は深夜で……とリスカは大真面目に注意したくなった。
 ジャヴは余裕綽々といったふてぶてしい態度で、リスカの髪に指を通したり顎に触れたりした。
「我に問うのか。ではその代償は?」
 というジャヴの切り返しに、リスカを含めた全員が、はい? と首をかしげた。
「代償とはどういう意味だ」
「いかなる意味でもある。殺さず見逃してやったというのに、わざわざ戻ってくるとは。業の深いこと」
「なんだと…?」
 ちょっぴり強面の術師が身を引いた。ちなみに夜勤術師のほうも、うろたえつつあった。リスカもどきまぎしつつあった。いったいなにを言い出すのか。
「何者なんだ、おまえ」
 術師の再度の問いに、ジャヴが唇の端をゆるくつりあげ、妖花のごときなまめかしい微笑を浮かべた。同性であってもぽかんと見蕩れるほどの毒を含んだ微笑だ。まなざしには情欲すらひそんでいるような。
「我が人に見えるとは。まったく」
「なに?」
 リスカも内心、仰天した。
「私は幻惑の悪魔。あらゆる事象を歪め真実を骸と変える魔物」
 なんですってー! と驚愕の声を上げたのはリスカだけではなかった。するとジャヴが本当に悪魔なんじゃないかというような人をくった笑みを見せ、硬直しているリスカにひそひそ耳打ちした。「嘘に決まっているだろう?」と。不埒な好色魔術師役のあとは、悪魔のふりですか。もっとましな選択はなかったんですか、というか幻惑の悪魔ってなんですか、成り行きがてら、じつにてきとうに考えましたね、今。
「だが、いいだろう。今日は気分がよいから殺さずにいてやる」
 などと憎たらしくうそぶくジャヴの目が、なにかをとらえて動いた。ん? とリスカもその視線を追うと――通路の壁に作られた大型の窓の外に、白い煙がもやもやと舞っている。いや、あれは灰蟲!
 ジャヴがリスカを抱えるようにしてさりげなくさりげなく窓際へ移動した。灰蠱たちのけぶる場所に結界の穴があるのだ。
 そして、恐怖と驚愕で声も出ない彼らに向かって、ジャヴがもう一度大輪の花のような微笑を向ける。獰悪ながらも優雅なさまに、リスカまで目を奪われた。
「私との逢瀬を人に話せば、その命、あやまたず摘みにこよう」
 などと彼らの気概を挫くために不吉で意地悪な発言をし――
 ジャヴはもはや抱えるというよりもリスカを突き落とすようにして、ともに窓の外へ躍り出、転移をした。
 本当に師とする人をまちがえた、と捩じれる空間の中、リスカは気絶しかけながら自分の不運を全力で嘆いた。


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