桃源落花:4
暴挙に等しい強引な転移の到着先は、見知らぬ屋敷の前だった。
書物の持ち出しに成功したことで旅と称したジャヴの用事も終わり、てっきりフェイの屋敷に戻るものだと思いこんでいたリスカは、なじみのない周囲の景色にいぶかしみ眉をひそめた。しばし凶悪な転移の衝撃をやりすごすため、意識を飛ばしたが。
我が身の不運を呪いつつ涙目になりつつ全身ぐったりもしつつ、リスカは自分が現在立っている場所を正しく把握しようと目を凝らした。な、なんだろうこの、崖上の吸血魔城、といった奇怪さ抜群の異様な光景は。
すでに大気からしておどろおどろしい。平らなところを探すほうが難しいような傾斜の多い地面の向こう、真っ昼間でも妖気を放つにちがいない尖型の煙突屋敷が月を背にして立っている。全体、黒い。壁がとにかく黒い。夜の色よりなお黒い。屋敷周辺限定で、暗雲までもがたちこめている。
大地を覆う雪や並び立つ木々さえもすべてこの怖気立つような妖気の影響を受け、黒く染まってしまっているかに見える。
慄然とするあまり、抱えていた書物をすべて腕から落としてしまったが、今のリスカに気づく余裕はなかった。
「ほら、行くよ」
と目前の、古色を帯びた吸血魔城の黒門をなんの躊躇いも見せず通り抜けようとする剛胆な師の腕にしっかりとつかまり、リスカはその歩みを必死に引き止めた。どう見ても異界や魔界へと続く門だ、この不気味さは。ひきとめないほうがおかしい。
「なんだね」
「なんだというか、むしろ私がなぜとお聞きしたいです。ここ、どこですか。近隣の村人に災禍をもたらす邪悪な吸血魔を退治にきたとか、まさか私を生け贄に? ひ」
いきなりの命顧みぬ実戦教育なのか、とんでもありません、あなたの弟子は稀にみる弱小術師ですよ、戦闘場面では自信をもって足手まといになると断言できますよ、敵前逃亡こそが我が座右の銘、などとリスカは冷静に考えたら自分自身に落ちこむこと確実の、哀切きわまりなき主張を心の中で展開した。しかし、目の前にある危機を是が非にでも回避したいがため、口にすることはよしておいた。
「こら、なにを言っているんだ」
とジャヴが顔をしかめ、こつりと指の節でリスカの額を叩いた。ついでに雪の中で凍死しかけている書物に気づいたらしい。さらに渋い顔を見せ、書物の救助をはじめた。
「なにか許しがたいほどろくでもない誤解と妄想をいだいているようだが、この屋敷は――シエル様の隠れ家のひとつだよ」
「シエル殿の」
リスカは驚きを飲みこみ、言葉をとめた。シエル。ジャヴの愛した師。セフォーが殺害してしまった魔術師。
「立ち止まってないで、はやくおいで」
と拾い上げたすべての書物を器用に片腕のみで抱え、先を行こうとするジャヴを、ふたたびとめた。
「私がおじゃましていいのですか」
「なにを遠慮している」
ジャヴがふりむき、複雑な感情を確かに押しこめた静かな目でリスカを見つめた。ややしてぎこちなく手を伸ばし、なにかをごまかすためか、それともただ気になっただけなのか、乱れていたらしきリスカの髪をさらりと指先で整える。
ジャヴの様子を慎重に探ったあと、理知を失ってはいない表情だと判断したリスカは、ふいに湧いた所在ない気持ちを胸の底に沈め、ゆっくりと言葉を絞り出した。
「思い出の場所なのではないですか? 私がうかがえば汚してしまうことになりませんか」
ジャヴは黙って聞いていた。おとずれた沈黙はわずかなもので、すぐにいささか乱暴な手つきでリスカの手を取り、引きずるようにして門の中へと足を進める。
「ジャヴ」
「ばかもの」
「ひっ」
「ひとりでは来れなかったから、弟子の君を連れてきたんじゃないか」
振り向かぬ師の背を、リスカはじっと見つめた。なびく髪。手をにぎるあたたかい指。戦地に挑むようなこわばった背中。
やっと気づいた。
ジャヴは未来へようやく歩こうとしている。過去を封じたままにするのではなく、自らの手で開き、昇華させるために。
リスカを塔や隠れ家へつれてきたのは、その一歩なのだろうか。たとえ道のりは遠くとも。
●●●●●
ジャヴは、扉を開ける前にいったん足を止め、懐から取り出した小さな白と黒の尖晶石をリスカに手渡して軽く打ち鳴らすよう命じた。書物を抱えているために片腕しか使えないから、かわりとしてリスカにやらせたらしい。もしかするとこの屋敷にも塔とおなじく守護系の術が仕込まれていて、それを解除をするために魔具を使ったのではないかと思う。屋敷を覆っていた怖気立つような妖気もきっと、外敵の侵入をはばむ意図があったのだ。
解明された事実に一人得心しつつ入った屋敷の内は、もちろんあかりもぬくもりも皆無だった。今度は羽虫を呼ばなかったので、リスカは転倒しないよう、扉を開けるまえに離していたジャヴの手をもう一度握り、道しるべにしながら怖々と彼のあとに従った。
ジャヴは大広間らしき場所を通り抜けて広い居室についたあと、困惑しているリスカからそっと手をはなし、抱えていた書物を一度こちらにすべて持たせた。それから、壁の蝋、窓際の蝋、卓の蝋と、ひとつひとつ丁寧にあかりをともしていく。あたたかな色合いのあかりが増えていくたびに室内の様子がよく見て取れるようになる。
「少し埃臭いな……」
火のともらぬ蝋はなくなった。手持ち無沙汰な心地になったらしく、ジャヴが落ち着かないまなざしをあちこちに注ぎ、小さく独白した。確かにしばらくのあいだ手入れをされていなかったのだろう、人の気配が排除された乾燥した匂いがこもっている。そして当然ながら、ひどく冷えきっていた。
蝋の次にやるべきことを見出したジャヴが唐突に動き、夕焼け色をした荒岩造りの暖炉の横に積み重ねられていた薪をいくつか抱え、こちらに振り向いた。
「少し待ちなさい、すぐにあたたかくなるから」
そう微笑んで暖炉に薪を入れ、着火用の小枝に油をしみこませて、焚き付けをする。さきほどから魔術を行使せず労となるはずの手間をわざわざ選んで火をつけているのは、作業のあいだに、不安定に揺れる感情をきっちりと律し均衡を保とうと考えたためではないか。
リスカは腕にもっていた書物を卓に置き、不躾にならない程度に居室内部の観察をはじめた。
さすがは元貴族のシエルというべきか、吸血魔城めいた奇々怪々な外観からは予想しえなかった上品な年代物の調度類が置かれている。鳥の羽根を題材とした彫りの細かな卓や長椅子は、うっすら埃をかぶっているとはいえ、素人目に見ても高級であろうことがすぐにわかる。暖炉上の壁に飾られた五組の剣も見事だし、飾り棚にずらりと並ぶ小振りの彫刻物も多種の石をもちいて削られており、目に鮮やかだ。それらはすべて神話の生き物を象っている。シエルみずからが手慰みに彫りを施したのかもしれなかった。
なによりすばらしいのは天井だった。精巧な装飾がほどこされた格子状の梁を額縁に見立てて、様々な絵が描かれている。星座の神々だ、とリスカは感嘆した。これもシエル作なのだろう、絵自体は画家のように緻密な技巧などなく、やや抽象的である筆運びもずいぶん拙いほうといえるが、細部まで丁寧に、手を抜くことなく描かれているのがわかる。その丁寧さ、細かさがしっかりと伝わり、親しみやすくも粛然とした印象まで感じさせるのだった。また、ある程度以上の歳月を生きた者でなければ描けない、時の層を思わせる絵でもあった。高級な家具にもひけをとらないのだから大したものだ。
ところがだ。雅趣こそ信条なのかと思いきや、二組あるうちの片側の長椅子付近は、子どもがひっくり返した玩具箱のように、大変な乱雑さを呈している。様々な書物が山積みになっているばかりではなく、工黄学で必要となるような物々しい秤や円型の折りたたみ測定器、昆虫や奇形動物の精密模型、多様種の工具や使いこんだ画材、丸めた地図や手帳などをつめた鞄、製作中なのだろう魔具や彫刻、乾燥させた果実や薬草類などを乗せた籠、水晶をはめた固定型の大きな一眼鏡、おや、おまけに食べかけの菓子まで転がっている。
しかも燭台を用意するのが億劫だったのか、長椅子の肘掛け部分に直接蝋を垂らして乗せたあとまであり、思わず微笑んでしまったリスカだった。礼儀にうるさい人だったと聞いたが、おそらく弟子の――ジャヴの見ていないところでは長椅子に行儀悪く寝転がり、くつろぎながら書物を読んだりしていたのではないか。そういう想像がいくつもできてしまうようなシエルの過ごした痕跡。リスカは微笑みを消す。ジャヴにとってはこの上なく大事な人だった。そういう人に、リスカは不具だと罵られ、そしてセフォーが殺めた。時折思う。神に祈りを捧ぐことは、決してその祈りが届かぬということを再確認するためではないかと。
「リル、この屋敷はだれにも秘密だよ」
暖炉の火の様子を見ていたジャヴが振り向き、いたずらな笑みをつくった。リスカは慌てて表情をとりつくろい、素直にうなずいた。
「全体的に清掃が必要だが、ここの屋敷はどこも自由に使っていい」
「え?」
自由に、と気前のよすぎる許可をもらい、リスカは逆に戸惑った。シエルの隠れ家をリスカが勝手に利用していいのだろうか。
「以前、師に言われた。死後はこの屋敷をくれてやると。結局今日まで足を運べはしなかったが、それでも今は私のもの。だから遠慮はいらない」
ジャヴがどこかちからなく笑い、視線をあちこちにさまよわせたあと、観念の表情を浮かべうつむいた。きっとどこもかしこもシエルの痕跡でいっぱいだから、見ていられなくなったのだろうとリスカは推測した。
「さてリル」
「はい」
ジャヴが感情を整理するように軽く手を払ったあと、こちらへ近づいてきた。そして他のものを見ないようにか、リスカだけをその目に映す。美しいが、水の深くに沈んでしまっているような、とても遠い目の色だった。
「さきほど持ち帰った書物の中には、砂の使徒に関した情報が記載されているものがある。もちろん他に入り用があって持ち出した本もあるが、それはかまわなくていい」
「――砂の」
突然の言葉に、リスカはがんじがらめになった。塔の次は、不具の指摘。心休まる暇がない。
「そうだ。君は自分の魔力を疎みすぎているのではと、前から懸念をもっていた。正面から自分を見つめるいい機会だ」
「わ、私はべつに!」
「必要なくはないはずだ。さきほどの君の混乱ぶりを見ると。正しい知識を得るためにではないよ。あらためて自分の力を見直すことこそが肝要だという話だ。そしてどういう調査結果であろうとも起源は起源にすぎないと、きっぱり思い切ってしまえ。以前に言ったろう、君はもっと自身のいびつさを愛するべきと。花にのみ恭順をしめすその魔力は起源などもはや無関係。君の一部だ」
リスカはぐっと息をのんだ。反論したいのに、言葉が出ない。
「それと、屋敷内の書斎にあるのはシエル様が厳選したものばかり。貴重な書物が埋まっているはずだから、行き詰まったらそちらも見てみるがいいよ」
反応せずにかたくなな気持ちで顔をそむけたら、ジャヴに顎をとられ、むりに目を合わせられた。
「その頑固な感情をときほぐさなければ、ことあるごとに君は力の歪みを恨み、質の悪い諦念を手放せないだろう。嫌でたまらないのはわかるが、それでもなんとか奮闘してごらん。辛くて堪えられないと思ったら、私が慰めよう。そしていかなる事実が判明しようとも、君の味方であり続けると約束する」
そこまで気遣ってくれる師に、抵抗するすべなどもたなかった。
「……はい」
「あと仕事部屋などもあり、そこはなかなか面白い。古代の魔具や魔石がたしか収納されていたはずだ。ひとりでも退屈せずにすむと思う」
渋々うなずきかけて、なにか違和感を覚え、リスカは半眼になってじいっとジャヴを見つめ返した。ジャヴがふいっと目をそらした。
「あの、ひとりって」
「私は少し出掛けてくる」
有無をいわさず素早く身を翻そうとしたジャヴの袖を、リスカは負けじとがしっとつかんだ。すると、ふう、と億劫そうにため息をつかれたため、リスカもさらに負けじと、ふううううっ、と大きなため息を落としてみた。案の定、子どもじみた面のある師が腹立たしげな顔で振り返ったが、それこそがリスカの作戦だったとすぐさま察したようで、さらに険悪な表情を見せた。最近、師の美貌台なしな表情をよく見ている気がする。
「お待ちください、どちらへ外出を?」
「なんだねそのいやらしい目は。食料や飲み物を購ってくるだけだよ。この屋敷にある食料はおそらく黴びているからね」
それとも黴び入りの食事を食べたいか? と視線で脅されたので、師にすべてお譲りします、とリスカも声なき返答をして対抗心を微妙に燃やした。などと醜い争いをしている場合ではなかった。師がすべて悪い。
「ではすぐにお戻りに」
「まあね」
嘘をついていると直感したので、あえて無言になり胡乱な目で圧力をかけてみた。後ろ暗いものをもつ人間がいつまでも強気な態度を貫けるはずがない。ジャヴが舌打ちでもしそうな顔をした。おとなげない。
「……明日の朝には戻るから」
「明日の朝。どう考えても買い物に行くだけではないですよね、どちらへ向かわれるんですか。かわいい弟子に教えてください」
えらく苦々しい顔をされた。ふふん「弟子」の一言に弱いのはもう分かっている。存分に利用させてもらわねば、度々隠し事をされ、曖昧な説明のみで放置されてしまうではないか。
「ちょっと探し物をしたりね」
「私も行きたいです、ねえいいでしょう、先生」
この一撃、いや言葉はじつに効果覿面だった。ぐ、とジャヴが狼狽を見せたからだ。どこまで師弟愛による暴挙が許されるか、真剣に試したくなったリスカだった。
「……リル」
「だって色々とご教授してくださるつもりで私をつれてきたのでしょう? 弟子を一人置き去りにするなんて、そんなかわいそうな真似などしませんよね」
「置き去りなどとは大げさな。ここは安全だから、心配はいらない」
「そういう問題ではありません。というか、ジャヴ、まさか」
ふたたび勘が働いた。
よく考えればおかしい。なにか実践的な修業をしたり遠地に出向くというのではなく、書物のためだけにわざわざリスカを連れ回したなんて。はじめは未来への第一歩と思っていたが、どうもそれだけではないようだ。
自分は用事があるからとリスカをここに置き捨てて出掛けようとするのもまた、奇妙な話である。用事があるという言葉は本当なのだろうが、なぜ今度はリスカを同行させないのか。
いや、まず追及すべきは、なぜリスカをこの場にとどめ、フェイの屋敷に戻そうとしないのかということだ。書物ならどこでだって読めるのに。
もしかして、修業の旅、などというのはまったくの建前で――
リスカは背筋をのばし、自分に冷静さを保つよう言い聞かせながら、問いかけた。
「ただセフォーから私を少しでも引き離すために、こちらに連れてきたんですか?」
ジャヴが先ほどまでの稚い狼狽ぶりを消し、急に老獪な仮面をかぶった。その変貌こそ、自分の指摘が的中したことを示す根拠となり、本気で癇癪を起こしそうになる。なんて油断のならない師なのか。
「余計な勘ぐりはやめなさい」
などと叱責されても、もう遅い。
「じゃあ私、帰ります」
「だめ。ここなら静かで集中できるだろう。学んでいなさい」
「師のあなたがいないのに?」
「明日には戻るといった」
「どこへ行かれるのか、教えてくださらないんですか」
「一か所にとどまるのではなく、複数の場所へ行くつもりなんだよ。なにかよからぬ疑念を抱いているようだが、危地へ赴くわけではない。君を連れてもいいが、転移酔いするだろう?」
その言葉もあまり信用できない。酔いうんぬんというなら、今までの無謀で極悪な転移はなんだったのかという話になる。リスカは意を決し、自分の推理をぶつけることにした。
「――そんなに私がセフォーのそばにいるのは、許せませんか」
逆か。セフォーがリスカのそばにいるのが許せないのだろう。だからあえて、塔へ向かうとき、セフォーの前でリスカを取り上げるようなまねをした。もっと容赦なくいえば、リスカ自身にセフォーではなく師たるジャヴを選ばせたのだ。
ジャヴが顔をしかめた。ふっと吐息を落とす。ごまかすのをやっと諦めたらしく、少しばかり険のあるまなざしを見せた。
「そうだね、君は私の弟子だから、当然大切だ」
「しかしセフォーは私の護衛で」
「護衛? 笑わせる。彼自体が災いのもとだろう。あのような魔物じみた男をなぜ弟子の側に始終はべらせなければならない。不快でしかたがない」
「――」
これが、ジャヴの本音なのだ。最後まで偽ることもできない、掛け値なしの感情なのだ。いや、リスカがジャヴの弟子となったからこそ、本格的に心情を打ち明けはじめたといっていい。
「そうだろう、リル。悪魔と通じていた男だろう」
通じていただけではない、言葉通りに悪魔の心臓をも食らっている。だが、セフォーは人の心を持っている。苛烈すぎるほどに苛烈で、死神閣下という魔的な異名で呼ばれてもいるけれど。
あんなにリスカと離れることを嫌がって、拗ねていた。それでも最後には自由に行かせてくれたその優しさを思い出す。
「今すぐに、と命じれば君は反発しかしないだろうことはわかっている。それでも私を師と認めるならば、徐々にでかまわない、彼から距離を置きなさい。たとえ――シエル様のことがなくとも、私は彼を真に危ぶんだ。君はいずれかならずひどく悲嘆するはめになる」
「それは私の力不足で」
「ちがう。努力や経験などで補える次元の話ではない。私はもう二度と親しい者を失うつもりはない。どんな手を使ってでも諦めさせる」
「ジャヴ、ですが」
「君には君の言い分があるだろうし、彼にだって主張はあるだろうね。しかし私は我慢ならないのだよ」
ジャヴが切々と訴える。口先だけの空虚な論ではなく、本当にリスカを案じているのもわかる。それでもリスカは小さく首を横に振った。なぜなら、リスカにとってセフォーは、存在が危険であっても、他の危険をもたらす人ではない。
「すぐに心変わりなどできない。それもわかっている。だが私がこのように感じていることは胸にとどめておいてほしい」
「……はい。私、今日はここでお世話になります」
「そうしなさい」
ジャヴの言葉におされた、というよりも、今はたぶん、セフォーと顔を合わせたら表情をとりつくろえないだろう。そういう懸念のために、屋敷へ戻ることをリスカは諦めたのだった。
「なるべく早めに帰るから」
「はい」
ジャヴとこういった会話を続けるのも辛いので、むしろ一人で放置されるのは都合のいいことに思えた。
リスカは、ジャヴが転移で姿を消すまで顔を上げられなかった。結局、師がどんな事情で外出をしたのか理由を聞き出すことはできなかったのだ。
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一人きりとなった居室の中で、リスカは小さくため息をついた。
それから、かつてシエルが寝転んでいたのだろう長椅子にとぼとぼと近づき、浅く腰を下ろす。暖炉の中で薪が音を立てた。魚のひれのようにゆらめく炎。かたく閉ざされ凍りついていた空気が、熱にあぶられて動き出す。
もうそろそろ外套を脱いでもいいころだが、自分のついたかすかなため息でさえはっきりと耳につくほどの静けさに包まれているため、身体が無意識にくつろぐことを拒否してしまっている。また、室内のそこここに、さきほどジャヴが落とした言葉が宙に溶けることなく漂っている気がして、まだ顔を上げることもできなかった。
「師よ、ごめんなさい」
リスカは浅く腰掛けた状態で、背もたれに寄りかかった。ここでようやく、視線を上げる。
忠告を受ける前から、じゅうぶん察していたと思う。セフォーの魔力や雰囲気は周囲と比較してあきらかに突出しているため、よくも悪くも多くのものを呼び寄せると。
セフォー当人にとってはもはや日常にすぎず、気に病む類いのことですらないだろう。諍い事に巻き込まれたとしてもそれは、耳元で飛ぶうるさい小虫程度だ。しかしすぐそばで生きる者の目に、その小虫は、獰猛な獅子と変貌して映る。なにか対策を講じねばならないくらいの深刻な懸念要素で、セフォーの足手まといになって困るとか罪悪感が生まれるとか、そういう他愛のない次元の話ではないのだった。ジャヴの指摘は正しい。
セフォーはすでに異種といっても過言ではないのだろう。わざと酷い表現を用いるならばセフォーは、悪魔に近い命を持っている。人の心を持った悪魔。
だからなにかにつけリスカと意見が食い違うし、主義も常識も重ならない。
「でも、私たち、砂の使徒」
共通点とは言えないだろうか。いや、もはや悪魔よりの人だ、砂の使徒であるかどうかなどなんの問題にもならない。
「でも、でも」
探してしまう。探さずにはいられない。自分たちを繋ぐ細い糸を。
「でも、閣下は私に負けてくれます。私も閣下に負けるのです」
それは共通点にはならないだろうか?
リスカは長椅子の上に足を乗せ、膝をかかえた。
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などといつまでも鬱然としたまま無為にだらけているのはよくないし、帰還したジャヴにもこってりしぼられてしまうにちがいなかった。
リスカは長椅子の上であぐらをかき、塔の図書室から盗み出した――いやいやいずれ返却予定の――書物を広げた。
師たるジャヴは、砂の使徒について知れと道を指し示した。正直なところ、いまさら不具の起源など紐解きたくないというのが本音ではあった。興味がないのではなく、炎にまみれた醜い過去がどうしたって呼び起こされ、感情と思考がともに暗いほうへと傾いてしまうためだ。
それでも躍起になって文章に目を通す。妖精の血族である、などといった馬鹿げた記述に終始している本はすぐに閉じた。また、理に則った考察がされておらず整合性の見られない仮説のたぐいもすべてはぶく。そうすると、参考になりそうなものは結局わずかしか残らない。
めぼしい本を読了したあと、はー、とリスカは長く息を吐いた。
以前――塔時代に、砂の使徒の起源についての有力な説を聞いたことがある。罪人の血が流れているからだと。そのため子孫の術師たちは、身のどこかに刻印があらわれる。祖の魔術師が犯した大罪を終世まで決して忘れるなかれと、そういう意図をもって施された入れ墨。魔力に枷があるのもまた断罪のためだという。
リスカは自分の手を見た。指に浮かぶ、花の刻印。どんなにこすっても消えない刻印だ。
砂の使徒の起源については、リスカにもひそかに持論があった。ただやはり、外聞のいい説ではない。
異種婚による罰の証ではないのか。そう推測している。
図書室から無断拝借した民俗学や神話のたぐいを解説している書物にも、異種婚により血を高めるといった説話について言及している章が複数見られた。たとえば、悪魔と人。異なる血がいびつでありながらも卓抜した力を生む。しかしそのゆがんだ血は時に多大な障害をもたらすため、踏み入ってはならぬ禁断の交わりと定められている。やぶれば、ひとでなし扱いだ。その忌避すべき結合こそが今の世にまで残る砂の使徒への差別の正体なのではないか。ジャヴがシエルの死を抜きにしてもセフォーを嫌悪するのは、身の内に燃える悪魔の力を感覚の部分で察しているためではないかと思う。
ただし、この持論にもやはり、矛盾が生じてしまう。シアの存在はどうなるのかという問題もある。
どの説が正しいのか。どの説も一部あてはまっていたり、首をひねるところもある。貝のようにぴたりとうまく噛み合わない。
リスカは長椅子から降りたあと、暖炉に火箸をいれ、炎の具合を確かめた。それからだれも見ていないのだしと自分を甘やかして、行儀悪くその場に寝転がる。うう、しまった、埃まみれになりそうだ。そう思ったが、一度寝そべってしまうともう身を起こす気になれず、リスカはほどよくあたためられた暖炉のまえを左に右に、ごろごろと転がった。
「閣下、なにをしているのかなあ」
リスカは無自覚、無意識に独白した。すごく拗ねていた。謝罪するだけで簡単に機嫌を直してくれるだろうか。最終的に許可してくれたとはいえ、なにせあんなに、行くなだめだと恐喝され……いや、引き止められたのだ。きっとものすごい報復、いや懲罰、いやいや拷問、いやいやいや! お仕置きと説教が待っている気がする。フェイに八つ当たりして生皮剥いでいたりとか。目玉をくりぬき手足をぶちぎるとか。寒気がとまらない。
それでもどうしてなのか。
「私、会いたいです」
ふたたび、ふー…、とやるせない思いで長くため息をついて――我に返った。会いたい?
リスカはがばりと飛び起きた。埃も舞った。きっと勢いよく飛び起きたせいで頭に血が上ったのだろう、そうでなければこんなにかああっと顔が熱くなるはずがない。
そうだそうだ間違いない。
「うわああ、うわあ!」
リスカは呻いた。うめくついでにまたしても埃まみれの床に転がり、なおかつだんだんだんと拳で乱暴に床を叩き、もがいた。本当にちがう、ちがうのに、どうしてこんな、気を抜いた瞬間に閣下様のことを思い出さねばならないのか。ジャヴがあんな話をするから!
「ががが学問の旅に出る! そうします、いざ書斎!」
などとだれに対しての宣言なのか、とにかく無意味に大声を上げつつ、内心の混乱を静めるためシエルの書斎を目指すリスカだった。
恥ずかしさのあまり顔をおさえながら歩いたせいで長椅子の足につまづいて転倒しかけるわ、絨毯にひっかかるわ、壁に激突しそうになるわ、扉に顔面をぶつけそうになるわでもはや目も当てられないほど散々な有様だ。おかげで書斎に到着するまでのあいだに擦り傷をいくつもこさえてしまった。