桃源落花:5
●●●●●
屋敷の奥まった場所に位置する書斎は、まさしく小さな本の世界だった。
窓はない。扉側以外の三面の壁すべてが天井まで高さのある造りつけの書棚で覆われている。どの棚にも隙間なくぎちりと本が埋まっているので、慣れぬうちは、喉の奥に棒を突きいれられたかと疑うほどの閉塞感に苛まれるのではないか。また、限られた小さなあかりだけで見ているために、むやみに退廃的な想像力をかきたてられ、尻込みしそうになる。
自分の回りのみをぼうとささやかに浮かばせる手燭のかよわい火のゆらめきは、闇のゆらめきをもつぶさにもたらした。押しのけるようにせいぜい火を動かしても、また執拗に襲いくる獣闇。吐息を落としただけで軽くかき消えてしまいそうな頼りない命綱では、倒せない。だから、部屋の天と地をつくる四隅なんて依然、黒く押し潰されたまま。指を差し伸べれば、先端がぬるりと闇の洞の奥へ沈みこむ。と、指を引き戻す時、袖口からわずかにのぞいた手首の色が、なんの脈絡もなく、魚の腹の白を連想させた。簡単に傷つきそうな、むき出しの儚い白だった。この闇、目には見えても形などなく、地をぬう河の水よりも不確かなくせに、自分をなんて華奢な存在に変えてしまうのだろう!
光差さぬ穴蔵めいた冷たい静寂の中、夜の魔法にて命と知恵を宿した無数の本に囲まれ、じっと見下ろされているようだとも思う。やがて棚から書物が木の葉のように降り注ぎ、このままだれにもしられることなく本の墓の中にひっそりと埋葬されてしまうのでは……そういった、子どもじみていながらもどこか真剣に畏懼してしまうくらいの厳威も薄ら感じてしまう。
一人だからだ。屋敷の中に一人でいるせいで、余計に闇の嵩が増える。
リスカは手燭を持ちかえ、汗ばむ手を自分の着ている服で強くぬぐった。それから一度深呼吸し、気持ちを立て直して書斎の様子を丹念に確認する。
縦長につくられた室内の規模こそさほどではないものの、この充実ぶりはもはや一個人の書斎というよりちょっとした図書室に近いものがある。また、壁三面のほか、やや入り口側寄りの中央空間にも両面収納式の図書棚が数列設けられているが、こちらは平行ではなく迷路のように左右を多少ずらして固定されている上、リスカの背丈ほどしか高さがなかった。
その背後……部屋の奥に照りの見られる重厚な黒い卓と肘掛け椅子が用意されており、そちらへ実際に足を運んだあとで、なるほど入り口手前側に配置された数列の書棚は、訪問客の視線をまず遮る目的が強いのだろうということが理解できる。
というのも、扉側から見た時、収納棚には澄ました貴婦人のごとく整然と書物が並べられているのに、裏側――卓のあるほうから見た場合、なんと酒やらねじ式からくり人形やら盤上遊戯のたぐいやら、千差万別な小物などが雑多に押しこまれているのだ。貴族の優雅な夜会と大衆食堂のくだけた賑やかさが表裏一体となったような、珍妙な棚だった。
要するに、この書斎は他人の視線をうまくあざむきつつもシエルが完全にくつろいで閲覧することをなにより重視してつくられたものだといえる。
リスカは柔らかく忍び笑いをした。居室の様子を見たときに抱いた感想は、どうやら正しかったらしい。弟子には礼儀正しく優秀な師の姿を見せつつも、裏では紳士の帽子を放り捨て、こっそり息抜きする魔術師、という図だ。ただそれを弟子から――ジャヴの目から完璧に隠そうとはしていないのがわかる。仮にだらけ具合を見抜かれたとしても素知らぬ顔をするか、もっともらしい虚言を紡いでごまかすのか。そういう罪のない稚気も持っていた人だったにちがいない。いや、稚気というより、弟子に対してどんな形であれ、完全な拒絶を向けまいとかたく自誓していたのかもしれない。たとえわずかであっても弟子を傷つけて表情を曇らせないために。知れば知るほど面白味があり、また人間味もある。
以前のリスカにとってシエルという魔術師は狂気に落ちた男、ジャヴの師であった男、セフォーに殺害された男、その程度の認識しかなかったはず。ただ人物の表面を境界線の外側から淡々となぞっていただけだ。それがいつのまにか心の中で確かな肉感をもち、鮮やかなる色彩をも帯びはじめている。シエルの死後、かの人についての性情を知り、生活の片鱗に触れて、何度も思いを馳せるようになったせいか。
ふいに寒さを自覚し、身震いした。手燭を掲げ、黒石の卓の回りを慎重に探せば、思った通り下段の引き出しに熱を発する灰晶とその容器がしまわれていた。燃焼しやすい書物が多く置かれている場所で不用意に火を起こすわけにはいかないだろうから、なにか暖を取るべつの方法があるにちがいないとにらんだのだ。灰晶ならば、暖炉ほどの贅沢なあたたかさを求めるのはもちろん無理だが、それでも就寝時に使用されるような温水、温石などよりは多く熱を得られる。
リスカはひそかに喜びつつ容器を抱え、いったん書斎を出た。灰晶を発火させるには水が必須だった。それに、万が一の用心として、暖炉の火の始末もしてきたほうがいいと考えた。ジャヴが戻るまでのあいだ、この書斎にこもるつもりだったからだ。自由に屋敷内を歩き回ってかまわないと一応許可はもらっているものの、その言質を取るようにして本当にくまなく探索するというのはさすがに図々しいだろう。
とはいえ、遠慮しすぎもうまくない。暖炉のまえで動かず黙然としているだけでは、うう、閣下とか騎士殿のこととか、ううう、思いもよらない変な感情やら衝動やらがわき上がって混乱しそうだし、精神統一のため忘我の境地を目指せば、聖人ではないリスカはそのうちきっと睡魔に屈して寝てしまう。多少は仮眠をとるつもりだが、熟睡は気がひけるのだ。
などといろいろ頭を悩ませたあと、書斎くらいならばジャヴも軽い調子で勧めてくれていたので勝手に利用させてもらってもかまわないだろう、と判断したのだった。
まずは、書斎に来る途中で偶然見つけていた厨房へ向かい、水を探す。地下水を汲み上げる器機がどこかにあるのではというおぼろな予想は見事的中した。調理場の一画に手押し式の小型吸水装置が取り付けられているのを発見したのだ。内心はしゃいでしまった。だれも見ていないことだし、せっかくなので自分に拍手もしてみた。ちょっと気恥ずかしくなった。
空咳をして羞恥をごまかしたあと、試しに吸水装置の取っ手を押してみる。最初はなかなか動かなかったため、すでに故障しているかもしれないと落胆しそうになったが、諦めずに力をこめて繰り返すうち、接合部分にこびりついていた赤錆がほろほろと剥落するようになった。途端、押し上げの動作が格段に楽になり、管の先から少しずつ濁った水が滴りはじめる。
リスカは喜び、透明な水が流れるまでせっせと押し続けた。自分の店で使用している吸水装置よりもだいぶん精度がよさそうだ。あとで分解し仕組みをのぞいてみたいが、それはいくらなんでもやりすぎか。しかし、どうもシエルの自作品に思えるので、もしかすると書斎に設計図が保存されているかもしれないと期待を持つ。リスカはおおいに胸を弾ませ、水をはった容器を抱えながら厨房をあとにした。
それから居室へ移動し、暖炉の火を始末する。
長椅子の背もたれに無造作にかけられているちょっとすすけた膝掛けを拝借し、蝋のあかりもついでに消す。作業を終え、さあ書斎へ。肩に膝掛けを乗せ置き、右手に手燭、左腕で抱えるように容器を持つといったちょっと危うげな恰好だ。リスカは水をこぼさぬよう注意し、よたよたしながら書斎への道を歩んだ。卓のそばに容器を置き、いくつか蝋燭をつけてあかりを確保したあと、灰晶を発火させる。椅子に深く座って一息ついたとき、見知らぬ場所に対する居心地の悪さはなくなり、この閉塞感にも馴染んで好ましく思いはじめている事実に気がついた。
●●●●●
リスカは長い時間、乱立する彩り豊かな文章の森をさまよった。
椅子から立ち上がるのは、卓上の蝋が小さくなってあかりが消えかけた時だけだ。
ざっと題名を確かめただけで、この書斎まるごと持ち帰りたいと心底熱望してしまうくらい、良質な内容の本ばかり揃えられているのがわかる。種類の豊富さや全体の蔵書数ならば比較するまでもなく当然、塔の図書室のほうが上だが、この書斎に並んでいる書物はいずれも分野を絞っているだけに、より専門的なのだった。同内容を研究している魔術師が見れば、おそらく目の色を変えて飛びつくだろう。正直、研究職にもついていないリスカのような門外漢が好き放題に閲覧していいのか迷うほどの充足ぶりだった。
けれども、まったく傾向の異なる本が数冊、卓の引き出しの中に念入りに保管されていた。灰晶を探した時に見つけたものだ。あきらかに子どもを対象とした古い絵本で――誰のために用意されたのか、語る必要もないものだった。あとでそのだれかさんに教えてあげなくてはと思う。
とりあえず、一人の今は、自分の源流についてを知る旅が優先だ。
シエルの書斎はやはり術学や歴史学、神話関連の専門書で占められている。本音をいえば、神話関連に興味を抱いているリスカとしてはそちらを先に読破したいところなのだが、この考えが甘いのだろう。憂鬱だなどとなまけた言い訳をせず、やるべきことをやって、片をつけねばならない。
まずは砂の使徒に関する書物を探すことだ。さすがに使徒に関する書物はあまりないと思うのだがどうだろう。
一冊まるごと使って砂の使徒についてあれこれ言及しているたぐいの本は、今まで読みあさった経験からして大抵がすでに論を見失った御伽噺と化しており、真実味に欠けている。砂の使徒の子孫がみな死に絶えているという話なら研究者もそれなりに増えるだろうが、今現在、自分を含めて少数ながらも存命している。そういう中途半端な状態では率先して砂の使徒の過去を紐解こうとする者などめったにあらわれはしない。生者よりも死者に価値を置き重要視するといった、だれの胸にもある無意識の、本来憂慮すべきこの矛盾は、おそらく他国でも共通だろう。
風変わりな研究者がいても、その目は大概、砂の使徒の中のさらなる希少存在……セフォーのような驚異的力量を誇る者へと向かう。それも、歴史をたぐって人物を追うというよりは、めずらかな芳しい魔力自体の解明を望むのだった。むろんそうでない者もいるが、リスカは過去に数人しか知らない。
かような厳しい条件の中、多少なりとも真実に近しいものを求めるのなら、やはり歴史学本を第一にあたるべきだった。塔の図書室で探したときと同様、一冊一冊を開き、記載されているか確認するしかない。
書棚はきっちりと種類別に見やすく管理されていたため、それだけでもずいぶん手間が省けてありがたい。一部には過去に焚書となったはずの貴重な禁本まであり、瞠目せずにはいられなかった。そしてリスカが探していたのも、こういう世に出回ることをおそれられ処分扱いとなった禁本だ。表紙に印字されていただろう題名はけずられている。もくじを見るとどうやら魔力質学の体系本のようだ。
さっそく目を通す。ところどころ文字がかすれていて、蝋を近づけなければ読み取れない。時間を費やし、苦労した末、砂の使徒に関わる一文をようやく見出すことに成功する。
だが喜び勇んで拾った文字は、「悪」につらなる言葉――解釈するとなんのことはない、砂の使徒の祖が大きな罪悪に身を投じたのだといった、他のありふれた起源本とほぼ変わらぬ内容にすぎなかった。これにはおおいに失望せざるを得なかった。すでにもう、高い確率で砂の使徒の祖がなんらかの罪を犯したという説が有力だろうことはわかっているのだ。なぜなら手繰っても手繰っても、類似した文面しか出てこないのである。たとえそれらの説の詳細が突飛であったり矛盾を包括していたとしても、根源に刻まれているのは「罪」の一言だ。
しかしリスカが知りたいのは、「罪」の正しい内容なのだ。
ジャヴが見定めろといったのも、まさしく罪の内容に他ならないはず。知らぬままでいるから前に進めず、必要以上に怖れて臆してしまうのだと。はっきりと正視し、それが今のリスカには直接の関わりなど一切存在せず、ただ「過去」と名前のついた絵にすぎないのだと、腹をくくれという。
それにしても、また過去か、とリスカは淡く自嘲する。自分自身の個の過去だけでなく、使徒の過去……起源の罪までもがこうして今現在に化けてでてくるとは、まったく難儀なこと。因果とは、鉄の糸で紡がれてでもいるのか。いいかげん胸焼けでも起こしそうだ。
ぐったりと頭を卓の上に乗せた時、手にしていた書物を取り落としそうになり、リスカは慌てた。なんとか落とさずにすみ、安堵の息をつく。そしてとくに意味もなくぱらぱらと紙面をめくり――裏表紙の余白に、異様な絵を見つけた。
「……え?」
リスカは目を丸くした。いや、疑いに疑った。いったん目をそらし、幻覚ではないかと大真面目に自問したあと、覚悟してもう一度確かめもした。
明らかに新しくつけたされた稚拙なその怪しい絵――ようするに猥画というか男女が下半身をぎっちりと絡ませた図というか、これはまさかシエルが手慰みに描いた悪戯書きなのか、いやいやいや!
リスカは仰天し、急いで本を閉じて、もとの棚に戻した。なんだか見てはいけないものを見てしまった気がする。よし、見なかったことにしよう、とリスカは即座に決意した。そうか、まあだれだって作業中の息抜きに他愛のない悪戯書きくらいするだろう。うむ、知れば知るほどシエルという人は奥が深い。
ともかく、禁書への期待が大きかっただけに、有益な情報どころか目新しい仮説すらも発見できなかったことは、確実に気力を奪った。集中力も目減りしてしまう。まだ未読の歴史本は多いし、もしかすると一見関係のなさそうな系統の書物に砂の使徒の記述が隠されているのかもしれないが、この書斎を端から制覇していくのならとても一日では足りない。今はとくに意気消沈の最中だ。
少し仮眠を取ろうかとリスカは諦め半分の気持ちで考えた。埃臭い膝掛けを胸の位置まで引きよせ、ゆとりある椅子の上に両足をあげた時――なにかがリスカの勘にひっかかった。
リスカは呼吸をとめ、綻びかけていた集中力を戻した。うまくいえない違和感。不安を呼びさます感覚だ。
頭が痛くなるほど意識を鋭くとがらせ、大気の流れを読む。
誰かがこの屋敷の中にいる?
物音が聞こえたわけではない、しかし、空気の変化が感じられる。リスカの体内で燃える魔力が直接に異常を感知したというよりも、もともと屋敷自体に仕掛けが施されており、そこに生じた変化を読み取ったと見るのが正しいだろう。ここは上位魔術師たるシエルの屋敷、侵入者を阻むための術などが仕込まれていてもふしぎはない。そう、屋敷に入るまえ、白と黒の尖晶石を打ち鳴らすなどしていたのだった。
ところがなぜか今、変化が生じた。リスカは当然なにもしていない。となると、外部からの接触があったのか?
つまり上位魔術師が構築していた結界を、だれかが侵入目的でひそかに解除した?
もちろんジャヴではない。彼なら結界を故意に揺るがすまねはしないし、すぐにリスカのところへ顔を見せにもくるはずだ。ではいったいだれが。
ここはシエルの隠れ家だったのだ、軽々しく客人が訪問するよしもない。
だとすると、侵入者は間違いなく悪しき思惑を抱えており、結界を解除したその力量からしてリスカのかなう相手ではないことがたやすく推測できる。
先日の雪霞み事件の反省をふまえ、現在は多めに花びらを常備しているが、それがどのくらい通用するだろうか。
額に浮き出る汗を拭ったあと、リスカは目まぐるしく思索し、静かに椅子から降りた。
時を置かずして、リスカが――相手から見れば何者かがという言い方になるが――この部屋を利用していた事実が知られるだろう。なにせ灰晶で部屋がほんわりと温もっている。いや、居室の暖炉を探ればすぐにわかるはずだ。とするなら考えるまでもなく、侵入者は目的を遂行するのに障害となりかねないリスカの存在を危惧し、真っ先に捕えようと動くにちがいなかった。
最近の私、本当に危険との遭遇率が高すぎますよ、日々絶体絶命な展開を迎えている気がするんですがこれはどういう運命なんでしょうか、とつい神にむかって恨めしく問いかけてしまうリスカだった。夜間は神も就寝中なのか。リスカのように冬期間休業中などであったりしたら笑えない。いや、現実逃避している場合ではなかった。しっかりしなくては。運命だろうが神々冬眠中であろうが、ここでもしリスカが侵入者に捕まり殺害されでもしたら、弟子をこよなく愛する師がいったいどれほど絶望し自責の念に苛まれるか。
そしてセフォーはなにを思うだろう。
リスカは音を立てないように移動し、一瞬の思案後、念のための仕掛けをひとつ急いでほどこすことにした。ないよりはましといった程度の単純な仕掛けだが、もしかしたらのちの助けになるかもしれない。
まず一番奥の書棚にまで近づき、高い位置にある本の下に膝掛けを押しこむ。
それから収納棚につめこまれていたからくり人形を手に取り、ねじを動かすための紐をじゅうぶん巻いておく。
からくり人形の本体は、膝掛けを押しこんだ書棚の列の下段にある本のあいだにきっちりはさんで落ちないようにした。そうして、細い鎖の先に取りつけられている小さなかぎ爪を、本の下にはさんだ膝掛けの端にむりやりからめておく。このからくり人形は本来、歯車を利用して、下から上へと荷を引き上げる労働型のものだ。それを小さくし、子ども向けの玩具へと応用しているのだった。ねじを巻いておけばかぎ爪の先にひっかけた荷を引いてくれる、というかわいらしい人形だ。
本の重みがあるから、蟻の歩みよりも緩慢な速度でしか毛布をひっぱれないはず。これで、時間差を狙える。
仕掛けを終えたあと、リスカは急いで蝋の火を吹き消した。ゆっくりと足を動かし、卓の前に固定されている棚の隅に身を寄せる。流れこんでくるように満ちる闇の中、息をひそめ、目を凝らす。蝋の灯りになれてしまっていたため、闇はどこまでも不透明で不吉なぬるさを伝えてきた。突如思わぬ方向からリスカを捕える手が伸びてきそうな、そういう身の毛のよだつ妄想が否応にも膨らむ。
侵入者が何者かは知らないが、真正面から対決するのは利口といえない。ゆえに今のリスカが優先しなければならないのは自分の安全を守ること――正々堂々と紳士的に対決するのではなく、卑怯でもいいからとにかく見つからないよう徹底的に逃げ隠れすることだ。死する以外で最も招いてはならない事態とは、リスカが侵入者に捕まること。もし囚われ人となった場合、いずれこちらに戻ってくるだろうジャヴに対しての人質にされる危険性がある。
だからといってこの書斎にこもるのもまた得策ではないのだった。出入り口が一か所のみで、ろくに隠れる場所もないというのは致命的だ。
早く移動しなければならない。リスカは侵入者の気配が接近していないか全身でうかがいながらまた身を動かす。
「――!?」
卓の前の棚から、もう一列、右にずらして置かれた棚の影へと回った時だった。極めて近い位置で、空間の捩じれる奇妙な気配を察知した。リスカは声を漏らさぬよう片手で必死に口をおおい、棚の影に身を屈めた。
転移。
だれかがこの書斎内に転移した!
蝋のあかりを消しておいたのが唯一の救いか、いや、その程度の難など、相手にはなんの不利にもならないだろう。転移術が可能ということは、やはり相手は魔術師で中位以上の力量を持っているのだ。さらにいえば、この書斎にリスカが――何者かが――存在する事実をすでに把握している可能性が強い。到着地点を見定める眼を持っていなければそもそも転移など実現不可であるためだ。その時、リスカの姿を見たかもしれない。いや、ただ熱源を感知しただけなのか。本当に偶然ということだってあるだろう。正確にはわからない。なにせリスカは自らの魔力で転移術を行使したことが一度もないのだ。
リスカは闇に溶けこもうと、懸命に息を殺した。
こつり、と侵入者の足音が響く。慎重に、なにかを探すように動く音。びくつきそうになる身を、できる限りかたく、縮める。
師よ、どうしよう!
これでもし、足音のぬしが師だったりセフォーだったりツァルだったりフェイだったり……いや術を使えないフェイが来るのは無理か、ともかく、知人友人のたぐいであったりしたら、リスカは安堵のあまり余裕で気絶できる。だが楽観視などとてもできようはずがない。余所者の気配は明白すぎるほどに、こちらへの強い警戒を伝えてくる。
近づく足音に気が気じゃなくなる。第一、ろくに隠れてもいない状態であかりをつけられたら一巻の終わりではないか。当たり前の事実に今頃気がつき、焦燥感に襲われたリスカは思い切って移動することにした。震える指先を握り締め、ゆっくりと、これ以上ないほど慎重に足を動かす。
そうして少しでも侵入者から離れようと、書棚の反対側へ回ったとき――
「見つけた」
「――」
背後から、そう耳元で囁かれた。
全身が総毛立った。振り向けない。若い男の声。男の声。その声。
目を見開く。呼吸がとまる。命まで凍りつきそうになる。
まさか、この声。声は。
ずっと忘れていた。けれども聞き間違えるはずがない声だった。
茫然自失状態のリスカの肩に触れ、そして自分のほうに向き合わせようと優しく促す男の腕。逆らえるはずがないのだった。この人にだけは、リスカはどうしたって抗えるはずがないのだった。
男が魔術を駆使し、ジャヴの羽虫と似たような火に包まれた小鳥を手のひらから生み出す。
小鳥は強い黄色の光を放って暗闇を払い、くるくるとリスカたちの周囲をめぐった。嘘と真実を交互に闇の中へ隠すよう、リスカたちの顔を順番に照らし。くるくる。
「――ワンス?」
「やあ、リル。まさか君だったとは」
男が微笑した。まさかこんな場所で君と再会するとはね。これも縁というものかな。その柔らかい声音。最後に顔を合わせた時となにも変わらぬ温和で優しい声。極めて丁寧な物腰の好青年。本当に変わっていない。
「ワンス?」
小鳥が彼の肩にとまり、毛づくろいをはじめる。
「ワンス」
リスカが茫然と、壊れたように何度も名前を繰り返すからか、ワンスが苦笑を見せた。
「そうだよ。まだ信じられないかな? 僕もちょっと驚いてはいる。ここで君と顔を合わせるとは思っていなかったから。だけども、僕の名前を呼んでくれたということは、忘れたわけではなさそうだね」
ワンスは楽しそうに笑った。リスカはなにも返答できず、ひたすら茫然と目の前の青年を見つめた。
これはどういうことだ。なぜ彼が現れた。本物なのか。本物のワンスなのか。ありえないだろう、そんな奇跡のような悪夢。都合良すぎる悪夢ではないか。使徒の起源を求めるリスカのまえに、ワンスが姿を見せるなど、どうして。どうすればいい。悪夢なのか、悪夢ではないのか。
リスカは後ずさりしようとした。身体があらゆる動きを拒否していた。
「よかった、忘れさられていたらさすがに悲しいからね。僕は君を忘れたことなどない」
甘い声だった。恋人の耳にささやくのがもっとも相応しい、軽やかな独占欲と喜びのまじる声。その声。声が――
「リル。怖がらなくていい。ここで会うのは予想外だったが、まあかまわない。思わぬ報酬とでも受け取っておくかな。いつか君ともう一度会いたいと思っていたから」
過去が蘇る。過去が闇から手を伸ばす。炎のように熱い過去が。
「どうして、どうして…」
ワンスが手を伸ばし、壊れていくリスカの顔に触れた。恋人のような接触だった。腰が砕けそうだった。
「髪、きちんと手入れしている? 君は長いほうが似合うのに」
花冠で飾ってくれた手。丁寧に梳いてくれた手。
花冠の花が散り、枯れていく。
「覚えている? 塔にいた頃、僕は君のことばかり考えていた。君のすべてを、知りたかった」
あの夜、リスカを解き明かしたいのだと言った。分析したいのだと言った。身体の全部、魔力の全部を。心以外の全部。熱情を秘めたまなざしで、望みを口にしていた。叶うと信じきっていた笑みだった。
心はやがて果実のように呆気なく剥かれ、じゅくじゅくと赤い血だまりを見せる。膿んでいくのをとめられない。
リスカの記憶は暴走を始める。リア皇国、天秤大陸パルヴァの右翼を担う幻術国家。魔術師を擁護する法王と騎士を頼みとする皇帝。二派の終わりなき勢力図。君を解き明かすことは未来において強大な魔力を持つ術師を生み出せるという可能性を秘めている知っているだろう今我が国の権力は二分されているこの図を覆し法王の管理下で国を統制できる可能性がある――、その声。甘い残酷な声。過去の声。現在の声。声が。
「今でも変わらない望みだ」
ぐらりとリスカは体勢を崩した。
幻ではない、確かな腕がリスカを抱きとめた。