桃源落花:6


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 ワンスに抱きかかえられるようにして書斎を出たあと、腕をつかまれた状態で火の小鳥が先導する暗い通路をともに歩かされた。むろん、自由に解放してくれるはずがないとは理解していたが、彼が見せる丁重ながらも有無をいわせぬ頑然とした態度は、リスカをひどく萎縮させた。悪寒がとまらない。
 ほどなくして到着した先は居室だった。ワンスが片手で扉を開けた瞬間、内部からふわりとあたたかな空気が漏れ、羽根のような軽さでリスカの頬を撫でる。
 中に入るよう促され、リスカは一度きつく目をつむった。二度目の催促を受けるまえに、観念してまぶたをこじあける。消したはずの炎が暖炉の中で揺らめいており、時々小さくはぜながら赤々と燃えていた。闇の路をくぐり抜けてきた目には、怖気が深まるほどに赫然として映った。同時に、その黄金を含んだ赤はとてつもなく卑猥な色にも見えた。女の腹の奥を思わせる色だ、と不意に悟ったからだった。火は陽、陽は陰へと変じ、女を示す。
 炎を凝視しすぎたためか、頭の芯が痺れ、ふたたび体勢を崩しかけたリスカの身を、ワンスが危なげなくしっかりと支えた。長椅子まで手際よく誘導し、座らせてもくれる。昔からこういったさりげない気づかいが得意な人だったと余計な記憶を蘇らせてしまい、心に膿みを増やしてしまう。
 滑らかな布地を張った背もたれに、堪えきれず肩をあずけたところでもう一人、リスカたちとはべつの第三者が向かいの肘掛け椅子に腰かけている事実に気づいた。
 何者なのか。ワンスが平然としているということは、彼の同行者でまちがいないのだろうが、いったい――
 リスカは氷のように冷えきった震える手で額をおさえながら、戦々恐々とその人物へ視線を走らせた。相手もまた、リスカに冷徹な検分のまなざしを遠慮なく向けていた。
 見知らぬ初老の男だった。初老といっても表情に一切枯れゆく感はない。魔術師が好む長さも幅もたっぷりある暗色の外套に包まれた肉体も同様で、その隠しきれない筋骨の盛り上がりや鋼を仕込んだかのような肩の輪郭、並み以上あるだろう背丈からは不屈の強靭さがはっきりとうかがえた。
 実際の年齢を伝えるのは、きれいに撫でつけられ、肩の長さに切りそろえられた鬢のなかにまじる白いものと老獪なこの雰囲気くらいか。もっとうるさくあげつらえば人生に達観した様子も粛と平穏を愛する気配もなく、むしろ野心と欲望が手に手を取って人の姿をとったような厳めしい容貌だ。衰えを見せない隆々とした体格と、俗世のなかでよくよく研磨された居丈高な態度。そして椅子のわきに立てかけられている長剣。楕円に伸びた柄頭には戦神の紋章を刻んだ貴石がはめこまれている。騎士の証だ。それも当然、名もなき一隊員ではなく騎士団を統率する高き立場に腰をすえた権力者なのだろう。この雰囲気で平騎士だといわれたほうが耳を疑う。連想するものといえば、脂がのった魚肉のように、ぎらりと身の厚い大型の斧だ。切れ味鋭く、青々と輝きをはじく刃。
「何者だ、その貧相な男は。ヒルドではない」
 と、椅子に傲然と腰かけながら訝しげにリスカを見下ろす男に、こんなときになんだがいろいろとつっこみたくなった。どうしてリスカと会う者会う者、みな、大層傲岸不遜で社交辞令と礼儀と愛想が欠落しているのか。世の中には真実であろうとも沈黙を守ったほうがいいこととてあるというのに。それに、民を治める権力の頂点へちかづくほど人らしさが失われるというのはいったいどういう摂理なのか。ふしぎである。
 第一、初対面の相手の評価が、貧相な男って。思わず胡乱な眼をしかけたリスカだったが、すぐに納得した。最近は以前のように毎日性別転換の術を行使することがなくなっていたが、今日にかぎっては割合遅い時間に変化したため、まだもとの性に戻っていないのだった。というか、男性体へと変化しているのに、ワンスがいっかな察する様子がなかったのはなぜなのか。ちらりとうかがえば、長椅子のそばに立っていたワンスが無邪気にきょとんとした顔でリスカを見つめている。……本当に気づいていなかったらしい。ええわかっていますとも、日頃から女らしくないし、そもそも顔の造作自体はほとんどいじっておらず体型のみ微妙に変化が生じている程度なので気づかなかったのもしかたないと。しかしそんなに私って貧相ですかいったいどのあたりを見て判断を、いえ答えてもらわずとも結構、薄々察していますとも、とリスカは荒れ狂う失意の海で溺れそうになった。自分が不憫である。
 何事にも意味はあるようで、こういったろくでもない脱線思考のおかげで恐怖一色に染めあげられていた身の内に、わずかばかり、正常な感覚が戻ってくる。あるいは、セフォーの猛々しい気配に日々調教されてきた成果なのか、危機に対する図太さ、居直り加減がこの頃では達人の域に達しているのかもしれなかった。
「いえ、リルは男ではない、れっきとした女性ですよ」
「知り合いか」
「ええ」
「卑賤としか見えぬ者と」
「どのように見えても、彼女は理知の者ですよ」
 ワンスが凛とした態度で一見かばうような発言をしてくれたが、ひえびえとしたこの場面では紳士的な台詞がまったく逆の効果をもたらしますよ、とリスカは全力で注意を呼びかけたくなった。実際そうにらんだ通り、初老の男がいまいましいほど胡散臭げな目をこちらに寄越し、すぐに値踏みを終わらせて鼻を鳴らした。不合格、とか、許容外、とか、まあそういったたぐいの厳しい判断をくだしたにちがいない。リスカは知らず、眉間に皺を寄せた。ややもすると怒りや使命感や意固地な気分やらが次から次へと湧き水のごとく溢れ返る。はっきりいえば、見た瞬間に、初老の男が気に食わないと思ったのだ。
 なんだかんだとあげつらいつつも居丈高な対応なり社交辞令皆無の率直な発言なりに関してはもはや耐久性抜群、内心で軽くいじけるくらいで、長くあとをひかないのだが、それでもどうしたって理屈なしに癇に触る相手というのは存在するらしい。そうか、とすぐに見当がついた。ヒルド、とジャヴの名をぞんざいな口調で呼んだのが、ことのほか許せなかったらしいと自覚する。
「ヒルドもなにを考えているのか。情婦でもあるまい、このみすぼらしさでは。くだらぬ気性が下賎な者を呼び寄せるのだろうな。まあいい。屋敷内には他に邪魔者はおらぬな? それともヒルドめ、おそれをなして隠れてでもいるのか」
「いえ、彼女の他にはいないと思いますよ。書室以外で他に熱源は感じなかった。ヒルドもやはり不在でしょう」
「ではなぜこの者だけが屋敷をうろついていた。まさか薄汚い浮浪者か」
「ありえません。屋敷を守る結界があったでしょう。ただの浮浪者が夜風しのぎに容易く入りこめる場所ではないですよ。とはいえ、屋敷へ招くほどヒルドが彼女と深い関係にあったとは僕としても少々驚くものがありましたが」
「どういう意味だ」
「ヒルドはかつて、塔の貴石とまで称された上位魔術師。対して彼女は――異端術師です。二人が塔を離れた時期にも開きがあるし、交流をもつに至るまでの接点がないように思ったので。でも、その後に再会をしたのか、ああ、そうか、それで」
「ふん、魔術師に難のない者などありえようか」
 リスカを尻目に、二人は悪びれもせず勝手な会話を続けていた。これらの言葉から、彼ら二人が招かれざる客であること、ジャヴとは敵対関係に近いものがあるだろうことが確信できる。つまりリスカにとっても敵同然で、生死の危機をもたらす可能性が高い厄介な相手だという結論にもなったのだ。しかも口調にもいっさいはばかりない様子を見れば、無礼となじる気すら失せるほどリスカの存在を問題にしていないのがわかる。望むところだった。
 リスカはふたたび、ちらりとひそかにワンスを盗み見た。温和な、それでいて自己への確とした自信がのぞく泰然とした揺るぎないたたずまい。ともすれば闇と同化してしまいそうなくらい深い紫色の外套に身をすっぽりと包んでいる。ジャヴを連想させる青みがかった長い髪。それもいけない。二人がジャヴを、シエルの屋敷を無造作に荒らすのが不愉快でたまらない。
 ――そうだ、許せないのだ。リスカはふと、またたいた。
 先ほどワンスの姿を目にしたときは、心が真っ暗な沼の中へ墜落していくようなよるべない心地になった。
 けれども。
 憤りというのは、他の感情や、根源的な恐怖すらも一足飛びに克服させるのか。師を辱める言葉を聞いたとき、不透明だった暗い沼の色が薄まった。リスカはもう一度、彼らの姿を盗み見る。
 亡霊ではない。肉と熱と欲をもった、ただの人間の姿。それだけのことだった。それだけだ。亡霊ではない。
 リスカはひそかに深呼吸をした。
 大丈夫、萎縮はもうしない。亡霊ではない。その証拠に暖炉の炎が、彼らの足元に黒い影を作っている。亡霊であるというならば決して影など生まれない。だから、怯える必要はない。リスカは顔をしっかりと上げた――過去と決別するのではなく対峙する一歩を自らの意志で、踏み出した。だいたい、亡霊だって、もとは人だ。
 この二人に対し、リスカの力量では勝利しえないのは事実だが、それは立ち向かえないことと同義ではきっとない。こうして捕まってしまった失態をいつまでも嘆いている余裕はなく、惨めな記憶を呼び覚ますワンスの存在に狼狽し無益な自己憐憫に浸っている場合でもなかった。やるべきことはひとつ、当然時間稼ぎであり、さらに可能ならば、相手から少しでも利となる情報を引き出すべきなのだった。
 化かし合い、上等だ。力比べではかなわぬというなら口先で翻弄してみせる。なぜワンスがシエルの屋敷に忍びこんだのか、初老の男の正体はなにか、また二人にはどういう繋がりがあるのか、シエルやジャヴとの関わりは、そして最終的になにを望んでいるのか。どこまで相手から重要な真実をかすめ取れるだろう。やらねばならない。知りたいことは山ほどある。
 リスカはぐっと身体に力を入れ、震えと恐れをとめる。ジャヴは動き出した、過去を昇華させるために。ならばリスカも立ち止まっていてはいけない。師がそう望むなら。かわいい素直な弟子でいないと。そうですよね、師よ?
 リスカは体勢を変えた。ゆらりと足を組み、肘掛けの片方にもたれるようにして気怠く頬杖をつく。くつろいだ姿勢で初老の男をみやったあと、場にはそぐわぬ微笑を浮かべる。
 男が奇妙な顔をして、急に態度を豹変させたリスカを見つめ返した。さきほどよりも侮蔑の気配は遠ざかっている。
 見せてやろう、魔術師の真っ赤な舌で描く虚構の図を。なにせこっちは商売人としても日々、口を磨いてきたのだ。
「――私がヒルドではないと。ずいぶん自信たっぷりに言い切るものだね。あなたの目は役に立たぬ代物のようだ」
 リスカは冷や汗が流れないよう必死になりながらも偉そうな口調を心がけ、がんばった。優雅に、優雅に。
 つまり、ジャヴのふりだ。
 あれ私、いつのまにやらジャヴに随分感化されてませんか師弟って似るもんですかね、と内心首をひねった。悪魔の役やら好色魔術師の役やらを嬉々として演じた美貌の師の姿が脳裏をよぎる。……すみませんすみません私の貧弱、いや繊細な容貌ではあなたの美貌とか悪辣さとか嗜虐精神とかはもしかして完璧に模倣できないかも、などとすこぶる失礼な弱々しい謝罪もしてしまった。だめだ、また脱線している。
「なんだと?」
「どんな憶測をしてもかまわないがね、私以外のいったいだれが結界を解除することなくこの屋敷に滑りこめるというのか。浮浪者や娼婦を連れこんだと安易に結論づけるよりもまず、私が魔術師である事実を考慮すべきだろう。つまり――これは偽り、他者の姿を借りているだけだと」
 男の視線がかすかに揺れた。そうだ揺らげ、とリスカは目に力をこめる。魔術師で変身術を修得しているならば姿を変えるのはお手の物、男にも女にも子どもにも老人にも化ける。見たままが本性だとはかぎらない。
 問題は、横に立ったまま無言を貫いているワンスだった。だがリスカは覚えている。ワンスには残念ながら、熱源や魔力の強弱程度はいくらか感知できても、質の違いを正確に読み取る能力は備わっていないのだ。リスカの魔力がいびつか普通のものかなんて、よほど時間を費やし集中しなければ、見分けられまい。それに上位魔術師ともなれば自分の力を隠すことができる。今現在リスカの魔力が低く見えたとしても、すぐには一蹴できるはずがなかった。ワンスはジャヴとはちがう。だって私の師は識別能力も完璧ですもんね、と胸中で師自慢をした。やはりいつのまにか師弟愛にずっぷりはまっているようだ。ごく自然な微笑がもれる。
「しかし私は、気に食わぬ相手を屋敷に招待するほど寛容ではないのだがね。それにまったく、未熟な術で結界を解除したものだな」
 リスカはあえて自ら暗闇のなかに手をいれることにした。ワンスに対する挑発は、少しでも頭に血をのぼらせて理性的な判断を失わせるためだ。
「私なら、そのような退屈な術を使う自分に恥辱を感じ、いたたまれなくなるが。内部の者に解除を悟られる幼稚な術など、よくも平気で使えるね?」
 どこかで聞いた台詞だが、うむ。今にも卒倒しそうな気分で、高慢な微笑をワンスに向ける。ししし師よ、ででできるならばお早いおおお帰りをおお願いします、とジャヴの帰還を心の底から、いやもう地底の底の底の底から懇願せずにはいられなかった。リスカの勇気は小粒である。溶けやすい。
 瞬きを忘れた様子でリスカを凝視していたワンスが、ふと微苦笑した。まずい。
「さすがはリル、立て直しが早いのは見事だけれど」
「なにかな」
「君がヒルドであるならば、なぜ書室であんなにうろたえた?」
 まちがいなくそこを指摘されるであろうことはわかっていたが、現実になると心臓に悪いものだった。
「それに、なぜ僕の名をとっさにつぶやいたのかな。僕個人はヒルドとは交流がないのだけれどね」
 余裕を保つワンスに、リスカは足を組みかえ、声を立てて笑った。内心ではこのままの勢いで気絶したかったが。
「なるほど、それはすまなかった! この私に名も覚えてもらえぬ小物であると自覚しているのだね、それはよきことだ。結界を解除した術もまたその程度であったが、少なくとも自身の未熟さは理解しているらしい。美徳だよ、君」
 すうっとワンスの微笑が消えた。
「謙虚な君のために教えてあげよう。私は取るに足りぬとわかった相手には親切だからね。君の名を知っていたのは簡単なこと、私がリルと知己の仲だからだよ。塔を離れたのちに彼女と知り合い、そうして親しくなるうちに君の話を聞いただけだ。私は物覚えがいいから、一度聞いたらすぐには忘れない。たとえつまらぬ名であっても」
 冷静に考えることができれば、赤子の手をひねるのと変わらないくらいにたやすく論破できる主張なのだが、そうさせぬためにしつこく何度もワンスを小物扱いしてみた。普段冷静な人間ほど、一度理性を見失うと脆いものだ。
「知人であっても、普通はあれほど狼狽はしないだろう、リル」
「するに決まっている」
「へえ?」
 やや持ち直した感のワンスに、事実を告げる意を固める。どうせいずれは知られる可能性のある話だ。それにここまでのやりとりでうっすら見えたことがある。少なくともワンスは現時点では表面的にしかジャヴのことを知らないように見える。だからジャヴとリスカが知人以上の関係であることもまた、知らなかった。リスカがあの背徳の町で店を出していたことすら把握していない可能性も強い。なぜなら彼らの行動はジャヴを意識したものであり、リスカの存在は予想の範囲外らしき対応を見せていたためだ。なのにワンスはジャヴをよく理解していないという事実。これで、いまいまの気がかりはワンスではなく、彼のかわりに黙りこんだ男のほうとなった。男が首謀者でワンスはただの協力者の立場なのかもしれない。
 目まぐるしく思考を働かせながら、リスカは言葉を繋げる。
「当然のことだ、彼女は、私の弟子だもの」
「――なに?」
「私が師弟の絆に固執しているのは塔時代の同期であれば、周知の話だ。あの子はつい最近、私の弟子となった。かわいい弟子を昔、つまらぬ小物がいたぶったと聞けば当然、動揺もする――どう料理し報復してやろうかと思案するあまり、目がくらみもしようというものだ」
 たとえ嘘でも自分をかわいい弟子などと声に出していってしまい、師に土下座したくなってきた。口もしょっぱくなってきたし目もしょぼつくし鳥肌も立つ。
 それにしてもまさか、リスカがワンスと舌戦を繰り広げるはめになろうとは。あれほど怖れて怖れてたまらなかった相手と。
「ばかな」
「ばかとはなんだね。まさかその程度も調べていないのか」
 そうか、考え方が逆だ。これから調べようとしていたのだ。だからまだワンスの中でジャヴの情報が基本的な古いものしか揃えられていない。
 とりあえず、しばらくは時間稼ぎができるだろうか、と手のひらからひそかに力を抜いたとき。
 くすりとワンスが笑い、思索に耽るときのように片手を顎にあてた。器用そうな指で、自分の下唇を軽く撫でている。
「危ない。わかっていてもひきこまれそうになった。怒りというのは感情の中でもっとも制御しにくく、また、強いものだ。リルがこんなに弁が立つとは思わなかったし。成長したね」
「成長しない者などいないよ」
「リル、だめだよ」
 ふいにワンスがリスカの手を取り、強い力で握った。彼の髪が、さらりと肩からこぼれおちた。夜の帳の色をした髪幕の向こう、暖炉の炎が透けてみえ、きらきらと赤い光を見せていた。帳越しに見る火は、凶星の赤に似ていた。
「指の刻印」
 ワンスの囁きに、リスカは息をとめた。その隙を見計らうように、さらにワンスが指を引き、そして軽く噛みついた。
「花の刻印まで偽物だと主張するかい?」
 以前、セフォーに同じ行為をされたことがあった。出会ったばかりの頃だ。だけどあの時、噛まれた時、それはもちろん凄絶壮絶惨絶滅絶地獄絵図となにかの呪文のごとく唱えたくなるくらい切実に死の危機を感じたけれど、不快感は抱かなかった。セフォーにリスカを傷つける意図などなかったから。だけどワンスは――この男はちがう。優しい顔でリスカを徹底的に打ちのめす。個をないがしろにしてくれる。たとえワンスにそんな気はまったくなくとも、リスカにとっては「無意識の蔑み」と名づけたくなるつらい仕打ちだ。
 囚われたくない。ジャヴやセフォー、そしてツァル、みんながここまでリスカの手を引き、懲りずに闇のほうへ振り向こうとするのをたびたび叱ってくれた。もううつむいてはいけない。
 自分の弱さを、目をそらさず、言葉を濁さず、知らねばならない。このみじめさをまず受け入れなければ、困難につまづくばかり。それでも手を繋いでいてくれる人々がいるのだから、飛び越えるほかないのだ。
 源流を探れ、とは、きっとそういうことを、言いたかったんですよね、師よ?
「残念ですね、やっぱりばれてしまった。はい、私、リカルスカイです」
 リスカは意志をもってワンスの手から指を引き抜き、なんでもないことのように微笑んだ。ワンスが少し、意外そうな顔をした。
「おい、どういうことだ、その男…女か? まったく魔術師どもときたらまぎらわしい――どうでもいいが、その者はヒルドではないということか?」
「ええ。だが、彼女はすべて偽りをいったわけでもないでしょう。そうだね、リル。現実的に、君の魔力ではシエル殿の残した守護結界を解除できない。いや解除せず内部には入り込めない。となると、ヒルドが手引きしたとなる。単なる知己の一人を、シエル殿の隠れ家にはつれてこないはず。ならば、君は本当に彼の弟子だというのかな。にわかには信じられないが…」
 リスカは素知らぬ顔をした。わざと明かしたのだ、狙い通りにいろいろと想像をめぐらせて苦悩してもらわねば困る。
「弟子だろうがなんだろうが、どうでもよいわ」
「よくありませんよ、タデゥゲル様」
 タデゥゲル? どこかでその名を聞いた覚えがある。ただ、親しい者の口からではなく、噂好きな店の客と雑談した時など、そういう世間話の一環でではないか。
「彼女が嘘ではなく真実、弟子というのなら、扱いが変わってくる。シエル殿の無念を…、いや、今のヒルドの思惑を引き継いでいるかもしれないんですよ」
 ヒルドの思惑?
 これだ、とリスカは内心高ぶった。求めていた情報だ。そう、今宵のジャヴには塔から書物を盗んだり、隠れ家にリスカを置いたあと一人で出掛けたり、なにか秘密の意図があった。そしてリスカの目から隠そうともしていた。ただ完璧には隠さない。完全なる拒絶を絶対に向けまいとする。リスカが唯一の弟子だから、いかなる理由であっても悲しませたりしない。
「殺せばよかろう! 些末な者一人の犠牲になにをためらうのか」
「だめですよ、それは」
 二人の不仲があっさり露呈する。騎士と魔術師、互いの天敵説はここでも健在のようだった。それでも手を組み、ともに行動している。
「個人的に、彼女が欲しいのです。ここで会ったのは逆に幸いだった」
 ワンスの思い切りのよい発言に、いきり立っていたタデゥゲルという男が頬をゆがめ、あからさまな侮蔑の顔を見せた。
「まこと魔術師とは怪奇な趣味よ。美しくもない女か男かわからぬ者にそうもいれあげるとは」
 怪奇ってなんですか失礼ですよ私がセフォーなら今頃あなた原型とどめず木っ端微塵ですからね! とリスカは遠慮なしに大層立腹した。閣下の威を全面的に借りてだ。そもそもワンスも誤解を招く発言をしないでほしい。実験動物としてリスカがほしいだけなのだから。
 などと無意味なところに意識を向けている場合ではなかった。
 もう少し情報がほしい。どこをつつけば果汁たっぷりの美味しい情報を垂れ流してくれるだろう。
「それに、落ちぶれたといってもヒルドは上位魔術師。手強い相手ですよ。弟子というのなら、彼女の存在は僕らにとってじゅうぶん貴重な手駒となりうる」
 やはり人質扱いか、とリスカは舌打ちしたくなった。初老の男が不平をきれいに表情から消し去り、狷介ともとれる粘着質な目を向けてくる。
「幸運にも彼は今不在のようです、ならばすぐに移動したほうがいい」
「なにを愚かな。目的も果たしておらぬうちに逃げ帰れと?」
「ヒルドが不在であることを前提とした目的です。こうなると話はちがってくる。リルを置いているなら、いつ彼が現れるかわからない状況です……彼はこの屋敷に寄りついていなかったはずなのに、今日にかぎって足を向けるとは」
「身分を失った野良犬に怯えるのか」
 二人の言い争いを聞き流しながら、リスカはすばやく考えた。どういうことなのか。ジャヴが不在の隙を見計らって、この屋敷を探るはずだった? しかし偶然、リスカとジャヴがこちらへ転移した。
 偶然なのか? リスカたちがシエルの屋敷にくることが? それとも、彼らが無断侵入することが?
 いや今は詮索するよりも、この二人の転移を阻止することが優先だ。ここでリスカが完全にかどわかされる形となれば、ジャヴがのちにますます追いつめられる。リスカは口をはさむことにした。
「ところで、その野良犬のような上位魔術師相手に、人質をとるといった卑怯な手段でしか対抗できないあなたは、だれなんでしょう」
 砂の使徒の分析に熱意を捧げるワンスがどこまでリスカを擁護してくれるかわからないが、孤立無援で対峙している今、男を適度に怒らせて一言でも多く発言させるしか情報を取り出す手段はない。またそれが時間稼ぎにもなり命綱にもなるのだった。ある意味、二人がリスカを軽視してくれているからこそ未だ無事だといえる部分がある。ずっと侮っていてくれますように、とリスカは寂しいながらも切羽詰まった願いを内心でつぶやいた。
「身をわきまえずこの私によくも小賢しい口を聞く」
 蔑みを蜜のようにたたえた声で男が言い、リスカに嫌味な表情を向けた。超然とした態度を見せているつもりなのだろうが、ずれてもいない白い手袋を神経質そうに直すあたりに本来の器量がうかがえる。不用意に挑発しすぎるのはやめておこう、とリスカはちょっぴりおののいた。突如噴火するように逆上されかねない。
「弟子も弟子だが、その師も師よ。同じ過ちを幾度も繰り返す愚かしさ、笑止の至り」
 おなじ過ち? だれとだれのことなのか。
「タデゥゲル様」
 ワンスのいさめる呼び声が、タデゥゲルの神経を波立たせたらしかった。
「指図をするな。まったくわずらわしい、魔術師風情と恊働せねばならぬとは……ふん、まあいい。いかに魔術が優れていようが、私に及ぶべくもない。所詮は大海を知らぬ下種。地を這う虫が空を飛べようはずもないがな」
「はあ」
 得意顔で滔々と言われてしまったが、ため息を押し殺すワンスの気配を感じてしまえば怒りも半減するというものだった。
 と、ここでへたに反論せず思わずおとなしく頷いたのが逆に功を奏したらしく、もう見捨てつつあるのではないかというワンスの冷ややかな様子にもなんら影響を受けることなく、むしろ闊達、意気揚々と口を開いてくれた。ありがたいと言っていいのかワンスに同情すべきなのか。
「シエルも吠えるだけ吠え、結局は屈したわ。どうだ、皇帝が最後に信用したのはこの私、魔術など女どもの遊びほどにもならぬ」
「え?」
 皇帝が最後にタデゥゲルを信用した。シエルが屈した。
 思い出した。タデゥゲル。第八騎士団団長タデゥゲル。斜陽気味の中流貴族であったが、彼には野望と妬みと力があり、そして運がついていた。異例の早さで昇級したのち、自然の要塞たる峻厳な山脈を逆手にとって侵略戦争を仕掛けてきたファーデル真国の遠征軍を見事討伐し、皇帝の御手から直接栄誉の宝剣を拝領したこともあるのだという。当時のタデゥゲル騎士団の凱旋は天をおおうような派手派手しさだったと、以前に都暮らしをしていた客の一人から聞いたのだ。
「屈したとは、どういう意味ですか。あなたがシエル殿を失脚させたのですか」
「卑賤な者はどこまでも卑劣な嫌疑しかもたぬものよ。私が陥れたとでも思ったか、いいや、あの魔術師が自らおのれの首をしめたのだ。法王の宝を奪い、逃げたのだからな!」
 法王の宝――確かにそんな噂を聞いたことがあった。
 そも法王は術師側の支配者だ。そして塔の隠蔽体質。仮に噂が本当ならばシエルは塔の地下にある牢獄に繋がれ囚人となるのが妥当であるはずだ。いやシエルほど上位の術師でなおかつ功績も多数残している優秀な者ならば、はじめての過ちであると情状を考慮され、訓誡のみですんだかもしれない。それがなぜ公に広がり、皇帝側の人間に身分を剥奪され裁かれるはめになったのか。そうなのだ、シエルは皇帝側の命により王都追放の憂き目にあっている。白日の下にさらすなど、秘密主義を貫く塔側の処置では決してありえないのだ。誰かが、シエルの犯した罪を皇帝側の裁判機関である星午庁に密告でもしないかぎり。
「密告したのはあなたですか?」
 獣が笑ったならばこんな顔になるだろうという表情をタデゥゲルが見せた。
「ふん、ぬかったわ、樹涙を盗ませたはいいものの、それを数か所に渡って隠――」
「タデゥゲル殿」
 底冷えのするワンスの声がタデゥゲルの軽薄な言葉を遮った。
「舌がとまらぬようですが、言葉を選ばぬ人間はおのれの舌に首を絞められ、運と命を散らすのです。なぜなら舌というのは調子に乗って出しっぱなしにすると、乾いて縮まりますからね」
「なんだと、きさま」
「おわかりではないようだ。いつまでも悠長に自慢話を披露している場合ではない。今は彼女しか屋敷にいないようだが、ここはシエル殿の屋敷。ヒルドの手助けがなければ入れはしないといったはず。いつヒルドが戻ってくるのかしれぬ状態です。いくらリルを手中におさめたといっても彼の領域内で対戦するなど、不利にもほどがある。一刻もはやく転移を」
 さすがにことの深刻さを理解しているワンスが苛つきをあらわしながら早口でそう告げたときだった。
 離れた場所から、かすかに、物音が響いた。普通の人間なら聞き取れないかもしれない。だがここにリスカとワンス、空気の流れに敏感な術師が二人もいるのだった。リスカたちは同時にはっとした。
「なんの音だ?」
 警戒も露にワンスが独白した。
 本だ。
 リスカの仕掛けが、どうやら絶妙の間合いをとって発動したらしい。
 からくり人形が限界まで毛布をひっぱり、ついに本をどさどさと落下させたのだ。

小説TOP)(花術師TOP)()(