桃源落花:7


 ワンスが視線を中空にさまよわせ、気配をうかがったあと、リスカに鋭く問うた。
「まさか本当にヒルドが隠れていたのか? いや、もし彼まで邸内に潜んでいるというのならやすやすと君を僕の手に渡すはずがない。では他の者が?」
「私一人きりなどと言った覚えはありませんので。それに、お忘れのようですね、彼は上位魔術師。魔力の痕跡を消せるのですよ」
「ありえない。熱源まで消せるとでも?」
「さあ。できるかもしれませんよ」
 リスカは余裕ぶってせいいっぱいとぼけた返答をした。なぜなら思わぬ収穫があったためだ。タデゥゲルとワンス、二人はともに行動し協力体制を一応敷いてはいるが、砂のように脆い信頼関係しか結べていないのは明白で、ふとしたきっかけで反目し決裂するだろうことはまちがいなかった。ならばまごまごせずに起死回生を狙って、二人をなんとか引き離したい。どちらかだけが相手なら――タデゥゲルだけなら、戦闘には不向きなリスカでも逃走路を切り開ける可能性がある。
「きさま、探ってこい」
 うまい展開だった。タデゥゲルがさきほどやりこめられた仕返しなのだろう、顎をしゃくって横柄にワンスへ命じたのだ。ワンスのまなざしが一瞬、殺意さえ閃くほどの冷酷な色を帯びた。だがまばたきひとつのわずかな時間できれいに押し隠し、平静なさまを見せる。長い外套の袖をゆらし、リスカへと音なく手を差し伸べた。
「リル、君も来なさい」
 やはりそう都合よくいかないかと少し落ちこみかけたとき、ワンスの理知的な優然とした態度が鼻持ちならないらしいタデゥゲルが即座に否をとなえた。
「ならぬ、この魔術師は置いていけ。きさまはその者に執着している。ともに行かせた場合、危機あらば私を捨てて先に逃走しかねんな」
 無駄に警戒心が強い、ではなく、ただ強欲で身勝手なだけではなかったようだ。指摘通り、仮に手強い相手と真正面から対峙せねばならない局面を迎えた場合、ワンスはあっさりとタデゥゲルを生け贄にして、その間にリスカをさらい逃亡するだろう。しょせんその程度の乾いた関係しか持ちえぬ仲間なのだと、ワンスもタデゥゲルも互いに承知しているらしい。
 ワンスのまなざしにふたたび剣呑なものがよぎったが、ここでむやみに言い争って時間を浪費することこそ愚の骨頂でありリスカの思うつぼだとも理解しているようだった。さっさと物音の正体を確認して退散することがなによりの策なのだから。
 ワンスが抑制された無機質な表情でリスカを一瞥したあと、すぐさま転移の術を行使した。
 すぐに彼は書斎にほどこされた単純な仕掛けに気づき、こちらへ戻ってくるだろう。またこんな仕掛けを作るくらいだから他に味方はいないとも見抜くはずだ。彼が完全に状況把握をなすまでにどうにかして、リスカはこの抜け目なさそうな男を手玉にとり、うまく逃亡せねばならない。
 しかし、優先すべきことがわかっていてもだ、感情とはこんなに制御が難しいものだったのかと驚いてしまう。
 唇の端を歪めて薄く冷笑しているタデゥゲルに、深い怒りをおさえきれない。リスカは奥歯を噛み締め、渦巻く激情の塊をなんとか喉の奥に押し戻す。
 さて、ワンスとタデゥゲルがいったいどういった事情で手を結ぶに至ったか、現時点では確実な仔細など知りようがない。けれども、先刻までの会話には重要な事実がいくつも含まれていた。リスカは息を殺すようにして、冷静にタデゥゲルの言葉を思い出す。
 ぬかった、樹涙を盗ませたはいいものの、それを数か所に渡って隠されていた――そう言っていたのだ。
 リスカはすばやく情報を整理した。
 まずひとつ。彼らが神木の樹涙を探しているというのはまちがいない。
 そして、樹涙がこの屋敷に隠されている可能性が高いこと。少なくともタデゥゲルたちはそう信じて捜索に乗り出している。
 シエルが噂通り、法王から樹涙を盗み出して冠位剥奪と同時に塔を追放されたということ。
『樹涙を盗ませた』という意味深な発言から、タデゥゲルがシエルをそそのかして犯罪に走らせたと推測できる。ただどういった甘言をもちいてシエルの心を動かしたのかは不明だ。
 さらには、シエルを告発したのもまた、タデゥゲルだということ――
 ごめんなさい、師よ。
 許せそうにありません。たとえ腕一本くらい切断されてもこの男に大きな傷を与えてやりたい。
 自他ともに認める弱小ぶりだが、リスカは術師だ。不具であろうとも術を操り魔道をゆく闇側の者で、そして師の心に影を与えるきっかけを作ったその相手をこらしめたいとも思っている。当然、最終的な断罪はジャヴの意思に任せるため、ここで命を奪いはしない。
「恨みに満ちた卑しい目よ。シエルと似ている。孫弟子ゆえ暗愚な気質も似通うのか」
 タデゥゲルが低く笑い、ゆっくりと身を起こした。その動作の中で、椅子に立てかけていた長剣をそっと握る。
 薄々察してはいた。ワンスを一人で行かせた理由は、単なる意趣返しだけではなく、そのあいだにリスカを殺害するためだ。ワンスはリスカを人質になるから生かしたいと考えた。だが軍人たるタデゥゲルは、人質の利点よりも、万が一の事態を憂慮したのではないか。リスカが二人の手から運良く逃れ、ジャヴのもとへと戻ることをだ。そうなると術師二人を相手にするはめになる。危険の芽はあらかじめ排除しておくべきという結論に到達したのだろう。
「つまらぬ希望など抱く隙も与えぬわ」
 タデゥゲルが威をほとばしらせ、鞘から剣を抜いた。鞘は左手、刃は右手。リスカは暖炉の炎を受けて赤くきらめく刃を見据えた。その瞬間、理解した。長剣は、ただの鉄剣ではなかった。魔剣ほど強靭ではないが、どうやら特殊な術対策を施した封剣であるらしかった。だからこそこうして術師と二人きりになっても恐れをみせず、殺害できると考えたのだ。おそらく着用している装束も術をはね返す聖衣であるのだろう。これは少しばかり……厳しいかもしれない。
「死ね」
 タデゥゲルが邪魔な卓を蹴り倒し、年齢を感じさせぬ獰猛な俊敏さを発揮して剣を振りかざした。リスカはひそかに握り締めていた守護の花びらを、一気にすべて放った。そうしないとリスカの力量ではこの封剣をとめられないだろうと考えたためだった。所持していた守護の花びらは全部で四枚だ。ゆえに四重の盾が生まれ、タデゥゲルの剣を受け止めた。盾がじゅうぶんな硬度を保っているあいだに、リスカは十分な距離を稼ぐ。
 しかし、この程度の抵抗は予測ずみなんだろう、にやりとタデゥゲルが笑う。術師対策は万全のようで、ふところから魔具を取り出した。一般の者にも使用許可がおりている攻撃用の魔道具だった。
 このまま攻撃され続ければ、守護の盾が消滅してしまう。リスカは防御から反撃に転じた。攻撃系の花びらは五枚。一枚ずつふっと息を吹きかける。光の剣、闇の槍、真紅の矢、青き大刀、氷の斧。
 けれどもタデゥゲルは名ばかりの騎士長ではなかった。確かな剣技を備えており、戦闘を知る者特有の力強さと落ち着きがあった。もともとリスカは攻撃系を得手としていない。一気に距離をつめられ、術を次々と粉砕されてしまう。
 それでいい。この程度の術師なのだと、もっと侮ればいい。
 リスカはタデゥゲルを殺めたいのではないのだ。脆弱だと侮蔑していた相手に完敗するという、とっておきの屈辱を与えたいのだから。こういった傲慢な手合いには心理上の敗北が一番の打撃となるだろう。
「もう終わりか」
 勝ち誇った顔を至近距離で見た。乱れた髪の一部が頬にはりついている。すでに勝利に酔い痴れて血走った、濁った目をしていた。目尻にくっきり浮かんだ皺の数まで数えれそうな近さだった。男の眼球にいくつも枝分かれして走る、極細糸のような赤い血管をリスカは見つめた。その中央で、瞳孔が縮んだ。
「おまえの魔術、なにか異質ではないか。そういえば、先ほどワンスがおまえを異端術師と評していたな。異端――そうか魔力に変異をきたした者、不具の使徒という者か、きさまは! なるほどおもしろい、ならば――いいだろう、命だけは奪わないでいてやろうか」
 一瞬、意識がそれた。
 どういう意味なのか。不具の使徒が、おもしろい? 命だけは奪わない? なぜ急に前言を翻した? 次々と謎が芽吹く。
 考えをまとめようとするよりはやく、さくりと柔らかな綿雪でも貫くように、タデゥゲルの突き出す封剣がリスカの肩に深く沈んだ。
 こういう男が慈悲や敬意をもって、一撃で相手を仕留めるはずがない。敵の浮かべる恐怖と狂気を存分に舐め尽くし、何度も暴力をすりこむ。そうリスカは読んでいた。
「他愛のない」
 リスカは苦痛に喘いだ。こればかりは演技ではなく、実際もの凄い激痛だった。めりこんだ剣が骨に接触している。この男への怒りがなければ床の上で痛みにもがき、意識を手放していただろう。
「醜かろうが、血を見れば高ぶるものだ。たまには趣旨がえでもして、術師を犯してでもみるか?」
 嬲る目的の下劣な戯言に、リスカは怖がってみせた。これまた、本気でおそろしくないはずがなかった。頬を一筋、さらに一筋、痛みによる生理的な涙がつたう。
 タデゥゲルが顔をさらに近づけ、唇の両端をつりあげて笑った。薄く開いた唇のあいだを縫うように、唾液が糸を引いていた。その奥の小さな暗がりから、たっぷり濡れた太い舌がのびてきて、頬にこぼれたリスカの涙を舐めとった。執拗に、頬をぬめり、ずるりと往復する。リスカは身を震わせた。怯えをあらわすか弱げな反応に気をよくしたのか、タデゥゲルがさらに身体を近づけ、ぬるく生臭い息を顔に吹きかけながら、唇全体を目の下あたりに押しつけてきた。皮膚を吸うように、じゅっと唇がすぼまるのを感じた。剣がますます肩に食いこむ。そして。
「――いいえ、私が犯します」
 思い切って、分厚い胸板を押す。その動きに驚き、やや後方に顎をひいて目を丸くするタデゥゲルの口に、リスカは勢いよく花びらを突っこんだ。いつしか警戒をといて恍惚としていたためにタデゥゲルは、リスカの行動をとっさに阻止することができなかった。そう見越したうえで、好き勝手になぶらせていたのだ。
 使用したのは媚薬用の花びら、まとめて十八枚。
 聖衣をまとっているから攻撃系は届かない、剣技も確かだから正攻法では反撃もできようはずがない。ならばその侮りを利用して自分のほうへなるべく引き寄せ、意表をついた術を使うしか、打ち勝つすべがなかった。
 リスカの媚薬用の花びらは、近所の方々のお墨付き。即効性で、効力絶大。なんでこればかり十八枚も常備しているかというと、うむ、何事も商売第一、散策途中で金払いのよさそうな旅人などと出会ったときの準備とかなんとか。すべては家計のためだ。というより最近、媚薬の花びらは予想外の場面で大活躍なのだが、喜んでいいのか悪いのか。
 タデゥゲルが愕然としながらリスカを乱暴に突き飛ばし、そしてその表情のまま体勢を崩してへたりこんだ。彼が身を離す動きに倣って剣も引き抜かれる形となったため、出血量が増したが、まだ気を失うわけにはいかなかった。
 傷口を手のひらできつくおさえ、リスカは強がりながら微笑んだ。
「どうですか、立っていられないでしょう?」
「き、きさま、なにを」
「私、術師で商売人でもありますから、人の裏を読むのが得意なんですよね。口達者かつ演技上手でなければとてもとても商売など無理で」
 などと嘯きつつもリスカの店は年中閉店の危機を孕んでいるのだが。なぜだろう、こんなに一生懸命働いているのに暮らしぶりが向上しないのは。私が善人すぎるせいだろうか、と自分でも薄ら寒くなりそうな冗談を考えてしまった。善人は敵の口に媚薬用の花びらなど容赦なく突っこまないだろう。
「動けないでしょう、身体的に」
 花びら効果が顕著になってきたらしく、タデゥゲルがぶるぶると身体をふるわせ、獣のように唸った。顔は果実のように赤く、ひどい汗をかいている。それはそうだ、一気に十枚以上も使用したのだから、耐久性のない常人であれば理性が軽く吹き飛ぶ。
 いつかどこぞの雑貨屋店主に男娼を抱く時の心得と称して余計なお世話極まりない戯言をからかいまじりにむりやり聞かされたことがある。いいかおまえ、すぎた快楽っつうのは身体に毒なんだぜ、へたすりゃ昇天させるまえに相手を失神させちまう、とくに男の身体ってのは即物的なくせに色々敏感ときてやがる、わかるだろ? 男娼と長く楽しみたいなら急激に追いつめるなよ、もちろんおまえも気をつけろや、ありゃあ動けねえし、逆に勃たなくなる危険もあるからな、などと。うむ、まさかあの汚れた大人的助言がこの緊迫場面で活かされるとは……いずれお礼にでもいこうかな、と神妙に悩むリスカだった。
「私に負けましたね、非力な女に陵辱された気分はどうですか。騎士の男が女に犯されるなど、まったく見物です。死ぬまで屈辱に思ってください」
 辛うじて理性を残していたらしいタデゥゲルの目が、燃えるほどの憤怒を見せた。もっとじっくりがっつり心ゆくまで暴言を浴びせてやりたかったが、リスカのほうも楽観視できない危機的状態だ。ここまでだろう。急いで逃げなければ。だけれど、頭がぐらぐらする。止血をしないと動けないかも。治癒の花びらをすぐに。
 そう思ったとき、一瞬だけ意識が落ちて、床に膝をつきそうになった。
 だが、そのまえに――
「本当に強くなったね、リル」
「……ワンス」
 リスカは緩慢に顔を上げ、自分の身を支える男を見つめた。物音の正体を探しにいっていたはずのワンスがこちらを見下ろし、微笑していた。
 やはり、逃亡まではできなかったか。
 もしかしたら、もっと早くにここへ戻ってきていて、リスカとタデゥゲルが対戦している様子を静観していたのかもしれない。ワンスが淡く驚嘆をのぞかせた顔をしてリスカの身体を支え直し、笑みを深めた。
「タデゥゲルが油断していたのは確かだが、一団を従える騎士長を相手に奮戦し、やりこめるとは。それにしても奇抜な戦法だ。君はとても興味深いよ」
「そうですか」
「うん。彼の場合は自業自得だからね、どうなろうとも己の責任だが。君はべつ。途中で、君の落ち着きぶりから、やはりヒルドは屋敷にいないだろうと確信した。そしてこちらに残された君たちが――いや、タデゥゲルが君をどう扱うかにも思い至った。それで急ぎ戻ってきたんだが、まさか君が勝つとは」
「意外ですよね」
「だが君は昔から、いつだって意外な展開をもたらすんだった。僕は目を離せなかった。今でも君が特別だし、大切にしたいとも思っているよ。誤解しているようだが、君を利用したいばかりではない。本当に、もう少ししたら、君を捜しにいこうと思っていた。あの悪徳の町は術師もひそかに集まっているから、もしかしたら君もいるのではと思っていた。事実、君はそこに住んでいたのだね」
 ワンスが、優しげな手つきで、額にはりついていたリスカの前髪を丁寧に横へ流した。視線が一度、肩の傷口のほうへと移動し、痛ましげな色を帯びる。
「ねえリル、ヒルドの弟子になったといったが、彼はやめたほうがいい。彼に立身の未来はない。魔術の才はあっても活かせはせず、覇気や野望も持たず、ただ落ちぶれるのみだ」
「師を悪くいうのは、やめてください」
「かばうのか、でも事実だ。才能に恵まれていても、運がなくては世への開花はありえない。なにより、不運を幸運へと捩じ曲げるほどの確固とした意志を持たねば。彼のありようはどうだ? 男として情けない。ただ茫とするばかりの、つまらない男に師事してなにを学べるというのか」
「学ぶことを、学ばせてくれました」
 リスカは激痛にくらくらしつつも答えた。
 ワンスがつかのま口を閉ざし、リスカの言葉に呆れたような表情を浮かべる。それから緩く首をふった。
「まさか師として以外の愛情を? なおさらやめたほうがいい。彼の美貌によろめきでもしたのか。容貌の優劣など魔術師にはなんの意味もないよ。人格者にもほど遠く、実もない。あの程度の男なら、はいてすてるほどいる。過去の名誉すら陰り、すでに忘れ去られた者じゃないか。かつての憧憬はもはや侮蔑とかわり、忌避されるだろう。見捨てなさい」
 頬を撫でる手に、リスカは視線を向けた。
「治癒をしてあげよう。それから、一緒に来なさい。知りたいことがたくさんあるだろう? あとでどんな問いにも答えてあげるよ」
「嫌です」
 リスカが即答の勢いで笑って拒否すると、ワンスはなにをいわれたのかわからないといったふしぎそうな顔をした。
「リル?」
「私にとってあなたは特別ではないし、大切でもないんです」
「――リル」
「あなたと会うのが怖かった。あなたがまだ私の中で特別であるかもしれないと思うのが怖かった。私はずっとあなたに依存していて、不幸がおとずれるたびに自分の不具を呪い、あなたとの記憶を必死に封じようとした。それがなによりの不幸であったと、しばらくは気づきませんでした」
 リスカはゆっくりとワンスの手から逃れた。頭の中で、過去の道を辿り、そして現在に戻る。今のリスカを受け入れてくれる人たちの顔を思い出せば、自然と胸が熱くなるし、痛みだって少し忘れようというもの。
 眉をひそめるワンスに、静かな目を向ける。
「でも心を支えてくれる人がいて、本物の笑みをくれる友がいて、安らかに胸を貸してくれる人、情熱を見せてくれる人がいつのまにか、まわりにいた。気がつかなかった、長い間気がつかなかった。だからこんなに大切な人たちをないがしろにしてしまっていた。私が自分にかけた呪いはなんて強固だったんでしょう。そしてあなたはなんて、私の中で大きかったのだろう。それでも、いざあなたと会ってみると、最初はやはり狼狽えましたが、もう大丈夫なんだとわかりました。だって私には大切な人たちがいます。ようやく知りました、私は不幸などではなく、毎日忙しないほどに幸福だった。いえ、不幸を正視できるほどに、幸せになっていた」
「やめなさい、リル。その答えはなにか気に入らない」
 ワンスの声が物騒な響きを帯びた。
「嫌です、あなたの命令は聞けません。触ってほしくもないです、それにどこへも一緒に行きたくないし、なにもあげられない。ジャヴにとって……師にとって、私が人質となり足枷となるのなら、喜んで自害します。だってあなたの欲得よりも師の自由のほうが大事です。でもそうしたら師はとても悲しむ。ううんだめです、あの人を悲しませてはいけない。それに、もう一人、最強の護衛もいるので、もし私が死んだら高確率で国がひとつ滅……いやいやいや、と、とにかく、ワンス、私を殺さないでくださいね。師と友と護衛様が悲しみます」
「リル、そんな言葉は許せない…」
「許せないのは私です。早く出ていってください、ここはシエル殿の屋敷です。あなたが入っていい場所ではない」
「――ずいぶん変わったな、リル」
 ワンスが突如、傷を負った肩の部分をぐっと手でつかんだ。リスカは呼吸をとめ、ひどい痛みに膝をついた。それでもなお、ワンスは肩をつかむ手にちからをいれ、リスカをまるで潰そうとでもするように押さえつけた。両膝を折り、ついに腰まで落とすことになったがそれでも肩をつかむ手からは乱暴な力が消えなかった。この人は自分を服属させたいのだろうか、と肩に広がる激しい痛みにより白くかすみ始めた意識のなか、ぼんやりと考えた。
「前はかわいかったのに。素直で優しく利口な君が好きだったよ。だがねえリル、小賢しさと聡明さはちがう」
「……男が求める素直で優しい利口な女というのは、じつは同性視点からだと大半が偽物で、悪女なんだそうですよ」
 とリスカが痛みに苛まれながらも思わずつぶやき、ワンスを見上げたら、えらく奇妙な表情を返された。店の常連である奥さんが以前、若い女に鼻の下をのばす亭主の愚痴を怒濤の勢いでまき散らしながらも、そういった男女の真理を拳を振り上げて教えてくれたのだった。男が喜ぶような素直でかわいい女なんてね、同性から見たら本当にいけ好かないし嘘臭いし嫌悪と怒りと嫉妬しかもたらさないよ、仮に演技なしにそんな純粋な娘がいたら亭主の目にとまる前に成敗してくれる、即刻絶滅すべきだ、と。うむ、濃厚に私情がまじってはいるが、なんとなく納得できるのはやはりリスカも女であるためか。命の危機も考えなければならないほど切迫した状況であるというのに、リスカはつい笑いそうになってしまった。今の今まで忘れていたやりとりなのに、こうして色鮮やかに思い出せる。その他愛ないやりとりがリスカの胸で息づき、知らぬあいだに心の養分となっていたようだ。
 本当に、色んな人の言葉が、糧となってリスカという小さな芽を成長させた。真理は本のなかにだけあるのではなかった。雑談や世間話のなかにも、どこにだって転がっていて、特別でも高尚なものでもない。すれ違う人の中にも、流れゆく景色の中にも、どこにだって。
 目を開けていれば、そして自分から手を伸ばせば、いつでも学べる。駆け上がれる、険しい坂も。この学びは苦痛ではなく、楽しいもの。好きなだけ楽しんでいいのだ、そうしていきたい。
「手を離してください。触れたい人は、触れてほしい人は、あなたじゃないんです」
 ワンスが顔をゆがめ、頬を紅潮させた。
 これも以前のことになるが――ツァルとの会話が鮮やかに蘇った。相手の気持ちを逆撫でせず、嬉しいだろう言葉を紡げば、諍いを生まずにすむ。それでも、人はあえてそういう優しい言葉を切り捨てる。
 そうだ、リスカは今、優しい言葉を切り捨てた。諍いを招き軋轢をもたらすとわかっていながら、切り捨てたのだ。
 リスカが、自分の本心を隠したくないと、そうはっきり感じたから。真実の言葉が、相手の胸を打つ。どんなにもっともらしくとも――惑わされるときがあったとしても、虚言が虚言であるかぎり、最後までかなうはずがない。
 むろん、ワンスがすべて悪いわけではなかった、はじめに、なにを要求されても人形のように諾々と従うさまを見せていたのはリスカのほうだったのだから、むしろ今の彼が戸惑い、怒りを見せるのは当然の反応だ。しかし、時間は流れるし、生きていれば人の中身は変化していく。心のうつろいが、不実であるばかりとは決めつけられない。今、リスカは、拒否ができるようになった。それを示したから、ワンスにも変化が生まれた。変えていかねば、リスカはもう我慢ができないのだった。
 自分にも、選択権があるのだという、この自由!
 リスカは選んだ。はっきりと選んだ。
「ごめんなさい、ワンス。ごめんなさい」
 今、彼の要望には応えられないこと、一緒にはいけないこと。そして――過去の、不誠実であり浅はかでもあった自分の態度。リスカもまた、ワンスに自分勝手な幻想をいだき、都合のいい願いだけを押しつけていた。だから互いのあいだで、もたらす優しさ、受け取る優しさの意味が食い違っていると気づいたとき、真っ先に裏切られたと感じて身が凍りつくほど傷ついた。ただ自分が可哀想なだけだった。リスカは彼になにも差し出そうとしなかったのに。
 それでもやはり、今、ワンスの望みを優先できない。
「君は現状を理解していないようだ」
 笑みを消したワンスの表情はひどく冷たかった。
「拒否などできる立場ではないんだよ、リル。ともに来てほしいと誘っているのではなく、命じている。手荒なまねはしたくないから、抵抗はやめなさい。君の力では、タデゥゲルを出し抜けても僕を制することなどできない。彼ほど愚かではない」
「させてください、拒否を」
「まだわかっていないようだ」
 ワンスが声に苛立ちを乗せ、リスカの肩をつかむ手に、さらなるちからをこめた。リスカは全身がしびれたようになり、脱力状態になった。突き抜けた痛みが、身体の感覚を麻痺させたらしかった。
「なぜそう聞き分けがないのか。まさか僕をただの盗賊だとでも思っている? だとするならば大きな侮辱だ」
 そこで一度、ワンスがタデゥゲルのほうへと視線を走らせた。彼に聞かせたくない話なのか、だが当のタデゥゲルはリスカが仕掛けた術の虜囚となっており、獣の唸りを発してうずくまるばかりでまともな意識など残っているようには見えない。ワンスもそう判断したのか、冷ややかにタデゥゲルを見据えたあと、リスカに顔を近づけた。
「――いいか、僕は法王に忠義を誓う魔術師、自分の信念と新時代への幕開けとなる革命を起こすために動いている。愚昧なタデゥゲルを操り、かならず成してみせる。皇帝の堕落と妄断がいかにこの国を衰退へと傾け腐敗させたか。法王が守り続けた高度な諸技術と神秘を切り売りし、他界の悪徳や偽善的文化を選定なく歓迎するなど、愚かしい。勢力を増しすぎた世俗政治のよどみが亡国へと導くことになる。そしてこの濁国の脂ぎった政策が、いかに魔術師を不当に扱っているか。今こそ、下種どもの欲で分離し秩序を失った二教政治を聖権へ統一させるべきだ。それは、ひいては無冠であった君ら砂の使徒の位階改正にもつながるだろう。だから協力をしなさいといっている。詳しい話はあとに」
 ワンスの説明の途中、リスカは拒絶を明らかにするため、何度も首をふった。ワンスが焦れたように目元をひきつらせ、口を閉ざす。
「行きません、離してください」
「ああ、もういい。だが、どうであっても君を連れていく。砂の使徒の力は未だ未知数だ、その力を僕が解放してみせる。革命を支える切り札となるかもしれない」
「ワンス、いやです」
「僕以外のだれが、砂の使徒の君をこれほど大事にする? 師がほしいというなら、なってもいい。望むのならば、男として君を愛してもいい」
「ちがう、それは、ちがう――」
「リル、聞き分けなさい」
 そして、ワンスが苛立ちを示す手つきでリスカを立たせようと、腕を引っ張った時だった。
 ふっとワンスが顔を上げ、訝しげに眉をひそめたあと、リスカから手を離してあたりをうかがうような気配を見せた。警戒にはりつめた表情を一瞬で驚愕に変える。空間の歪みに気づいたからだ。
 おそらくタデゥゲル同様、ワンスは念入りに聖衣や魔具を装着しているだろう。術行使の速さにも自負があるだろうし、力量にも不足はないと信じているだろう。
 だがそんなもので、本気を出した上位魔術師の力に拮抗しえようか――ぐてりと床に突っ伏したリスカは、曖昧になりかけている意識の中で微笑んだ。
「――ヒルド!?」
「呼び捨てるな、下郎」
 そ、そこですかつっこむところは。思わず遠い目をしつつも、場を支配する魔力の豊かさに息をのむ。
 山をなぐ嵐のような、怒りに満ちたおそるべき風圧。魔術の発動だ。彼特有の優雅で色鮮やかな術ではなかった。力の鋭敏さとその効力を最優先に定め余分な輝きを一切排除した、いっそ簡素な術だった。だからこそ怒りの強さもうかがいしれようというもの。
 白い霧が生じたと思った。それは一瞬よりも早く魔神の姿へ変化した。弓なり月を模した二本の大刀を唸らせてワンスに襲いかかる。ワンスが防御の術を紡ぐも、かなうべくもない。まず一閃で防御陣を切り裂き、荒ぶる威で吹き飛ばす。二閃、三閃と、壁近くにまで吹き飛したワンスにさらなる風裂をもたらし、抵抗がなくなったのを確認したあと、満足そうに刀を大きく一振り。そして姿を霧散させた。
「リル」
 床にうずくまっているリスカへと近づく慌てた沓音と、日頃の唯我独尊至上主義が形無しの、おろおろした声。
 もう、動揺しすぎです。
 気絶しかけつつも目をまたたかせれば、視界に映ったのは、癇癪を起こすまえのようなひどくそわついた顔をした、敬愛する師の姿だった。
「ばかものが! 私が目を離すとなぜ血塗れになるんだ、いつも!」
 ……うむ、本当は心配しているけれどそれを素直に表現できないだけだと信じていますから、師よ。

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