桃源落花:8


「君という人は、よくもよくもそうぼろぼろに」
 動揺が高ずるあまりなぜか腹立たしさを覚えたらしいジャヴが眉間にもはや皺というより深い溝をつくり、乱暴な動きで床に片膝をついて、リスカを抱き起こした。鬼神のような顔をしているくせに、身を支えてくれる手つきだけはひどく優しい。
「だれがこれほど出血していいと許可したのか」
「あ、あのう」
「なんだこんなに血を流して! どういうつもりだ!」
「いえ、あのう…」
「嬲られるのが趣味なのか? だれがそんな趣味を許した、私は認めた覚えはない!」
「…ひ」
「なんてことだ、ああ、こんなに! ばか者ばか者、ばか者め!」
 あのジャヴ、そのお叱りはなにやら理が通っていないといいますか支離滅裂といいますかすでに暴君、できればその、私が本格的に意識を失うまえに治癒などを少々ですね…、とリスカは内心で怯えつつささやかに望みを訴えた。
「ああまったく!」
 罵りながらもジャヴが治癒の術をすばやく施してくれた。肩を苛んでいた激痛が幻のようにひいていったが、失った血液まではさすがに取り戻せないため、強い脱力感とめまいがさらず、危険な具合に寒気もする。なんだか私ちょっと痩せた気が、とリスカはひっそり考え、地味に憂鬱になった。痩せたら痩せたでなおさら見た目が貧相になるのではと、いや、そんなはずは、いやいや。…もしかして見た目ではなく雰囲気がもう貧相とか、いやいやいや!
「脱ぎなさい、血塗れじゃないか、もう」
「いえあの師よ、そんな場合じゃなくて」
「どんな場合だろうが、知るか。脱げ」
「いえ本当にそんな場合じゃ。侵入者が」
 血をたっぷり吸いこんで重くなったリスカの衣服を、恐ろしいことに力ずくで脱がそうとしていたジャヴが、その言葉を聞いてぴたりと動きをとめた。なんとこの人、今し方凄まじい術を行使してワンスを容赦なく弾き飛ばしたくせに、もはやいっさい眼中になく、脳裏からきっぱりと存在を消去していたのだ。師弟愛、どれほど最強なのか。
 ジャヴの視線が、離れた場所に伏しているワンスへと向かった。途端、変化したまなざしの硬度。いや、眠る死者さえ叩き起こすような驚異の氷柱度。もしかしてセフォーが憑依しているのではないか。リスカは貧血とは別の意味で目の前が暗くなり、ふうっと意識が遠退きそうになった。
「なんだ、あれは」
 あれって。人間をあれ扱い。リスカは空より海より顔を青くした。セフォーの姿が濃厚にちらつくのはなぜ。
「いえ、そのですね」
「どこかで見た覚えのある顔だがな、私としたことが、どうも今は頭が回らないようだ」
「ひ」
「いや、そうだ。見覚えがあると思った。たしか君、塔時代にあの男に追われていたな?」
 しまった。ご指摘通り、塔時代、ツァルに手をひかれて彼のもとから逃げた時、通路の途中で偶然ジャヴとでくわして足止めをお願いしたのだった。ということはその直後、高い確率でジャヴはワンスと対面しただろう。そして当時の不穏な状況から、リスカとワンスがなんらかの事情によって仲違いしているのだとすぐに判断しただろう。
 しかしずいぶん昔のことをご記憶されてますね、さすが我が師、頭の出来が違いますね、などと愛想まじりにもちあげてもおそらくだまされてはくれないだろう。
 いや、むしろ理屈でも勘でもない、研ぎ澄まされた師弟愛の部分で一足飛びに真実に到達した可能性のほうが強い、きっと。うむ。
「そうか、あれだな。あれが、君の過去の棘なのだな」
 美しく、ジャヴが笑った。まごうことなき悪の微笑だった。以前、読心術で過去を暴かれそうになったことがあるが、結局あのときはジャヴが身を引いてくれたため、詳細についてはほとんど知らないままだろう。しかし今、この状況と無敵の師弟愛のちからでおそらくかなりの割合、あやまりと妄想の含まれる推測をし、ワンスとリスカによる因果を誤信、いや確信したらしかった。この考えは実際、次の台詞で証明された。
「どういうことだ、なぜあれがこの隠れ家に上がりこんでいる? 先ほどなにか不穏で不埒で薄汚く身の程もわきまえない台詞をいわれていなかったか? あれは君を攫いにきたというのか。私の弟子を? ああ、いや、そうではないな、どうも思考が落ち着かない。いい、どんな理由であろうとも悩む必要はない。どうせ飛散させてしまえば、いかなる計略も闇の中」
 飛散。
 それはまさか、ワンスの命を飛散させる、とか。ひっ。なんでしょう本当にセフォーが口にする駆除とか始末とか、そういった次元の究極発言に聞こえますが気のせいですか。
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
 ひきとめたらジャヴは、リスカにも大敵に向けるような目を注いだ。思わず速攻で指三本分視線を落としてしまうリスカだった。
「私が私の判断をもって虐殺するだけだというのになんの文句が」
「すみませんすみません怪我をしてすみませんでした、だけどもういいんです」
「だから私がよくないのだと」
「あなたがいるから、もういいんです。報復も虐殺もいりません。師がそばにいてくれるだけでもういいんです、私は満ち足りています」
 虐殺の二文字に怯えつつ切々と懇願したら、いったいなにが心の琴線にふれたのか、ジャヴがなにやら目を見開いたあと、微妙に感激した顔をしてリスカをぎゅっと抱き寄せた。いえ、あの、べつにいいのですが、治癒をしたばかりでかなり貧血気味なため胴をそんなに締めつけられるとめまいが、とリスカは意識をちょっぴりかすませた。
「あの、でも、彼だけじゃなくてですね、その、そちらに」
 無視できない人物がもう一人いる。できればこのままジャヴにはしらせることなく始末したい男だが、現実的にそんな勝手なまねはできない。
 ご満悦だったらしいジャヴの目が、倒れた卓の横にうずくまっているタデゥゲルをとらえた。はじめは怪訝そうな表情を、しかし、次の瞬間には、打たれたような驚愕を映す。
「タデゥゲル」
 茫然とジャヴが独白した。リスカをかかえていた腕からちからが抜けている。
 緊張しながら見上げるリスカの視線のさきで、ジャヴがめまぐるしくまなざしの色を変化させた。驚き、戸惑い、疑念、絶望、そして、髪が逆立つような怒りと、ふいの虚脱。
「タデゥゲル…」
 さきほどタデゥゲル本人からあかされたシエルに関する事実を、もしかしたらジャヴもいくつかすでに追究していたのではないか。
「なぜ」
 ジャヴがリスカから離れ、茫とした足取りでタデゥゲルのほうへ近づく。
「シエル様の崩落を招いたのは、本当におまえなのか? いや、否というなら、ここにあらわれるはずが……」
 ジャヴが今にもよろめきそうな様子で、ぽつぽつとかすれた声を落とす。
 リスカは慌て、もつれる足を懸命に動かしつつジャヴの背にしがみついた。けれどもジャヴの意識は完全にタデゥゲルに向かっていた。
「――なんだ、おまえ。なぜ答えない」
 しばらくのあいだじっとタデゥゲルを見下ろしていたジャヴが、ようやく彼の異変を察したらしく、わずかに正常な様子を取り戻して疑問をくちにした。その問いにはリスカが答えた。
「私が術を施し、動きを封じました」
 殺されそうになったから、という言葉はかろうじて飲みこんだ。いわないほうがいい気がしたためだ。
「術を…?」
「ええ、その、あまり褒められた方法ではないんですが、持ち合わせの問題などがありましてね、媚薬の花びらを何枚か使用し」
 とまで説明した時だった。未だ赤ら顔で白痴のように虚ろな目をし、口から唾液をもらしているタデゥゲルをあらためて眺めたジャヴが、狂ったように爆笑した。
「媚薬――媚薬か! わかっているじゃないかリル! それはなによりいい方法だ、屈辱的で、いい!」
 たしかにリスカは、タデゥゲルにこの上ない屈辱を、という仇討ち精神で術を施したのだが、この不安定なジャヴの姿を見ていると、それは間違いの選択だったのではないかと危惧を抱かずにはいられなかった。
「ふふっ教えてあげようか、この男がどうもね、シエル様の王都追放に関わっているみたいなんだよ」
 リスカは返答できなかった。やはりうっすらとジャヴは事実に気づいているらしかった。
「法王の抱く宝物を盗み出した罪といい、実際、星午庁にて審理が行われたが、どれほど一方的かつ秘密裏に処罰が言い渡されたか。異例のはやさの判決だ。シエル様もいっさい弁明されず、無言を守り通したという。いや、どんな風聞が広がろうとも、シエル様が沈黙を選ばれるならば、私もそれに従うまでだった。あの方は、私が詮索するのをなにより嫌がられたから。だが、師なきあと、堅固であった沈黙の壁も崩された。瓦礫のむこう、罪の曖昧さばかりが目の前をうつろう。思い切って曖昧な霞みをかきわければ――この男の顔がのぞいた」
 リスカは無我夢中といったていで、ジャヴの背中にはりついていた。しかし、振り払うような手荒さでジャヴが振り向き、リスカの身をつかんだ。
「なぜこの男が、皇帝の寵を受けし一人というタデゥゲルが、法王にお仕えするシエル様の犯罪をまっさきに知り得ることができたのか? 知らねば、告発などできまいに。ならば無関係であるはずがない、いや――関係があるからこそ、こうしてシエル様の屋敷に侵入したのだ。だが、なぜ今さら。なぜこの日に? いや、ちがう、なにを狙いにきた。ちがう、答えなどひとつきりだ、我らが追う事件の黒幕なのか、ちがう、ちがう! この魔術師は。魔術師でありながらなぜ騎士団長の男と現れた。リルの過去に関わる魔術師。過去。なんの過去が呼んでいる。いや、だめだ、そうではなくて、ちがう、もはやいい、理由など存在の憎しみをこえられぬ、もう」
 ジャヴが突き飛ばすようにしてリスカを離した。そして――足元に転がっていた、タデゥゲルの剣をすばやく手に取った。
「ジャヴ!」
 リスカはよろめきながら、再度ジャヴに飛びついた。剣を勢いよくタデゥゲルの背に振り下ろした師の背に。
 タデゥゲルが呪わしい悲鳴を上げた。杭のように剣がタデゥゲルに突き刺さっていた。だが、リスカが飛びついたために、致命的な場所からずれ、肩に突き刺さっていた。皮肉にも、リスカが受けた怪我の位置とおなじだった。
 リスカは離すまいとして、ぎゅうぎゅう背後から抱きついた。耳をつんざくタデゥゲルの悲鳴のおかげか、突き抜けるようにしてジャヴが我に返ったらしく、その身体から一気にちからが抜ける。床にひざをつくジャヴにつられ、リスカもまた体勢を崩す。
「待ってください、まだ殺してはいけない」
 そう声をかけると、感情が欠落した無機質な表情を向けられた。
「殺すなと? この男がシエル様の死の引き金となったかもしれないのにとめるのか。どれほどの奇麗事なのだ。命はなにより貴いとでも? ならばなぜ私はその命を潰したくてたまらないのか」
「いいえ、いいえ! ちがいます、そうではない――まだ、必要な情報を彼からすべて引き出せていない。だから、もうしばし、お待ちを」
 リスカの冷徹な言葉に、ジャヴが一度、あどけなくまばたきをした。
「彼の本当の目的、ワンスとの関係。すべてあまさず、情報を絞りとるべきです。殺すのはそのあとでいい」
 とっておきの残酷な方法で、と真顔で言い足したら、なぜかジャヴがしばし放心の顔を見せたあと、おろっとした雰囲気を漂わせた。なんですか、その変化。
「リル、なにをいっている、君がそんな慈悲も情けもない台詞を言うなど。私の幻聴か?」
 何を言っているのやら。
 大きな誤解をされているようだ。リスカはもう、潔癖でも夢見がちでもない。そもそも、どんなに邪悪な命であっても貴いから殺めてはいけないといった考えをもつ博愛主義者であるならば、平気な顔で殺戮大魔神のセフォーと一緒に暮らしたりなどできないだろう。というより、セフォーのおかげか、やはり術師としての特性か、それともかつては一人で店を切り盛りしていたせいか、十分に冷めた部分もあるし、いざとなれば自分の手を染めることも厭わない。殺人行為の垣根と罪悪感は、普通の女性よりも低く、薄いのだ。
 ましてやその対象が、師であるジャヴの心を陰らす者ならば。ジャヴにとってリスカがなにより大事な弟子というのなら、リスカにとってもジャヴは生涯唯一の師なのである。そしてすでにリスカは腹を決めているのだ。
「あなたが彼を、憎い、殺したいというのであれば、きちんとお手伝いいたします」
「なんだって? 手伝う? リル、待ちなさい、考え直しなさい」
 この期に及んでなぜジャヴが狼狽えるのか。自分で今、殺そうとしていたくせに、とリスカは半眼になった。
「あなたの敵なら、私の敵でもあるでしょう? 憎い相手にどういう情けが必要なんですか。だめですよ、そんな優しいことを言って許しては。彼が生きている限り、師の苦しみが続くなど言語道断というものです。あなたがためらうのなら、かわりに私が」
「リ、リル」
 なぜか既視感のある展開になった。感激しているような混乱しているような目を向けられたのだ。
「いや、よい。君が手を汚すことなど」
「師のくせに、わからないのですか。あなたのことだから手を汚すんですよ。他にどんな理由が?」
「ばかもの、ああ、もうよい。なにもしなくてよい。弟子がばかなことをいう。ちがう、ばかは私だ、私が弟子にばかなまねをさせてしまうのか。もう、よい。殺さなくていい。私はその苦しみに十分堪えうることができる。シエル様、お許しください、この男を私は殺さない」
 ジャヴが早口でそう言い、リスカの後頭部に手を回した。そしてそのまま引き寄せ、額に唇を落とした。リスカはぎょっとした。
「なっなんですか、状況を読んでください破廉恥な振る舞いをしている場合じゃないでしょうっ私は今から殺人者になる予定なんですよ」
「ばか」
「ばかばか連呼しないでください、あなたの弟子じゃないですかっ」
「ああ、ばか弟子だ、本当に」
「な」
 などと、これで何度目なのか、脱線と口論と隙の多い呑気な師弟であることを反省したくなったのは。そうか、ジャヴは元貴族だった。根本、おっとりしていて危機感が薄いのだ、きっと。ということは師と似ているリスカもじつは貴族要素たっぷりなのか。知らなかった。
 衝撃の新事実にびっくりしていたとき、突然、はっとジャヴが顔をこわばらせ、リスカの頭をほぼ鷲掴みしたあと、ぐいっと力任せに倒した。リスカはうぎゃひ! と世にも情けない悲鳴を上げ、ジャヴの太腿に勢いよく顔を激突させた。痛い。もし衝突したのが硬い床だったら、私の鼻とか額とかきっと潰れて大変な惨事を招いてましたよ! とリスカは盛大に文句を言いそうになったが、寸前のところで思いとどまった。ジャヴがかばってくれなければ、いつの間にか復活していたワンスの放つ攻撃術の餌食になっていたことまちがいなしと気づいたためだった。
「――この礼はかならず」
 ワンスがすぐ目前に転移をしてきた。そして恨みのまじった低い声でつぶやき、めくらまし目的の攻撃術をいくつかしかけてジャヴの行動をとどめたあと、肩を貫いた痛みさえも快楽と変えて狂気の沙汰を見せていたタデゥゲルの腕をつかみ、ふたたび転移術を駆使して逃亡した。
 身を守るすべを持っていなかったリスカをかばいながら防御術を行使したために、どうしてもジャヴは後手にまわってしまう。情報を入手する前に結局二人とも逃がしてしまったのだ。
「すみません、私のせいで」
 それ以上、言葉が出ない。
 こんなことになるのだったら、先ほどジャヴをひきとめたりせず、復讐を果たさせてあげればよかった。
 リスカは床に座りこんだまま、悄然と頭を垂らした。
「いや、君のせいではない」
 ジャヴがためらう声で否定し、それからリスカの手を取って身を起こさせた。リスカはずるずると後悔の影を引きずりながらも従順に立ち上がって師の顔を仰いだ。リスカがその否定に納得していないとわかったらしいジャヴが困った顔を見せ、時間稼ぎのつもりなのかさほど汚れてもいない自分の外套を払った。そして、あらためてリスカを見つめ、困惑をますます深めたようだった。
「本当に君のせいではないんだよ。今回のことは私の浅慮が招いたもの。見通しが甘かった。まさか私の挙動が、君の過去を共有する不届き者までいぶり出すことになろうとは」
 いぶり出す?
 その言葉選びに、リスカは不審を覚えた。だが仔細を問う前に、ジャヴが腕を伸ばし、リスカの身を抱き寄せた。
「ジャヴ?」
 リスカは腰に回った腕に幾分動揺しながらも、もぞもぞと顔を上げた。ジャヴがふたたびリスカの額に唇を乗せ、それから脱力したように深く吐息を落とした。ようやくの安全を確かめ、気が抜けたといった様子だった。この人は師で、淫らなものなどいっさい感じられない接触だとわかっているが、それでもどぎまぎしてしまうのは、リスカの修業が足りないせいかもしれない。
「すまなかった。まさかこのような事態になるとは。君を一番安全な場所に隠したつもりだった。私はうぬぼれていたようだ。結果として君を危険な目に遭わせてしまった」
「あの、よくわかりません」
「罪滅ぼしというわけではないが、どういうことかは説明する。また、君も私が来るまえに知り得た情報があったら、聞かせてほしい」
「はい」
「まずは、君の着替えだね」
 リスカは、はたと気づき、自分の恰好を見下ろして顔を引きつらせた。血塗れである。
 着替えを貸してくれるというジャヴの好意を喜んで受けることにした。

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