桃源落花:9


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 着替えを持ってくるから少し待つようにというジャヴの言葉に従い、リスカは暖炉のあるこの一室に一人残った。
 見回せば、乱闘騒ぎのなごりは四方八方に色濃く、無惨なほど。シエルという人物の内面がまるで荒らされたかに見え、腹の奥にたしかな苛立ちが生まれるのをとめられない。そしていたたまれなさと寂しさも同時に味わい、リスカは急に落ち着かない気持ちになって、意味もなく鋭い目をしながらうろうろと歩き回った。まるで、見知らぬ領域に放りこまれた獣の子のようなありさまだ。
 余裕のない自分の姿を自覚し、リスカはいったん立ち止まった。それから、ぱしっと両手を打ち合わせて感傷を振り払ったあと、倒れた長椅子と卓を戻し、散乱している様々な道具を拾い集める。
 と、すっかり忘れていたが、先ほどの戦いで気絶一歩手前というほどに出血していたのだった。突如のくらみに襲われて立っていられなくなり、工具や画材などを抱きかかえたままへなへなとその場に座りこんでしまう。
 腕の中の工具類を緩慢な仕草で自分の膝に置いたとき、ねじ巻き錠の一部が破損しているのに気づいて、先ほどの憂鬱さがぶり返した。
 もやつく心と気怠さを少しでも緩和させるため、リスカは膝上の品々を落とさないよう注意しながらゆっくりと腰で後ずさり、長椅子の脚にもたれかかった。頭を肘掛けの下部に乗せるようにしたが、どうも位置が悪い。ごりごりと後頭部をこすりつけつつ適所を探すも見当たらない。リスカは知らず、眉間を寄せた。諦めて、具合の悪い位置に頭を預けたままにした。
 ぱち、ぱち、と暖炉の炎がはぜる小さな音が届く。波間を漂う心地でぼうっと天井を見上げれば、シエルの描いた星座の神々が静かにリスカを見下ろしていた。やあ、とリスカは小さく手を上げ、不遜にも気軽な挨拶をした。一部始終を眺めていたのなら、この屋敷を守ってくれればよかったのに。神々のくせに情けない。見るだけでなにもしないのなら、存在しないと同じではないか。
 けったいな八つ当たりだとはじゅうぶん承知の上であるが、室内の惨状を思えば思うほど、やりきれなさと苛立ちが増すというものだった。とにかくリスカは、この部屋は荒らされる前の状態でずっと維持したかったのだ。なぜかといえば、故人への純粋な敬意だけでなく、大部分はやはりジャヴの平安を守るためで、それは結局リスカ自身の安らぎにも繋がるものであったからだ。
 ああそうか、神様というのはこうして好きなだけ八つ当たりをされるべき……しても罪科とならず無条件で許されるという寛大な存在なのかもしれない。そうして人々の心からわずかばかりでも不安や怒りなどを取り除くのか。おそるべき無限の恩赦。術師よりも難儀なことだ。途方もなく孤独でもある。
 信仰厚い人々にはとても聞かせられないこういった不届きな考えを弄んでいるうちに、いったい何人分あるのかわからぬ量の着替えをこんもりと腕に抱えたジャヴが戻ってきた。あの、用意してくれたのは本当にありがたく嬉しいのだが、なぜそんなにたくさん? とリスカは及び腰になりつつ首を傾げた。
「男物の衣しかなく困ったのだが、そういえばまた君は性別をいじっているな、まったく。いや今はそのほうがいいのか? よくわからない便利さだな君って。さあ早く着替えなさい。少し大きいかもしれないが、どれもよい服だよ」
 なにやら不穏な台詞を含みつつも大量の着替えをリスカに押しつけてきた。どう見ても数人分はある。まごついていたら焦れたらしいジャヴに、とっかえひっかえというよどみない手つきで次々に服を合わせられた。どの色がリスカに似合うのか、真剣に検分してくれているようだが、はたしてそれでいいのだろうか。元貴族の思考は謎めいている。似合うか否かというよりも、いまいま着られる服でなおかつ防寒にも優れていればそれで十分だ、などと本音を吐露したら、その瞬間に蔑みの目で見られそうだ。美意識が足りないとかなんとか。うむ。
 服に対するこだわりはおそらくジャヴの生活の資本、などとこれももし明かしたら徹底的にいじめられそうなことを考えるリスカだった。
 妄想が現実になりませんように、と怯えているあいだに、ジャヴがようやくどの色合わせにするか決めたらしい。華やかな明るい緑に薄茶の模様が裾に施された冬用の長衣、その下には樹液を思わせるような濃厚な黄土色の内衣、さらにもう一枚、肌触りのいい紅色の内衣があって、それは絞り染めを施していた。下衣は暗めの緑色だ。
 冬物にしては細身に作られているが、ジャヴの説明通り丈が長い。帯をしめれば多少はごまかせるだろう。内衣と同色の布帯をくるくると胴に巻きつけ、長さを調節する。
 ところがジャヴは帯の色合いが気に食わなかったらしい。美意識のこだわりを遺憾なく発揮し、煉瓦模様に細工された幅の広い赤紫色の皮帯をわざわざ別室まで取りにいったのだ。しかもそれだけにとどまらなかった。
「首元がやや寂しいな…」
 などと不満そうに独白し、ふたたびなにかを取りにいこうとするジャヴの袖を引き、リスカは首を振った。これでもう十分です。
 すると、今にも噛みつきそうな邪悪さ丸出しの顔で威嚇されたので、リスカは思わず手を離した。怖い。美形台無しの表情ですし。
 しばらく後、ジャヴが満足そうな様子で、異国風の大振りな首飾りを持ってきた。多色をちりばめた二連づくりの一品で、硬貨のように細かな図が刻まれた楕円状の薄い石板が何十枚と使われている。これは単なる飾り物ではなく、異国の呪術師が呪法をもって作り上げたものだという。
 他にも色々と、いらぬ情報を得てしまった。師の、装飾品や衣服へかける情熱がどれほどのものか、つくづく思い知ったリスカである。
 服の趣味については意外にもフェイと話が合うらしく、徹夜で熱く談義したことがあるとも聞いた。どの織師と染師の組み合わせがすばらしいかという、リスカにはよくわからない議題でだ。さらにいえばツァルとも盛り上がれるらしい。頻繁に姿を変えるツァルが衣服に詳しいというのは納得できるけれどまさかフェイまでもが…となかなかに失礼な疑問を抱いたが、そういえば彼は騎士でありつつも大貴族。審美眼は当然のように幼少時から磨かれているだろう。
 言いたくなさそうだったが、セフォーの服の趣味も案外悪くないという。じゃあ私は? とリスカが無邪気に自分を指差したら、速攻で鼻で笑われた。論外だと。突き飛ばしたい。
「安心しなさい。私が師となったからには、これまでのように粗末で貧相で垢抜けないものは着せぬ」
 無用なほど凛々しい顔で力強く宣誓されたが、そんな決意、本気で嬉しくありません。リスカは全力で断った。再度、噛みつきそうな凶悪な顔を向けられたが、無視しておいた。…作戦を変えてそう寂しげな気配をわざとらしく漂わせても、だ、だめなものはだめで、なんて小癪な。というか自分の服装はどれほどひどいと思われているのか。つらい。今度から少し気をつけよう。
 着替えと反省が終わり、一息ついたあと、リスカは熱を求めて暖炉の前に移動し、床に直接座りこんだ。やけに身体が寒いのは、やはり血が足りないせいだろう。それを察してくれたのか、ジャヴがまたもやどこかへ向かい、すぐに酒と銀杯を抱えて戻ってきた。寄り添うようにしてリスカの隣に腰かけ、杯に酒をそそいで手渡してくれる。酒はたまらなく嬉しい。つい笑み崩れるリスカだった。しかもシエルの屋敷に保管されていたものならば、かなり上等な酒にちがいない。
「それで、一連の出来事の裏について、説明してくださるんでしたよね」
 たずねながら、酒を一口。美味! リスカは感無量の心地で天を仰いだ。これはなんたる美味。さらさらしていながらも、舌の上で蜜のごとく甘く広がる風味。生きていてよかったと、思わず偽りない本音が漏れそうになる。
「君という人は身を飾ることよりも事件と酒が好きなのか…」
 窒息しそうな表情で嘆かれたが、ほうっておいてほしい。リスカも先ほどの師を真似て凶悪な顔を向け、話を軌道に戻すよう威圧した。
 ジャヴが杯を床に置いたあと、片膝を立てて座り直した。
「なにから話せばいいのかな」
 と聞かれ、リスカはもっと顔を凶悪なものにした。この展開、覚えがある。
 聞かれたことにはきちんと真実を答えるが、聞かれぬ事実については明かさないというかなり狡猾な問答法だ。このからくりに気づかないうちは、誠実な対応と映るぶん、なおさらたちが悪い。
「なにを話してくださるんでしょう」
 負けてなるものか、とリスカはあえて主導権を投げ渡した。この闘魂燃える意図を察したジャヴが淡く苦笑を見せ、ご機嫌うかがいをするつもりなのか、杯に酒を注ぎ足してくれた。途端、戦闘意欲がからっと晴れた。晴天だ。酒に罪はないのでありがたくいただくことにする。決して酒欲に屈したわけでは……!
「なにからなにまで小狡く策を弄したわけではないのだが。大半の部分、信じがたい偶然というのが絡んでいるとまず、念頭においてくれないか」
「わかりました」
 と答えねば、話が終わってしまう。リスカはちびちびと酒を舐めた。はやくも酒の誘惑に陥落しそうだった。いや。
 ジャヴも一口、杯に手を伸ばし、酒を飲んだ。そして軽く咳払いし、また床へと杯を戻す。
「順を追って話すか。最初は、塔へと向かったことだね。君をセフォードから少しずつ引き離そうと考えたのは事実。そして、砂の使徒の起源を追うべきと考えたのも事実。塔へわざわざ君までも同行させたのは、先のセフォードの件もあるし、やはり自分一人で行くのは気鬱だというのもあるし」
「でも、それだけではない?」
 ごまかされてはたまらないので、リスカは酒杯から努力して視線をもぎ離し、口を挟んだ。ジャヴが、ばれたか、という微苦笑を見せた。ここで厳しい顔を維持しておかねば、ほだされてしまう。
「そもそも最初というのなら、なぜ天敵……いえ、相性の悪いエジとともにフェイの別荘へ来たのか、といった点をまずお話ししてくださるべきなのでは」
 リスカがちょっと怒りながら指摘すると、ジャヴが後ろめたさを必死に押し隠した奇妙な生真面目顔を見せた。
「ああそうか、そうだね。忘れていたよ、すまなかった」
 嘘だ。
「そう、本当は彼などとともに来たくはなかったのだけれどね――私がある程度、騎士殿たちの任務に協力をしているという話を以前したことがあるだろう?」
「はい。まさか、また事件が?」
「また事件が、というより、まだ事件が、というべきかな」
 その言葉をリスカは急いで咀嚼した。また新たな事件が発生したのか、ではなく、まだ以前の事件が続いている。そういう意味なのか。
「もともと私が彼らと協力体制をもったのは、ティーナたちの事件が発端だ」
 自分の沓先に視線を向けたジャヴは、シエルの事件、とは言わなかった。言えなかったのだろう。
「この町になだれこんできた騎士たちの一部がワイクォーツ伯爵をかついで何事かを成そうとしていた。そしてシエル様がその図に加わり、死に至る媚薬を作った。だが彼らは――なぜそんな真似をしたのか?」
「それは、確か…ティーナが、シエル殿は死の媚薬を兵士にばらまきリア皇国を内側から滅ぼそうとしていたと説明を」
「だが騎士やワイクォーツ伯爵はちがうだろう。彼らは再興を望んでいた。目的が反している」
 リスカは目をまたたかせた。
 返り咲きを狙う騎士たちと、崩壊を望むシエル。
 望みが同一ではない。
 リスカは喉の奥でうめき、自分の頭を殴打したくなった。本当だ、その通りだ。そんな簡単な矛盾に、なぜ今まで気がつかなかったのか。
 いや、気づかなかったというのは少し語弊があるか。ただ深く追及せず、伯爵は国内にある敵対勢力の弱体化をもくろみ、圧したあとでのし上がろうとしたのかと考えたのだ。そこに王都追放の恨みを果たしたいシエルの思惑がうまく合致したのかと。
 だんだんと記憶が蘇ってくる。当時、フェイが教えてくれたことがあった。ワイクォーツ伯爵は王都でとある将軍と対立し、落ち目となった。ゆえに伯爵は親交のあった騎士たちと手を結んだ。……具体的に、なにをするために?
 そうなのだ、いくらなんでも、シエルと伯爵とでは明確に目的が異なりすぎている。第一、基本として相容れないのが、騎士と魔術師ではないか。
 目指す場所もちがう、気性も合わない、なのになぜ、シエルは彼らに近づいたのだろうか? そしてなぜ、再びの権力を渇望する彼らを、まるでじわじわと麻痺させるような媚薬を渡したのか。まさかティーナの言葉通り本当にリア皇国を内部から滅亡させようとしたわけではあるまい。今となっては、その話が絵空事以上に突飛すぎると理解できる。他にもっといい方法をとるだろう、シエルなら。
 それでも、シエルは媚薬を作った。
 ティーナは死する直前、シエルは最初、魔術師たちに媚薬を使わせようとしたと説明していた。だが、実際はどうだろう。魔術師の間でそんな噂、あっただろうか。聞いた覚えがない。辺鄙な町に暮らしているからこそ華やかな都の噂話は尾ひれはひれで入ってくるはずなのにだ。
 隠蔽体質の魔術師界だから噂にならなかったとは、この場合否定できない。なぜなら、腹上死事件はすでに王都や騎士の間で流行中だと当時、すでに醜聞として広がっていたためだ。
 もし本当に魔術師間でも流行していたのなら、どれほど箝口令をしいても隠し切れるはずがなかった。
 腹上死事件は、あくまで王都の貴族や騎士……もっと限定するなら、相容れない皇帝側の人間たちの間で広がったのだ。
 とすると――シエルは、ティーナたちを取りこみ油断させるために、虚言を紡いだということになる。
 なんらかの意図があるはずだ。ないとするなら、そのほうがおかしいのだ。
 冷静に、シエルの行動を追う。都を去りし後、すぐに媚薬を作り始める。まずは貴族へ。そして貴族から伯爵へ、伯爵から騎士へ。騎士から騎士へ。本来は対立するはずの相手に、取り入った。 
 ゆっくりとしかし確実に、さらには目的を知られないように、騎士たちの戦意や気力をじっくり削いでいく必要があったとするなら。では、その目的とは?
 それに、シエルの単独行動だけで、皇帝側の貴族や騎士たちを手玉に取れるだろうか。
「わ、わからなくなってきました…」
 リスカは混乱しかけた。理由が見えない状態で彼の行動を追うから解明できない。
「うん。私もわからないよ、まだ」
「え?」
「シエル様の意図を知るために、私は動くことにしたんだよ。騎士たちと協力してね。そう決めた。いや、決めたばかりだった」
 その姿はまるで、死する前のシエルのようだ。本来の望みを押し隠して、相容れない相手とも握手をする。さらにいえばワンスとも通ずる。
 偉大な壁であったシエルがいないから、もう、ジャヴは目をとじ、耳を塞ぎ、思考に蓋をする必要がなくなったのだ。
「ええと、待ってください。つまりジャヴは、シエル殿の痕跡を探るため、フェイたちに協力するようになった。その一環として、エジがたとえ一緒でも我慢に我慢に我慢を重ね、こちらに来たと」
「そう。フェイ殿に逆らって不興を買うと今後やりにくくなる。それに、こちらへはちょうど探したいものがあったのでね」
 リスカはちょっと困った。その探し物とは、孤独な樹木が落とす宝のことで――
「もうひとつ、理由としては、フェイ殿が自らの別荘に隠したあの異形の彼らから、なにか有益な話を聞き出せないかというのもあった。まああの通り、完全に無垢な子どものようになってしまい、ろくに話などできなかったが」
「ではいよいよの質問に戻りますが。なぜ塔へ」
「それは――こちらへ来ても手がかりを得られなかったから、とにかく別のてがかりを探そうと。まず塔へ向かったのは、先ほどの理由の他、以前シエル様が熱心に塔の禁書を読んでおられたのを思い出したからだ。そして腹立たしいことに――あのタデゥゲルがなぜか、シエル様の以前の所有地や屋敷を調査していると知った。そこで思い出すのは、シエル様が法王の宝を盗み出したという事件だ。驚くべきことにこれは事実で――むろん私への事前説明などいっさいなかったため今でも信じられないくらいだが――すぐさま星午庁の預かりとなった。しかも、まるで世間から隠すようにだ」
「星午庁……皇帝側の機関に」
「そうだ。奇異なことに、シエル様の事件に関してはろくな資料が残っていない。それほどに急な処罰であったということだ。そして告発者がタデゥゲルだとしれる。その男がシエル様の元屋敷あたりを探っている」
「はい」
「ところで、ひとつ、奇妙な事実がある。今し方言った通り、シエル様は、法王の宝を盗み出したんだ」
 そこでジャヴは言葉をきった。
 法王の宝を盗み出した。
 盗み出すことに、成功している。リスカは、はっとした。ジャヴが奇妙といった点に気づいたのだ。
「盗んだ事実は明かされた。そして星午庁にて断罪された。王都追放だ――それだけなんだよ、リル。事実だとするなら、普通は死罪だというのに。だから事件の噂を耳にし、実際に都を去ったのちも、私はシエル様が真犯人ではないのだろうとずっと信じこんでいた。悪しき者に騙されただけなのだとね。だが、シエル様の死後、調査をして、事件が確かにシエル様の犯行だったとわかった。ならば、なぜ、追放だけですんだのか? そして、未だ返還されていない宝はどこへいったのか。シエル様が隠し持っているとされているが、それなら法王側も見逃しはしないだろうに、追おうとはしていない」
 リスカは視線のみで先を促した。ジャヴが一気に杯をあおり、そして手荒に新たな酒を注いだ。
「そこで、話が戻るがね。タデゥゲルが最近、シエル様の屋敷を探していると」
「その宝を、探しているわけですね」
「宝がなにかわかるか?」
「――樹涙ですね」
 リスカが返答すると、意外そうな顔をされた。
「どの宝が盗み出されたかは一部の者のみが知る極秘事情なんだが。私のように、悪い方法で調べたのでもない限り」
 どんな方法かは恐ろしいので聞かないことにする。
「じつは先ほど、タデゥゲルが漏らしてましたので。樹涙を探しにきたと。シエル殿はどうも、樹涙を複数箇所に分けて隠されたようです。あの話しぶりでは、その事実を最近知ったばかりのようでしたね」
 リスカは考えをめぐらせた。樹涙が正確にいくつ保管されていたのか、皇帝側は把握していなかったのではないか。
 険悪の仲である法王側が親切に情報のすべてを明け渡すはずがない。
 だが皇帝側はその隠蔽体質を逆手にとり、裁きのあとに、おそらく虚偽の報告をしたのだ。宝の場所はシエルしか知らず、発見できなかったと。実際はすでにシエルから取り上げていたのだろう。法王側も察したはずだが、黙認したのだ。その理由は部外者のリスカにはよくわからない。根拠のない推論ならばある。皇帝側と表立って対立するのは分が悪いと苦渋の断決をしたのかもしれないということだ。なにせ、今の時代は武力を誇る皇帝側の天下なのだから。
 でもそれならなぜ、のちにシエルを追跡しようとしなかったのか。
 そもそも根本的な問題として、なぜシエルが宝を盗むに至ったか、いや、なぜタデゥゲルがその宝をシエルに盗ませてまで必要としたのか。現時点ではさっぱりわからない。
 とにかくも――告発者本人であるタデゥゲルと、保管されていた樹涙の総数を知る魔術師のワンスが手を組んだことで、まだ隠されし樹涙がどこかにあるはずだと発覚したのだろう。ワンスが知っていなければ、こうして探しには来なかったはずだからだ。
 ――そのはずだ。だが、ワンスはいったい、どこで、この屋敷に樹涙があると知った?
「……では、あの男がシエル様を罠にかけたので間違いないのだな」
 殺伐としたジャヴの独白に、リスカは思考の淵から舞い戻った。そう、まちがいない。タデゥゲルは自慢していた。
「ごめんなさい、私のせいで仇討ちができず」
 先刻のことを思い出してリスカは悄然とした。
「いい。シエル様にも、あの男は殺さないでおくことの許しをを乞うた。今は君がいる。危ないところだったが、守ることもできた」
 ジャヴがぶっきらぼうにいい、リスカの頬を撫でた。まるきり猫かなにかを撫でるような気安さだった。

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