桃源落花:10


「話を戻そうか。タデゥゲルはシエル様の屋敷だけではなく、なぜか塔側も監視をし始めているようだった。あのワンスなどという痴れ者とまさか手を結んでいると思わなかったがね。しかし、タデゥゲルには不審な点が多い上、実際、シエル様を告発し追放処分へ追いこんだという事実がある。またなにかを企み、同様の手段で塔の者を欺こうとしているのかもしれないと考えた」
「その意味もあって、塔へ?」
「そうだ。手っ取り早く手がかりがほしくてね。直接塔をゆさぶってみれば――以前のシエル様のように、禁書がある図書室を荒らしてみれば、何者かが水面下で動くのではと。また、その者こそがタデゥゲルの操り人形なのだろうともね。もちろん、塔への侵入はこういった理由だけではなく、君に以前話したこともまた事実だが」
 リスカは曖昧にうなずいた。うむ、忘れていたが、この人は外貌に反してなかなかの剛胆さがある人だった。そしてどこか呑気なくせに、いざとなったら案外格闘系というべきか、けっこう楽しみながら戦う人なのだ。美意識から大きく外れていなければ、という怪しい条件がつくが。さすがシエルと野宿で魔物退治をしにいったという過去を持つだけのことはある。
「でも、大丈夫なんですか、そんな危険な真似。あなたの顔、ばれちゃったじゃないですか」
 あの夜勤術師たちにである。塔との決別からそれなりの年数が経過しているとはいえ、ジャヴやシエル様の名前を記憶している者だとてまだたくさんいるだろう。あの時出会った彼らは知らないようだったが。もし似顔絵など出回れば、覚えている人がいればすぐにわかるのではないか。
「知らないのか、塔に飾られていたシエル様の肖像画や賞を記した誉れ書、金杯のたぐいはすべて処分されたよ。魔術師の名簿からも名前を消去されている。私もね。まあ名前くらいはまだ覚えのある者が多いだろうが、顔かたちについてはどうかな。とくに私は塔よりもシエル様の屋敷にいる時間を優先していたから。当時の同期とでも出くわさないかぎり、私だとは気づかないだろうと思うよ。知人の多くはすでに塔を離れているし。現実的に、塔の気質が負担となったり、才の競り合いに負けて去る者も多いな」
「でも似顔絵が出回れば」
「べつにかまわない。そうならそうで望むところだ。シエル様の直弟子の私が動いているとはっきり知られれば、なおさら相手も焦ってくれるだろう」
「かまわないって」
「そもそもはね、塔に侵入した時、姿を見せるつもりはなかったんだよ。図書室をただ荒らすだけのつもりだった。君があそこで騒ぐと思わなかったし。だから――」
「待ってください、かまわないってどういう意味ですか?」
 リスカの低い声に、なにか不穏なものを感じたようだった。ジャヴが警戒するように口を閉じ、しかしすぐにこちらから目をそらして気のないそぶりで酒杯のふちをいじる。
「……私の手出しが知れたところで大したことはないよ。一緒にいた君の顔は隠すようにしていたから問題はないし」
「そういう意味ではありません」
「べつに、私に万が一のことがあっても、だれにも迷惑などかからない。待つ者もおらぬし、まだ伴侶もいないし」
「そうですか」
 ますます低くなったリスカの声に、ジャヴがちょっと不審そうな顔を見せた。
「もう勝手にしてください。私帰ります」
「リル」
 突如、酒杯を蹴散らす勢いで立ち上がったリスカに驚いた顔を見せ、ジャヴも身を起こした。
「なんだ、いきなり」
「なんだじゃありません。私ってなんですか。弟子というのは口先だけですか。まったく価値などないのでしょうね」
 憤慨するリスカの物言いに、自分の失敗を悟ったらしい。
「悪かった。私のいい方が悪かった。君は私にとって十分価値がある者だ」
 撤回する。この人はなにもわかっていない。
「帰ります」
「悪かったと言っている。君は大事な弟子だ。だからこそ、最も安全だと思っていたこの屋敷に念のため連れてきた。……ここで見つかるとは本当に思っていなかったんだ」
「帰ります」
「リル!」
「なにもわかっていないんですね。聡明な人だと思っていたのに、肝心なことがわかっていない。平気で危険なまねをして、あなたに万が一のことが起きたあと、私がなにを思い、なぜ心を失うのか、まったくわからないんですね」
 そこまで言って、ようやく本当になにが悪かったのかを悟ったようだった。ジャヴが顔色を変え、本心から罪悪感なりなんなりを持ったのだろう、リスカに手を伸ばしてきた。本気で立腹していたリスカは冷ややかにその手を払った。
 やはりシエル以外の者には心をあずけることなど論外なのか、それともシエルに置き去りにされたことが原因で他人からの信頼や好意については、いっさい耳をかさず、あてにしないようにもなったのか。そのへんの判断はわからない。
 けれどもとにかく、悔しいし情けないし、切ないことであるのはたしかだった。
 そして、ここでたっぷり理解させておかないと、ジャヴはいつまでも自分を大事にしないだろう。三日くらい放置して泣かせようかな、と半眼になりつつ悪巧みするリスカだった。
「帰ります。転移をお願いします」
「すまなかった。私が悪かった。もう二度と投げ遣りなことはいわない」
「転移してくれないのなら、歩いてでも帰」
 つんとリスカが顔を背けたとき、ジャヴが片膝を床について頭を垂らした。
「謝罪する。反省もする。許しなさい、弟子よ。私がこれほど真剣に非を認めるのは、無断外泊してシエル様をお泣かせした時以来だ。外泊というより家出に近かったが」
 どんな比較ですかそれ、と思わずにはいられない。
「愛する弟子よ。機嫌を直しなさい……直してくれる?」
 美貌をここぞとばかりに悪用しながらわざとらしい寂しげな目でリスカを見上げ、勝手に手を取った。許せ、はやく許せ、ほら許せと訴えるように手を揺らされもした。リスカは悪役そのものの狂暴な顔をしながらも渋々許してやり、ふー、と大仰に吐息を落としたあと、もとの位置に腰かけた。ジャヴが愛想を見せて隣に座り、いそいそと酒を注いでくれる。
 やさぐれるリスカをちょっぴり動揺した微笑で見つめるジャヴに、冷たい目を向けた。
「いや、リル。うん、いや、なんでもない。それはともかく、この屋敷は他にだれにも教えていないし、登録もしていないから、どこより安全な場所であるはずだったのに、なぜ侵入されたのか…」
「私たちが塔に姿を現したからでは?」
 いいながらもすぐに、ありえないことだった、とリスカは思い直した。
 リスカたちが塔に侵入し、そこで夜勤術師たちとでくわす。その後、術師たちがリスカの、というよりジャヴの特徴を何者かに報告したとする。ジャヴが侵入者だと察したその何者かは、以前より隠れ家の存在を知っていたため、すぐに駆けつけた――やはりありえない。第一に、その何者かとは当然この屋敷で出くわしたタデゥゲルとワンスとなるのだが、妙な発言をしていたではないか。
 ジャヴが不在であること……要するに『屋敷がしばらく利用されていないということを前提として侵入したはずなのに』といった疑念をワンスが口にしていたのだ。だからリスカの存在があったことにあれほど驚いていた。リスカとジャヴが個人的に関係があるといった事実の意外性とは、また別の話だ。
 もしリスカたちが塔に侵入した犯人だと確信した上で隠れ家まで追ってきたというのなら、書斎で対面したときに驚くはずがないのだった。
 だとするなら、本当に偶然の事故なのか。
 ワンスたちが隠れ家に現れた時刻と、リスカたちの塔への侵入は。
 それに、この隠れ家の場所をいったいどこで知り得たのか。いや、場所に関しては、シエルの調査をして得た情報だろう。問題は、その情報をいつ活かすかだ。
 これが、ジャヴが前置きした、信じがたい偶然の重なりなのだろうか。
「私たちが塔に忍びこんだことが原因でタデゥゲルたちが現れたとは考えにくいね。時間的にも状況的にも不自然だ。本当に私たちの捕縛目的で追っていたならもっと人員を集めただろうし。それにあの夜勤の術師を黙らせるためにも脅したのだから、そうすぐには上の者に報告に走らないだろう」
 とのジャヴの言葉に、リスカはいろいろと思い出して顔を引きつらせた。
「そうでした、確か悪魔のふりをしたんでしたっけね…」
 最初は姿をさらす気はなかった、リスカが騒ぐからいたしかたなしという状態だった、と先ほどジャヴは弁明しかけていたが。それにしたって。
「よりによって悪魔ですか」
 なにやら微妙な気持ちになり、ぼりぼりと頭をかいてしまう……って、乱れた私の髪を横から直そうとしないでくださ……ではなく。
 最近、あの恐ろしい悪魔と遭遇してしまったから、とっさの脅しとして頭にうかんだのだろうが、本当にむこうみずな人というべきか。
 なとど呆れ半分にジャヴを見、リスカは怪訝に思った。
 なぜ、そんなに意味深そうな目をするのか。
 まさかジャヴ、なにか他に理由が? 私の髪の乱れ具合が問題なだけとは思えない不可解な雰囲気ですよ、とリスカは視線で説明をうながした。
「ねえリル、以前に興味深い話を聞いたことがあるんだが。セフォードが教会の神官たちなどを惨殺した時、フェイ殿が『悪魔の仕業にする』といってごまかしたのだとか」
 リスカが劇薬づくりの犯人と誤解されて投獄されたときの、救出場面が脳裏に蘇る。累々と転がる屍。すさまじかった、あの光景はもはや修羅の宴。なにせ誇張なしに強靭、苛烈な死神閣下様がふるう破壊の剣なのだ。思い出すだけで戦慄ものの容赦なさで……って、なぜそんな前の話を。
 嫌な予感がするリスカだった。
「ふしぎに思わなかったか? 普通の騎士が、たとえ類を見ない虐殺事件の対処法に頭を抱えたのだとしてもだ、魔術師でもないというのに『悪魔の仕業』などとたやすく思い浮かぶとは。『悪さをすれば悪魔が来る』などといった子どもへの訓誡ではあるまいに。それにいくらなんでもあれだけの事件を隠蔽するとはね。たとえ裁官の判断を覆せるほどフェイ殿の身分と財力が高く、現場が法王の介入を阻める私有教会だったとしても、大変な労苦があったろう」
 リスカは息をつめた。それは――そうだが。
「ではなぜ隠蔽工作に走り、悪魔の存在がぱっと思い浮かんだのか。なにか悪魔を連想する事件に以前から関わっていたか、それとも、悪魔を連想する事件に関わる人物を知っていたか」
「待ってください」
 悪魔。たしかフェイが言ったのだ、セフォードの犯行を、すべてイルゼビトゥルの仕業にすると。
 まさか本当にイルゼビトゥルがその後、関わってくるとは考えていなかっただろう。もし事前にイルゼビトゥルが関係しているとわかっていたのなら、ああまで気安くは口にしなかったはず。けれどもとっさに『悪魔の仕業』と思いつく程度には、なにか気がかりなことがあった。べつの事件の、べつの悪魔のことが頭に――?
 いや待てよ。イルゼビトゥルは以前どこにいたと? そしてかの悪魔には配下が多いのだ。イルゼビトゥルの息がかかった下僕の悪魔たちが暗躍していた? だからフェイはしもべの悪魔たちから連想して強大なイルゼビトゥルをセフォーに重ねたのか?
「といいますかジャヴ! あなた、本当になんて危険な真似をしたんですか! 挑発以上の挑発ですよ、もしあの悪魔が!」
「悪魔そのものをひきずりだすつもりはなかったよ。だからたとえ偽りであっても名を作ることはしなかった。魔力がまざっては恐ろしいからね」
「だからといって!」
「名を呼ぶならともかくも、悪魔、と口に出して言ったくらいで、なにも起こりはしないよ、さすがに。そんなことになれば、この世は悪魔まみれになる。そうではないんだよリル。私はフェイ殿と協力し合っているが、本来の目的は互いに少しちがうだろう。彼もすべてを私に話しはしない」
「でも」
「フェイ殿がセフォードの神官殺害事件で、悪魔と口にしたのにはなにか意味があると、どこかでずっと考えていた。悪魔と通じている者がいるのだろうと。そしてその推論を事実として考えるなら、私の知りたいことにも一部繋がっているのではないか? 私は独断で、というよりもあの時のとっさの判断だが――密通者をあぶり出すために、塔で悪魔のふりをした。すぐには夜勤術師たちはだれにも話さないだろう。だがいずれは報告する。そのとき、だれが慌てふためくのか見定めたかった。私が君を屋敷に残して外出したのは、その仕掛けをしに行くためだ」
「どうであろうと危険すぎます、すでにあの高位悪魔が一度姿を現している。またかの者が出現する可能性……いえ、関係している可能性が高いということになるじゃないですか。だとしたら、かの悪魔そのものがあなたの前に現れる危険がじゅうぶんすぎるほどにあったのに!」
「本音をいえば、それでもよかった」
「ジャヴ!」
「私が最も望むのは、シエル様の死の真相だ。王都や塔がどうなろうが、究極のところでは知ったことではない。真相を知り得るのなら、悪魔と取り引きをしてもいいとさえ思った。真相解明への思いは今や確固たるものとなっている。これまでのように身の安全ばかりを重視していたら、貴重な情報は得られないとも悟った。何事にも代償は必要だ。そもそも悪魔が本当に関わっているだとしたら、フェイ殿に協力を続けていけばいずれかならず行き着くだろう。だったら危険の程度はなにも変わらない」
「あ、あなたって人は!」
 リスカの憤りに、ジャヴがふと身体から力を抜いた様子で笑った。
「だけども、先ほど、痛感したんだよ。私には過去が必要だと思うのと同じくらいに、未来も必要だったと。術師の勘かどうかはわからないが、仕掛けを施しにいく途中、なぜか焦りが生まれた。後ろ髪を引かれる以上の切迫した危機感だ。――こちらに戻らなくてはならないと痛烈に思った。それで慌てて引き返してきた。そうしたら本当に危機一髪という状況だった。仮に君をここで死なせていたら、私は今度こそどうにかなっただろう。これからはなるべく、無謀なまねは控える。私の行動が、他の者を苦境に追いこむ危険があると身をもって知ったからね。これじゃあなにもセフォードを非難などできないな」
 リスカは苦々しい思いで憤りを引っこめた。
 わかってくれたのは嬉しいが、それでもなんて危険な真似を平然としたのか。しかもこの人、懲りずにまだなにかを隠しているようだ。
「そこでリル。私はもうむちゃはしない。危険を呼ぶような真似も、悪魔の気を引くような真似ももうしたいと思わない。だから、君も、セフォードから離れてほしいな」
 それをここでいいますか。
「いやです」
「君、人には散々言っておいて…」
 リスカは胡乱な目をした。分が悪いのは向こうだ。
「……まあいい。仕方がない。私にとっては自身の至らなさを痛感することになってまったく皮肉だし、懸念も大きいのだが、いまいまの安全のために君を一度セフォードのもとに戻す。そのあいだ、私は火消しに走ろう。禁書はすべて返却し、あの術師たちにも誰かに報告させるまえに忘却術をかける。少なくとも、これで塔でのことがタデゥゲルたちに伝わらずにすむ。ただここで一戦交えたことについては、フェイ殿に伝えねばならないな。それで、次は君に聞きたい。タデゥゲルたちと何を話した?」
 リスカは不承不承、真実を語った。
 まず、彼らが樹涙を探しにここへ来たこと。そしてシエルをそそのかして樹涙を盗ませ、さらには告発したこと。ただどういった甘言を弄して盗ませたのかはわかっていない。
 また、ワンスは現時点でリスカたちの内情にはさほど通じていないこと、タデゥゲルとの協力関係も良好ではないこと、王都転覆を狙い、法王の威風輝く新時代を頭に描いていたワンスの野望。最後に、ジャヴが戻るまでの流れをおおまかに説明した。
 すべて話し終えていささか疲労感を覚えたリスカの肩を、なんの前触れもなくジャヴが抱き寄せた。
「すまなかった。すべては私の未熟さが招いた災いだ」
 普段露骨にふてぶてしいだけに、こう神妙な態度で謝罪されると慌てずにはいられない。だけど抱き寄せたついでにリスカの髪をこっそり直そうとするのはどうなのか。
「いえ、さきほどは私が邪魔をして彼らを逃してしまったし」
「よい。私情で殺めても安息を得られるのはおそらく一時だけのことだ」
 その言葉は全部が嘘ではないだろうが、リスカの負担を軽くするために紡がれたものだ。やはり無念は大きいだろう。
 しょんぼりじくじくと師の胸に頬をあずけて猛省していたら、小さく笑われてしまった。顔を上げろ、という意味なのだろう、軽く肩を叩かれる。要求に従ったら、片手で顎を軽く撫でられた。わ、私は犬ですか!
「以前――まだ私が術をろくに使えぬ幼き頃の話だが。力量以上の魔物と対峙して、危うく死にかけた時だ。シエル様がふとこう仰ったことがある。時がとまれば、いつまでも懐の中で守っていけるのにと。なるほど、そのお気持ちが理解できた。きっとこういうことなのだろう」
 やるせなくため息を落とす様子がなんとも悩まし……ではなく。
 幼い頃の話ときいて、思い出した。書室の絵本の存在をだ。引き出しの奥に隠してあったから、あまりこちらへは足を運んでいなかったらしいジャヴは、おそらくまだ気づいていないだろう。だから絵本を発見した時、すぐ教えてあげようと、そう考えたのだ。
 リスカは身を離し、ジャヴの手をぐいぐいとひっぱった。
「なんだね」
「見ていただきたいものが」
「まだ休んでいたほうがいいのに」
「大丈夫ですから、はやく立ってください」
「これだから、まったく」
 ぼやきつつも大儀そうに立ち上がり、リスカに従ってくれる。本当に、この人を自分の望み通りひっぱり回せる日がこうしてこようとは予想もしなかった。それは比べるもののない上等の日々なのだろうとふと思う。
 書斎にジャヴを連れこみ、ついでに図々しくあかりをつけるよう求める。すると、手間をかけて蝋をつけるのがもう面倒になったのか、魔術を操り、塔で生み出した火の虫を数匹飛ばした。
 しまった、からくり人形を使って荒らした本は、あとで片付けておかねば。奥側にあるからジャヴに見つかるまえに整理できるかもしれない、などと少々姑息な策略をめぐらすリスカだった。
 それはそれとして、ジャヴを呼びつつ卓へと近づき、引き出しを勝手に開く。そして中から取り出した絵本を差し出した。
 ジャヴが目を見はり、ためらいがちに絵本を受け取る。
「これは」
「覚えがありますか?」
「……冷戦状態の時、シエル様が、これでも読んで少しは愛らしい子どもの心を取り戻しなさい、などと暴言を吐きながら私に渡してくださった絵本だな」
「そ、そうでしたか」
「私は腹が立って、その本を蹴飛ばした。それっきり行方不明となっていたはずが」
 ジャヴが言葉をつまらせた。
 それから思い切った様子で絵本を開く。だけれども、どうしても、きちんと読むことができない様子だった。そうするにはまだ、辛いようだった。心を逃がすようにぱらぱらと速い速度で紙面を開き、そして最後のところで怪訝な顔をして手をとめる。
「ジャヴ?」
 ジャヴが思索に耽る表情を浮かべたかと思うと、その絵本を広げた状態で卓に置いた。リスカも脇から覗きこんでみる。ふと、受け入れるようにジャヴの手が伸び、リスカのこめかみあたりを軽く撫でた。その指はすぐにまた絵本に戻り、指し示すようにとんと紙面を打つ。
「この裏表紙の内側に、なにか紙が挟まっている」
 そう言ってジャヴは、慎重な手つきで裏表紙の内側の紙を裂いた。すると、小さな紙切れが確かに、入っていた。
『星はひとつ!』
 とだけ書かれた紙。リスカは目を点にした。なんだろう。
「星はひとつ。星は――」
 虚空へと目を向けたジャヴが、はっとなにかに気づいた様子でリスカの腕をつかみ、書斎を抜け出した。
 むかった先は、暖炉のある居室だ。ジャヴは天井を見ている。格子状の梁を額縁がわりにして星座の神々が描かれた天井。その中の一枚に、月の寝台に寝そべる女神の絵があった。彼女の背後には星がひとつしか描かれていない。
 ジャヴがすぐさま身を翻して居室を出たあと、どこからか長い脚立のようなものを持ってきた。長いといっても天井までには届かない。そこで卓の上に乗せ、リスカが足場を支えた。
「リル、その壁にある剣を一本」
 言われて、リスカはおそるおそる脚立から手をはなし、急いで壁に飾られている剣を一本持ってくる。
 手渡すと、ジャヴがその剣先で星の部分を乱暴に抉り取るような真似をした。しばらくの作業後、なんと絵画だと思っていた星の部分が、その形のままぽろっと取れたのだ。
 ジャヴがいったんその手のひらに収まる星の板を、リスカに放った。そしてすばやく脚立から降りる。星の板を放られたとき、手の中で偶然裏側が上を向いた。そこには文字が刻まれていた。
『空を見なさい。足元に光はない。君の空には星が輝き、月が輝き、太陽が輝き、うつくしい。すべての光が集まる。朝、昼、夜。雨、雪、風。すべてある。溢れるように、未来あれ』
 リスカは息をのんだ。ジャヴへ贈る言葉だ。過去のシエルが、未来の、今のジャヴのために書き残した言葉だ。
「ジャヴ、これを」
 隣に降り立ったジャヴへ、震える手で星を渡す。
 ジャヴは呼吸を忘れた様子で文面を凝視した。
 そして。
「リル」
「…はい」
「朝、昼、夜。星、月、太陽。空のすべてを見れる。それはどこだと思う?」
「え?」
「暖炉だよ」
 ジャヴが微笑んだ。
「暖炉の中。空が見えるだろう。これは小さな、ささやかな暗号だ」

小説TOP)(花術師TOP)()(