窃盗レディと百年紳士:2

「いいい慰問っ!?」
 その一言を聞いて、千春は人体の限界まで仰け反った。
 仰け反りすぎて、助手席の窓ガラスに後頭部を目一杯ぶつけた。
 千春は今、北原が運転するパジェロの中にいた。
 ――まさに容姿端麗! な美人の姿でだ。
 
 
「――いや、それにしても見事な美女に化けましたね。その姿で街灯の届かない夜道を歩けば、間違いなく性犯罪に巻き込まれますよ」
 そんな怖い賞賛、ほしくないし嬉しくない。
「いやいや、本当に。私、今の彼女捨てて、あなたとつき合ってもいいかなって真剣に思いました。いっそ、どうです? 夜のしじまに繰り広げられる淫らな大人の時間、レッツトキメキトゥナイト、私と過ごしますか」
「イヤです」
 千春は一秒未満の速さできっぱり拒絶しつつ、そっと涙を拭った。
「ちっ、駄目か」
「ちょ、ちょっと刑事さん、今の舌打ちは何ですか。本気モード入ってんのかよ。っていうより慰問て何だよっ」
 淡い茶髪のストレート(ヅラである)をさらさらっと揺らし、千春はわめいた。
 くそ、ピンクの超ミニスカートだ。ヒール付きブーツだ。等身大バービーちゃん見参! という感じだ。 何だこの特撮で使われるような、妙にリアルな胸つきのブラは。しかも、ばっちりフルメイクだ。つやつや唇だ。睫毛が羽根のようにばっさばさだし。普段女はこれだけ化けてんのかよ、素顔はどんなんなのか、知るの怖くなるじゃないか。
 っていうか俺すげえよ、こりゃ。美人だよ畜生。涙出るわ。
 ちなみに千春が今着込んでいる奇妙にギャル系(死語)な服は、北原の彼女の私物だった。メイクはなぜか、北原自身の手でほどこされた。異常に熟れた手つきが激しく恐ろしかったことを補足しておく。
「てめえ人の太もも凝視すんなよ、視線に舐められてる感じでおぞましいというか、何より運転に集中しろ、そしてさくさく質問に答えろよ」
 千春は思わず恥じらう女性のように、スカートのすそを直した。寒い、足が寒い!
「惚れ直しましたよ、東條さん」
「ええっ、お前、俺に惚れてたのかよ、やべえよもう」
 敬語なんて、百万年の彼方である。千春はこみ上げる涙をどうにもおさえられなかった。
「ああ大丈夫ですか、東條さん。具合が悪いのなら少し休憩しますか、二時間ほど」
「ヤメロッ、今お前、通りかかったラブホ見て、二時間って言っただろ!」
「お泊まりじゃなくて休憩ですよ、休憩」
 いいのか警察、こんな変態を刑事などにして。
 窓の外を流れる景色に目をやりつつ、千春は真剣に国家と公務員の在り方について頭を悩ませた。そしてそんな頭良さげでかっこいいことを考えた自分に照れた。
「練習、しておいた方がいいと思いますけれどねえ、私的には」
「……練習?」
 千春は音がしそうな勢いでがきっと振り向き、運転する北原の横顔を凝視した。
「待て待て待て。さっき慰問って言ったな? 何かよく考えるとすげえ嫌な意味合い含んでないか」
 慰問……一体、何を慰めるのか。
 慰め……慰……な……。
「ねえやっぱ18禁!? あるいは監禁系な20禁!? そういう意味でのお慰めっ!?」
「違いますよ。その暴走しがちなお馬鹿頭でよく考えて下さい。私、刑事ですよ? 刑事の私が慰問と言えば、ただ一つしかないでしょう」
 北原は、裏ビデオ並みの妄想にとりつかれて悶絶している千春を一瞥した。
「え?」
 千春は迷子の子猫のようなか弱い瞳で、北原を見つめた。北原の野郎はなぜか照れたように微笑み、男相手には普通見せないだろう艶かしい目をしやがった。この変人めっ。
「刑務所の慰問に決まっているでしょう」
「刑、務所……?」
 刑務所の慰問。それは月に一回程度、売れない芸人やアイドル、ボランティアの方々が刑務所を訪問し、ある意味学芸会的なライブを囚人達の前で披露するといったものである。そのように千春の頭にはインプットされているが、真偽のほどは定かではない。というか詳しく突っ込んではいけない。それが大人の暗黙の了解というやつである。
「……あのう」
「何です」
「俺、別に芸の道を極めてないけれど?」
「その顔でイイんですよ」
「何で、慰問で女装するんだよ」
 赤信号になった瞬間、つるりと太ももを撫でられた。千春は野太い雄叫びを上げて、助手席のドアにはり付き、悪霊退散変人撃退悪魔封印年金未払い家賃滞納、と最後の方はわけのわからん言葉で隣の刑事を消滅させようとした。油断も隙もあったものではない。言いたかないが、脚の毛から腕の毛まで、変態刑事の脅迫に屈したため、つるっつるの卵肌になるほど奇麗に剃っているんだぞ。だって自分で剃らなきゃ、北原が「私、剃ってあげてもいいですよ、いえむしろ剃りたいかも」なんて最強の脅し文句を垂れ流すから……っ。
 千春は唇を噛み締めつつ、恥辱屈辱の毛処理時間を思い出して、涙をのんだ。
 極悪非道な刑事は薄らと笑みを浮かべ、ハンドルを指先で叩いてリズムをとっている。
「そりゃあなた、囚人は男ばっかなんですよ。そんなところに、オトコの芸人連れてっても盛り下がるじゃないですか」
「な、な、な」
「でも、まさか、餓えた野獣達の檻に、本物の女性を連れて行くわけにもいかないしねえ?」
「おおおお前、俺を罠にはめたな!?」
「フリーダム」
 その一言で、千春はKOされた。言葉は魔法ね……。
 ふう、と北原は溜息をついた。
「期間は一年。ちなみに慰問会は月に一回です」
 月一。ってことは、12回も苦行にこの身をさらさなきゃならないのか。
「あなたの刑期を考えての期間ですよ」
「なあ、なあ、慰問っていうけれど、女刑務所もあり?」
「いいえ。そっちには問題がありませんから」
 ……問題?
 千春が首を傾げると同時に、北原が「しまった」という顔をした。いかにも口を滑らせてしまったよ畜生という悔しげな表情だった。
「おい。何だその問題とは」
「三つ数えます。その間にあなたは今の出来事を忘れます。さん、に、いち」
「催眠はヤメロッ!」
「ちっ、ノリが悪い奴め」
「そ、そんな馬鹿話で、誤魔化そうとしているだろうっ。騙されないぞ!」
「おっ、分かりましたか? なかなかお利口さんではないですか。褒めてあげます」
 よしよし、と柔和な顔で頭を撫でられた千春はつい北原を、「大好きなお兄ちゃんっ」という弟のような目で見つめた。褒められると弱い人間の典型である。お世辞陥落選手権があれば、間違いなく地区優勝は狙えるだろう。
「可愛い子は好きですよ」
 にこにことされて、千春も条件反射で「えへへっ」とはにかむ。ついつい「お兄ちゃんっ」と北原の腕にしがみつき……じゃないだろう!
「危ねえっ、今俺は劇団○季への入会を考えたぞ」
「演技派ですね。よっ、舞台女優!」
「マーガレット東條とお呼びなさい……じゃなくて! 問題って何だよ!」
 仕方ないなあ、とこぼして北原は運転を再開した。信号が変わったのだ。
「百年囚人」
「はい?」
「ようするに百年囚人のご機嫌伺いですよ」
 何だそれ?
「あなた、一応自分もセコい犯罪者なのに、知らないのですか」
「な、何を?」
「21人をたった一人で惨殺した有名な殺人犯」
 千春は仰け反り、またしても助手席の窓ガラスに後頭部をぶつけた。痛さのあまり、目と耳から星が飛んだ。
「重罪過ぎて簡単には死刑に出来なくてですね、そのため異例中の異例なんですが、刑期が百年と言い渡された囚人がいるんです。ゆえに百年囚人などと囚人達からは崇められ、挙げ句看守からも恐れられていて。というか早い話、ばっちり買収されちゃってるんですけれどねえ」
 あははは、と北原は無邪気に笑って刑務所の裏事情というか不正というか悪の部分をあっさり暴露した。これでいいのか法国家。
「その百年囚人様がですねえ、最近ひどくご機嫌斜めで。刑務所内で殺人事件など起こされたら、醜聞もいいとこでしょう?」
「つまり何か? 超極悪犯罪人の奇妙にささくれたお心をこの顔でお慰めしましょっていう算段か?」
「正解です。大変よくできました」
「……」
「ですから、間違っても女性は連れて行けないのですよ。強姦事件起こされても困るし。でも不細工なオトコを連れて行って、余計にご立腹されてもやはり困るし」
 生け贄だ! 間違いなく俺はモーセの十戒でいうところの神に捧げられる子羊ちゃんだ!
「彼は実に、まあ、多少といいいますか、かなりといいますか、いやきっぱりと残忍凶悪情け容赦なしの残虐犯罪者ですからねえ、一般人を巻き込むのは、ちょっとねえ? 善良な町のお巡りさんである私としては、ほら、やはり気が引けるじゃないですか」
 千春は自ら火に飛び込んで命を散らした無数の哀れな虫達(リアル的妄想)に、己の末路を重ねた。
「俺、帰ります。自分の罪は自分で償う事にします。それが正しい青少年の在り方だ」
「あなたの刑期、ざくざく延ばしますよ」
「なっ。権力による不法な脅迫」
「脅迫に不法も合法もありません」
「職権乱用、精神的暴力反対っ」
「運命だと思って諦めなさい」
 嫌だ、こんな運命だけは絶対嫌だ!
「月一ですよ、あとはあなたの自由。フリーダムの日々ですよ?」
 ぐらっと心が動かされる。
「ちなみに慰問会、ほんの二時間程度ですよ。月に一回、たった二時間」
 千春は、悪魔と取引をしたがる堕落した聖職者の心境を理解した。
 
●●●●●
 
「貞操の危機を含んでいるんじゃないかその辺どうだ」的な台風型未来の予感に怯える千春を乗せたパジェロは、やたらと神社や寺が目につく微妙に下町風情な住宅街をするすると通り抜け、明らかに意味深な、ほの暗い雰囲気を醸し出す区域へと滑り込んだ。
 地元の人間には「紅葉の森」と呼ばれる、区で管理された、というか、ほぼ放置状態の森林地帯へどうやらパジェロは向かっているらしかった。ちなみに「紅葉の森」の手前には、野草園と称される訳の分からん散歩コースがあったが、なあそれって単純にくねくねした道を作っただけだろ、とツッコミたくなるほど実に適当なもので、更に追及すれば、森との境目も存在しなかった。こんな感じなので、純粋に散歩が目的で来る奴などいるはずがない。
 そう、どう考えてもこの一帯は、野性の心を忘れていない地元の悪ガキか、人生に背を向ける五秒前の孤独な人間か、あるいは野鳥同盟に名を連ねるカメラくん達の穴場となる以前に、夜のドライブで「やーん怖い〜でも怖い話とか好き〜」と喜ぶ、お前それ本気で怖がってないだろ!? 的な彼女を連れた男(付き合ってまだ一ヶ月のカップルに多い)が肝試しと口では言うがそれは勿論真っ赤な嘘で、実際のところ、送り狼も真っ青な欲望の成就のために存在する、めくるめく悪徳と勇気と絶望が見事に美しくブレンドされたときめきの場所だとしか思えなかった。ええ、なぜなら千春くんにも昔、同じパターンを別の場所で実行したというオイシイ過去があり……って、若気の至りだ諸君!
 だがまさか今、送り狼側じゃなくて無垢な子羊ちゃん側に回ろうとは、ああ、絶好調のピンク色な時間を過ごした過去の自分は想像もしていなかっただろう。っていうか今の千春の格好がピンク色だ。ありえねえっ。
「刑事さん、俺怖いよっ」
 千春はとうとう本気で青ざめ始めた。なんか目的地へ到着する前に襲われそうな感じがする。
「大丈夫ですよ」
 という北原の言葉ほど当てにならないものがあるだろうか。
「ねえ、ねえ、帰りましょうよっ、あっ、ほら天気もいいし、絶好のドライブ日和ですよ。いっそ海とか行きませんか!」
 なぜかデートのような提案をする千春だったが、逃げるために必死だった。
「こらこら。それも楽しそうですけれどね、まずは仕事をすませないとね」
 くそ、やっぱ腐っても刑事か、目的は忘れていない。
「でも俺、マジで怖いです。だって妙に鴉が飛んでいるし!」
 そう森林地帯にいよいよ突入したせいか、さっきから車のフロントガラスに黒い影がちらほらよぎるのだ。不吉だ、不吉すぎる! 未来を暗示しまくりじゃないか。
「仕方のない人だなあ。そんなに怖いのなら、私と手、握りますか?」
「ヤメロッ、そのバカップル的発想は!」
 オートマの車の最大メリット、それは片手が自由になるので、助手席の彼女と手を握っていられるということ……ちくしょう、本物の男ならマニュアル車に乗れ!
 などと内心で抗議したが、千春自身はオートマ車しか運転できない。
「あと二十分ほどで到着ですよ」
 車で二十分。そんなに奥へと進むのか? 俺、生きて帰ってこれるのか?
「あの、けけ刑事さん、僕達どこへ向かっていらっしゃるのでしょう」
「深津刑務所ですよ、勿論」
 そうなんだな、やっぱりフリーダムのために身を捧げなきゃならないんだな。
「安心しなさい、送迎は私が責任を持ってしますから」
「えっ、送迎だけ?! 中まで一緒に来てくれるよね?」
 こんな変態でもいないよりましだ。何たって刑事だし。
「まあ、看守と引き合わせるまではお付き合いします。しかし、慰問会の最中は無理なんですよ。そこまで立ち入れない決まりがありますので」
「そんな遠慮せず! この際、どこまでもいきましょうよ」
「可愛いなあ、私と離れるのがそんなに寂しいんですか」
 阿呆か! と叫びそうになったが、我慢我慢。
「さ、寂しいという咆哮、いや違う、方向でオッケーです、見捨てないでください」
「何か漢字変換間違えませんでしたか」
「いえそんなノープロブレム、ありえません」
「見捨てはしませんけど、最後まで見守ることは無理っぽいですねえ」
「嫌だ、そんなの!」
 狼の群れじゃなく、餓えた囚人の群れになんて、単独で飛び込みたくない!
「刑事さぁーん! 俺嫌だー!」
 千春は、迫り来る未知の時間を恐れるあまり、北原の片手をつい握りしめた。どうでもいいが、こんな未舗装の砂利道なのに、北原の奴は片手で器用に運転している。かなり慣れているなこいつ、こういうシチュエーション。
 北原は一度視線をこちらに向けて、にっこり微笑んだあと、ぎゅっと手を握り返してきた。普通の繋ぎ方じゃなく、あれだ、熱愛中カップル定番というか、とにかく指を組み合わせるような、どきどきの握り方だ。気色悪くても振り払う気になれないのは、現在、千春を天国にも地獄にも連れていけるのは北原だけだったためである。
「見捨てませんて、東條さんの身に何があっても。そりゃあ自分色に染められる初物がやはり一番好きですよ? しかしある程度慣らされている方が、すぐに楽しめますしねえ。じょじょに自分の色へ染め変えるのもこれまた一興といいますか。挑戦しがいがあるといいますか」
「何の話だ、おいっ。変態専門用語は禁止だ!」
「ま、頑張りなさいということです」
 ふふと笑う北原の顔が、間違いなく悪魔に見えた。
 喚く千春を乗せたパジェロは、砂利を蹴散らしつつ、悪魔の城「深津刑務所」へ向かった。
 
●●●●●
 
 もう何て言うか、深津刑務所は、まさに映画に出てくるような、これぞ極悪囚人御用達ってな雰囲気漂う、キングオブ刑務所だった。
 冗談じゃなく、マジで脱獄防止のやたら高いトゲトゲ的柵と堅固な塀で、厳重に警備されていたのだ。
 しかも刑務所は古いコンクリートの打ち放しで、唖然とするほど規模があった。運動場もあるし、恐ろしい事に監視塔のようなものもあった。何だこれは。ここは日本か? アメリカかどこかにトリップしたのか?
 見るからに、日の光ナッシングなゴキブリ蠢く超狭い地下独房があるだろうと確信してしまう監獄だ。そして囚人は半数以上が腕や背中にタトゥーを入れているに違いない。最早、ここが平和な日本国内であることなどどうでもよさげではないか。
 車から降りた千春は、目前の光景に激しい目眩を起こした。足が恐怖で震え始める。
「刑事さん……、俺、急に身体の具合が」
「ああ大丈夫ですよ、中に医務室がありますから」
 いや、中に入れば絶対に卒倒するだろう。自信がある。
 半泣きで嫌がる千春をずるずる引きずりつつ、北原は無情にもそびえ立つ刑務所へと向かった。
 
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 千春は半分意識を飛ばしていた。
 北原に連行されて、見張りが立つ入り口を通り抜け、何やら薄暗い通路を右へ左へと進み、身体検査を二度ほど受けつつ、入所の際に必要らしい意味不明な書類にサインし、妙に明るい性格の所長にも挨拶をすませる。そこで再び差し出された書類に記入したあと、ノートサイズの刑務所内の心得的なガイド本を渡され、読み終わった頃に、全身写真と顔写真を撮られた。
 それで終わりかといえば、まだ続きがある。
 涙が出るほど無機質な一室で事務員に荷物を預け、訪問許可証を首から下げるよう指示された。その後、一応白衣をまとった刑務所専属の医師らしき男に、なぜか同情と欲情の混じった眼差しを向けられつつ、簡単な健康検査を受けた。どこかへ確認の電話を入れる医師を横目で見ながら、千春は人生の儚さと世間の無情さを内心で嘆いていた。
 で、それから約十分後。二人の看守が姿を現した。
 北原の知り合いらしく、放心する千春を置いて、三人はにこやかに挨拶を交わしている。
「――美人じゃないか」
 感嘆の声がふと、魂を手放しかけていた千春の耳に飛び込んできた。
 はっと我に返れば、三人の視線が千春に向いていた。
 居心地が悪くなるほど注目されている。千春は思わず、唯一の顔見知りである北原に縋る目を向けた。
「これはまた、よく見つけてきたな」
 と、看守の一人が眩しそうに千春を見つめつつ言った。
「手を出さないでくださいよ、兄さん」
 笑い含みにそう北原が返し……ん? 兄さん?
 千春はがばっと椅子から立ち上がり、似たような背格好の二人を交互に見つめた。もう一人の三十代らしきまともそうな看守は苦笑を浮かべている。
「兄さん? 兄さんて、ブラザー?」
「Yes、my brother」
 北原は奇麗な発音で肯定した。北原ブラザーは北原の肩に腕を乗せて、にやにやと腹黒い微笑を浮かべている。
「な、な、な」
「何だ、もしかしてお前の彼女か?」
「やだなあ、彼氏ですよ、東條さんは」
「待て待て待て! どういうことだ、これは!」
 千春は絶叫した。仕組まれた。この兄弟に、自分は何かを騙されている!
「ほら東條さん。私の兄が看守ですし、安心でしょう?」
「ま、大船に乗った気持ちでいろ」
 その大船は難破船だろ、と千春は胸中で無駄に突っ込んだが、表面上は、二人から与えられた衝撃のせいで、燃え尽きていた。
 ああ知っているかい皆、フランダースの犬ってね、外国版では最後で主人公生き返っちゃうバージョンがあるんだぜ凄いだろパトラッシュ……、と千春は壊れた精神でどうでもいいことを解説していた。そうさ、「黄泉○り」のク○ナギ君もびっくりな展開だ、それにしても柴咲○ウはめちゃ可愛いな、タイプなんだよな……、と更に余計な思いを追加した。
 そんな哀れな千春の肩に、ぽん、と手が置かれた。
 振り向くと、唯一普通の神経を持っているらしい看守が、諦めなさい、と実に憐憫の情がこもった眼差しで千春を見つめていた。

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